第一節
「いやぁ。まさかお前に彼女ができるなんてなぁ。お前は一生独身だと思ってたよ」
夜八時のファミレスのテーブルで僕の正面に座って失礼なことを言いながら、親友の梶川大輔は僕の肩をバシバシと力強く叩く。
大輔は中途半端に色の抜けた髪の毛をしていて、茶髪とも金髪とも言い難い色になっている。
いつもはその中途半端な色の前髪を持ち上げてカチューシャで止めてオールバックのようなよく分からない髪型をしているのだが、今日は前髪を下ろしている。
ちなみに、僕も大輔も県内の同じ大学に通う大学一年生で、二人とも十九歳だ。
大輔は僕の「彼女ができた」という報告を聞いて、両手を組んで「うんうん」と頷く。
そして、何度も何度も「まさかお前に彼女ができるなんて」と「お前は一生独身だと思っていたよ」と交互に繰り返し言っている。
さっきのでもう五回目だ。
「なんだよ。俺に彼女ができて悪いかよ」
僕が拗ね気味に言うと、大輔は子供のように笑い、「お前に彼女ができて俺は嬉しいんだよ」と言ってくる。
お前は僕のオカンかよ。
最近、僕は大学生にもなってクリスマス直前に彼女を作らないのは、一般人として常識から置いていかれているのではないかと思った。
本当にふと思ったのだ。
だから僕は長年の片思いに終止符を打ち付けることにし、結果として、片思いの相手に思いを伝えて彼女を作ることに成功したのだ。
相手は僕ら二人と同じ中学に通っていた物静かな女の子で、大輔の幼少期からの幼馴染でもある。
僕は中学に入学した初日に廊下で彼女を見た日から六年も片思いを続けていた。
中学を卒業して高校に進学した時、僕と大輔それと彼女はそれぞれ別の高校に入ることになった。
その時僕は危機感を感じて、ほとんど話したことのない彼女に一度だけメールで告白した。
その時の彼女の返信は回りくどいもので、僕はそれを勝手に「フラれた」と勘違いしていた。
先日改めて想いを告げたらあっさりとOKをもらえたから、僕はその時初めて、昔から彼女が僕の想いを受け入れる心算であったと気付かされた。
大輔はストローを咥えながらニヤニヤと笑っていて、興味深そうに質問してきた。
「で、お前はどうやって加奈ちゃんに告白したんだ? 小学生じゃあるまいし、好きですぅ、付き合ってくださいぃ。なんて言ったわけじゃないよな?」
「ばっか。俺は今まで彼女を作ったことがないんだぞ。好きです、付き合ってください。ぐらいしか告白の方法なんか知るもんか。ストレートに好きですって告白したんだよ俺は」
「あっはっは! いや、やっぱりお前は面白いな。お前はそうじゃなきゃお前じゃねぇよ!」
大輔は机を思いっきり叩きながら大声で笑い出す。
声が店内に盛大に響いて他の客がこちらをチラチラと見てくる。
恥ずかしさで顔が熱い。
「馬鹿! おい! 声がでかいよ! もっとトーンを落とせ! 周りの迷惑だろ!」
僕は囁くにしては大きめの声で大輔を注意する。
しかし、僕の声は冬場の暖房設備のうなり声で半分ほどかき消されてしまう。
大輔は大きな声で少しの間だけ笑い続けた後、「よし。行くぞ」と言って席を立つ。
僕は大輔に続いて席を立ち、椅子の後ろにかけてあったマフラーを首に巻く。
大型ショッピングモール内のファミレスから出ると、店内にかかるクリスマスソングと店内装飾の色が、客に対して一週間後のクリスマスの到来を色濃く訴えかけていた。
一年前は惨めな気持ちで下を向いて歩いていたモール内を、今年は胸を張って堂々と歩く。
大輔と二人でモール内を回り、互いに彼女へのクリスマスプレゼントを買ったあたりでモールの閉店時間がやってきた。
駐車場へと向かった僕らは自動販売機で温かいコーヒーを買い、僕が運転席、大輔が助手席で僕の愛車に乗り込む。
エンジンをかけて真っ赤な車を起動させる。
暖房を全開にして車内を温め、大輔がBluetoothで車内に流行りの音楽を流し始める。
そこからは二人で他愛もない会話をして帰路についた。
互いに彼女のどこが好きだとか、クリスマスはどう過ごすかとか、そんな程度の会話だ。
車を三十分ほど走らせて大輔を家まで送った後、僕は来た道を引き返していく。
大輔が実家で暮らしているのに対して、僕は実家を出て一人暮らしをしているからだ。
僕の家はモールを挟んで、大輔の家の正反対と言ってもいい位置にある。
単純に考えたら一時間ほどで家に着くのだが、僕はたまにはドライブでもしてから帰ろうと思い、わざわざ山の方に向かって遠回りで家に帰ることを決めた。
山の方から帰ると言っても、山の中腹を少しだけドライブする程度だから、日付が変わる頃には家に着くはずだった。
でも、山のふもとまで行ってみると、こんな時に限って土砂崩れが発生していて、山への進入は制限されていた。
こうなってしまうと、先程までとは打って変わって何故か無性に早く家に帰りたくなってしまう。
山のふもとにある喫茶店の駐車場に勝手に侵入して車を方向転換させると、早く家に帰るために堤防に向かおうと車を走らせた。
堤防を使わなければ一時間かかる道のりも、堤防を使って速度を出せば時間を半分に短縮することができる場合があるから。
