第三節
「はい、それでは修学旅行の班は板書の通りとします」
黒板の端の方を叩きながら、担任教師の森本はホームルームを進めていく。
遡ってからもう既にかれこれ数ヶ月の時間が経ち、三年生になった僕たちは六月上旬に修学旅行を控えていた。
その日程のせいもあるのかもしれないが、僕たちは三年生になってまだ一月と経っていないにもかかわらず修学旅行の班決めやバスの席決め、観光地のチェックなどをホームルームの時間に行っていた。
「では次にバスの席決めを行っていきますね。みんな、席の決め方に希望はあるかな?」
先生はシワの目立つ顔に更にシワを作って微笑む。
先生は顔中にシワがあり、髪の毛は真っ白に色が抜け落ちている。
彼の髪の毛は色を抜いているという訳ではなく、単純にすべての髪の毛が白髪なのだ。
よほど苦労した人生を歩んできたのだろう。
三十代半ばとは思えない老け方をしている。
「くじ引き!」
「班ごとに席を決めよ」
「好きな場所!」
「先生に任せるよ〜」
「じゃんけんで勝った人からがいいー」
先生の苦労も考えないクラスメイトたちが次々に席決めの方法を提案していく。
自分が良ければそれで構わないと言う考えの下で、クラスメイトたちは自らの要望を口に出している。
それを、先生はうまく追えずにいる。
「はい、はい、そうですね。みなさん提案ありがとうございます」
先生は生返事をしながら黒板に書かれた修学旅行の班分けを黒板消しで消していく。
黒板消しは掃除当番のサボタージュの成果として、チョークの粉がびっしりと纏わり付いてしまっている。
もちろん、そんな黒板消しで黒板に羅列された文字列を擦ったところで、黒板は汚れを薄く広げていくだけだ。
黒板に書かれていた旅行中の班の割り振りを原型のわからないほど薄く引き伸ばした先生は、汚れた黒板を少しだけ眺めて満足したように黒板消しを黒板のチョークを置く部分に置いた。
「黒板消しの掃除が少しだけ雑なので、当番の人はもう少しだけしっかりと掃除しておいてください」
そう言いながら、先生は黒板の脇に置かれた教師用の机までゆっくりと歩き、椅子を引いて腰を下ろした。
当然、生徒は誰一人として返事をしない。
先生も、それが当然だとでも言わんばかりに気にする様子は見せない。
そして、
「菱野さん、あとはお願いします」
そう言って、話し合いの進行を加奈に投げ出してしまった。
先生に指名された加奈は「はい」と素直に返事をして席を立つ。
現役中学生の僕だったら、今の加奈のように中途半端な場面で責任を委ねられた場合、おそらくは苛立ちを顔に出しながら「どうしてですか?」って先生に噛み付いていたいただろうな。
そんなことを思いながら、二度目の現役中学生生活を送っている僕は優優と歩く加奈の姿を眺める。
「……はい、それでは今から、修学旅行のバスの席決めを行っていきます」
決して大きくはないが確かに耳へと届く。
高くも芯の通った声を聞きながら、僕はその場を手際よく取り仕切る加奈を惚けるように眺め続けていた。
そして、僕は知らぬ間に眠りに落ちていく。
「大器!おい!大器起きろよ!」
僕は体に伝わる振動を感じながら、遠くから聞こえて来る誰かの声を途切れそうな意識の片隅でなんとか捕まえた。
この聞き慣れた男の声は大輔の声だろう。
そう思いながら僕は瞼を上げ、机に突っ伏した状態から起き上がった。
「お、やっと起きた」
案の定、声の主は大輔だった。
そして、その隣には
「……うん。そうだね」
加奈が立っていた。
僕が状況をうまく飲み込めずに加奈と大輔に向かって交互に視線を送り続けていると、大輔は目を逸らしたくなるほどの笑顔で「今日、俺の家で映画観ようぜ!」と言ってきた。
僕は間髪入れずに「嫌だ」と答えた。
__________
年齢はおよそ三十歳。小汚い外国人男性がボロボロの日記に手を伸ばす。
その日記は、男性がこれまでの、幼少期から現在に至るまでの日常を地道に綴ったものだ。
日記には男性の思い出が詰まっている。
人生が詰まっている。
男性はこれまで幾度となくめくってきた日記のページを急いでめくっていく。
彼には現在、過去を懐かしむ余裕など無い。
いま“戻らなければ”、男性はチャンスを失ってしまう。
