第六節
それほど待つ事もなく生徒全員が揃い、先生が話を始めた。
これからの予定、注意事項を簡単に説明するためだ。
いつもなら座らせて話をするのだが、今回はそれほど時間があるわけでもないため、僕たち生徒は突っ立ったまま。
僕たちが興味なさそうに聞いていると、僕の右となりにいた加奈が誰かとぶつかった。
「きゃっ」と小さく悲鳴をあげ、よろめく。
加奈の後ろを見ると、ぶつかったと思われる人が加奈に「大丈夫?」と声をかけていた。
淡い青色のワンピースを着たセミロングの黒髪が綺麗な少女だった。
そして、その少女に僕は見覚えがあるような気がした。
けれど、どこで見たのかが思い出せない。
「桜花。だから気をつけないとって言ったじゃあないか。東京は岐阜と違って人が多いんだから」
連れらしき少年が寄ってきて、少女に声をかける。
顔に特徴のない、僅かに目にかかる長さの前髪が鬱陶しい少年だ。
そして、連れの少年の言葉が正しいのなら、少女は桜花という名前らしい。不思議な名前だ。
「君も、大丈夫?」
少年に声をかけられ、少し人見知りの気がある加奈が戸惑った。
代わりに僕が答える。
「大丈夫ですよ。すんません」
僕がそう答えると、男の子は「なら良かった」と言い、浅く息を吐く。
「それにしても、平日の昼間だっていうのに学生が多いね」
僕たちに向けられているのか、それとも桜花という少女に向けられているのか。
少年の視線は少女にも僕たちにも向いていなくて、誰にかけられた言葉なのかわからない。
すると、桜花と呼ばれた少女が少年の言葉を拾う。
「学生って、私たちも高校生だよ」
「まぁ……うん。そうなんだけど」
少年はバツが悪そうに頬を掻く。
その様子を見て満足そうな表情になると、少女は僕たちに向けて聞いてきた。
「君たち、この辺りの子?」
「あ、いえ。違う……ます」
吹く風に少女の髪が靡き、シャンプーか何かの甘い香りがこちらにやってくる。
その香りに、ついドキリとして僕はぎこちなく言葉を返した。
「あ、もしかして修学旅行生?」
声のトーンを上げ少女がぐぐいと詰め寄ってくる。
顔が近く、甘い香りが強くなる。
助けを求めようと大輔をみると、大輔はまだ1人でぶつぶつ言いながら考え事をしている。
加奈はわたわたと困惑していて、助けを求められそうにもない。
「えっと……そうです」
距離感のおかしい少女から顔を背けながら答える。
すると、少女の背後から「桜花、近いって」と呆れた様子の少年の声が飛んできた。
言われた少女は、嬉しそうに少年の方へ振り向く。
「え、光助くん、もしかして嫉妬してるの?」
揶揄う調子で言うが、その裏に喜びの感情がある事を隠しきれていない。
もともと明るかった表情が一層明るくなったし、声の調子もかなり柔らかくなった。
なるほど。僕は何を見せられているのだろうか。
「別に、嫉妬とかじゃあないよ。その子が困っているみたいだったから言っただけ」
そう返す光助という少年の頬は僅かに赤くなっている。
視線も少女から外されているみたいだし。
なるほど。本当に、僕たちは何を見せられているのだろうか。
「そっかそっか〜。嫉妬とかじゃあないんだね」
「うん、そうだよ」
「まったく。光助くんは素直だなぁ」
そう言って「んひひ」と変わった笑い方で笑うと、少女は今一度僕たちを見て言った。
「私たち駆け落ちの真っ最中なんだけど、この辺りの事がわからなくてねぇ」
「駆け落ちじゃあないよ」
「駆け落ちで間違ってないじゃん」
途中で少年に遮られながらも、少女は話を続ける。
「だから、もし君たちがこの辺りの人間だったなら近くの面白い場所を聞こうと思ってたんだけどねぇ〜」
だが、残念な事に僕たちは岐阜からやってきた修学旅行生だ。
少女は御目当ての情報を得られない。
…………あ。
「あ! あの時の!」
そのタイミングで、僕は思い出した。
桜花と呼ばれた少女をどこで見たのか。
彼女は、つい数日前に僕がナイフを買いに行った店に居た先客の少女だ。