五十キロの速度規制を大幅に無視し、堤防を百キロほどのスピードで駆け抜ける。
暖房はすでに切ってあり、寒さも気にせずに窓を全開にして風を感じる。
この時間の信号はだいたい赤か黄色の点滅になっているため、他に車が見当たらなければ速度を緩める必要はない。
しばらく走り続け、堤防を降りようと左にウィンカーを出した瞬間、視界に一つの影が入った。
やばいと思ってブレーキを踏んだが、僕の頑張りは意味を見出すこともなく、ドンッ! と音を立てて車は陰とぶつかってしまった。
車はぶつかったものを少しの間引きずって停車した。
僕は車から降りて恐る恐る車の前側を見たが、車が真っ赤なせいなのか、血が付いている様子は見えなかった。
ただ、車の後ろ側の道路には確かに血の跡が続いていて、僕はやってしまったと思った。
車の下に何があるのだろうと恐怖しながらも、携帯のライトを起動して車の下を照らす。
車の下にあったのは、真っ白な毛並みを血で赤く染めた、黒い首輪をしている猫だった。
でも、その猫は動いていなかったというわけではなく、体が上下する程度には呼吸をしていた。
罪悪感を押し殺しながらも車に乗り込み、とりあえず大輔に電話をかけた。
こういう時は、車に慣れている大輔に相談するのが手っ取り早いと思ったからだ。
しかし、大輔は「ロードキルはしょうがねぇよ。俺もやったことあるけど、気にしないのが一番だな」としか言ってくれなかった。
僕は仕方なく車を走らせ、家に向かった。
その場を離れてすぐの所でパトカーとすれ違った時は、捕まるわけでもないのに変に冷や汗が出た。
幸いと言って良いのかは分からないが、僕の家は猫を撥ねたところから五分と経たない場所にあり、僕はすぐに家帰ってシャワーを浴びた。
どれだけ時間が経っても、撥ねた瞬間にハンドルを通して手に伝わった感触は拭えず、手の震えは止まらなかった。
猫を撥ねただけだと言われるかもしれないが、たとえ撥ねたのが人間でなく猫であったのだとしても、手にはしっかりと感覚が残るものだ。
初めての出来事で心が追いついていないのか、動悸が激しくなり頭が痛んだ。
シャワールームから出ると、畳んだ洗濯物の山の中からパンツとシャツ、それから上下のジャージを抜き取ってすぐに身につける。
その後キッチンに向かい、冷蔵庫からスミノフを一本取り出して金属の蓋を開け、中身を一気に喉に流し込んだ。
消毒液と柑橘系の混ざり合ったような風味が鼻を突き、喉を軽く刺激する微炭酸が心地よい。
飲み終わった小瓶をキッチンの流しに置き、そのままベッドの置かれたリビングに向かう。
テレビをつけると、時間柄か少し厭らしい内容の番組が放送されていて、僕はリモコンを使って音量を大きくしていく。
今はどんなものでもいいから、震える手の感触を消し去るために気を紛らわせたかった。
騒がしい音の中でもう一本スミノフを取り出してきて蓋をあける。
喉に一気に流し込んで目を瞑る。
疲れているのか、頭がフラフラとした。
これは良くないなと思いながら目を開けると、激しい眩暈に襲われた。
その眩暈から逃れるように、たった一回だけ瞬きをする。
………………。
…………。
……。
それは、一瞬の出来事だった。
「いやぁ。まさかお前に彼女ができるなんてなぁ。お前は一生独身だと思ってたよ」
そんな言葉が耳に入りながら、肩に衝撃が走った。
いつの間にか、僕は大型ショッピングモール内のファミレスで、大輔と向かい合うように座っていた。
大輔はストローを咥えながらゲラゲラと笑っている。
何が起きたのか、わからなかった。
僕は瞬きをしただけであって、それ以上のことをしたわけではない。
テレビを見ながらスミノフを飲んで、ただ一度の瞬きをしただけだ。
あまりにも一瞬の間に起きた出来事で、僕は突然の出来事に対して何の反応もできなかった。
せめて僕が感じられたことと言ったら「夢だろうか」という疑問ぐらいだ。
僕はとりあえず、数時間前に大輔に答えたように「なんだよ。俺に彼女ができて悪いかよ」と答える。
ふと店内の壁掛け時計に視線を向けると、短い針は八を、長い針は十二を示していた。
僕が愕然としていると、正面から「お前に彼女ができて、俺は嬉しいんだよ」という言葉が飛んでくる。
「え……」とだけ呟いて黙り込んだ僕を無視して、大輔はニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら「で、お前はどうやって加奈ちゃんに告白したんだ?」と聞いてくる。
まるで時間が巻き戻っているみたいで、僕は夢なら早く覚めろと自らの頬を抓る。
けれど、僕の目が覚めることはなかった。
それどころか、抓った頬は確かに痛みを感じた。
僕の奇行を見た大輔が、「何してんだよ」と顔を顰める。
その言葉は耳から僕の中に入ってくるが、もう一方の耳から出て行ってしまったかのように頭に残らない。
なんだか気味が悪くなり、僕は大輔の問い掛けに答えようとはせずに「もう行こう」と言って席から立ち上がった。