第九節
「きっと、これは夢か何かなんだろうなって思ってたんだ」
低く芯の通った声で大輔が呟く。
駅構内を埋め尽くす騒がしい音の中で、大輔のさほど大きくない声は確かに僕の耳へと届いた。
「そうか……」
僕は、それくらいしか大輔に返すことができなかった。
それ以上、僕が発する言葉は咄嗟に出てこなかった。
再び修学旅行の四日前に遡り、僕は前回と同様の過ちを犯さないようにと準備をしていた。
その時は特に変わったことはなかったのだが、修学旅行の二日目、大輔から話を持ち出された。
前回遡る原因が生まれた駅のホームで、乗る予定の電車を列の最後列で待っている際、大輔が思い出すように「そういえば……」と語り出した。
後は知っての通り、「これは夢か何かなんだろうなって思っていたんだ」と続け、僕はその言葉にうまく返すことができていなかった。
「なぁ大器……お前、何なんだ?」
「何が?」
「俺の記憶が間違っていなくて、全部が正しいものだとして」
「正しいものだとして?」
「それらが全部正しいものだとしたら、お前は何人も人間を殺してるんだよ」
「そんなわけないだろ」
「成人式の時とか……修学旅行の一日目とか……」
思わぬ話題に、心臓が暴れる。
あれは力を使った僕だからこそ知っていることだ。
遡る前の事象を経験していない大輔が、どうして知っているのだろうか。
僕は慌てて、大輔に諭すように言う。
「第一、俺が本当に人を殺していたら警察のお世話になっているはずだし、そもそも俺たちは中学生だ。成人式なんて経験したことないんだからその記憶が正しいはずがないだろ?」
「だから最初に言っただろ?これは夢か何かじゃないかってずっと思ってたんだって」
そう言うと、大輔は先ほどまでの顰めっ面をより一層歪める。
何か言いたげな様子だったkら、僕は聞いた。
「何が言いたいんだ?」
問うと、大輔は右手で自身の右耳の耳朶を触り、言っても良いのか否かを悩むように考えた後、意を決したかのように俺に言葉を放った。
「なぁ。これ、何周目だ?」
他の人達からしたらその言葉の意味はわからないだろう。
その言葉だけを汲み取った人間がいたとして、会話の内容を正確に理解できる人間はいないだろう。
大輔のこの問いを正確に理解することができるのは全ての当事者である僕だけだ。
でも、僕は回答をしない。
ここで大輔の問いに律儀に答えてしまっては、何がとは言わないが僕が犯人だと主張してしまっているようなものだから。
だからこそ、僕は大輔の問いに対し、「何の話?」と返す。
だが、僕の回答に大輔は納得しない。
「とぼけるなよ。この人生は一度目じゃねぇだろ」
「何の話だよ」
「とぼけるなって言ってるだろ。俺はな、身に覚えのない記憶があるんだよ。お前の運転する車に乗った記憶だとか、加奈と三人で成人式に行った記憶だとか、そう言うものがあるんだよ。俺だけじゃあないはずだ。お前、何か知ってるんじゃないのか?」
大輔のその必死な様子に、僕は少しだけ尻込みしてしまう。
何より、僕自身が焦る。
きっと、僕の焦りは大輔よりも酷いはずだ。
なにせ、僕の力に関して、僕が知らなかった事実が明らかになろうとしているのだから。
これまでの話を整理すると、僕は生き物を殺すことで過去にさかのぼることができる。
殺す生き物は何でもいい。
そして 、過去に遡った時、僕だけでなくその他の人間も遡る以前の記憶を持っていることになる。
遡る前の記憶を持つ人間が、僕を含む全人類なのか僕を含む特定の人間なのかはわからない。
だけれど、大輔の話を聞く限り、記憶を引き継いでしまう人間は少なからずいるということになる。
今後は少しだけ力の使い方を考える必要があるかもしれない。
僕はとにかく、大輔の「何か知っているんじゃないのか?」という問いに対しては「何も知らないって。何のことだよ」とシラを切った。最後まで。
大輔は僕の対応に納得していなかったが、加奈が「さっきから何の話? 何かの映画?」と言ったことで、自分が世間一般から見て心地よい類の話はしていないのだと悟り、静かになった。
