友達
マルクが目覚めると視線の先に見慣れない天井が映っていた。
薄暗い中でぼんやりと見ていたが、それが天井ではないことにマルクは気が付いた。
ゆっくりと視線を横に逸らすとカーテンが閉められている。辺りを見回して、マルクは自身が段になっているベッドの下段に寝ていたことを把握した。
しばらくして、マルクは上体を起こしてから厚い布のカーテンを引いた。
カーテンで仕切られていた先では寝台と寝台の間に置かれた椅子にフリュージアが座っている。彼は腕を組んで目を閉じていたが、微かな物音に気が付いて目を開いた。
マルクがベッドに腰掛けるとフリュージアは笑顔を見せた。
フリュージアに「もう船から降りちゃったよ」と告げられたマルクはとても驚いていた。
慌てたようにマルクが車窓の外へと視線を向けると、外は真っ暗で何も見えない。
残念そうに「かもめに餌やりしたかった……」とマルクが呟くと、フリュージアは笑った。そして彼はマルクの頭を撫でて「船にはまた乗るから」と励ました。
それから二人は声を潜めて会話をした。夜の静寂と乗客の寝息と列車の走行音、その中で声を潜めて会話をすることはとても特別なもののようにマルクは感じた。
――この列車はアルトランテ大陸の北部に位置するヴァージハルト国から港町のシナギク、それからミアーティス国のルードアティという町を繋いでいるそうだ。
ヴァージハルト領の大半は砂漠地帯で、砂漠には多くの魔物が住んでいるらしい。
砂漠の生き物は常に飢えており、とても強暴なのだという。その中でも特に恐れられているのは金属のような外骨格を持つムカデに似た大きな魔物だとフリュージアは語った。
海岸沿いを走るこの列車が唯一安心してヴァージハルトからミアーティスに行くことのできる通行手段なのだという。列車全体に強力な魔物避けの魔術が施されているらしい。
しかし、そのムカデは列車ほど大きくなる場合があるようで油断はできないらしい。
ちなみにアルトランテ大陸の海も危険らしい。海の魔物が大陸を沿うように回遊しているので、ヴァージハルトからミアーティス行きの船を出すのは難しいらしい。
その説明をマルクが大人しく聞いていると小さく腹が音を立てる。
マルクの腹の音を聞いたフリュージアは小さく笑い、自身の影から紙袋を取り出す。
その紙袋を受け取ると、紙袋はまだほんのりと温かい。その中からほんのりと甘い匂いが漂ってくる。紙袋を覗き込めばうっすらと黄色い蒸しパンが入っていた。
蒸しパンはとってもフワフワとしていて軽く、表面はしっとりとしている。しっとりとした表面はペタペタと指先にくっついてマルクの指の腹を黄色く染めた。
黄色く染まった指を舐めると、蜂蜜のしっかりした甘みとほんのりとタマゴの味がした。
「マルクが寝ている間にシナギクで買ったんだよ、ヴァージハルト名物の蜂蜜入りだよ」
「へえ……ハチミツが有名なんだね」
「ヴァージハルトでは冷たいミルクに浸して食べるのが定番の子供のおやつなんだって、残ったミルクも程よく蜂蜜風味になって美味しいらしいよ」
フリュージアの説明を聞きながらマルクはフカフカの蒸しパンを頬張った。
マルクが黙々と蒸しパンを食べていると、フリュージアの背後にある窓からコンコンとノックをする音が聞こえた。明らかに小石が跳ねて列車に当たった音ではなかった。
マルクが窓に視線を向けると、逆さまの手が見えた。その手には金の爪が生えている。
驚いたマルクが口を開けたままその光景を見詰めていると、フリュージアが窓を押し開く。すると、少年が列車の上から中を覗き込んできた。少年は列車の上に乗っているとしか思えず、それ以外の可能性があるとすれば幽霊くらいしか思いつかなかった。
マルクは驚きのあまり何も言えなかった。悲鳴を上げることすらできなかった。
「俺にも一個ちょうだい、すっごくお腹がペコペコなんだ」
逆さまの少年がそう言うと、フリュージアは快く彼に蒸しパンを分け与えた。
少年は「サンキュー、フルージア!」と礼を言うと、列車の上へと引っ込んでいった。
彼を見送り、何事もなかったかのように窓を閉めてフリュージアは椅子に腰掛けた。
驚きのあまり固まったままのマルクに「さっきの子はクドだよ」とフリュージアは説明をした。それを聞いた放心状態のマルクが「くど……?」と聞き返すと彼は肯いた。
「クドはあだ名で、たしか名前は……ゼタスタ・トルル・クーニャ・ファジェ・イクス・ファタタ・ゼナ・ファタジア・ディーオン、物凄く長い名前だよね」
「え……本当に名前なの、どこまで名前なの?」
フリュージアが「ファタジアまでが名前だよ」と言うと、マルクは「えぇ……」と嫌そうな声を上げる。マルクは先程の逆さまの少年――クドの名前を覚えるのを諦めた。
それからマルクは「どうしてクドは列車の上に居るの?」とフリュージアに問い掛けた。
「クドはゴールドサラマンダーで、乗車を断られちゃったから上に居るんだよ」
「ゴールドサラマンダー?」
「アルトランテ火山に住むドラゴン、サラマンダーの変異体ね」とフリュージアが説明するとマルクは不思議そうに首を傾げた。先程の少年がドラゴンに見えなかったからだ。
この世界で初めて目にしたドラゴンもドラゴンらしさはあまりなかったが、クドはヒトのように見えた。ヒトではなかったとしても、ヒトに近しいものに見えた。
フリュージアが「魔法でヒトに化けられるドラゴンなんだよ」と追加で説明するとマルクは納得したようで、頷きながら食べ掛けの蒸しパンを頬張った。
もごもごと咀嚼をしながらマルクが「でも……クドは断られたのに、どうして上に乗ってるの?」と尋ねると、フリュージアは誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
マルクがじーっとその顔を見詰めていると、フリュージアは観念したように語った。
「ドラゴンは……種族によっては人類も捕食するから、車内に入らないこととヴァージハルトに着くまで私が監視をすることを条件に内緒で乗せてもらったんだよ」
マルクが「だから窓の前に座ってたの?」と尋ねるとフリュージアは肯いた。
それからフリュージアは暗い表情を浮かべて口を開いた。
「クドはタグが着けられているから……ギルドに、人々に管理されているのに人々と同じように列車に乗れないのはオカシイことだと私は思うんだ」
フリュージアは悲しそうに、悔しそうに呟いた。それは彼が魔性動物医であったから抱く思いなのか、ヒトではない神獣であるから抱く思いなのかマルクには分からなかった。
差別は良くないと思った。しかし、食べられてしまうかもしれないと思うと恐怖だ。
問題の表面しか知らないマルクには答えが出なかった。よく分からなかった。
だが、フリュージアの反応を見る限りではクドは悪い人ではなさそうだ。
「あまり言いたくないことだけど……アルトランテではヒトではないものを差別することが多いんだ。マルクは魔人に似ているから、もしかしたら嫌な目に遭うかもしれない」
フリュージアは「特に……ミアーティス国はヒトが多いから」と付け足した。
マルクが「人種差別みたいな感じ?」と問い掛けると、フリュージアは小さく肯いた。
「ヴァージハルトではあまりないと思うけど、お隣の国だからね」
真剣な顔付きで「分かった」とマルクが頷くと、フリュージアは申し訳なさそうな表情を浮かべている。マルクが眠っている間に何か遭ったのか、とても気にしているようだ。
マルクが「気にしないで」と言ったが、フリュージアの表情はあまり変わらなかった。
心配したマルクが「蒸しパン食べる?」と問い掛けて、食べ掛けの蒸しパンを半分に千切って差し出した。フリュージアは小さく謝りながら蒸しパンを受け取った。
受け取った小さな欠片を齧ったフリュージアは「思ったよりも甘いね」と小さく笑った。
指先がベッタベタだとフリュージアとマルクは笑い合いながら朝を待った。マルクは想像よりも眠っていたらしく、朝日はすぐに顔を出して砂漠を真っ赤に染め上げた。
朝日に照らされた砂漠の砂は元から赤い色をしている砂のようだった。だが、赤かったのは一瞬のことですぐに見慣れた黄色い砂の色へと変化していった。
大地は乾燥していて岩肌が露出しており、砂漠にも海にも大きな岩が多く転がっている。
海は遠くまで浅瀬が広がっていて、厚い布を被った人々が浅瀬で何かを採っている。
フリュージアに聞くと彼らはヴァージハルトの漁師らしく、主に岩陰に隠れる小魚や貝や甲殻類、それと海藻を取っているのだという。果物や野菜を主に食べるクレメニスとは違い、ヴァージハルトでは砂漠に住むトカゲや海藻や貝や小魚を食べているそうだ。
名産品の蜂蜜は国内では非常食のように扱われていて、ヴァージハルトでは蜂蜜は飴にして保存するのが一般的のようだ。古くなった飴は砂糖代わりに使われているらしい。
海辺の様子をマルクが眺めていると、フリュージアが準備を始める。マルクのリュックサックを開き、その中から子供用のブーツと分厚いマントを取り出した。
フリュージアは砂漠の光景に目を奪われているマルクからサンダルを脱がし、靴下を履かせてからブーツを履かせる。ブーツは高さがあり、ふくらはぎの中程まで高さがあった。
ブーツの中にパンツの裾を入れてから、靴紐とベルトをしっかりと締める。
