十話
晴れて自由の身だ。
最初っから、こうするのが一番善かったんだ。
矢張り男の家に上がり込むのは危険だ。幾ら教科書で見た偉人だとはいえ男は男なんだ。
闇夜に光る星を見上げて進んでいると、いつしか街に出たようで明るい店や家、街灯が次々と確認できた。
雑沓の中を歩いていると曲がり角の付近から酔っ払いの声が聴こえてくる。しかも一人ではなくて数人の声だ。
角に身を潜めて声のする方を見ると四、五人の男が肩を組んで体を横に傾け、大声で何かの歌を歌っていた。
うわぁ...
男達は片手に酒瓶を握りしめており、垂れ下がったお腹を出した者もいれば、白シャツの釦の位置を掛け間違えている者もいた。男達の顔は真っ赤で歳は四十歳くらい。一番端の男は紅白の鉢巻きをしている。今で云う、居酒屋から出てきた直後酔っ払って大騒ぎする叔父さん達と然程変わらない。
ドラマでよく見るその光景に呆れていると男が云った。
「次、色街に行かねぇかーぁ...」
「行こうか、行こうか~...」
「ここの女給さんべっぴんだったなーぁ...」
男達はよろめき千鳥足で歩く。一人のバランスが崩れると三人のバランスも崩れる。
どのくらいお酒を飲んだのだろうか...
酔っ払いの男達は肩を組んで再び歩き始める。怖くなって後退りすると後ろから肩をポン、と叩かれた。
若しかして中原__と悲鳴を上げて振り返ると見覚えのない背の高い男性が立っている。
「す、済みません」
咄嗟に自分が失礼なことをしてしまった事に気付いて身構えた両手を下ろし頭を下げると、男は首を傾げて私の服を凝視した。
この人にも警戒されている...
男は私の姿を見つめると頭の後ろに片腕を回し、聴いた。
「此方こそ済まない、可笑しな服を着てるものだから、
つい...」
私より数十センチは高いその男は見慣れない服装をした私を珍しく思っているようだった。
「其の服は、外国製のもの...かい?埃が付いている...」
埃と聞き背中辺りを気にしていると、男は私の背中に付いた埃を取ってくれた。多分、掃除の時に付着したものだろう。
「ありがとうございます」
礼を云うと、男は伏し目がちになって一番気になったであろうことを遠慮しがちに聞いた。
「こんな所で...何をしているんだい?」
視線を落とし、目を泳がせた侭何を云おうか考える。
若し此の男が中原中也を知っていたのだとしたら何か云われ、追求されるかもしれないし、知らなかったとしても咎められるに違いない。こういうのは何か話すのが一番なんだと必死に考えても何も出てこなかった。すると男は急に慌ただしくなる。
「あっ、無理に云わなくてもいいよ」
「上京したんです」
予想外の言葉が口から飛び出してしまった。
後の事なんて考えていない私の悪い癖だ。暫しの沈黙が流れる。ところが突然の家出して上京した発言に困惑するのは私だけは無かったようだ。男は少し考えて私を明るい電灯の方に連れ出す。此処に来ると男の顔がはっきりと見え、鼻梁の高い細身の小粋な男性だという事が解った。
「偶然だね...僕も、學校が嫌いなんだ。
先生に叱られてばかりで...何とか學校から逃げられないかと脱走を試みたこともあったんだけど、君は一枚上手だったみたいだ」
男は少し照れ乍ら自分の境遇を語った。口数は少なく、大人しい人だけれど根は良い人のようだ。一先ず中原よりマトモな好青年に出会って良かったと思いつつ、話を広げる。
なるべく当たり障りのない会話にし、上京の理由や場所もやんわりと説明すると、彼は深々と相槌を打ってくれた。
善い人で良かった。彼は私の話を一通り聞いた後、ゆっくりとした口調で話し掛けた。
「何処か泊まれる下宿はないものか...一寸待ってて」
その言葉、待ってました!
私は心の中でガッツポーズをし、優しい男性の後ろ姿を見つめた。やっと此れで新しい場所が見つかるんだ、大豪邸だったらいいな...、せめてお風呂は浸かりたいな。
数分後、男は腰の曲がった不精髭の叔父さんを連れてきた。
男の息が上がっていることからして真面目な人だとは思うけれどこの叔父さんは如何だろう。叔父さんは汗を自分の服で拭うと私の顔を舐め回すようにじっと見つめた。
過度の凝視に耐えきれず、「何ですか」と云うと叔父さんは上の金歯を歯茎まで確認出来るくらい見せつけ、ニンマリと嗤った。
「カフェーの女給として働かないかい?
安原君が云ってくれた。場所は銀座のとあるbarだ。」
私はここで話がとんでもない方向に進んでいる事に気が付いた。
カフェーの女給として銀座のbarで働くだって?とあるbarって具体的に何処?そもそも此処って東京の何処なの。
中原の下宿先にあった新聞に載っていた東京という言葉、地名から察するに此処は東京の何処か。確かその他には年号と月日と曜日、そして時事ネタが載っていたような。新聞によると今日は大正十五年の一九二六年、五月十九日..否、今知りたいのは日時じゃ無くて...!
叔父さんは切羽詰まった状態の私を見て、ニヒッと笑い数枚の紙をヒラヒラさせる。カフェーの女給_____と云えば聞こえはいいかもしれないけれど厭な予感がする。
「そ、其のbarは銀座の何処なんです?」
すると叔父さんは胡麻擂りの手をしてお酒が飲める仕事だよ、と笑う。銀座の何処にあるかなんて事は考えてくれなかった。困った私は男に助けを求めたが男もごめんと顔を顰めるだけだった。
「給料は高いしアブサン飲み放題!何か、善からぬ左翼連中がいるとはよく聞くが彼処は咖哩も美味しいよ、働くにはピッタリ
しかも銀座には下宿が此処より沢山あるから、オススメだよ」
叔父さんの話を聞き終わらない内に私は駆け出した。
「済みません叔父さん、安原さん、お世話になりました」
闇は徐々に薄らぎ、東の空は少しだけ明るくなっている。明るいといっても赤色は少ないけれど、夜が明けるのも近い。
明るくなれば人通りも増えるし、先刻の叔父さんのような善からぬ輩が出てくることはないだろう。けれども叔父さんの声は中々耳から離れてくれなかった。若し叔父さんの話を聞いてbarに行っていたら、今頃...。
酔払い達の相手をする自分を想像し、背筋が凍る。
左翼なんて言葉、耳にしなかったが危ない話だったという事は分かる。お酒もアブサンも、私には縁のない話だ。一生関わるもんか。都会の夜は大正時代でも危険だったんだと思う夜だった。
東の空に、太陽が昇る。
少しだけ地面に坐り込んで、足を眺めた。
靴擦れが起きている。