指に触れる日記の一ページ一ページに紙らしい湿気や油分などなく、ただカサついた寂しい感覚だけが男性の指先へと伝ってくる。
男性の頭を埋め尽くすのは「どうして」という疑問ばかり。
自分は幸せになりたかっただけなのにどうして。
自分は愛する人に幸せに生きて欲しかっただけなのにどうして。
どうして。
どうして。
自分はどこで間違えた。
そうして男性は目的のページへとたどり着く。
ページへと羅列された文字列へ指で触れる。この行動にさほど意味はない。
こうして彼はイメージする。
日記に記された過去の一時を。自らが遡りたいただ一瞬を。
後悔し、変えたいと懇願するかつての時間を。
男性は自らの体内を循環する血液の勢いが、日常のそれよりも激しくなっていく感覚を覚える。
自らの頭部の血管が激しい血流に耐えられず、膨張していく感覚を覚える。
否、事実として、その体を流れる血液は勢いを増しており、その影響で身体中の血管が膨張していた。
中でも頭部は、脳は人生を再構築するために本来の何十倍もの速度で情報を処理しており、耐えきれなくなった血管は次々に切れ、脳細胞は死滅し、再生。
それを繰り返した。
『 ぅぉぉぉぉぉぉぉぁおぁあああああああああああ!!!!!!!!!! 』
当然、その痛みに無言で耐えることなど不可能であり、男は咆哮する。
そこにはかつて優しかった男性の面影などなく、ただ幸せを求め続けた、幸せに飢えた惨めな生き物がいた。
こうして男性は過去へと遡る。
「うおおおお!!五月蝿ぇぇぇぇ!!!」
そして、スクリーンで展開される映画のワンシーンを観ながら、僕の隣では大輔が興奮の雄叫びをあげる。
五月蝿いなと思いながら、僕はわざと眉を顰めて表情を作る。
「五月蝿い」
僕の意識とは関係なく内面に閉じ込めておいたはずの本音が漏れ出ていた。
人間とは不思議な生き物だ。
僕の本音に対し、「うるさくねぇ!」と大輔は冗談半分に反論し、加奈は僕たち二人を眺めて楽しそうに微笑む。
わずか数時間前、誰が見てもわかるほどに、僕は嫌そうな顔をして大輔の誘いを断った。
にも関わらず、僕がこうして大輔と加奈と三人で映画を見ているのは、大輔に大きな借りを作ってしまったからだ。
それも、僕が居眠りをしている間に。
そして、大輔はその事実を利用して、今も僕を脅している。
「大体な、俺はお前のために頑張ったんだから、お前は俺にでかい態度なんか取れるわけ無いだろ」
もちろん、脅しているとは言うものの、その口調はいつもの冗談と同じものであり、大輔が本心から僕を脅し、意のままに操ろうとしているわけでは無いのだとこれまでの経験から感じる。
だが、やはり大輔の脅しは今のこの場ではあまりに場違いなものであり、正直言って困る人間が二人もいるため、僕は大輔からの恩の押し売りにとぼけて見せた。
「お前が俺のために頑張ったって、何を頑張ったんだよ」
「ばっか。俺のおかげで大器と加奈はバスの席が隣になったんじゃねぇかよ。しかも、あの班決めだって実質的には俺のおかげで俺たち三人が同じ班に入ることができたんじゃねぇか」
「それはお前の思い違いだ。いや、思い違いっていうより、お前の勝手な思い込みだ」
「ぬかせ。本当は嬉しいくせに。素直に喜んだらどうだよ」
「三人で同じ班になれてよかったな」
「そっちじゃねぇって!」
僕たちが意味の無い言い合いを繰り返す横で、加奈は困ったように顔を赤くしながら優しく微笑んで僕たちを眺める。
ああ、大輔もいるとはいえ、僕は今この時間が幸せだ。
殺したいほどに憎かった大輔だが、それは僕が遡る以前の大輔であり、今僕と言い合いをしている大輔では無い。
だから、親友とこうして意味の無い話を繰り返し、その場に好きな人もいて、目立った出来事なんて何もなくても、みんなで関係を崩すことなく笑って、ただの日常を過ごすことができる。
そんな状況に僕は居るわけで。
その事実を頭の中で何度も反芻させることで、僕は幸せを実感していた。
『 あぁ、やっぱり僕は幸せなんだ。僕の幸せはこう言った形のものなんだ 』
まるで自分に言い聞かせるように、幸せと感じた現状を自らの脳へと刷り込む。