ようやく車窓から視線を外したマルクは武骨なブーツを見て喜び、足を動かしてブーツの重さに気が付いて声を上げて笑う。そしてブーツは底が厚いらしく、立ち上がるといつもより視界が高くなっていた。マルクは身長が少しだけ高くなって嬉しそうだった。
使用済みのサンダルは革製の袋に入れて、マルクのリュックサックへとしまう。
リュックサックの中には少しの衣服と下着が入っているのが垣間見えた。
マルクは自分のために用意されたマントを手にしながら「夢をたよりにぼくはどこかに旅立つのぉ、冒険者だからあ」と歌うと、フリュージアは呆れたような表情を浮かべた。
「冒険者の気分になるのは良いんだけど、本当に冒険に出るのは止めて欲しいなあ」
「えー、フリュージアさんが一緒でもダメなの?」
不満げなマルクにフリュージアは「砂漠にはマルクの想像よりも怖い魔物がいっぱい住んでいるよ?」と答えた。マルクは「フリュージアさんって弱いの?」と問い掛ける。
フリュージアは「うん、弱いよ。だって戦いなんてしたくないもん」と答えた。
「それに砂漠には月の神さまの家があるから、一緒にいないと危ないかもよ?」
その事実を知ったマルクは嫌そうに「ずっと一緒にいてよね」とフリュージアに頼んだ。
フリュージアはとても嫌そうなマルクに「じゃあ冒険に出ないでよね」と返した。
マルクは少しだけ不満を表してからマントに視線を戻した。
羽織ってみるとマルクの想像よりも重く、ボタンを掛けると顔の下半分が襟で覆われた。
マントの裾は膝下まであり、腕を通すところはないがフードが付いていた。
「日光とか凄いから、一応はフードを被っておいた方が良いよ」
そう言われたマルクは戸惑ったものの、何も言わずにフードを引っ張った。マントに着いていたフードは耳が長い人用だったらしく、マルクの長い耳はすっぽりと納まった。
マルクが小さく安堵の息を吐くと、フリュージアはフードの上からマルクの頭を撫でた。
しばらくしてから列車は止まり、ヴァージハルト国にある唯一の駅に着いた。
フリュージアは窓を開けて列車の上に潜むクドに「少し待っていてね」と声を掛けた。
そしてフリュージアはリュックサックを軽く三度叩いて、それからマルクに背負わせた。
そんなフリュージアの不思議な行動にマルクが首を傾げると、彼は「砂が入らないおまじない」と言った。そんなフリュージアを真似てマルクもフードを三度叩いた。
マルクはフリュージアと手を繋ぎながら列車を降り、ヴァージハルト国へと足を踏み入れる。列車の中とは明らかに違う、乾燥した熱い空気がマルクを出迎えた。
アルトランテ砂漠の北部に存在しているヴァージハルト国の王都は高い岩々に囲まれていて、遠くまで浅瀬が広がる海に面している。王都は港がなく、駅も一つしかない。
乾燥しているが雨が降らない訳ではないので、谷間にあるヴァージハルトには鉄砲水が流れ込むことが割とある。そのため、建物や街並みは鉄砲水に対応した作りになっている。
住居の床はとても高く、ヴァージハルト国は長い階段と丈夫そうな橋が多い国だった。
巨大な貯水槽が地下にあり、貯水しきれない水は海に流れる仕組みになっている。
一体化してしまい境が分からなくなっているが、実際には浅瀬は大きな川の跡である。
ヴァージハルト国は元々内陸に存在していたのだが、オアシスの枯渇に伴い海辺に越してきた経緯がある。過去に何度も引っ越しをしているのでアルトランテ砂漠には遺跡が多く存在している。それらの遺跡群は総称して“トリアルルドスビア”と呼ばれている。
三大国と称される国の一つで、第二次産業と傭兵業が主な収入源となっている。
クレメニス国を聖地とする“アムシェクアーノ”は信仰しておらず、独自の宗教が根付いている。ヴァージハルト国では月の神、太陽の神、大地の神が信仰されている。
一方で風の神と星の神を祟る神、厄災を齎す神と解釈されていて、風を表す緑色と星を表す紫色は縁起の良くない色だと思われている。そのため、その色を避ける傾向にある。
しかし、宗教の自由を認めているのでアムシェクアーノ教徒などがいない訳ではない。
ヴァージハルトは王制で、クレメニスとは違い王位継承できるのはトリアライド家の者のみだと定めている。しかし、血筋は気にしないので実質的にはあまり機能していない。
ヴァージハルト国とクレメニス国はとても仲が良く、交流が盛んに行われている。
――そんなヴァージハルト国に唯一存在している駅でマルクとフリュージアは手を繋いで待っていた。ドラゴン種であるクドのことを考慮して人が減るのを待っているのだ。
観光客の姿がなくなり、駅は静まり返っている。風が吹く音と砂の流れる音がした。
しばらくしてからクドは列車の上から顔を出した。
マルクがクドを見たのは深夜で、しかも一瞬の出来事で容姿は詳しく分からなかったが今は彼の髪が黄金に輝いているのが分かった。指先に生える爪ですら金だった。
琥珀色の瞳はパワーストーンのようで、それを縁取る睫毛ですら金だった。
クドの肌の色は青白い色をしたマルクとは違い褐色で、フリュージアとも少しだけ違う。
それでも笑った時に見える歯の色はクドもマルクもフリュージアも同じだった。
「待っていてくれてありがとうな、マルクもありがとうな!」
クドはそう言うと列車から飛び降りてくる、彼の身長はマルクよりも高かった。
外見年齢は十三や十四歳ほどに見えた。しかし、フリュージアの発言が正しければクドはヒトに化けているドラゴンらしいので実際の年齢はマルクには分からない。
見上げていた時には気が付かなかったが、クドにはトカゲのような尻尾が生えていた。
足もヒトのものとは違い、とても硬そうな分厚い皮膚と鋭い金の爪が目立っている。
クドの長い尻尾には黄金の鱗やトゲが生えていて、彼は正しくゴールドだった。
服装は首元が薄い青色で、下がるに連れて色が徐々に濃くなっている。腰に紺色の布が巻かれていて、上下一体になっているらしい。薄緑色の透けたベストに若々しさを感じた。
「俺はゼタスタ・トルル・クーニャ・ファジェ・イクス・ファタタ・ゼナ・ファタジア・ディーオンって名前で、みんなからはクドって呼ばれてんの」
クドは笑顔を浮かべながらマルクに握手を求める、マルクはそれに応じてクドの手を取った。彼の手はマルクの手とは違ってゴツゴツとしていてとても硬かった。
「ぼくはマルク、マルク・ベルナール」
クドが「よろしくな!」と明るく言うので、マルクも笑って「うん」と答えた。
それだけでクドはとても嬉しそうに歯を見せて笑うので、マルクもとても嬉しくなった。
フリュージアが「目的地が近いからみんなで行こう」と提案すると、クドが元気よく「いいね!」と賛同する。クドに釣られるようにマルクも「行こ!」と元気よく答えた。
フリュージアは気の合いそうな二人を見て嬉しく思ったが、わずかな不安を覚えた、
クドが裏表のない快活な良い子であることは話していて分かったが、とても好奇心旺盛で少々考えなしの行動が多いことも会話から窺えた。マルクもクドと同じ性質を持っているので、ひょっとしたら二人で本当に冒険に出てしまうのではないかと考えたのだ。
ドラゴン種であるクドはアルトランテ砂漠を一人歩きできるほどの力があるが、マルクは力があってもそれを使うだけの知識も経験もない。まだ自衛ができない。
クドの長い尻尾に触らせてもらい喜んでいるマルクを見ながら、フリュージアは小さくため息を吐いた。私の考えすぎで終われば良いと彼は願った。
マルクとフリュージアは手を繋ぎ、クドが二人を急かすように先を歩く。クドは時々振り返り、その度に彼の耳や足首や手首に着けている金属の輪が音を立てた。
ヴァージハルト駅を出る前にフリュージアが駅員に声を掛ける。駅員は慣れたようにクドのうなじを確認して、それからフリュージアの手首を確認していた。
気になったマルクがこっそりと窺うと、クドのうなじには緑色の魔法陣のような刺青があり、フリュージアの手首にはグルリと一周するように黒い刺青がしてあった。
これが身分証明印なのかと思ったマルクが黒い腕輪を駅員に見せると、彼は苦笑いを浮かべて「君は見せなくても大丈夫だよ」と言う。身分証明印とは少し違うらしい。
マルクが不思議がっていると、駅を出ながらフリュージアが「私の印はギルド構成員の証明も兼ねていて、クドは……タグだから」と気にしながら答えた。
気にするフリュージアを気遣ったのか、それとも気にしていないのかクドは「俺がこーんなに小さい時に捕獲されて着けられたの!」とジェスチャーを交えて明るく答えた。
クドが言うには、その時の彼は親指と人差し指の間くらいの大きさだったらしい。
「めっちゃ高く売られそうになって、ギルドの人が助けてくれたんだよ!」
クドは「ギルドってスゴイよな!」と同意を求めて、その話を聞いたマルクは「正義の味方みたいだね!」と答えた。クドが「ヒーローだよな!」と言い、マルクも頷いた。
フリュージアは申し訳なさそうにしていたが、少し照れているようにも見えた。
「それにフルージアはもっとスゴイ、祖父ちゃん祖母ちゃんの病気を治してくれたから」
「フリュージアさんって本当はすごいんだね!」
「それは物凄く過去の話だからね、フリュージアには関係ない話だよ」
