三話
雨が降ってきた。
窓側で外の様子を見て思う。連なった山々は青く暗くなり、運動場が砂色から利休色になった。
今日の天気予報では晴れのち曇りだったのに、空に浮かぶ雲は厚く、どんよりとしていた。雨の日は憂鬱だ。空が暗いので気分も沈む、湿気で髪の毛が跳ねるし...。
机の中にある教科書を机上に上げて、後ろの棚から通学鞄を取り出した。綵子から貰った黒い熊のストラップが揺れる。遊園地で買ったお揃いのストラップ。綵子は白、私は黒だ。
時計を見上げる。放課後の十六時だった。
数学Aの補修で、すっかり遅くなってしまった。当然の事ながら教室内は伽藍としている。いるのは私だけだけだ。黙々と帰宅の準備をしていると、傘を持ってきていない事を思い出した。天気予報が当たらなかったんだ、仕方ない。
今日はずぶ濡れになって帰るか。
否、いつも体操服と弁当を入れている手提げ袋に折り畳み傘を常備していた筈だ。しかしあの折り畳み傘は骨組みが折れていて、風が強いと喇叭傘になる。予報を外さないと心に決めていたのだけれど、外してしまったんだ。
あの傘を使うしかない。
教科書全てを鞄にしまうと、眠気と疲れで背伸びしたくなった。
今日は早く寝よう、と両腕を上げストレッチしていると廊下から綵子の声がした。
綵子は他の友達と話しながら廊下を歩いているようだった。私の教室に近いということは恐らく四組か三組。会話自体が聞こえにくいことを考慮すると四組か。
綵子も補修なのだろうか。私より頭が善い、期末試験も実力試験も九十点をキープするあの綵子が?
否、頭が善いからこそ補修に出ているのだろう。本当に尊敬する。尊敬の意を込めて綵子様と呼びたいけど笑わせないでと云われるのがオチだ。心の中で呼ぼう。
会話が近付くに連れて、私の鼓動も速まった。早く綵子と一緒に帰りたい。出来れば傘も貸してほしい。相合い傘_____
兎に角傘が欲しい。
私は此処に居るよ、と大袈裟に音を立ててみた。
すると三組辺りを歩いていると思われる、綵子が云った。
「未希ってムカつかない?」
「え?」
訊こえてきた綵子の怒声に思わず声が出た。今迄一度も聞いたことのない、怒った声だった。そしてその声の主はあの優しい綵子で、綵子は私にただ一言ムカつくと云ったのだ。
状況を理解する間もなく、綵子は更に続けた。
「何かさ恋愛話してないと落ち着けないみたいでさ、恋愛のない私の事見下してくんの。うっざい」
綵子と一緒にいる友達が、まあまあと宥めているのが分かった。
「綵子も愚痴の一つや二つ言いたくなるんだよ」
一方で私は放心状態になっていた。
何を言われたか分からない、そんな状態である。
それが治ると今度は物凄く不快な気持ちが喉奥から沸々と浮かび上がってきた。見下してなんかいない、尊敬の意味で見ているのに。恋愛が無いだけで見下しなんかしない、そんな心の狭い人間ではないのに。
恋愛話をしないと落ち着かない訳じゃない、だけど綵子にはそう見られてしまったのだろうか。
綵子から発せられた言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
恋愛話しないと落ち着けないウザい奴。ムカつく奴。
それが私なのだろうか。
普段は優しくて、穏やかで、静かな綵子が、私にそんな感情を抱いていたなんて。
目を游がせ、何処を見たら良いのか分からなくなった。ムカつくなら素直に云ってくれれば直ぐに謝ったのに。
其れとも、恋愛話が無いことを知らずにずかずかと歩み寄って来た私の所為?
綵子の、知りたくなかった一面を知ってしまった。
綵子はまだ話す。足音がする度に何処かへ隠れたくなった。
「でさ、熊のストラップお揃いにしよって言われて。何でもお揃いにするって一寸...。」
ならそう云ってよ!
