七話
「ランボオの詩には幻想的な言葉が出てくるし、嫌いってわけじゃあねえが...」
中原は目を泳がせる。
急に神妙な顔付きになって何かを考えているようだった。
取り敢えず五月蝿くなくて良かった...と落ち着いた口調で未来から来たことを云おうとすると中原は床にあった本を持ち上げ、
その本を自らの胸の辺りに持っていく。
「幻想は好きだ。アルチュール・ランボオもよく書いたもんだな」
本をパラパラと捲り、中原が一言。
膝を進めて眺めると幾つもの長い詩が書かれていた。中には英語が冒頭にあるものもあり、ランボオが異国の人なのだと分かった。表紙には「ランボオ」と名前が記されており、下に小さく翻訳者の名前があった。詩について疎い私でも中原が尊敬する人物だということは善く分かった。
が、困った。この状況は私からしてみると不都合だ。折角保証を懸けたのに、カミングアウトできず尚且つ中原中也のペースに巻き込まれている。中原の意識は本の中だ。強制的に本を閉じたらまた胸ぐらを掴まれるだろうか。関心があるのなら、其の話をし広げた方が良いかもしれない。話題に乗っかってみることにした。
「掃除中に見た棚にも本がたくさんありました。
読書が好きなんですね」
と云うと中原中也は屈託のない表情で話し始めた。
「ああ。詩の本が主だが著名なやつもマイナーなやつも読む。
まァ、お前みたいな蠹魚が読んだって一生解りゃしねぇモンばかり読んでるぜ」
シミ?解りゃしねぇ?
中原は口を開けば相手を下に見るような発言ばかりする。巫山戯けるな、と云いたい所をぐっと堪え平常心を保ちつつ、云う。
「そうですか。ミステリヰも善く読みます?あとフィクションも」
「フィクションって云うかは知らねえが、大体のやつは読んでるぜ。」
フィクションってこの頃には無かった言葉なのかな。
一寸した失態はあれども流れは上手くいっている。本には様々なジャンルがある。中には幻想や空想の世界もあり、沢山の本を読むうちにタイムスリップ物などの知識に了解があるかもしれない。若しそうならば普通なら信じてくれない今の現象にも理解があり、ひょっとしたら未来から来たという私の話に興味を持つかもしれない...私はそう踏んだ。
「なら私がやって来たのは現実では有り得ないことだと思います。私は...未来から来たんです。」
中原中也は顔を上げる。
数秒の沈黙の後、中原はブッと吹き出した。
「未来から?んなことあるわけねーじゃねえか」
大笑いに耳がじわじわと赤くなるのを感じる。矢っ張りという気持ちと同時に後悔が押し寄せてきて「あー、もういい」と中原に背を向け皿を片付けた。すると追い討ちをかけるように中原が
「なら日本はこれからどうなんだ、ア?」
と笑う。歯を食い縛ってスポンジに洗剤を付けた。多く出しすぎた様で、スポンジを握ると白い泡が飛び出した。
本を床に置いた中原は「元から思ってたが変な奴だなお前」、と未だに肩を竦める。
「話しましょうか、日本はこれから日清戦争になって日露戦争になって真珠湾を攻撃してから第二次世界大戦が...」
ムキになって只管覚えている単語を並べていく。どれが後か分からないし合っているのかさえ疑問で、知識が小中学校で止まっていること、今高校でしている話を殆ど聞いていなかった自分に余計腹が立った。
「はは、そうだな。あったら信じてやるよ」
「いい。虚言なので気にしないでください」
蛇口を捻り、皿に付着した泡を洗い流す。泡は中央部分に溜まり、音を立てて排水口に吸い込まれていった。手を洗い、新品のハンカチで拭いていると黒外套に黒帽子の中原中也が姿を見せた。
家の中なのに、何をしてるの。外に行くみたい。
お前も変な奴だなと言い返したくて怪訝な顔をして中原に近寄ると彼奴は机に正座し、洋墨の中に細い筆を付け、二三回水気を断った後、ノートに何かを書いているようだった。腰を屈めて見てみるととてもこの人間が書いたとは思えないほど達筆な文字で詩があった。
中原中也は静かに深呼吸し、一文字一文字書き上げていく。
そして白いノートを開いたまま立ち上がると首元の釦を閉め、歩き始めた。
こんな遅い時間に何処へ?
夕食を食べている間に日はとっくに沈んでいた、厳密に云えば、瓦斯コンロ近くのスイッチを付けて部屋の暗さに気付いた時から日は既に傾き始めていたというのに。
「一寸、何処行くの?」
背の低い中原中也の後ろ姿は真っ黒で独特な雰囲気があった。
くるっと振り返ると中原は云った。
「散歩。」
「へ?」
散歩って、こんな夜の田舎道を?
何も見えないのにどうして?
拍子抜けしてもう一度本当に散歩と問い掛けると中原は其れが当たり前かのように頷く。その様子を見るに夜に出掛けることに対し何も危機感を抱いていないことが分かった。
「どうして散歩へ」
歩き出す中原を呼び止めるように云うと心配しているように見えたのか、中原は鼻で嗤う。
「悪ぃ、詩人としての習慣なんだよ。夜の十二時頃迄散歩して夜中に読書、朝方には寝るから昼食作ってろ。」
そんな、いきなり言われても。
洗い物は机上にあったし、入浴すらしていないのに。おまけに蒲団も何処にあるか知らないし、朝食の材料はないし、電気の場所も分からないのに。
声を掛けても中原は止まらず、外に出掛けていった。
部屋には私一人がぽつんと残った。