恥ずかしそうに否定するフリュージアに、クドは「でも、スゴイことだよ」と言った。
三人が駅を出ると、視界に大きな橋が広がった。マルクが橋の下を覗き込めば、遠くで水が流れていくのが小さく見える。砂っぽい風が三人の間や街中を通り抜けていく。
クレメニスのカラフルな街並みとは違い、ヴァージハルトの街並みは白と赤茶色で形成されている。砂漠の砂や岩肌の色と同じような色の街並みだった。
住民たちや観光客たちは大きな帽子や厚い布を頭から被ることで強い紫外線から身を守っている。しかし、クドとフリュージアは日除けをしていないので周囲から浮いていた。
黄色っぽい色とは言え、全く日に焼けていない肌のフリュージアは余計に浮いて見える。
砂漠から飛ばされてきた砂が積もる石畳の歩道をクドは素足で踊るように歩く。白い石は照り付ける太陽でとても熱いはずだが、分厚く硬い皮膚が熱を感じさせないのだろう。
ヴァージハルトのメインストリートに花はなく、花壇にはヤシ科の木が生えている。
立ち並ぶ商店は貴金属を取り扱うものや、武器を扱うものが多い。そのためか、クレメニスのメインストリートとは違ってヴァージハルトには武装した人々がとても多かった。
ヴァージハルトの市場は日陰にあるらしく、メインストリートから食材を扱う店は見えない。だが、乾燥した熱い空気に混じって花のような甘い匂いがしている。
メインストリートにあるジューススタンドには行列ができていて、大きなパラソルの下では観光客がぐったりとした様子で椅子に座り込んでいる。想像以上の暑さだったようだ。
ヴァージハルトでは音楽が流れていなかったが、それでも街中は静かではなかった。
砂を運ぶ風の音、人々の笑い声と雑踏、波の音、そしてクドの金属の輪が鳴っている。
跳ねるように歩くクドを見た誰かが「ガァルルニーのようだ」と呟く声が聞こえた。
キョロキョロと辺りを見回しながらゆっくりと歩くマルクと、マルクの歩調に合わせて歩くフリュージアに痺れを切らしたのかクドは踵を返して二人に近付いた。
落ち着きのないマルクの手を掴んでクドは満面の笑みを浮かべた。
「ギルドの近くの噴水は水浴びができるんだ、暑いから早く行こうぜ!」
マルクが「水着ないよ」と言うと、クドは「すぐ乾くからそのままでへーきだって!」と答えてマルクの手を引いた。そのまま二人は走り出そうとしたが、少し足を止めてフリュージアを見上げる。彼は苦笑いを浮かべていたが「国の外に出なきゃいいよ」と言った。
許しを得たクドはマルクを引っ張って跳ねるように走る。マルクが付いて行けずに足を石畳に引っ掛けそうになると、クドはマルクを小脇に抱き上げて走った。
マルクが少し驚いていると、クドは「ティユークル、ティユークル!」と叫んだ。
言葉の意味がマルクには分からなかったが、クドが楽しそうにしているのは分かった。
マルクも真似て「ちゆーかる」とたどたどしく言うと、クドは声を上げて笑った。
「ティユークル! じゃあ、近道しようぜ!」
「それ、近道って意味なの?」
クドは「もっと早くってことな!」と答えると、大きく跳びあがる。商店の二階の窓を片腕で掴み、そのまま壁を蹴ってクドは隣の建物の屋根へと跳び上がった。
それは一瞬の出来事だったのでマルクには何が起こったのか理解ができなかった。
跳び上がった屋根からクドは高台の広場に飛び移る。目の前には大きな噴水があった。
それを認識してからマルクは周囲を見回して事態を把握した。
背の高い建物に隠れてその姿は見えなかったが、大通りから広場へと繋がる通路の先にとても長い階段があるのが見えたのだ。歩いていたら階段を上ることになっていただろう。
マルクが「すごーい」と言うと、クドは「この国は階段地獄だからな」と言った。
クドが指を差す方向を見ると、とても長い階段が見えた。まだ目的地に到着したわけではないらしい、マルクはとても嫌そうな表情になった。その顔を見たクドは小さく笑った。
「足腰が鍛えられてムキムキになれる、だからヴァージハルト人は筋肉質なんだな」
「ぼく、足だけムキムキになったらヤダなぁ……」
溜息を吐くマルクに、クドは「対処法はあれな」と言って何かを指を差した。指の先には黄色い毛色のオオカミのような大きな生き物に乗る女性の姿があった。
他にもヤギやリャマ、ラクダのような生き物に乗って移動する女性の姿が見えた。
動物に乗っているのは年配者か女性だけで、その中に男性の姿はなかった。
「男の人は動物に乗らないの?」
「ヴァージハルトは魔物に襲われることが多いんだって、だから戦える者は日ごろから鍛えていないと襲われた時にダメなんだってギルドの人が言ってた」
クドは「軟弱ものだって思われるらしいぞ」と説明をした。
軟弱ものだと思われたくないなとマルクは考えて、クドに降ろしてもらおうとしたが彼はそのまま走り出した。マルクが「軟弱ものじゃない!」とクドに抗議をすると、彼は「分かってるって、でもこっちの方が早いだろ?」と笑いながら答える。
マルクは反論することができず、口を噤むしかなかった。
クドが飛び跳ねるように階段を駆け上がるとすぐに一番上まで到達してしまう。
マルクが頑張って駆け上がったとしてもクドの駆け上がる速さには敵わないだろう。
複雑な思いを抱えながら辺りを見回すと先程よりも大きな噴水のある泉と、二階建ての大きな白い建物が見える。泉は中央が深くなっていて、二階建ての建物がギルドらしい。
ギルドの側にはまた階段があり、その先は富裕層や貴族の住む住宅地が広がっている。
さらに先に士官学校があり、その先には兵営があるそうだ。兵営の一画に王宮がある。
水浴びができるという泉には人は居らず、静寂の中で水の跳ねる音が響く。
クドから解放されたマルクは泉に近付いて水温を確認する。太陽が照っている所為か水は温く、底には風で飛ばされてきた砂が沈んでいるのが見えた。
マルクがリュックサックを置いてマントを脱いでいると、待ちきれなかったクドが水に飛び込んだ。水面は大きく波を立てて、泉の側にいたマルクに水が掛かる。
マルクが驚いて「ちょっとぉ!」と声を上げるとクドは声を上げて笑った。
少し腹立たしく思ったマルクがクドに水を掛けると、彼は尻尾を振って大きく波を立てる。その波を頭から被ったマルクを見て、クドはケラケラと笑った。
水分で重くなったマントを脱ぎ捨ててマルクは泉へと足を踏み入れる。険しい顔付きのマルクを見て、クドは「そんなに怒るなよお」と笑いながら言った。
へらへらと笑うクドを見て、マルクはさらに腹を立てた。
怒ったマルクはクドに飛びついたが、襟を掴んでも彼はビクともしない。
クドはケラケラと笑いながらマルクを抱き上げる。ジタバタと暴れたがマルクの足や手はクドには届かなかった。そんな様子を見て、クドはさらに笑った。
「お前は闘争心が激しいんだなあ、見た目のわりには負けず嫌いなんだなあ!」
悔しそうにマルクが「うーッ」と唸ると、クドは「その気持ちは分かるぞ」と頷いた。
そしてクドはマルクを水深の深い中央部分へとポーンと放り投げた。
着水するとマルクの周囲を細かい泡が包む。水中から見上げた太陽と泡はキラキラと輝いていて、マルクは自分が水の中に居ることを忘れかけた。
しかし、すぐに息苦しくなったマルクは慌てて水面から顔を出して咳き込んだ。
マルクは咳き込みながらクドへと視線を向ける。彼は腕を組んで深く頷いていた。
「俺の母ちゃんは、お前はまだ子供だからまだ早い、が口癖だからなあ」
不満そうに「もうアルトランテ砂漠を一人で散歩できるのにさ!」とクドが文句を言う。
マルクは水の中に投げ入れられたからなのか、熱くなっていた頭が冷えていた。
「俺はドラゴン種だから、身体能力じゃあ絶対にお前は俺に勝てない」
その言葉を聞いてマルクが不満そうな顔をすると、クドは言葉を付け足した。
「でも俺らは細かい作業が苦手だから、お前が魔法を使えれば勝てないこともない!」
クドは「ヴァージハルトの大英雄で魔人のフレンジア・ソーナは九九年間も月の精霊相手に粘ったんだぞ」と言った。マルクが首を傾げると、クドは続けて語る。
「学校にはフレンジア・ソーナの子供のフレンジア・ムールファグト・ソーナがいるらしい、あの人は半人だけど……でも、俺たちよりもすっごく強い!」
キラキラとした眼差しでクドは「ドラゴンも月の精霊は恐ろしいんだぞ」と言った。
マルクに背を向けてクドはギルドの白い建物を見上げる、釣られるようにマルクも見上げた。周囲は静まり返っているが、建物の中には多くの人の姿が見える。
「フレンジアはギルドの構成員でもあるんだ、昔はヴァージハルトの騎士だった」
「クドはギルドの構成員になりたいの?」
マルクが問い掛けると、クドは複雑そうな表情でマルクの顔を見た。
「ドラゴンは飢えればなんだって食べる、ギルドの構成員は暴れる魔物を殺すこともある」
続けてクドは「肉食性の魔物はみんなそうだ、飢えてしまえば害獣なんだぞ」と言った。
クドの表情を見たマルクは少し悲しい気分になった。
これは当たり前のことではあるが、全てのものには命が宿っていることをマルクは改めて実感した。生きるために殺し、殺されないように生きている。
