第七節
「おい、聞いたか? 昨日の夜、B組の小林が安藤先生に告白したらしいぞ」
「は? マジで? 生徒が教師に告白とか無理に決まってるだろ」
「そりゃまあ惨敗だったらしいぞ」
「だろうな。安藤先生は美人だけど噂ではレズらしいもんな」
「告白といえば、うちのクラスの加藤も告白してたよな。誰だっけ?」
「あぁ。あれウチの生徒じゃ無いよな」
「そうだっけ?」
「たしか、隣町の中学の子だよな」
「あ! あの噂の子か! ものすごく美人だとかいう!」
「そうそう。名字しかわからんけど、確か芹って名字だったと思う」
「なんか凄い和風の名家って感じの名字だな」
「そうだよなー。どんな見た目なんだろ」
「で、結局は告白の返事はどうだったんだよ」
「もちろんノーだぞ」
「あはははは! だよな! あんなサッカーのことしか考えられないサッカーバカはモテないよな!」
そんな下らない世間話をしているクラスメイトたちを背に、駅のホームで電車を待つ。
郊外の駅だからなのかホームに柵はなく、黄色い線の内側で電車を待つようアナウンスで指示がかかる。
僕たちは今、帰路に着いていた。
修学旅行からの帰路だ。
まだ二日目であるにも拘らず、修学旅行は終わりとなった。
理由は単純、死人が出たからだ。
今朝、ホテルの外で一人の生徒が死体となって発見された。
作ったような高い声で話すその女の子は、割り振られた部屋に律儀に遺書を残していたらしい。
『大器にフラれたので死にます』
といった風の内容がその遺書に書かれていたそうだが、僕はそんな事を言う奴を知らない。
フラれたので死にますという内容の遺書には、先生たちも頭を抱えていた。
内容が内容だけに僕は一度だけ呼び出されたが、怒られるとかそう言った事はなく、「気にするなよ」と慰められた。
ゴリラに。
「おい大器! 聞こえたか! 小林の野郎、安藤先生に告白しやがったってさ!」
俺の肩を力強く何度も叩きながら、大輔は言う。
大輔はひ弱な僕と比べたら力こそパワーの人間なので、叩かれた肩が痛い。
「聞こえてたからもう少し声のボリュームを落とせよ。うるさい」
「いいや。これはそんな冷静でられる出来事じゃねぇんだよ! 安蔵先生は俺の将来のお嫁さんなんだからな!」
「はいはい。そうだな」
「おいおいそんな冷たい反応すんじゃねぇよ! ……でさ、どう思う」
突然、直前までの態度からコロリと変えて、大輔は声のボリュームを落として耳打ちするように言ってきた。
中学生の癖に、大輔からは煙草の煙の匂いが仄かにする。
「どう、っていうと?」
「千佳のことだ。お前何か知ってるだろ」
「何で俺が千佳のこと知ってんだよ」
「そりゃあお前…………あ、んー。お前、千佳とよく絡んでたじゃねぇかよ」
「あれはあいつが勝手にやってたことだって」
「……あんまりその話はしない方がいいと思う」
溜め息混じりに、加奈は僕たちの会話を止めた。
「あ、ごめん」
加奈の注意で僕と大輔は二人同時に謝る。
素直に、自分たちの会話が無粋なものであるのだと理解したからだ。
ホームの開けた空間に流れるアナウンスが嫌に響いて聞こえる。
なぜだろうか。例えようの無い不安に苛まれる。
頭の中がもやもやとして、何かを忘れているような気がして、何かに気づくことができていないような気がして、頭の中が重くなる。
重くなった思考のせいでぼうっとしていると、目の前を貨物列車が通過していった。
「お、電車が来た」
通り去った貨物列車を見送った後、貨物列車がやってきた方角を指差し、大輔が言った。
指差す方角を見てみるが、見えるのは住宅街の真ん中をかき分けるようにまっすぐと伸びる数本の線路のみだ。
僕の目からはまだ電車の姿が見えない。
大輔の視力はどうなってるのだろうか。
「お前、よく見えるよな」
「……私も見えない」
「え、あれ? 気のせいだったかも」
自らの指差す方角を見ながら、大輔は目を細めた。
見えないものを見ようとしているかのように。
「何だそりゃ」
「本当に何言ってんだろうな、俺。あはは」
空笑いをする大輔は、気をまぎらわすように自身の耳朶を指先で弄り始めた。
こいつは昔から、困惑すると耳朶を弄るクセがある。