バタフライナイフを吟味して、結局は何も買わずに出て行ったあの人だ。
「あの時?」
僕が突然大きな声で言うものだから、少女は少しだけ驚きながらも不思議そうに首を傾げた。
そうか。あの時、僕は少女の存在に気が付いていたが、少女は僕の存在に気づいていなかったのか。
だとしたら、僕が少女の顔を見ていても少女は僕の顔を見ていない何てことはごく普通にあり得る。
きっと、数日前に包丁の店でナイフを見ていた事を僕に見られいていたという事実に、少女は気づいていない。
さて。あの時の話を話題として出しても良いものだろうか。
等と考えているうちに、駅のホームに男性の声でのアナウンスが響いた。
僕たちが乗ってきた電車とは逆方向へ向かう電車が程なくして駅に到着するというアナウンスだ。
「あ、桜花。今から来る電車に乗らないと」
少年はそう言って少女の手を握る。
すると、少女は「大胆だねぇ、君は」と言いながらも嬉しそうに笑みを浮かべ、促されるままに少年の手を握り返す。
「じゃあ、私たちは愛の逃避行を続けるから、君たちも就学旅行を楽しんでね。人生は一度きりなんだから、楽しまないともったいないよ」
少女がそう言い終わるのを少年は待ち、そうして2人は手をつないだままで停まった電車に乗り込んでいった。
扉が閉まるまでの僅かな時間、少女はこちらに向けてずっと手を振り続けていた。楽しそうに。
その隣で少年は疲れた表情をしてはいたが、少年の方もどこか楽しそうだった。
扉が閉まり、車両が走り始めたところで僕は今一度加奈に問う。
「大丈夫?」
「……うん」
走り去った電車を眺めながら、加奈は頷いた。
その表情からは困惑の色は消えていて、すっかりいつもの調子に戻っている。
先生の話の最中に起きたつい先ほどの謎のカップルとの出会いは、もう旅の思い出として認識しているようだ。
加奈は先生の話を聞く事に意識を傾けている。
僕たちがそうやって一つの出会いに巻き込まれている間、大輔はずっと一人で考え続けていた。
いつの修学旅行だったか、どういう記憶だったのかをずっと悩み続けていた。
そして、ふと思い出した時、先生の話を遮るほどの大きな声で「思い出した!」と叫んだ。
さっきの僕よりもずっとずっと大きな声で。
大輔の突然の奇行に他の生徒が少しだけざわつく。
そして、その動揺にも似たザワつきは次第に笑いへと変わっていった。
同級生たちが嬉しそうに笑い、「バカだろ!」と次々に口にした。
当たり前のように、大輔の元にゴリラがやってきていたからだ。
次に起きる事をみんな想像し、笑い出したのだ。
ゴリラは大輔の頭をゲンコツで軽くど突きながら「思い出さんでいい!」と言った。
駅のホームには他の乗客もいるからか、声はかなり抑えめで怒鳴る事はしなかった。
その時はゴリラの説教はなかったのだが、宿泊するホテルにたどり着いた後に大輔はゴリラに呼ばれ、僕たちとは別行動になった。
「何で俺だけ!」と大輔は嘆いていたが、それはまぁ。ご愁傷様。
再び大輔と再会したのは、自由行動で僕と加奈が周辺を観光しに行き、戻ってきた後。
夕食の席でようやくの事だった。
今回は秋葉原に行って不味いオムライスに高い金を払うなんてことはしなかった。
流石にあんな虚しい想いは二度も味わいたくなかったから。
夕食の席に姿を現した大輔は原稿用紙の束を手に持ち、疲れた様子でただ一言だけ想いを発した。
「納得できねぇ」
こうして、僕たちの修学旅行の一日目は無事に幕を下ろした。
加奈が千佳に殺される事もなく、何か失態が起きる事もなく、本当に計画通りに事が進んだ。
翌日の朝。
修学旅行二日目の朝。
千佳が無惨な姿で発見された。
ホテルの屋上からの飛び降り自殺だったという。
僕は驚かなかった。
どういった形であれ、千佳が死ぬ事は分かっていたからだ。
死神の僕が彼女の死ぬ時間を決めたからだ。
ただ、驚きはしなかった一方で安堵していた。
これで邪魔者は居なくなった、と。