クドが小さく呟いた「ギルドの構成員になったら……家族でも殺さなきゃいけなくなる日が来るかもしれないんだぞ」という言葉はとても重く、とても悲しかった。
他のものと共存することの本当の難しさをマルクは知った。
そしてクドがとても優しい子であるとマルクは感じた。ギルドに助けてもらったとは言え、同族を殺しているかもしれないギルドを許しているクドはとても心が広い。
クドは許すことを知っている。そんな彼がヒトと同じように電車に乗ることができないのはフリュージアが言うようにおかしいことなのかもしれないとマルクは思った。
言葉を重ねて分かり合うことができたなら、クドもフリュージアも心から穏やかな表情を浮かべることができるのかもしれない。それが本当の平和なのかもしれない。
本当に恐ろしいことは何なのかをマルクはよく考えてみることにした。
マルクが暗い表情を浮かべるとクドは彼の頭を軽く叩いた。
クドは暗い顔のマルクを見て気まずくなったらしく、頭を掻きながらマルクに言う。
「まあ……正義の味方を気取りたいなら方法は他にもあるし、マルクが気にすることじゃないと思うぞ。正式な構成員は国の要請に応える義務があるけど、その他は無いし」
クドの発言を聞いたマルクは不思議そうに首を傾げた。
「正式じゃない構成員もいるの?」
「フリュージアやフレンジアは構成員だけど、下っ端のやつらは本当の“構成員”じゃないらしい、詳しいことは俺も分かんないけど……認められないとダメなんだってさ」
「フリュージアさんは正式な構成員なんだね……何が違うんだろう?」
「えーっと、正式な構成員はどの国にも無条件で入れる。あと、信頼度が高い……?」
マルクは不思議そうに「それだけ?」とクドに問い掛けた。
クドは考え込んでいたが、しばらくすると苦笑いを浮かべて「他は知らねえ」と答えた。
二人は泉の縁に凭れかかるように座り込んで考えた。太陽に温められた泉の水は温い。
正式な構成員は各国の要請に応える義務があり、得られるものはどの地域にも無条件で入れることと高い信頼度、マルクには正式な構成員にあまり利益がないように感じた。
クドが言うには依頼料が変わる訳でもないらしい。ただ、下っ端では入れないような地域へと向かうような依頼は必然的に正式な構成員が受けるようだ。
入国に関する手続きはギルドでも簡単に行えるらしいので、本当に“正式な構成員”には大きな利益がないように思えた。加えて正式な構成員か下っ端かを意識する人はあまりいないらしく、民間人にとっては彼らの印象はあまり変わらないのだという。
クドは不思議そうに「祖国で軍人になった方がまだマシなくらい」と呟いた。
マルクがクドの呟きに相槌を打ちながら足先で水面を揺らしていると強い日差しを誰かが遮ったようで水面に影ができた。誰かが泉の側に立っているようだ。
「“神秘の保護”ですよ、自らの利益を優先するような人物に構成員は務まりません」
マルクはその声に聞き覚えがあった。クドと共に振り返ると逆光で顔は見えないものの宝石のように綺麗な紫色の髪が見えた。軍服のような服装の青年が立っている。
彼は両耳に綺麗な宝石で出来た耳飾りを着けていた。日差しで耳飾りがキラリと光る。
マルクの頭にユースの姿が過ったが、ユースにしては雰囲気が違い過ぎるような気がして首を傾げた。青年は良く通る声をしっかりとした口調で喋っていた。
あの夜、ユースは舌足らずな言葉を弱弱しい口調で囁くように喋っていたのだ。
「神秘って……保護する必要があるのか?」
不思議に思ったクドがそう問い掛けると青年は「フィルウェルリア聖書を知らないようですね」と言った。二人が一緒になって不思議そうな表情を浮かべると青年は軽く笑った。
「それは当事者に問い掛けた方が早いでしょうね、そろそろ出てくる頃でしょうから」
二人を覗き込むようにしていた青年が顔を上げてギルドを見る、すると彼の顔がハッキリと見えた。宝石のような紫色の瞳はまたもやユースを連想させた。
青年の肌は陶器で出来た人形のように白かったが、か弱い印象を抱かせない雰囲気を纏っている。星々の幽かな光のようなユースと違い彼は一等星の光のようだった。
マルクとクドも同じようにギルドへと視線を向けると出入り口から出てくる二人の男性が見えた。一人はマルクもよく知る人物で、もう一人は初めて見る人物だった。
「フレンジア・ムールファグト・ソーナだ!」
二人を見たクドが大きな声を上げる。その声量に驚いてマルクは肩を震わせた。
ギルドから出てきたのはフリュージアと、クドとの会話に出てきた近代史の大英雄の子供である“フレンジア・ムールファグト・ソーナ”らしい。マルクは彼を知らなかった。
名前の響きは似ているものの、フレンジアはフリュージアと違って全体的に白い色をしていた。長い髪は銀色に輝いていて、肌の色は白いが目は鮮やかなオレンジ色をしていた。
そしてマルクよりも耳が少し短かった。それでもヒトよりも長いことには変わりない。
この国の住民は色黒なヒトが多くみられたが、青年とフレンジアは色白だった。
しばらくクドはフレンジアを見てとてもはしゃいでいたが、ふと何かに気が付いたように青年を見上げた。マルクもクドに釣られるように青年を見上げる。
青年はフリュージアとフレンジアを見ていた。見るというより、見惚れているようだ。
クドが小さな声で「ユヴェリア将官……?」と呟くのが聞こえた。
クドの呟きはその青年には聞こえていなかったらしく特に反応はなかった。
“将官”の意味はマルクには分からなかったが、青年はもしかしたらとても偉くてすごい人なのかもしれないとクドを見ていたマルクは思った。
なぜならクドが青年にもフレンジアと同じような尊敬の眼差しを向けていたからだ。
フリュージアとフレンジアは楽しそうに会話をしながら泉の近くへと歩いてくる。二人はとても仲が良いらしく、二人ともとても良い笑顔を浮かべていた。
フリュージアがマルクたちのいる方へと顔を向ける。すると、青年の姿に目を留めたフリュージアの表情がわずかに引き攣るのがマルクにはハッキリと見えた。
ぎこちない笑顔を浮かべたフリュージアが三人へと近付いてくる、その後ろには苦笑いを浮かべるフレンジアがいる。フレンジアはマルクと目が合うとニコリと笑みを向けた。
どうやら青年とフレンジアとフリュージアは旧知の仲のようだ。
「や……やあ、ユヴェリア。久しぶりだね、あー……元気そうで何よりで」
珍しくソワソワとした様子のフリュージアを見てマルクは不思議そうに首を傾げた。
青年――ユヴェリアはそんなフリュージアの様子を特に気にした様子もなく微笑んだ。
「その姿には不満を覚えますが……また再会できたことをとても嬉しく思います。ですが視点を変えれば、その姿に化けているということは今生では“最愛の人”には会えないという解釈をしても大丈夫そうですね。貴女はそういう人ですからね」
「そ……そういう人ってどういうことでしょうかね」
「夫の姿に化けていれば言い寄られないだろうという浅はかな考え方ですよ、魔術に心得のある者であれば貴女の本来の姿なんて簡単に見抜けるというのに……」
ユヴェリアの発言を聞いたフリュージアは引き攣った顔のままでフレンジアへと視線を向けた。そして「今ってギルド歴何年でしたっけ?」と小さな声で問い掛けた。
フレンジアは「スピリット種は執着心が半端ないから」と苦笑いを交えて答えた。
フリュージアとフレンジアの会話を聞いてもユヴェリアは動じることなく、そしてマルクとクドが見ていることも気にせずに彼は想いを言葉にした。
「貴女の心に最愛の人がいたとしても、私はまだ“アヤメさん”を愛しています」
ユヴェリアの告白を聞いたフリュージアは疲れた声で「悪夢のようだよ」と返した。
困っているフリュージアを見ながらユヴェリアは少しばかり意地悪く笑った。
フリュージアとユヴェリアの会話を聞いていたクドは何とも言えない表情をしていた。
「なんか……将官、俺の予想と違った」
「片思いを拗らせちゃって……普段はとても立派な人だよ」
フレンジアが言い繕ったがクドは納得していない顔をしている。
「ユヴェリア将官もフリュージアさんが好きなの?」
不思議そうにマルクがユヴェリアに問い掛けると彼は笑顔で肯いた。
フリュージアは少し嫌そうな表情を浮かべながら二人の様子を見守っている。
「ぼくもフリュージアさんのこと大好きだよ、一緒だね!」
「そうですね。私も彼女のことが大好きですから、それに君は仲間のようなものですからね……加えて同じ名前を持つ者同士、仲良くしましょうね」
「将官の名前ってユヴェリアじゃないの?」
「私はユヴェリア・マルクス・トリアライドと申します、ユヴェリアもマルクスも同じく名前です。なので、一応はマルクくんと同じ意味の名前を持っているのですよ」
マルクが嬉しそうに「そっか!」と笑うとユヴェリアも同じく嬉しそうに笑った。
「……外堀から埋めようとするのは止めて欲しいんですけど、仲良くする気ないでしょ」
フリュージアが小さく文句を言うとユヴェリアは悲しそうに眉尻を下げた。
「そんな人聞きの悪い……弄り甲斐のありそうな可愛らしい子供じゃないですか」
ユヴェリアが「それにあの御方の“ただ一人の弟子”なのでしょう?」と笑う。その様子にフリュージアはため息を吐き、それから「前世の記憶はないよ」と忠告を入れる。
