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兄弟



 マルクが丘の上から見たクレメニスは坂道の多い街だった。

 黄色い色合いのレンガで造られた街は青い海と青い空に包まれている。海鳥が飛んで行く様子を視線で追いかけてマルクが顔を上げると、空がキラキラと七色に光っていた。

 すぐに七色の光は消えてしまったが、その光はクレメニスを包んでいるように見えた。

 マルクが虹とは違う七色の光を探して空を見ていると、ユースが鳴き声を上げた。

 急かされるような鳴き声を聞いて、早くしないと日が暮れてしまうと気が付いたマルクは坂道を下る。坂道からたくさんの船が泊まった港と街の中心にある大きな建物が見えた。

 港と大きな建物を繋ぐ傾斜のある大通りには人が溢れ返っている。

 人々が集まっている大きな建物は乳白色をしていて、外観から神聖さが感じ取れた。

 港に泊まった大きな船から観光客が乗り降りしている様子が見えた。

 街に近付くにつれて通行人が増えて行く、バスの停留所には多くの人が集まっていた。

 彼らの話し声に耳を立てれば、行き先がホテルだということが分かった。

 坂を下りきると海が近いようで、マルクは塩の匂いを強く感じた。

 辺りを見回せば畑や森ばかりだった風景から、黄色いレンガ造りの建物が立ち並んだ街並みに変わっていた。多くの人々で通りはごった返している。

 通りを行く着飾った人々は浮き立った様子で目的地へと早足で向かう、ここには暗い表情の人などいなかった。皆が楽しそうで、幸せそうな顔をしている。

 多くの建物が商店で、土産物や輸入雑貨、それから鮮魚を扱った店が多く並んでいる。

 魚の焼ける良い匂いに交じってフルーツの甘い香りがして、マルクが周囲を見回すと人混みの間に屋台を発見した。どうやらカットフルーツを売る屋台のようだ。

 屋台は他にもアイスクリームやサンドイッチ、魚介類の網焼きを売る屋台もあった。

 マルクは観光客に紛れ込んで魚屋のおじさんから試食用の海老の串焼きをもらう。串焼きの香ばしさとしょっぱさは雰囲気にピッタリで、少しだけ観光客の気分を味わえた。

 ゴミ箱に串を捨てていると、どこからか楽しげで陽気な音楽が聞こえてきた。

 その陽気な音楽は機械を通した音楽ではないらしく、ストリートミュージシャンが演奏をしているようで人々の拍手と歓声が音楽と共に聞こえてきた。

 丘の上ではまだ空は明るかったが、現在は少し暗い。空の朱色に黒色が混じる。

 夕食の買い出しに来た主婦が鮮魚店を覘き、観光客たちは食事のできる店を探している。

 周囲の様子を見て、マルクは夕食を食べられないかもしれないことに気が付いた。

 しかし、陽気な音楽と楽しげな雰囲気に飲まれたマルクはそのことをすぐに忘れて、人々の群れに流されていく。どこに向かっているのかも分からずに流れに沿って歩いた。

 ユースが頭に乗っかったのを感じながら、マルクは周囲をキョロキョロと見回す。

 薄暗い街に街灯が灯り、宝飾店のショーウィンドウに飾られた模造品が光を浴びてイルミネーションのように輝いている。その光景は現実的だが、不思議と幻想的だった。

 緩い坂道の大通りを上っていくと、食品関連の店から宝飾や服の店が増えていく。

 ふと、すべての店に同じポスターが飾られていることに気が付いた。

 ポスターにピンクホワイト色の髪の小さな女性が花束を持った姿で写っていて、何かを告知しているようだ。文字が読めないマルクには何を宣伝しているのか分からなかった。

 足を止めてポスターを見上げていると、マルクの隣で同じように足を止める人がいた。

 マルクが視線を向けると、そのポスターに写る女性に少し似た子供がいた。

 よく見るとその子供には小さな羽が生えている。ポスターを確認すると女性にも小さな羽が生えているのが分かった。どうやらヒトではないらしい。

 その子が「花祭り楽しみだね」と言う。マルクは花祭りを知らなかったが、小さく頷いておいた。子供はニッコリと笑顔を作るとマルクに別れを告げて大通りを駆けていく。

 その後姿を見送りながら、ポスターが祭りの告知をしているのだとようやく気が付いた。

 マルクが人混みに視線を戻すと、荷車を引く大きな馬が車道を通って行くのが見えた。

 本物の馬を初めて見たマルクは「おおきい……」と呆気に取られたように呟いた。

