第八節
「おい大器! お前どうして止められなかったんだ!」
隣にいた大輔が、怒鳴りながら僕の肩を掴んでくる。
僕は彼の問いに答える事ができない。
僕はただ、電車を待っていた列の最前列で、駅のホームから目の前に停車した電車を見つめる事しかできなかった。
思考が飛び、視界が真っ白になったような錯覚に襲われる。
次の瞬間、頬に衝撃が走った。
僕はその衝撃に抗うことができず、体勢を崩してしまう。
自らを守ろうと伸ばした手を地面に強打する。
痛い。手首を変に痛めてしまった。
僕は自らの頬に走った衝撃の原因になんとなく心当たりがあった。
多分、大輔に殴られたのだろう。
「お前! 立てよ!」
そう言いながら、大輔は憤慨した様子で僕の襟元をつかむ。
ゴリラに襟元を掴まれた時同様、苦しくならないようにすぐに立ち上がる。
「大器! なんで目を離した!」
大輔の怒号が頭に響く。
なんだか頭がモヤモヤする。
電車がやってくる前に感じたモヤモヤとは違うモヤモヤだ。
「おい! なんとか言えよ!」
大輔のその言葉で、僕はモヤモヤの正体に気がついた。
「……けんなよ」
「は? なんだよ!」
「ふざけんなよ!」
僕は目の前にいる大輔の顔面を力任せにぶん殴った。
鈍い音と鈍い痛みが右の拳に響く。
「何がなんで目を離しただ! お前も同じだろ! なんでお前は気付けなかった!」
周りの人々が僕の声を聞いて静かになる。
「ふざけるな! お前はこうなることを知っていたじゃねぇか! ふざけるな! ふざけるな!ふざけるな!」
僕は肥大した感情をなだめることもせず、ただ思いのままに大輔を殴った。蹴った。
地べたに尻餅をついてしまった大輔の胸元を蹴り、大輔にまたがり、襟元を掴んで何度も何度もその顔面を殴った。
周りの人々は目の前で起こった事故のことも忘れ、僕たちを止めようと近づいてきた。
サラリーマン二人に両腕を掴まれ身動きができなくなり、僕はあっという間に大輔から剥がされてしまう。
「警察は何時くるんだ! この子も引き渡すぞ」
僕を押さえ込んだ男性の片割れがそう言った。
警察に渡す? 僕を? ふざけるなよ。
そんなことをしたらゲームオーバーじゃあないか。
そんな思考が僕の気持ちに上塗りされ、焦りが体の奥底から溢れ出してくる。
どうすればいい?どうしたらいい?
どうしよう。どうしよう。このままではダメだ。どうにかしないと。
ヤバい。ゲームオーバーはマズい。どうにかしないと
質の落ちた思考で考える僕は、先ほどまで両腕を掴んできていた二人の男性に組み伏せられてしまっていた。
いつの間に? どうしよう。このままじゃあダメじゃないか。
僕はこんな所で終わって言い訳がないのに。
いや、大丈夫、僕はただ大輔を殴っただけだ。
こんなことでゲームオーバーにはならない。
そうやって、無意味な思考を無様に繰り返す僕の目の前を、一匹の蝶が通り過ぎた。
自然と、優雅に舞う蝶を追って僕は眼球を動かす。
見たこともない、黒色と青色の蝶だった。
形だけみればアゲハチョウに似ている。
「あ、そうか」
僕はその青黒いアゲハチョウがゆっくりと飛ぶ様子を見て気がついた。
それはきっと、僕の目の前に現れたアゲハチョウが、あの時に三人で観た映画を連想させたから。
何度も過去に遡り、幸せを求めたあの物語を思い出させたから。
「僕の力は、この時のためにあったのか……」
呟くと、お膳立てされているかのように、二人の男性がタイミング良く僕を拘束する力を弱めた。
「ほら! 立て! お前は警察に引き渡すからな!」
そんな男性の声が聞こえる。
強く、腕を引かれる。
「ちょっと待ってください! 勝手なことをされると困ります!」
そんな安藤先生の声がした。
必死に引き止めようとする先生の声はいつもよりも大きく、怒っているような声だ。
「まぁまぁ。少し落ち着いて。お話だけ聞かせてもらうだけですから」
どこからともなく入ってきた警察のおじさんの声がする。
警察のおじさんは他の人々に「それどころじゃない」と言われ、少し困惑してしまっている。
けれど、それらの事象は皆等しくどうでもいい。
いつの間にか二人の男性が僕の拘束を止めていた。
腕を引くこともしない。
神様は、僕に味方をしてくれているようだ。
ゆっくりと立ちあがると、僕はベルトのバックルに手を伸ばす。
そして、その裏側に仕込んでおいたバタフライナイフを手に取る。
ずっしりと重い、それでいて小型の鉄製の物だ。
今この場所でバックルに貼り付けておいたバタフライナイフを使うことになるだなんて、ついさっき見た青黒いアゲハチョウといい、僕は何かと蝶に縁があるのかもしれない。
喧騒を背に、折りたたまれたバタフライナイフの刃を出す。
さっきまで僕を抑えていた二人の男性の片割れに力いっぱいに飛びかかり、掴みかかる。
そのまま、抵抗される前に僕は行動に移した。
ひやり。と嫌な冷たさを放つナイフを、男性の喉元に思い切り突き立てる。
その選択に、迷いは微塵もなかった。
「へっ?」
男性が状況を理解できずに素っ頓狂な声を出す。
僕はその間抜けな声を聞き流し、突き立てたナイフに体重をかけてさらに深くへと押し込む。
くちゅり。と、生々しい水音がする。
何故だか、僕の手は震えていた。
ようやく事を理解した男性が、僕を突き飛ばそうとする。
だが、それよりも前に僕は一層力強くナイフを押し込んだ。
やがて、男性は徐々に苦しそうなうめき声を上げ始める。
けれど、なかなか男性は死なない。
視界の端で、追加でやってきた警察がこちらに向けて何かを叫びながら駆け寄ってくるのが見えた。
もう、時間もない。
僕は一刻も早く力を使う事ができるよう、ナイフを縦にスライドした。
男性の首に、顎下から首の根元にかけて大きな空洞が姿を見せる。
その空洞から空気を漏らし、声にならない声を上げながら男性は崩れ落ち、涙を流し始める。
僕はナイフを引っこ抜き、男性を蹴飛ばして仰向けにさせ、再び男性へ突き立てる。
次は首ではなく、涙を流し始めた両の眼球だ。
僕はナイフで男性の二つの眼球を交互に刺す。
その頑張りがあってか、警察が僕の元に辿り着くよりも前に、視界が歪み始める。
伴うように、吐き気に襲われ始める。
血まみれのバタフライナイフを線路の上へと投げ捨て、僕は遡る予兆が現れ始めた自らの瞳を手の甲で擦った。
なんだかわからないけれど目が痒い。
僕は次第に強くなる眩暈から逃れるように、両の瞼をゆっくりと降ろす。
周囲の騒がしさが一瞬聞こえなくなり、再び音が聞こえ始める。
聞こえる騒がしい音は、悲鳴や怒号といった騒がしさから、くだらない冗談が飛び交う騒がしさに変わった。
それは即ち、僕の居る場面が切り替わったことになる。
過去へと遡ったことになる。
僕は、瞼を再び持ち上げた。