その忠告に小さく笑い返しながらユヴェリアは呟くように言う。
「素質があったのでしょう。貴女も、あの御方も……英雄を好みますからね」
「本当はあんまり仲が良くないの?」
二人の会話を聞いていたマルクが不思議そうに首を傾げる。
フリュージアは困ったような表情で自身の頬を撫でてからマルクに説明をする。
「嫌いではないけど……マルクの言う好き嫌いとは少しだけ違うんだよ」
よく分かっていないらしいマルクにフリュージアは「まあ……親友とかよりは喧嘩友達って表現が近いのかな?」と言い、少し間をおいてから「もっと正確に言うとユヴェリアは私の旦那と喧嘩友達なんだけどね」と説明に付け加えた。
マルクは「喧嘩友達……」と噛み締めるように呟いた。
「まあ二人を友達だって言ったら同じタイミングで怒り出しそうだけどね……旦那は『こんな性根腐ったヤツと友達とか冗談でも止めて欲しいんだけど』って言いそう」
「それと『大人しそうに見える癖に脳筋バトルジャンキーとかキモい』とか言いそう」
「それだとフレンジアさんにも当て嵌まっちゃうんですよねぇ……」
苦笑するフリュージアにフレンジアは笑いながら「そうだね、言われたね」と答えた。
フリュージアを観察するように眺めていたユヴェリアは安心したように笑った。
「そうですね……彼ならそのような暴言を吐きそうです。あまりお変わりないようで私は嬉しく存じます、ウェルサー様……私の非礼をお許しいただけますか?」
先程までの柔らかな雰囲気は消え、張り詰めたような空気が辺りを包み込んだ。
ユヴェリアの発言はフリュージアに許しを請うものであったが、マルクには許す以外の選択は認められないことのように感じた。他の者もそう感じているに違いない。
ユヴェリアの言葉で、仕草や態度で空気が一変したのだ。彼がこの場を支配している。
マルクはユヴェリアに支配されているように感じたが不思議と不快感はない。
ユヴェリアのカリスマ性に触れたマルクは胸が高鳴るのを感じた。彼の纏う洗練された空気は懐かしく、マルクが“過去”に憧れた王気によく似ている。
「……仰々しく扱われてもそれはそれで困るよ」
「貴女が精霊ではなくなったとしても、世界は“貴女で終わり、貴女から始まる“のですから礼を欠いては精霊の怒りを買ってしまいますよ……月は礼儀に厳しいですからね」
「アルトランテ砂漠は月の神の庭だもんね……分かった、非礼を許すよ」
「ご慈悲に感謝いたします――それでは、私は離宮にてお待ちしております」
真剣な表情のユヴェリアはフリュージアに一礼してから去って行った。
フレンジアは困ったような表情でマルクとクドに視線を向けて「またね」と笑い掛けてからユヴェリアの後を追う。マルクは彼の背に手を振って見送った。
ユヴェリアの姿を眺めていたクドは「やっぱり俺の予想した通りの人かも」と呟いた。
マルクが不思議そうに首を傾げてクドを見ると彼は発言の意味を説明してくれた。
「自分の感情も利用しそうな人……たぶんフルージアの中身を量ってたんだよ」
「まあ、彼は警戒心の強い人だからね。かなり本音が交じっていたような気もするけど」
先程までのやり取りを思い出しながらフリュージアは小さくため息を吐いた。
そんなフリュージアを見たクドはニヤッと笑って「ヴァージハルトの頭脳と言われる将官の心を射止めるなんてすごいなあ、流石だなあ」と彼をからかった。
からかわれたフリュージアは苦笑いを浮かべて「射止めたくなかったよ」と答えた。
もう一つため息を吐いてからフリュージアは「それじゃあまたね、クド」と別れの言葉を言う。別行動になることをクドは知っていたらしく驚く様子は見せなかった。
すぐにマルクが「一緒に行けないの?」と問い掛けると、フリュージアは「今から行くところはね、関係者以外は立ち入り禁止なんだよ」と答えた。
寂しそうなマルクにクドは「泊まるとこは一緒だし、夕飯は一緒に食べようぜ」と笑い掛けた。その発言を聞いたマルクの表情はパッと明るくなった。
嬉しそうな顔でマルクは「一緒に食べようね!」とクドと約束を交わしてから泉を出る。
足を踏み出せばグジュグジュと音が鳴る、ブーツの中まで水が入り込んでいたらしく気持ちが悪かった。マルクはブーツを脱がなかったことを少し後悔した。
その様子を見たフリュージアは自身の影から杖を取り出して軽く振る、するとマルクを包むように強い風が吹いた。全身が濡れていたはずだが気が付くとすっかり乾いていた。
風の届かないはずの足の指の間まで乾いている。とても快適で気分が良い。
クルリと回りながら全身を眺めたが濡れている個所はどこにもなかった。
はしゃぐ姿を尻目にフリュージアは影の中に杖を仕舞い、マルクの荷物を手に取って彼にマントを被せる。それから「早くしないと夕飯前に帰れないよ」とマルクを急かした。
急かされたマルクは慌ててマントのボタンを掛けるとフリュージアの後を追いかけた。
ギルドの側の階段をのぼりながらマルクはフリュージアに質問をする。
「フリュージアさんが獣医のときの名前ってアヤメっていうの?」
その質問に少し困った顔をしながらフリュージアは「……そうだよ」と答えた。
マルクが続けて「フリュージアさんは旦那さんの姿に化けてるの?」と質問をすると彼は恥ずかしそうに「まあ……そうだね、うん」と答えた。
マルクが「すっごく好きなんだね!」と言うと、恥ずかしそうにしていたフリュージアだったが開き直ったのか「……永遠の愛を神に誓ったからね!」と胸を張って答えた。
どんな神に誓ったのだろうと考えながらマルクは得意気な顔のフリュージアを見上げた。
「そうなんだぁ……永遠ってどれくらいなの?」
「私が死ぬまでかなぁ……神ではなくなったけど、私は終わりと始まりを体現するものだからね。私の中にウェルサーの影がある限り、全てのものにその影がある限り」
「みんなの中にも夜の神さまはいるの?」
「私の影はどこにでもあるよ。マルクの中にもあるし、クドの中にもあるよ」
フリュージアの発言の意味が分からなかった。マルクが少し考えてから「寿命?」と問い掛けると彼は軽く笑って「少し違うけど、まあ……遠くもないかな」と答えた。
マルクは意味を理解できなかったが、意味を理解するまで問い掛けることはしなかった。
それからマルクはフリュージアの手を握って暑い中を歩いた。初めの頃は二人の間に会話があったが、降り注ぐ熱気に気力が削がれてマルクの口数は徐々に減っていった。
辛そうなマルクを気に掛けたフリュージアは馬車を借りることにした。
それは馬車と呼ばれていたが、引くのはラクダによく似た不思議な生き物だった。
乗り込むと車内はひんやりとした空気で満たされている。どうやら魔術で温度を管理しているようだ。座席はフカフカと柔らかく、とても座り心地が良かった。
マルクはフカフカの座席に横になって全身で涼しさを感じた。
身体の力を抜いたマルクが「ここに住みたい」と呟くとフリュージアが笑った。
馬車が走り出すと心地良い振動で身体が揺れた。猛暑で体力を奪われていたマルクはその揺れに身を委ねて目を瞑る、彼が眠りに着くのはすぐのことだった。
――マルクがフリュージアに起こされた時には馬車はすでに離宮に着いていた。
フリュージアが馬車の扉を開くとマルクの視界に大きな宮殿が映った。
馬車を降りていくフリュージアの後姿を尻目にマルクはぼんやりと離宮を眺めた。
建物はとても立派であるが外観は絢爛豪華とは言い難い、装飾は全くなかった。
煌びやかな外観は権力や豊かさの象徴でもある、この建物は政とは関係がなさそうだ。
離宮は王宮だけではなく町からも離れているようで、町の外れから長い橋が一本だけ伸びている。深い谷で囲まれているので橋が崩れてしまえば町に戻るのは困難になるだろう。
ここは何かを閉じ込めておくためだけに作られた宮殿のようにマルクは感じた。
離宮に人気はなく、風に晒された砂の流れる音が寂しげに響いていた。
マルクの心の中に小さな不安と恐怖が芽生えた。
熱い空気が馬車の中に入り込むが、熱いはずの空気がマルクには冷たく感じた。
マルクは動くことも離宮から目を離すことも出来なくなってしまった。まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。恐ろしい何かが宮殿の中から睨み付けているように感じたのだ。
首を絞められている訳ではないのに誰かに首を絞められているかのように苦しい。
マルクが呼吸を忘れて固まっていると、心配したフリュージアがマルクに近付いた。
フリュージアに「大丈夫? 無理そう?」と問い掛けられたがマルクは答えることができなかった。月の神と太陽の神に睨まれた時のような恐怖を感じていたからだ。
マルクは声を震わせながらフリュージアに問い掛ける。
「――ここには何がいるの?」
離宮に何があるのかではなく、何がいるかをマルクに問い掛けられたフリュージアはわずかに目を伏せてから他人に聞かれぬように声を潜めて答えた。
「薄々気が付いているかもしれないけど――ここにはイクレンの魂がある」
フリュージアは「怒りの愛を持つ王が眠っている」と答える。その答えを聞いてマルクはようやく離宮から目を逸らすことができた。それでも不安はまだ消えていない。