私は少し苛々したが親友の証でもあるお揃いをウザいと思われていたという事実にショックを受けた。
綵子...そんなこと、思ってたんだね。
今すぐ教室を出て綵子に何か云ってやろうと思ったが、足は動かなかった。其ればかりか、視界が涙で霞んでいく。友達だったのに。一度もこんな事、云われたこと無かったのに。
爪の痕が付くくらい手をぎゅっと握る。悔しくて悲しくて堪らなかった。
次は綵子の笑い声が聞こえてきた。
上品ないつもの笑いだ。
しかしそれを聞いて余計に怖くなった。足音が近付いてくる。今見られたら、私が泣いてるのがバレる。
来ないで、来ないで、来ないで。
と、念じた。すると
「ねぇ綵子ちゃーん」
三人目がやって来たのが分かった。あの甲高い声は、四組の松尾 螺夢だ。優等生にして自己中な問題児。聞けば松尾 螺夢は特定の先生に繰り返しちょっかいを出し、授業を足止めするモンスターなのだそうだ。螺夢がやって来て、辺りは静寂に包まれる。綵子の声も足音ももうしない。私は鞄を取り、手提げを持って、一組側の階段から下りた。綵子に会いたくなかったからである。かと言って先生に出会すのも面倒なので、足早に廊下を駆け抜けた。あっという間に下駄箱へ着き、革靴を履いて、折り畳み傘を準備する。
雨は止みそうにない。
校庭を過ぎ、バスが通らない場所まで来ると私は声を上げて泣いた。綵子の馬鹿って、餓鬼みたいに。
私は、裏切られたのだ。
ずっと友達だと思っていたのに。親友だったのに...。
雨が私の声を打ち消すかのように激しく降り続けている。傘を上げ、曇天を見上げる。雨粒によって涙が流されていくような気がした。
いっぱい泣いたら心も落ち着いてきて、再び歩いた。
横断歩道に差し掛かった時、道路に滑って顔から地面に突っ込んだ。
痛ててて...
手の甲に擦傷が出来ている。また派手に服を汚してしまったと思った...家に帰ったら母からの大目玉が飛んでくるだろう。
しかし、変だ。雨が上がったのだろうか、何だか蒸し暑い。顔を上げるとすぐ側を車が走っていた。
否、車______
車ではない。其れは車というよりかは馬車に車輪を足したようなやつに近かった。突き出た車体に赤茶色の派手な外装、大振りのタイヤ、エンジン...というより油が燃えているものに近い鬱蒼とした排気ガスの匂い。その車はまるで襲いかかるように私の方に乗り出してきた。
「うわっ!」
脊髄反射で躰を動かした。
しかし日頃の運動不足の所為か足がもつれて転び、どうしようもなく道路の真ん中を這うしかなかった。膝はさっきの衝撃で血が出ている。車は私の前まで迫ってくる。
私は「ひっ、いや!」と車道をのたうち回る事しか出来なくなっていた。
こういう時に正義のヒーローが出てくるような事があっても良いんじゃないか!?
無かった。
現実は残酷だった。
もう駄目だと思って車の前に手を伸ばし目を瞑り、渾身の叫び声を上げた。
「轢かないで!轢かないでください!!」
すると
「なンだお前。轢かれたいのか」
と男の怒鳴り声がする。
車が上下に揺れ、ドアが開くと厳つい顔したおじさんが立っていた。
「すみません」
私は頭を下げ、なんとか重い腰を引き上げると一目散に歩道へと走った。煉瓦造りの歩道である。そして其処にあった西洋チックな街灯に掴まって血が出た膝を見た。
あー、結構痛いな...掠れた皮膚に血が滲んで足を曲げると痛い。
制服のポケットから何か無いかと探すとぐちゃぐちゃなメモ紙が出てきた。計算に使ったメモみたいだ。直ぐにそれを傷口に付け、止血を試みた。不思議なことに先刻までの雨は止み、制服も乾いていた。
ここはどこなのだろう。
真逆、タイムスリップ...?