一話
「はー。」
溜め息を一つ。
私の前では、社会科の大久保先生が退屈な授業を黙々と続けている。先生の年は五十から六十で、垂れ目に痩せこけた顔、顎には無精髭を生やしていた。目の下には青い隈が出来ていて、黒い皺だらけの服からは青い菱形の模様がついただらしないネクタイが覗いている。
「さて、明治維新が起こるとねぇー、」
先生は一人で話し続ける。
ろくに周りも見ず、意識は片手に持っている社会科の教科書に吸い込まれていた。使い古されて襤褸襤褸である。周りを見渡してみたが、顔を上げている生徒は私くらいしかいない。皆、ノートを執るふりをして居眠りしていた。
大久保先生は、教師歴30年のベテラン先生だ。
此処立命高校に転任してからニ年になるらしい。昔いた高校は筑紫野。一癖もニ癖もある不良揃いの高校だ。噂ではバイクで押し掛けてきた不良全員を相手してお互いに大怪我したのだとか。不良相手に二の足を踏むことなく立ち向かうような先生と聞き、どんな人かなと心踊ったのだが、とんだ期待外れだった。
その中でも特に授業の評判は善くない。怒鳴り付けるとかそういった体罰は一切無いけれど偏った話ばかりするし、一つの事にいちいち自分の考えを述べるくせがある。織田信長は本能寺の変で自害した__
逃げれば善かったのに、という具合で。
あと大久保先生の話は眠たくなる。
善い言い方をするとすれば教育熱心だが、先生の話の内容は難しく、教科書から離れている。時には自分の知識や考えを自慢げに語る事もあった。年寄りの教師はやたら話が長いというが、その通りだ。それとあまり面白くない。
大久保先生は教科書を片手に話し通した。
大正のこと、明治維新のこと。そして話のメモを取るように黒板に殴り書きで汚い字を書く。板書する気力が湧かない。
世界史のフランス革命でも第二次世界大戦でもない大正時代の事について。満州事変とか大正デモクラシーとか。私達にとって全く面白くなかった。
どうせ語るならマリーアントワネットのいたフランスやベルサイユ宮殿や、ルイ14世みたいな華々しい話の方がいい。それについてなら二時間話し続けても苦と思わない。聞いたことがない城の名前とか、ご令嬢の名前とか。
兎に角、地味な時代より派手な時代の話の方が善い。
大久保先生は相変わらず眠そうな声で話した。
そして私の意識も半分は眠りに入っていた。
ノートに書いた小さな丸文字を見つめて、うっすらと別の事を考える。週末は友達と遊びに行く予定で、電車に乗って街中を見て、新しい服を買って、カラオケ行って西野カナちゃんとかアニメソングを歌いまくる予定...
そして一通り歌い終わったらピザを頼んで、皆でわいわいしながら食べるのも善い。しかも中学の時の同級生が来るんだ、部活の愚痴とかカッコいい先輩の噂について聞いてみよう。
その同級生は二歳年上の彼氏と付き合ってるのだとか。彼氏か...いいなぁ
私には一生できないだろうが、人様の恋愛話には目がない。
考え事をするにつれ、瞼が自然に閉じていく。
首がこく、こく、と無意識に動いていく。
黒板の字が見えない、視界が闇に閉ざされていく。
もうこれ、完全に駄目なやつ...
私は遂に意識を手放し、机に突っ伏した。
腕に何か中ったが知るよしもない。このまま寝てしまおう、と目を瞑った次の瞬間
バタッという本が落ちる音がし、眠気が一気に冷めた。
そしてやば、寝てたと思って顔を上げる。
私が目を開けたのと同じタイミングで前の人の肩がピクッと跳ねた。周りの人も同じように顔を上げて大久保先生を見つめる。
後ろの人が吃驚したと小声で呟いた。
誰だこんな時に。私の睡眠時間を邪魔した奴は。
周りを見たが本らしきものは何もない。普通の授業風景が広がっているだけだ。ちょっと苛苛したが苛苛の帳本人は此処にいた。
机を見ると何かが無いことに気が付いた。教科書だ。
とすると今の音は...
状況を理解し、顔が赤く染まる。頭よりも行動の方が早かったようですぐに教科書を拾おうとしたが、全く取れない。
教科書は私の前の席の人の椅子に入り込んでいた。
ああもう!
私は早足で席を立ち、教科書を拾い上げ早足で座った。
すると大久保先生が私を見て「起こしてくれてありがとね」
と言う。先刻寝ていたのを見透かされていたようで恥ずかしくなり、耳まで赤くなるのが分かった。
キーンコーンカーンコーン
予鈴が鳴った。
大久保先生は話し続けながら手際よく教卓の上を片付け、授業開始から一度も手をつけていないプリントの山を重ね教卓で整えた。それから足をモタモタさせて云う
「はい今日の時間はこれで終わりです」
学級委員が起立と号令をかけ、ありがとうございましたと挨拶した。次の授業は国語だ。
はぁ、四時間目。お腹が鳴る時間帯である。
四時間目の授業では毎回、お腹が鳴って後ろの人にバレたり、或いは前の人に聞かれたり、最悪だった時には隣の男子に笑われた苦い経験がある。お腹の鳴りには逆らえないものだ。
どんなに鳴らせまいと踏ん張っていても、ふとした瞬間、鳴る。おまけに大抵静かな時に。もう最悪だ。
しかも次の授業は依りにも寄って詩歌、また退屈な授業だ。
溜め息を吐き、欠伸をする。
机の上を片付けていると一人の女がやって来た。
手入れされた黒髪のロングヘアにきめ細やかな白い肌。つん、と整った鼻筋。すらっとした躯と茶褐色のつり目。
彼女が動くとふんわりした香水の匂いがした。誰が匂ってもいい匂いの香水。女は私を不満げに一瞥すると腕を組み、私の正面に立った。
雨来綵子。高校で新しく出来た唯一の友達だ。
「さっきは吃驚しちゃった」
雨来綵子は落ち着いた口調で言った。
見た目の清楚な感じとは裏腹に気が強い声で。自己紹介の時に「この人とは仲良くなれないな」と思ったのは言うまでもない。明らかに気が強そうだし、クラスの中心人物の両脇にいる人のような子だと思ったから。おまけに顔もいいし、スタイルも抜群だし、ザ・リア充な雰囲気だったから。
しかし、話してみると意外に優しく、フレンドリーな子だと分かった。
「綵子も寝てたの?」
「寝てたわよ。てか大久保の授業で起きてるの未希だけじゃない?」
「そんな大袈裟な」
私がちょっと笑うと、綵子は後ろから二番目の席だから気付かないだけよと付け足した。
「次は国語だね。あ、そうだ未希」
綵子は背の高い躯を私に近付けると、きりっと細い眉をひそめ、僅かに口元を歪ませた。茶褐色の瞳の中に私がいる。これは、綵子が鋭いことを云う時にする仕草だ。
...嫌な予感がする。
綵子は静かに口を開けた。
私もごくりと固唾を飲む。茶褐色の瞳が細くなった。
「予習は...」
「あ。」
私は小さく云った。
国語の予習を忘れていたのだ。
現代文担当の堀口先生から百五十四頁をノートに写しておきなさいよと言われたのは昨日の事なのに。
早くやらないといけない。
時計を見ると、もう授業開始五分前だった。