マルクは小さく息を吐き、瞼を下ろして目頭に溜まった涙を落した。
フリュージアに目を向けることもなく、背を向けたままマルクは小さく問い掛ける。
「どうして……ぼくをここに連れてきたの?」
「マルクはクレメニスでナトリアに出会ってしまったから……あの話も聞いてしまった」
フリュージアは「もう逃げることはできない」と真剣な声でマルクに告げた。
マルクの目から後悔の涙が流れ落ちる。だが、それはナトリアに出会ってしまったことへの後悔でも、三人の王の話を聞いたことへの後悔でもなかった。
城を出て行ってしまったことをアムールがとても悔やんでいたことにマルクはすぐに気が付いた。この場から逃げ出したいと感じている心はマルクのものではない。
この不安と恐怖はアムールの遺した心だ。息が詰まりそうなほどに苦しい罪悪感だ。
ここに眠っている人物の名前を聞いて、フリュージアの言葉を聞いたマルクは次第に冷静さを取り戻していった。真実を知りたいと願う気持ちがマルクの気持ちなのだ。
マルクは涙を拭ってから振り向く、フリュージアが心配そうにマルクを見ていた。
マルクが「ぼくは大丈夫だよ」と伝えると、心配した面持ちのままのフリュージアが「たしかに彼は怖がっていたからね……」と納得したように呟いた。
マルクが強気に「行こう」と発言するとフリュージアは小さく笑い、それからマルクの頭を撫でた。マルクが微かに震えているのに気が付いたが指摘はしなかった。
そしてフリュージアがマルクから離れるとやはり彼は動けなくなってしまった。
離宮の中から睨み付けられているような気がしてしまい足が竦んだ。
マルクは慎重に、だが素早く馬車から降りてフリュージアの背に隠れた。フリュージアの腰にしがみ付いたマルクは「早く終わりにしよ!」と彼を急かした。
フリュージアは苦笑いを浮かべながら赤いブドウのような色をした頭を見下ろした。
「ピッタリとくっつかれると歩き難いんだけど……少しだけでも離れられない?」
「フリュージアさんは人間じゃないから大丈夫だよ!」
その返答を聞いたフリュージアは「大丈夫じゃないから言ったんだけどな……」と頬を掻きながら小さく呟いた。それでもマルクはフリュージアから離れなかった。
離すことを諦めたフリュージアは小さな歩幅で離宮へと足を運ぶ、彼の歩幅に合わせてマルクもジリジリと足を動かした。馬車から近いはずの離宮が少し遠く感じた。
離宮に向かう途中でフリュージアがひんやりしていることにマルクは気が付いた。
少しだけフリュージアから離れて、それからマルクは彼のマントの中に潜り込んだ。
フリュージアは抱き着くと冷たかった。やはり人間ではないのだなと改めて実感する。
マルクは「快適だ!」と喜んでいたが、フリュージアはさらに歩き難くなってため息を吐いた。どうしたものかと思案して、それからフリュージアはパチンと指を鳴らした。
しばらくするとマルクはマントから出てきた。頬は赤く、顔には汗が滲んでいた。
「どうして温めちゃったの、冷たくって快適だったのに」
「建物の中も涼しいよ……怖いのは分かるよ、でも夜に行く方が怖いと思うな」
フリュージアが「それに陽が沈んだら寒いからね」と言うとマルクは静かになった。
マルクは観念したようにフリュージアの手を掴んで強く握った。
フリュージアはその手を握り返してマルクを安心させようとして微笑んだ。
「今は封印されているから大丈夫だよ」
首を傾げながらマルクが「……封印?」と問い掛けるとフリュージアは「詳しいことはここでは喋れない」と答えて繋いでいた手を引いた。マルクは素直に付いて行く。
離宮の中はフリュージアの言う通り涼しかった。そして外と同様に人の気配がない。
フリュージアの魔法なのか、それとも離宮に特別な魔術が施されているのか重そうな大きな扉が自動でゆっくりと開いていく。奥へと招かれているようで少々気味が悪い。
気になったマルクが振り返ると扉がゆっくりと閉まるのが見えた。
離宮は大きな宮殿だが内部もとても寂しい、質素な照明があるだけで他は何もない。
時々大きな宝石のようなものが壁や柱に埋まっているが、それが宝石ではないことはマルクでも予想ができた。ここにいるものを封じるための魔術が施されているのだろう。
しばらく歩き、幾つもの大きな扉を超えた先の広間に二人の男性の姿が見えた。
ユヴェリアとフレンジアはとても立派な扉の前にいた。七種類の大きな宝石が着けられた今までよりもずっと頑丈そうで大きな扉の前でマルクとフリュージアを待っていた。
その宝石は恐らく魔石と呼ばれるものだろう。マルクの腕輪やフリュージアの杖と同じような特別な石に違いない。魔術を使用するのに必要なものなのだろう。
扉に埋められているのは黒、白、紫、青、緑、黄、朱色の魔石で赤い色はなかった。
その扉は豪華だったがマルクには牢獄に繋がる入り口のようにしか見えなかった。
ここはイクレン王を封印するための場所だ。名前を付けるとしたら封印の間だろう。
フリュージアとマルクが近付くとユヴェリアとフレンジアは振り返った。
その場には妙な緊張感が漂っていた。大英雄と言われていたフレンジアも、クドから尊敬の眼差しを向けられていたユヴェリアもピリピリと気が立っているように見えた。
「――本当に彼をこの場に連れてきても大丈夫だったのですか」
最初に言葉を発したのはユヴェリアだった。それに続いてフレンジアも口を開いた。
「殺気を感じることはあったけど、こんなにも強い殺意と気配を感じるのは初めてだ」
二人の様子を見て怯えるマルクの肩を抱きながらフリュージアが答える。
「イクレンはアムールを絶対に殺さない、今は外にも出てこられない」
「それは……どういう意味でしょう?」
フリュージアが「器になれる者がいないから」と答えるとユヴェリアは顔を顰めた。
「まるで器になれる者が現れるかのような言い方ですね」
「現れるよ。恐らく彼女は息を潜めて機会を窺っていると思う、今もどこかで」
ユヴェリアは「女性ですか」と呟いてから考え始めた。思い当たる節はないようですぐに視線をマルクに向けた。気が立っているからか彼の視線は刃のように鋭かった。
マルクはその視線から逃げるようにフリュージアの背に隠れた。
「彼女は恐ろしい魔術師だ、優秀な魔術師でもある。剣術や槍術も心得ていて武人としても優れているし、魔法薬に関しては誰も彼女を超えることはできない」
「……貴女が認めた彼よりも優れていると言うのですか」
「技術だけを見れば優れているよ、でも薬師や医師としてなら彼の方が優秀かな」
「あぁ……なるほど、かなり優秀な武官なのでしょうね」
「そうだね、国にとって優秀な人材だと思うよ……王の器となり宿願を達成する、そのためならどんな犠牲を払おうとも構わないと考えている人だからね」
フリュージアの言葉を聞いたユヴェリアは「かなりの危険思想ではありますが……精霊が認める武人なら我が国にも欲しいところです」と素直に思ったことを口にする。
その言葉を聞いたフリュージアとフレンジアは表情を引きつらせていた。
ユヴェリアが「冗談ですよ」と言ったが二人からは乾いた笑いしか出なかった。
「ちなみに宿願とはどのようなものでしょうか」
「“クレガルニに永遠と栄光を”」
フリュージアの答えを聞いたユヴェリアは「なるほど、分かりやすい」と呟いた。
「彼らはこの世界の人々に恨みはないけど……神々は怨んでいるよ」
「しかし、精霊を手に掛けてしまったらフィルウェルリア聖書の二の舞を演じることになるのではありませんか? そうなれば精霊とヒトとの争いは避けられません」
「それが今回は分からないんだよ……アムールの魂を受け継いでいるマルクはまだ生きているし、イレンスもこの世に戻ってくる。それに彼は神を殺す武器を持っているから」
ユヴェリアはフリュージアの返答にとても驚いたようで目を見張った。
「神を殺す武器ですか……そのようなものは聞いたことがありません。聖書には書かれていませんでしたよ。夜の女神も寿命のある生き物に成り下がって死んでいる」
「私は聖書通りに死んだよ、その武器が作られたのは私の死後だね」
「そして武器はサニディエの記憶を継ぐ者しか作れない」とフリュージアが言葉を続ける。
初めて聞く名前である“サニディエ”にマルクが疑問を感じていると、ユヴェリアがフリュージアに「サニディエとはどなたでしょうか?」と問い掛けた。
その質問にフリュージアはすぐに答えられず、わずかに目を伏せて悲しげに答えた。
「サニディエは二番目の王で世界図書館は彼が作った」
「それは少し変な話ですね……イクレン王はこのように封じられているのに神殺しの武器を作ることができるサニディエ王は封じられていない、イクレン王よりも危険では?」
「彼は、サニディエは――自分の魂を自らの力で封じたんだよ」
フリュージアは足元を見ながら「記憶を見られるのは彼が認めた王だけだ」と答えた。
その答えにユヴェリアは表情を顰めて「イレンスという人物は認められたのですか」と苛立ったような声色でフリュージアに問う。彼は質問に答えられずにさらに俯いた。
その様子を見たユヴェリアは目を吊り上げてフリュージアを睨み付けた。