これでひとまずは僕の力についてバレることも深く言及されることもないだろうと安心していたが、そんな僕の安堵をあざ笑うかのように、僕たちの背後に電車が止まった。
額に冷や汗が滲む。
駅構内にアナウンスが鳴り響き、少し遅れて電車の両開きの扉が音を立てて開いた。
スーツ姿の男性。
制服姿の女の子。
着物を着ている年老いた老婆。
様々な様相をした乗客が順に降り、最後に一人の乗客が他の乗客からワンテンポ遅れて降りてきた。
薄汚れた服を身につけたその乗客は、髭が不恰好なほど伸びており、長さは均等ではない。
髪の毛は肩ほどまであるが、ツヤはなくボサボサの状態だった。前回の男だ。
虚空を気力のない双眸で見つめる男を視認し、冷や汗は額だけではなく背中にも滲み出した。
大輔が僕と同じく男を見つけ、「マズイぞ」と口にする。
やっぱり、大輔は記憶を引き継いでいるようだ。
「大輔。加奈さん。少し移動しよう」
「そうだな。なるべくここから離れたほうがいい」
「……どういうこと?」
「いいから行こう」
僕はそう言うと、加奈さんの手を引いて大輔と三人でその場を離れた。
離れたと言っても別に駅のホームから出て行く訳ではなく、ただ男が見えなくなる位置まで並ぶ列を移動しただけだ。
時間帯の影響もあり、駅構内の階段付近は通勤途中のサラリーマンやちょっぴり遅刻している学生たちでごった返している。
年齢層も性別も人種もバラバラな荒波の中を、僕たちはかき分けるようにして必死に進んでいった。
「ハァ……ハァ……大器、もう大丈夫だろ」
大輔がそう言って僕たちを制止したのは先頭車両が停車する位置、駅構内の中でも一番奥の場所だ。
もちろん同級生や先生たちの姿は見失ってしまっている。
だが、それで大丈夫だ。
そのあたりまで行けば車掌も電車を待っている為、何か問題が起きてもすぐに対応できるだろうと考えての結果だった。
「アイツはついてきてるか?」
僕は大輔にそう問いながら自らも辺りを見渡す。
周りは相変わらず人で溢れており、見渡した程度では本当にあの男を撒くできたのかは分からない。
だが、ぱっと見で視界に入らない以上、相手側も同じ状況にあると考えるのが妥当だろう。
つまりは彼を撒くことができたのだ。
大輔も僕と同じ結論に至ったらしく、背伸びで周りを見渡しながら「たぶん大丈夫だ。アイツはついてきてない」と答える。
僕たちの焦る様子を見て加奈さんは不思議な顔をしたが、今は説明するような心の余裕はない。
何より、僕たちの知っている遡る前の話をどうやって説明すれば良いのかもわからないし、それを説明したところで加奈さんが理解に苦しむだけだ。
僕と大輔がそれぞれ動悸を抑えようと深呼吸していると、再び構内へとアナウンスが響いた。
遡る前、事故が起きた時にやってきた電車だ。
前回は列の最前列で無防備に電車を待っていたが、今回は列の中腹あたり、さらにはあの男のいない位置で並んでいる。
もうあのような悲劇が僕の眼の前で起こることは無いだろう。
頭が痛くなるような金属音を響かせながら、電車がゆっくりと停車する。
電車を待っていた列のほとんどの意識が目の前に停車した電車へと向けられる。
停車から少し拍を起き、空気の抜けるような音を出しながら電車の扉が開く。
「あ……」
「……え?」
その時だった。本当にその時だった。
電車が止まり、扉が開き、その場の多くの人間の意識が電車へと集中した時だった。
大輔が何かに気がついたような声を出し、加奈さんが何が起きたか分からないといったような声を出したのは、その時だった。
加奈さんが「……痛っ」と言い、次の瞬間、首から盛大に血を吹き出しながらその場に崩れ落ちた。
その様子を僕はただ呆然と眺めた。
何が起きたのか、理解できなかった。
一方で、大輔はその顔を怒りに染めながら僕の後方を睨みつけた。
それは、僕と横並びで電車を待っていた加奈にとっても後方だ。
僕は大輔の視線を追い、恐る恐る振り返る。
そこには、あの男が血に濡れた包丁を手に持って笑顔で立っていた。
包丁は刃の部分が全体的に錆びており、手入れの行き届いていない所を見る限り、きっとどこかに捨てられていたものを拾ってきたのだろう。