前にテストで赤点を取った時も、生徒会選挙で落選した時もそうだった。
ならば、大輔は今、何かに困惑していることになる。
「お前、昨日からおかしいぞ」
「は? 気のせいだろ。俺はいつも通りだって」
「……私も、大輔はおかしいと思う」
「おい、その言い方だと俺がおかしい奴みたいじゃねぇかよ」
僕の側に加勢してきた加奈に、大輔が「オイオイオイ」とツッコミを入れる。
ただ、その行動が何故だか話を逸らそうとしての行動にしか見えない。
「いや、間違ってはいないだろ」
「うるせぇよ」
そう言いながら笑みを作る大輔の顔はどこか引き攣っている。
やっぱり、何か変だ。
「何かあったのか?」
「いや、何も……」
「じゃあ何で今日のお前は変なんだよ」
「変じゃねぇって……ああもう! いいよ! じゃあ話すって!」
大輔はそう言うと、ホームの黄色い線から少しだけ退いた。
「思い出したんだよ」
「何を?」
「昨日の話」
「どのだよ」
「修学旅行の時に変な人がいたって話」
大輔はそう言うと、僕と加奈にも黄色い線から離れるように言った。
何かを警戒しているみたいだ。
「俺さ、昨日の夜、思い出したんだよ。いつの記憶なのかはわからないけど、確かに修学旅行の話だった。電車を待っていた時、俺たちが待っているのとは逆方向へ向かう電車が後ろに止まったんだよ」
「それくらいは普通の話だろ」
「ここからだから黙ってろよ。でさ、その電車から一人、ホームレスみたいな人が出てきたんだ。そいつは少しの間ホームをウロウロしてたんだけど、ふとした瞬間にいきなりこっちに近づいてきて、俺の眼の前にいた人の腕を掴んで……確か、ホームレスみたいな人は男の人で、腕を掴まれたのが女の人だったような気が……」
「そこはどうでもいいって。腕を掴んでどうなったんだよ」
大輔がなかなか結末を語らなくて、僕はじれったくなって早く結論を言えと催促した。
口をもごもごしながらも、結末を催促された大輔は口を開く。
「そのまま……」
「そのまま?」
「女の人を道連れにホームから線路へと落ちたんだ」
大輔がそう言った瞬間、僕たちの後方に、僕たちが待っている電車とは逆方向へ向かう電車が止まった。
ふと、額から冷や汗が滲む。
形容できない不安が胸の奥底で膨らむ。
いや、形容できないと言っているが、きっと大輔の話が不安の種となっているのだろう。
止まった電車の扉が開き、中から乗客が次々に降りてくる。
スーツ姿の男性。制服姿の女の子。着物を着ている年老いた老婆。
様々な姿をした乗客が順に降り、そして最後に一人の乗客が他の乗客からワンテンポ遅れて降りてきた。
その乗客は薄汚れた服を身につけていて、髭は不恰好なほどに伸びている。
髪の毛は肩ほどまであるが、ツヤはなくボサボサの状態だ。
多分、肩幅の広さから見て男性だろう……
「あっ……」
そこで僕は気がついた。
今のこの状況が、大輔の話に類似しすぎていると。
男性は上の空でホームに置かれたベンチに腰を下ろした。
しばらく彼の様子を見ていたが、空をただ眺めるのみでこれといって不審な動きを見せることはなかった。
「はーい。みなさん、もうそろそろ電車が来るそうです。なるべく固まって、すぐに電車に乗り込めるようにしておいてください。すぐに乗らないと他の乗客に迷惑ですから」
つい先ほど噂になっていた安藤先生が、生徒をまとめようと呼びかける。
しかし、彼女がやさしい性格だからなのだろうか、生徒は言うことを聞こうという態度を微塵も見せない。
そもそも、駅構内に流れるアナウンスの音量に、先生の声はかき消されていた。
それでも微かに聞こえた安藤先生の声に「せんせー。俺と付き合ってよ」とヤジを飛ばす生徒も居る。
安藤先生から視線を外し、ベンチに座っていた薄汚い男性へと視線を戻そうとする。
だが、その場所に男性の姿はなくなっていた。
騒がしいクラスメイトたちが座り、どうでもいい話をしているだけだった。
「あれ、あのおっさんどこにいった?」
大輔も僕と同じくホームレスを見失ったようで、周りを見回して彼を探している。
その大輔は小さな声で「やばいやばいやばいやばい」とうわ言のように言葉を発しており、顔は青ざめてしまっていた。