目指すべき正解を自分に教え込むように、何度も何度も反芻を重ねる。
それからも僕と大輔は言い合いを続けていたが、加奈の「静かにして」という一言で僕らは休戦状態となった。
映画を荒い画質で僕たちへとお披露目してくれているブラウン管テレビに視線を向ける。
映画はすでにラストシーンへと差し掛かっていた。
僕たちが見ている映画はバタフライ・エフェクトという外国の映画だ。
大輔が親の部屋から見つけ出してきたらしい。
話の大まかな内容は、愛する女性の不幸をキッカケに、一人のが愛する女性の幸せのために何度も何度も過去へ遡り、試行錯誤をして女性の未来を変えていく。
といった感じのものだ。
主人公の男性は何度も過去へと遡って愛する人を幸せにしようとした。
しかし、遡れば遡るほど、女性はどんどん不幸な人生を歩んでいくことになる。
結果として主人公が選んだ道は、自分と女性が出会わなかったことにするという結末を作り上げることだった。
男性は最後の遡りを実行し、初めて女性と出会った日へとむかう。
そして、計画を実行した。
こうして辿り着いた世界で女性は確かに幸せに暮らすことができていた。
でも、そこに男性の努力があったことなど女性は知らない。
そもそも、女性は最初の世界での恋人であった、主人公の男性の存在自体を知らない。
互いに互いの居ない日常を過ごしていたある時、二人は街中ですれ違う。
男性は自然と女性を目で追ってしまう。
もしかしたら。などという淡い期待を胸に抱き、男性はその両の瞳に女性の姿を焼き付ける。
だが、女性は男性を知らないため、振り向くことはしない。
女性の元気な姿をしっかりと確認し、男性は再び歩き始める。
すると、女性は何かを感じ取ったのか、足を止めて振り返る。
しかし、自らがなぜそうしたのかを女性は理解できない。
女性は再び歩き始めた。
こうして、二人が出会い、結ばれるなどというありふれた恋の物語が展開されていくこともなく、二人は互いのいない当たり前の日常へと戻って行った。
映画はそこで話が終了した。
画面の中を流れるエンドロールを、僕は呆然と見つめ続けた。
話が理解できなかった。
いや、話自体は理解できたのだが、なぜ男が幾度となく繰り返した遡りの終着点として、全てを投げ出すような結果を選んだのか、僕はそれが理解できなかった。
「いやぁ。面白かったな」
「そうだね……なんか、思ってたのと少し違ったけど」
「んー。あそこはもっとこう、二人で一緒に幸せに! みたいな終わりかたしてくれたら俺は満足だったんだけどな」
「私はあの終わりかたで良かったと思う」
「まじかー。加奈は何かとバッドエンドが好きなんだな」
思考が取り残されてしまった僕を放置し、加奈と大輔は映画の感想交流会をはじめた。
大輔は会話の最中でさりげなくテレビの電源を落とす。
「てか、ところどころ音がデカかったよな。耳がちょっとだけ痛かったわ」
「それは……映画の演出上しかたがないんじゃない?」
「それはわかってるけど、やっぱりこう、音の小さいところと大きいところが両極端なんだよな、洋画って」
大輔は「お茶取ってくる」と言い、立ち上がる。
座布団代わりに使っていた大きめのゾウのぬいぐるみがへしゃけた形で姿を現した。
水色で鼻が二本ある、なんとも言えない見た目をしたゾウのぬいぐるみだ。
大輔はそのぬいぐるみを蹴飛ばして部屋の隅へと追いやり、「お前ら、エロいことすんなよ」と言い残して部屋から出て行った。
部屋に沈黙が満ちていく。
別に、やましいことがあるわけではない。
ただ、僕はまだ映画の男性の決断が納得することができず、話すことも忘れて考えてしまっていて、加奈は恥ずかしさと気まずさの間を行ったり来たりしていて。
僕たちは互いに異なる理由で大輔の決して大きくはない部屋へと、沈黙という名のある種の毒を注いでいた。
五分と経たずして大輔は部屋へと戻って来た。
大輔は両手でお盆を持っており、部屋のドアノブを足で器用に掴み、扉を開けて部屋へと入ってきた。
「わるい。お茶無かったからカルピス持ってきた」
そう言いながら、大輔はお盆を電源の入っていないコタツの上へと置いた。
加奈はカルピスの入った透明なグラスを一つ手に取り、「過去に戻れるとしたら、二人ならどうする?」と、僕たちに問いかけてきた。