「詳しく語っていただかないと対策を講じることもできません」
ユヴェリアに厳しく追及されてもフリュージアは口を噤んだままだった。
フリュージアの陰から様子を見ていたマルクが困り果ててオロオロとしていると、同じく様子を見ていたフレンジアが二人の間に入るようにフリュージアの側に立った。
眉間に深い皺を寄せてユヴェリアがフレンジアを見上げた。
鋭い視線に晒されてもフレンジアはビクともせずにまっすぐとユヴェリアを見返した。
「私たちは過去を知らない、聖書に書かれていたことしか知らない。でも……全てが書かれていた訳じゃなかった。あれは“神子と夜の神”についてしか書かれていない」
フレンジアが一息吐いて「でも、一つだけ書いてあったこともある」と言うとユヴェリアは首を傾げた。そして彼は「私が見落としたと?」と不満そうに聞き返した。
それは誰もが震えそうなほど冷たい声だったがフレンジアは怖気付くことなく肯いた。
「クレガルニは祝福を受けた国だった。神子のディーテにすら生前では祝福を与えなかったのに、ウェルサーはクレガルニに特別な恩恵を与えているんだよ」
フレンジアは困ったような顔をして「きっと特別な思いがあったんだよ」と言った。
その発言に苛立ったユヴェリアが小さな声で「甘いことを言うな」と叱り付ける。
それを聞いたフレンジアは苦笑いを浮かべながらフリュージアへと顔を向けた。
「なら、どうして彼女がマルクを庇うように立っていると思う? 普段の冷静なユヴェリアならすぐに分かるよね、ウェルサーが今は何を守りたいのか……分かるだろう?」
ユヴェリアに視線を戻したフレンジアは「……その手、どうにかしろ」と低い声で静かに指摘をする。眼差しはとても鋭く、苦笑いをしている時とは別人のようだ。
マルクがこっそりとユヴェリアの手元を窺うとその手は何かを触っているようだった。
指摘をされたユヴェリアはすぐに腕を組む、そして小さく「申し訳ない」と謝った。
手を離したことによってユヴェリアが何に触れていたのかマルクにも分かった。
ユヴェリアが先程まで触れていたのは短剣だった、鞘に入れられた小型の凶器だったのだ。よく見てみると短剣は一本だけではなかった。何本も所持しているのが分かった。
ユヴェリアが短剣から手を離したことを確認してからフリュージアは口を開いた。
「またマルクが死んでしまったら……次に起こる争いを、聖戦を止められない」
その場には張り詰めた空気が漂っていて口を挟めるような雰囲気ではなかったが、マルクはフリュージアの言葉が信じられずに「ぼくには止められないよ!」と否定をした。
ユヴェリアはマルクの言葉を聞いて静かに肯いた。フレンジアもフリュージアの言葉を信じきれないらしく何も言えないようで困ったような顔をしていた。
三人を納得させられる言葉を探しているのかフリュージアも困り顔だった。
「それは……確かにマルクは他の王と比べてとても賢いとか、力が凄いとか、未来が見えるとか、カリスマ性とかはないけど……でも重要な役割を担っているんだよ」
フリュージアの発言を聞いたマルクはとてもショックを受けたらしく嘆くように「他の王さまは賢くて強くてカリスマ性があって未来も見えるの!?」と叫んだ。
マルクは微かに震えながら後退りをする、その顔は今にも泣き出しそうだった。
そんなマルクの様子を見たフリュージアは慌てて弁解を始めた。
「ご、ごめんね! 他の二人を贔屓したとかじゃないんだよ、あの本では神って書いてあったけど……あれは私と月の神と星の神が一つになっちゃっているだけだから!」
フリュージアは「私に知性と力とカリスマがなかったんだよ!」と力強く言った。
その発言にユヴェリアが「それは星の精霊にもなさそうですけどね」と小さく呟いた。
落ち込んだマルクは「フリュージアさんは弱い神さまなんだ……」と嘆きながら膝を抱えて広間の隅に座り込む。その姿はただの幼い子供にしか見えず、神々とヒトの間に起こるとされている争い――聖戦を止めることができる英雄には見えなかった。
「私には重要な役割を担っている英雄には全く見えません……というより、そんな役割を担うには幼すぎる。彼が役割に耐えられるとは到底思えないのですが」
否定的な目を向けるユヴェリアにフリュージアは声を潜めて「私の与えた力は……マルクのような純粋で優しい心を持つものじゃないと駄目なんだよ」と答えた。
険しい表情を浮かべているユヴェリアにフリュージアは言う。
「人は成長する、神々と違って変化する。半人半神のユヴェリアには分かるでしょ」
フリュージアが「ユヴェリアも百年見ない間に随分と変わったよ」と笑って言うとユヴェリアは「……正確には百年ではありません」と少々恥ずかしそうに返した。
暗に“人らしくなった”と言われたことが恥ずかしいようでユヴェリアは頬を掻く。
記憶の中に残っている姿とは違う友人の一面を見たフリュージアが小さく笑う。
「ちゃんとご飯とか食べられるようになったの?」
「今は関係ないでしょう……雑談に興じるために時間を割いたわけではありませんよ」
「大事なことだよ、一緒に食事をするのは仲良くなるのに大事なことだもん」
フリュージアが笑いながら「ねーフレンジアさんもそう思うよね」と聞くとフレンジアも笑いながら「確かに大事なことの一つかもしれないね」と肯いた。
「その見た目でその口調は止めてくれませんか? とっても気持ちが悪いです」
苦虫を噛み潰したような顔でユヴェリアが言うとフリュージアは苦笑いを浮かべた。
「じゃ……じゃあ、ユースくんとは和解できたの?」
「まさか、和解なんてする訳がないでしょう、早くこの世から消滅して欲しいです」
ユヴェリアの素直な答えを聞いて、フリュージアは悲しそうな表情を浮かべて「ユースくんが消滅したらユヴェリアも一緒に消滅すると思うよ」と言った。
ユヴェリアは「その時は私が精霊になります」と当然のことのように答えた。
「前例が二つもあるのですから、私が精霊になるのは不可能ではないと思いますよ」
ユヴェリアがニヤリと笑うとフリュージアの表情がわずかに引き攣った。
ヴァージハルトへと向かう前にユースが姿を消したのはユヴェリアと和解できていなかったからなのかもしれないと考えてフリュージアは小さくため息を吐いた。
広間の隅で泣きべそを掻いていたマルクだったが、会話を聞いていたらしく三人に近付いた。フリュージアの側に立ってユヴェリアを見上げる。
「ユヴェリア将官ってユースの家族なの……?」
フリュージアが「ユースくんの子供だよ」と答えるとユヴェリアは嫌そうな顔をした。
マルクはユヴェリアの顔を見て、それからフリュージアを見上げた。
「たしかに似てるなあって思う。でも、でも……ユースは大人って感じしなかったよ」
「まあ……ユースくんは彼の母親のイクシノアに力を分け与えただけだからね」
フリュージアは「他の神も人に力を分け与えたことはあったけど……身体の一部が結晶化するのは予想できても子供になるなんて誰も想像してなかったよね」と笑った。
ユヴェリアが「まったく……迷惑な話ですよ」と怒りながら言うとフレンジアが「まあまあ……そう言わないで、イクシノア様が聞いたら悲しむよ」と怒る彼を宥める。
子供のように宥められたユヴェリアは不満そうな顔をした。
不満そうなユヴェリアと苦笑いを浮かべるフレンジア、そんな二人を見て穏やかそうに笑うフリュージアを見ているとマルクは少しだけ寂しい気持ちになった。
三人の間には確かな友情があった。その仲にマルクが入ることはできない。
マルクは少し考えた。ユヴェリアがすぐに短剣を引き抜けるようにしていた理由はフリュージアが語る内容によってはマルクに危害を加えるつもりだったに違いない。
ユヴェリアの装いは軍人のように見える。きっとあれは国を守るためだったのだろう。
もしくは彼の言った“神秘の保護”というもののためかもしれない。
先程の理由を察することができたが、それでもマルクは納得ができなかった。
マルクが納得できないのはユヴェリアに対してではない、フリュージアの対応がどうしても納得できないのだ。寂しいという気持ちよりも不満な気持ちがマルクの心を占める。
フリュージアはユヴェリアをとても信頼している。それが気に食わなかった。
彼は確かにマルクを“親友”と言ったのだ。それなのに危害を加えようと考えていたユヴェリアをあっさりと許しているフリュージアに納得ができない。
マルクは不満を混ぜながら「結局は“アムールの心”が大事なんだ……」と呟いた。
そう思うと無性に腹立たしくなってマルクは俯いて下唇を噛んだ。
とても腹立たしくなって、それからとても泣きたくなった。
フリュージアの言った“親友”という言葉が胸に突き刺さるようでとても悲しい。
マルクは三人の話を聞く気になれなかった。フリュージアがとても大事な話をしていることは分かっていたがそれでも聞きたいと思えなかったのだ。
フリュージアがマルクをこの場所に連れてきたのは“イクレンの魂”が封じられている場所を教えるためで、他人に会話を盗み聞きされないようにしたかったのだろう。
イクレンはまだアムールのことで怒っているのだろうか、そう考えながらマルクは彼を封じている扉へと視線を向けた。彼が争いを起こすのだろうか?