「うへ、あへえへへへへ」
ホームレスは自身を見つめる僕と大輔を気持ち悪く笑いながら一瞥した後、手に持った包丁を振り上げた。
そして、刃先を自分自身に向け、高く上げた腕を笑いながら振り下ろした。
「何やってんだテメェ!」
大輔の怒号が構内へと響く。
まだ電車に乗り込むことのできていない人々が、その場で起きている事象が電車の扉が開いただけでは無いことを大輔の怒号によって知らされる。
「お、おいあれ」
「人が刺されてるぞ!」
「男が暴れてる!」
「警察を呼んだ方がいいですか!?」
「いや、とりあえず駅員を呼べ!」
事に気がつき始めた人々が騒ぎ出し、皆の意識がこちらへと集中する。
だが、誰もこの事象に飛び込んで男を止めようとは考えない。
まだ眼前で起きていることが現実であると言う事を素直に飲み込むことができていないのだろう。
それか、自分は無関係で眼前の光景をコンテンツか何かとしてしか見ていないのか。
大輔は騒ぎ始める野次馬を気にすることもなく、男を止めようと包丁を握る彼の右腕を両手で必死になって掴んでいた。
「おいテメェ何がしてぇんだ! どうして加奈を狙う!」
「うえ? へ? そっかぁ。加奈ちゃんって言うんだね。ぴったりの名前だと思うよ」
男は薄汚れた顔を歪めながら笑う。
「僕、その子見たいな女の子がタイプなんだぁ」
「何きめぇ事言ってんだよテメェ」
「だからね、僕が連れていくのはその子に決めたんだ」
そう言いながらニヤニヤと笑う男は、筋肉の無い細い腕で大輔を必死に引き剥がそうと試みる。
「ねぇ。邪魔しないでよ。僕はあの事一緒に死ぬって決めたんだ。君を連れていくつもりは無いよ。邪魔しないでよ。早くしないとあの子が僕を置いて先に天国に行っちゃうでしょ?邪魔しないでよ。邪魔しないでよ。じゃましないでよ。じゃますうああ!」
一向に離れようとしない大輔に男は叫びながら、空いている左手で大輔の顔を殴った。
一度だけではなく、何度もなんども殴った。
次は大輔を殴る腕を止めようと、僕が左腕を両手でつかんで男を拘束する。
「ふあけうなああ!! なんで! なんで邪魔をするんあ!」
両腕を掴まれた男は勢いで脅して解放してもらうしか無いと思ったのか、先ほどよりも激しく怒鳴りだした。
僕たちはたかだか中学生で、別段力も強いわけでは無いのだから蹴り飛ばせば僕たちを引き剥がす事など容易なはずだ。
その思考に至らない点、男は冷静な判断ができていないのだろう。
現に男は先ほどから呂律が回らなくなっている。
「こおひてやふ! 殺してやる!」
そのホームレスの叫びで僕は気がついた。
「そっか、殺せばいいんだ……」
「………………お前、何言ってんだ……よ」
両目を見開き、大輔が僕を見る。
僕は大輔のそんな様子をしっかりと認識していたが、気にかけることはない。
僕は男の拘束をやめ、ベルトのバックルに手を伸ばす。
そして、僕は男に向けて囁いた。
「ねぇおじさん。邪魔しないで欲しいんだよね」
「そうあ! じゃますうあ!」
「じゃあ逆におじさんを手伝ってあげるよ」
「おい大器、何言ってんだ!」
僕のやろうとしている事を悟った大輔が次は僕を止めようと男の拘束を解き、僕に手を伸ばす。
こちらへと向かってくる大輔の腹を利き足では無い左足で軽く蹴り飛ばす。
それだけで大輔はバランスを崩して尻餅をついた。
突然仲間割れを始めた僕たちに男がわかりやすく動揺する。
その証拠に、彼が右手に握る包丁はもう彼自身に向いてはいない。
行き先を失うように刃先が地面に向いてしまっている。
「おじさんは死にたいんだよね」
「……」
問いたところで男は答えない。
だが、そもそも答えなど求めていないのだから問題はない。
僕は戸惑う男に向かい、”今回”の最後の言葉を放った。
「死ね」
この後の事はよく覚えていない。
僕は彼の喉仏あたりにバタフライナイフを突き立てた後、そのままナイフを上にスライドし、あご骨に当たるまで切り裂いた。
その後は確か夢中で彼にナイフを突き立て続けていたと思う。
そして、僕は気がつけば次の周に遡っていた。