加奈の問いに、先に反応したのは大輔だった。
「戻れるって、映画の男みたいにタイムリープするってことか? それとも、単に人生をやり直すってことか?」
大輔は加奈の問いに問いを返した。
そして、加奈は大輔の問いに対しては前者の認識が正しいことを示した。
認識の確認をした大輔は、再び僕を置いてけぼりにして言葉を紡ぎ出す。
「俺はたとえタイムリープすることができる力を持っていたとしても、絶対にその力は使わないね。だって、人生は一度っきりで取り返しがつかないからこそ楽しいんだろ? そんな、過去を変えることができるだなんて、俺からしたら人生の楽しさを半減させているようなものだぞ」
大輔は言ってやったぞと言わんばかりにドヤ顔で満足そうに僕と加奈を交互に見てくる。
僕はそんな大輔を無視して加奈の問いに答えることにした。
「俺は……タイムリープすることができるのなら、映画の男の人みたいに何度も何度も自分の納得できるまでやり直すと思う。でも、映画の男の人とは違って全部の努力の落とし所としてあんな結末を選ぶことはしない。僕だったら、自分が幸せで相手も幸せな結末を目指すと思う」
「くっさ! お前厨二病かよ! 格好つけやがって」
「別に厨二病ではないだろ。単に俺がそう思っているってだけなんだから、文句言うんじゃねぇよ」
大輔は楽しそうに僕の思考をからかう。
見下すように、まるで自分が正しいかのように。
そして、次いで話のベクトルを加奈へと向けた。
「加奈はどうなんだ? 過去に戻れるとしたらっていう質問。加奈は?」
「わたしは、大輔と同じで過去に戻れるとしても戻りたくはないな」
加奈の言葉を聞き、大輔は得意げに胸を張る。
その様子を気にもせず、「だけど…」と、加奈は話を続ける
「だけど……ね、もしも自分の意思と相反して、過去に戻ってしまったのなら、私は大器と同じように自分の納得できる落とし所を見つけるまで何度も繰り返すよ」
加奈の言葉を聞き、次は僕が得意げな顔をする番となった。
僕が大輔に対し、強気で「ほら〜。別に俺は厨二病ではないだろ?」と言った瞬間、部屋に固定電話の低い着信音が鳴り響いた。
大輔が不思議そうな顔をして立ち上がり、受話器に手を伸ばす。
しばらく何かを話したのち、大輔は受話器を置き、言い放った。
「加奈の親から電話がかかってきた。今日はもうお開きだ。『 遅くまで遊びすぎだ、一応受験生なんだぞ 』ってカンカンに怒ってたぞ」
僕はその言葉を聞きながら時計に目を向ける。
時刻は確かに午後の八時。
中学生が遊んでいても大丈夫とは、とても言い難い時間だった。
ましてや僕たちは受験生、こんなところで一日の貴重な時間を無為に使ってしまうことは大きな罪と言っても過言では無い。
結局、この日はお開きとなった。
大輔の「また映画見ような」という言葉に「また今度な」と返し、次いだ「イチャイチャすんなよお前ら」という言葉を加奈と二人で無視し、僕と加奈は大輔の部屋を後にした。
学校指定の運動靴を履き、外へと出る。
季節はまだ春であり、気温は春の夜らしい肌寒い程度の気温だった。
僕と加奈はそれぞれ通学自転車にまたがり、また明日と互いに挨拶を交わしてそれぞれ逆方向の帰路へと着いた。
何度目かとも思うかもしれないが、僕はこの時点で、自分の持つ”生き物を殺すことで過去へと遡る事ができる”という不思議な力のことをすっかりと忘れてしまっていた。
否、力の存在自体は覚えていたのだが、力を使うという考え方をすっかりと失ってしまっていた。
そんな僕が再び力を使い、過去へと遡ることになるのは決して遠くはない未来の話だ。
もっと踏み込んだ話をするのであれば、僕は来たる修学旅行にて、再び人を殺すことになる。
不測の自体が発生し、僕が過去へと遡らないといけない状況が出来上がってしまったのだ。
そして、この修学旅行を機に、僕の幸せを巡る物語は次第に歪んでいく。
僕の想定とは違った方向へと道が展開され始め、歪みはどんどん加速していくこととなる。
こうした未来の話など知る由もないまま、僕たちは修学旅行の朝を迎えた。
そして、旅行先で僕の意思とは関係のないまま、加奈は死んだ。