九話
白橡色の染みの付いた襖を開けると埃っぽい匂いが漂う。耐えきれなくなってくしゃみをすると、襖の上に置かれている敷き蒲団と掛蒲団とが見えた。風呂に入れないのは残念だったけれど、考えてみればアイツが風呂に入っているかどうかも怪しい。一応休むことは出来ると自分に言い聞かせ、蒲団を引っ張り出した。畳の床に蒲団を敷いて電気を消すと窓から月明かりが差していることに気付いた。目が慣れてきて蒲団を月明かりの差している位置まで動かし、寝転がると青白い月が見える。
懐かしい、こうやって月を見上げるのは。
ぼんやりと優しく光る月をじっと眺めていると、一筋の涙が零れた。
此れから、私は如何なってしまうのだろう。
不安な気持ちに襲われ、鼓動が早くなっていくのを感じる。
家では家族が私の帰りを心配しているに違いない。雨が降っていたからタオルを持ってまだ玄関先にいるのかもしれない。母は何だかんだ云って優しい人だから。父は私を待っているのだろうか
其れとも、帰って来ない私に怒っているだろうか。
若しかしてだけれど、捜索願いを出して警察の人も私を探しているのではないか。
月は私の涙で霞み、再びくっきりとした姿になった。
何十年か後に今の父や母が見ているかもしれない月。私は静かに目を閉じて帰ろう、絶対帰ろうと祈った。
一人では何もできない心細さを感じ、自分の肩を抱きしめる。そうすると元の冷静な気持ちに戻った。
タイムスリップして一日が終わった。
厳密に云えば一日ではないけれど、私にとっては十分すぎる一日だった。此れから元の場所に帰れるのか、母に会えるのか、私には分からない。だけど、信じれば会えると思う。
天井の格子組みになった処の枡目を数え乍ら、眠りについた。
「ん...?」
先刻までは教室に居たのに。
私の体躯は横に寝そべっており、不気味な重さを感じて起きた。薄目を開けて体躯を見るともぞ、もぞ、と何かが動いているのが分かる。
若しかして、幽霊?
私は反射的に強ばった。
古い下宿だなとは思ったけれど真逆出るなんて。目の前で動く其れは私の体躯に乗り掛かり、頭を動かしているようだった。重さ的には子供___?
髪はあまり長くなく、姿は真っ暗で分からない。
ただ一つ、体躯に布が中る感覚から着物を着ているのだと分かった。其れは一頻りユラユラと揺れた後、私の肩付近にまでずりずりと這い寄ってくる。月明かりを気にしているのか顔は確認できず、真っ暗な部屋で動いているのが気持ち悪かった。
「何の用ですか?」と声を掛けてみようとするが出ない。
金縛りに遭ったかのように体躯も動かず、其れは私の蒲団に手をついた。月明かりに照されて指が五本あるのが分かる。
幽霊も人間だったんだ...妙に冷静な頭で其れを見ると、其れはゆっくりと近付きふう、と息を漏らした。
煙草の匂いがする。
仄かな煙草の匂いが鼻をつき、表情を歪めると其れは私の足付近に膝をつき、頭の両脇に手をついた。
呪われる!
私の主導権をぶん取った其れはゆっくりと私の耳許に顔を近付け小さく囁いた。聞き覚えのある声がした。
「やっていけよ」
ドカッ
突如聞こえた其の声の主の腹に一撃必殺を喰らわせる。壁に背中を打ち付けた中原は弱々しく囀った。
「痛ってぇな!何すんだよ」
「此方の台詞だよ千洩。何しようとした」
電気を点け、現れた中原の着物は半分だけはだけている。何をしようとしていたのかは直ぐに検討がついた。
中原はチッと舌打ちして着物を直し、此方を睨む。
私も中原を睨み返した。
真剣な睨み合いが数分続き、中原が口を開く。
「別に襲おうと思ったんじゃねぇ。どのくらい眠っているのか確かめたかっただけだ。お前みたいな附子と誰がヤるかよ。」
「はぁ?なら先刻の着物は何なのさ。
間違いなく私が寝てる間にしようとしてたでしょ」
「勘違いも甚だしいなァ、お前を抱くくらいな色街の女の方が未だマシだよ」
「本当最低な男。もう良い、出ていくわ。」
私は荷物を纏め、家から飛び出した。
荷物とは云っても制服くらいだけど。あの家にいるよりかは此処の方が未だマシだ。中原の詩に感動した直後に此れなのだから矢張りあの男は信用してはならない。
蓮の池を通り過ぎて来た方向の逆を辿っていると禍禍しい千洩の声が追いかけてきた。
「おい、何処に行く心算だよ。一寸だけ家に居てくれよ
明日小林と会う約束をしてんだ」
小林がどんな人物かは分からない。
私は振り返らず先を急いだ。
「五日後に小林の家に行く、泰子も一緒だ
お前のこと手配してやるからよ...」
「結構です」
幾らか道を曲がると中原の声は聞こえなくなった。
開けた道に丸くて青い月が出ている。闇夜に白い星が点々と出ていた。