それとも“イクレンの器になる者“か”神殺しの武器を持つ者”が起こすのだろうか?
マルクには分からない、何も分からなかった。未来も見えない。
もしもここにいるのがアムールだったなら何かを変えられる力があったのだろうか。
アムールならば英雄に見えたのだろうかと思うとマルクは悲しくなった。
マルクはマルクであってアムールではない、マルクの前世であるリェサーニアにも前々世であるアムールにもなれないのだ。同じ魂を持つが同一人物ではない。
何故ならマルクは知らないのだ。アムールの人生もリェサーニアの人生も、家族のことや友達のことも何一つ覚えていないのだ。マルクの短い人生しか記憶していない。
ふとした時に二人が遺した心をマルクは感じるが、それはマルクの心情ではないのだ。
深く考えながら扉を見詰めていたのでマルクは気が付かなかったが、その様子をフレンジアが心配そうに眺めていた。フレンジアはマルクの呟きが聞こえていた。
しかし、それはフレンジアだけではない。フリュージアもユヴェリアも気付いていた。
気が付いていたが、それでもフリュージアはマルクに慰める言葉を掛けなかった。
フリュージアはマルクが会話を聞いていない内にユヴェリアとフレンジアに言った。
「――私は、近い内にマルクを傷付ける。彼がそれに耐えられるかは分からない、分からないけど……もしマルクが頼ってきたら手助けをしてあげて欲しいんだ」
フリュージアの発言を聞いてユヴェリアは不愉快そうに顔を顰めて、フレンジアは目を見張る。しかしその言葉の真意に気が付くとフレンジアもすぐに顔を顰めた。
何も言えないでいる二人には視線を向けずにフリュージアはマルクを見詰めた。
「そうならないように全力で努力をするつもりなんだけど……少し難しそうだからさ」
フリュージアは悲しそうに、困ったように笑う。マルクを見詰める眼差しはとても慈愛に満ちていて、二人にはその眼差しがとても虚しいものに見えた。
不愉快そうなユヴェリアもマルクへと視線を向ける。そこに居るのはただの子供だった。
「ずっと……ここに留まれば良いのではないですか、少しは力になれると思いますよ」
「Tenyuku fuitoka riarensîa, werusî a amudeitino furusû」
ユヴェリアの提案を聞いたフリュージアは呟いた。
その呟きを聞いたユヴェリアは何も言えなくなってしまい、しばらくして「彼を千尋の谷へと突き落とすのですか、貴女らしくない」と不愉快そうに言った。
ユヴェリアの言葉にフリュージアは笑って答えた。
「マルクには本当の友達が必要なんだよ、それは私じゃないんだ」
苦笑いを浮かべながらフリュージアが「提案は嬉しいんだけどね」と言うとユヴェリアが眉を顰めて「惨めな気分になるので止めていただきたい」と不満そうに返した。
フリュージアは小さく笑い、そして呟いた。
「それに……イクレンに殺気を向けられているのはマルクではないんだよ」
自身の覚悟を確かめるように「私なんだ」とフリュージアは呟く。
「私は彼との約束を果たすために帰ってきたんだ、この運命は神では止められない」
ユヴェリアはフリュージアの横顔を黙って見詰めた。彼の意志は固そうだ。
フリュージアがどんな未来を見ているのか、イクレンと交わした約束はユヴェリアにもフレンジアにも分からない。だが、彼らはフリュージアの人となりはよく知っている。
「――分かりました。必要な時にはその子の剣となり、知恵も授けましょう」
その言葉を聞いて嬉しそうな顔になったフリュージアにユヴェリアは釘を刺した。
「ただし、それは貴女が見た“未来のヴァージハルト国”について詳しく語っていただいてからのお話です。その後に私は喜んでウェルサー様に誓いを立てましょう」
満面の笑みでユヴェリアがそう言うとフリュージアの笑顔が苦笑いへと変わった。
苦笑いのままフリュージアが「この国でそんなことが言えるのは君くらいだね」と言うとユヴェリアは鼻で笑った。彼は小馬鹿にしたような顔でフリュージアを見ていた。
「私にとっての貴女は神ではありません、友人なのですから当然ですよ」
「まあ……君らしいよ、本当に心強い」
フリュージアが「嬉しい」と言うとユヴェリアはすぐに「嬉しくない」と答える。
嬉しくないと言いつつも“友人”と称してくれる存在はありがたいものでフリュージアは申し訳なさを覚えながらも小さく笑った。
ユヴェリアが恋心を諦めてくれるのが双方にとって一番良いのだが、体の大半が魔力で構成されている生物は三大欲求がない代わりのように執着心が強いのだ。
新しく好きだと思えるものが現れない限り、彼の執着心に終わりはないのだろう。
それはフリュージアも同じで、ユヴェリアがフリュージアに向ける感情とフリュージアが自身の夫へと向ける感情はとても似ている。二人は似た者同士なのだ。
二人は互いのことをよく分かっている。一番に理解している。
だからこそ二人は結ばれる運命が初めから存在していないことも分かっている。
ユヴェリアがフリュージアに愛を伝えるのは彼の性格が変わっていないことの確認作業でしかない。彼の中に“アヤメ”という人格が残っているのかを確認しているのだ。
ユヴェリアの友人はアヤメであって夜の神ウェルサーではないからだ。
フリュージアは彼らに“現在の時点で見えている未来”を詳しく語ることを約束する。
そして三人は翌日に改めて話し合うと決めて、フリュージアは俯いたままのマルクを連れて封印の間を後にする。手を引かれて歩くマルクは悲しそうに俯いていた。
フリュージアは“マルクに本当に伝えたい言葉”をグッと飲み込んでから口を開いた。
「……大丈夫だよ、そんな顔をしていたらクドが心配するよ」
マルクはフリュージアの言葉に小さく頷いたが、俯いたままでとても悲しそうだった。
思い詰めた顔をするマルクに優しく声を掛けるべきか迷ったが、フリュージアは口を噤むことに決めた。頭を撫でるだけに止めて慰める言葉は掛けなかった。
もどかしい思いを抱えながらフリュージアは下唇を噛み締めた。
「――耳の長い王子は、ウェルサーの愛に殺されるだろう」
フリュージアは自身の気持ちを確かめるように「信じているから」と呟いた。
マルクはフリュージアの呟きを聞き取れなかったようで「いま、なんて言ったの?」と問い掛けた。フリュージアは小さく笑いながら「何でもないよ」と答える。
「本当に何でもないんだ、マルクなら大丈夫だから」
マルクは小さく首を傾げてフリュージアを見上げる。微笑んでいる彼の顔色は最悪だ。
何かを隠すように微笑むフリュージアから目を逸らしてマルクは離宮の外で待たせていた馬車に乗り込んだ。車内は相変わらず快適な温度だったが喜ぶ気にはなれない。
フリュージアと向かい合う気分になれず、マルクは彼に背を向けて座席に寝転がった。
フリュージアは優しい声で「おやすみ、マルク」と小さく声を掛けた。
マルクは何も言えなかった。何度も下唇を噛んで、それから返事をすることを諦めた。
クドに心配を掛けないようにしなければ、それだけを考えながら目を瞑った。
目が覚めたら憂鬱な気分が消えていることをマルクは願った。
長らく更新できずにいましたが、ゆっくりと続きが書ければ良いなぁと思っております。