僕と大輔がホームレスの存在に気が付いたのは、電車の走る音が次第に近くなり、電車が来る直前にやって来る変に強い風が押し寄せてきたその時だった。
線路を伝う轟音と風の唸り声の中に、「……あっ」と言うか弱くも芯のある加奈の声が混ざって聞こえる。
僕と大輔はそちらの方を、慌てて見た。
これ以上前に出ないように。と、注意喚起をする黄色い線の色がより鮮明に視界に入ってくる。
その線の向こう側に、加奈はいた。
先ほど僕たちが姿を見失っていた薄汚い男性に腕を引かれ、駅のホームから線路へと飛び降りていた。
ほんの一瞬だけ時間が止まっているかのように感じられ、その最中で僕の視界には加奈の泣きそうな顔が焼きついた。
助けを求めて涙ぐむ加奈の姿が強く焼きついた。
普段、感情をあまり表に出すことのない加奈の、感情的な表情が僕の両の瞳に焼きついた。
日本人らしい黒と茶の混じった僕の二つの瞳孔は、いつも以上にしっかりと光を拾い、僕の眼の前にひろがる実像とそっくりの虚像を僕の頭の中に忠実に作り上げる。
そのわずかな瞬間のほんのワンシーンを僕は確かに見てしまう。
今、僕たちが人生における重要な状況に居る事は言うまでもない。
だが、そんな状況に居るのだというのに、僕は瞼を下ろして生理現象である瞬きをしてしまう。
閉じた両の瞳を素早く持ち上げ、目の前の光景を直ぐさま見る。
その時には、変に遅く感じられた時間の流れは元に戻っていた。
加奈と男性が下に落ち、ホームの上から二人の姿が確認できなくなる。
二人が落ちたことでドサッという鈍い音が響き、クラスメイトや関係のない人々が騒めき出す。
次の瞬間、「線路の上には何もなかったですよ?」とでも言うように、ズガンという衝撃音を大きな騒音でかき消しながら、大きな貨物列車が走り去っていった。
貨物列車の通りすぎる轟音の後、静けさだけが嫌に残り、開けた空間を陵辱した。
クラスメイトや他人を含め、皆が何かを悟ったかのように黙り込む。
誰かが唾を飲む音が聞こえた。
それが合図となったのか、静けさに蹂躙され、侵された空間が唐突に息を吹き返す。
「救急車だ! 誰か救急車を呼べ!」
「バカ! 救急車なんて呼んでも遅いだろ!」
「まだ分からないだろ! あと、警察も誰か呼んでくれ!」
場が騒がしかった。悲鳴が聞こえ、怒号が聞こえる。
何処の誰なのかも分からない通勤途中のサラリーマンたちが慌てふためく。
どうして彼らはそんなにも必死になっているのだろうか。
変に冷静な思考で目の前の光景を見ている自分に嫌気がさす。
そんな僕の気持を煽るように、駅構内には鼻が曲がりそうになるほど鉄の香りが充満していく。
いや、これは鉄の香りではなく、人の血の香りだ。
『 五番線に到着の電車は十六時十分発の東京行きです 』
様々な声や感情が眼前で入り混じる中、自分は関係がないですと主張するかのように、常時と変わらない無機質なアナウンスが駅構内へ鳴り響く。
何だ。一体何が起きた。
どうして周りの人間はこんなにも叫んでいる。
臭い。鼻が曲がりそうだ。
鼻をつん裂くような香りを放っている血は一体誰の血だ。
僕は未だに状況が理解できない。
違う。僕は状況を理解しようとしない。
理解なんてしたくない。
中学の時に安藤先生という音楽の先生がいて、その先生にいつも求婚している同級生が居ました。
僕はそいつと仲が良くて、いつもとは言えないですが、結構よく遊んでいました。
そいつとは今でも絡みがあり、年に数度程度ではありますが、僕が実家に帰った時に遊びます。
バーベキューをしたり、ドライブをしたり、ボウリングをしたり。
まぁ、ふざけたような奴ではあるけれど、面白い奴です。
さて、本作に登場した安藤先生は上記の話の先生から名前を借りています。
安藤先生は、数年前ではありますが結婚をしました。
相手は、僕たちの通っていた中学の先生です。
その知らせを聞いた時、なんだか懐かしい気持ちが湧き出てきました。
だからどうという話ではないですが、中学時代の記憶は22になった今でも割と鮮明に美しく蘇るものなのだなと、今こうして原稿の修正をしながら思いました。