 バスや汽車が一般的には利用されているらしいが、まだまだ馬も現役だと知ってマルクは感動した。感動を与えてくれた大きな馬を追いかけて大通りを進んだ。

 幼いマルクが大人たちの間を擦り抜けるのは危なくて、その危機感が刺激的だった。

 初めの内は観光客らしき人に軽くぶつかってしまっていたが、マルクはすぐに人混みに慣れて大人たちを避けて歩けるようになった。踊るような軽い足取りで進んだ。

 それが少し楽しくて、マルクは人々の間を早足で通り抜けていった。

 走り回る子供に驚いた人々に軽く謝りながらマルクはもっと早く走った。彼らの驚く顔がとても面白くて、我を忘れたマルクはケラケラと声を上げて笑った。

 マルクが笑っていると、フリュージアの声が聞こえたような気がして足を止めた。

 しかし、マルクはそれを気のせいだと思ってすぐに足を動かした。

 この先に何か楽しいことが待っているかもしれないと思うと居ても立っても居られなくなり、立ち止まることはできなかった。考えるよりも先に身体が動き出しているのだ。

 今のマルクにはフリュージアのことを考えられる余地がないのだ。

 しばらく走ると斜面が終わり、平らで開けた場所に出る。大通りは半ばで広場になっていた。花祭りがあるからか、広場は多くの花で飾りつけられていた。

 広場は休めるようにベンチが置かれていて、大きな噴水が設置されている。時計塔や石造りの舞台もあった。そして横切るように水路が通っていて、街中に水が流れている。

 噴水の近くにもストリートミュージシャンや大道芸人がいて、軽食を売る屋台があった。

 マルクが広場を見て回っていると、手品を練習する女性と彼女の動きに合わせてアコーディオンを演奏する少女がいた。呼吸を合わせようと手筈を整えている。

 女性はマルクと同じように耳が長く、耳の先では大きなイヤリングが輝いている。

 耳の長い女性はマルクに気が付くとニッコリと笑顔を作って近付いてきた。

 女性は一本の赤い造花を上着の内ポケットから取り出して「お祭りの時には家族で見に来てね」と言いながら赤い造花をマルクに差し出した。

 マルクが赤い造花を受け取ると、女性はいたずらっ子のような笑顔を見せた。


「君はお花よりもお菓子の方が好きかな?」


 女性はそう言いながらマルクに渡した赤い造花へと手を伸ばす、彼女の後ろで少女がアコーディオンを鳴らした。演奏に合わせて女性が造花をゆっくりと撫で、片方の手で指を鳴らして手を退かすと花の部分が包み紙が巻かれた丸い物体に変わっていた。

 マルクが包み紙を剥くと、艶のある真っ赤な玉が作り物の茎についている。赤い玉を触ってみるとベタベタしていて、甘くてとても良い匂いがしていた。

 赤い造花が棒付きの真っ赤な飴玉に変化していたのだ。マルクはとても驚いた。

 手渡された時は確かに赤い造花だったのに、現在は飴玉になっている。不思議そうにマルクが飴玉を観察していると、嬉しそうな女性が小さく笑った。

 ハッとしたマルクが女性に飴を返そうとすると、彼女は「上げるよ」と笑った。

 女性に「食べてごらん」と言われて、素直に飴玉を舐めると甘酸っぱい苺の味が口に広がった。口に入れると飴玉は大きくて、マルクの口の中は苺の味でいっぱいになった。

 興奮したマルクは頬を赤く染めながら「ほんものだ!」と嬉しそうに声を上げた。

 女性に「見に来てね」と言われたマルクは肯いて、近くのベンチに座って飴玉を舐めた。

 歩きながら食べるのは危険だと姉に何度も注意されていたので、マルクはその言い付けを守って動かなかった。どうやら家を出た目的をすっかりと忘れているらしい。

 飴を食べ始めてから少し経ち、マルクの頭の上にいたユースがソワソワと動き出す。

 しばらく経つと、痺れを切らしたユースがマルクの頭から降りてベンチに立った。

 ユースはマルクを見上げながら「ホウ!」と鳴き、どこかへと飛んでいってしまった。

 マルクは『ここで待っていて』と言ったのかなと予想しながら星空を見上げた。

 ぼんやりと星空を見ていたマルクは寒さを感じて、ブルリと身体を震わせた。

 昼間は暑かったが、夜間は寒い。この世界の季節を知らないが、今は春か秋のようだ。

 星空から視線を外してマルクがゴミ箱に包み紙と棒を捨てに行くと、近くのベンチに男性が座っていることに気が付いた。その男性はとても幻想的な格好をしていた。

 まるでおとぎ話に出てくる旅人か狩人のような恰好をしていたのだ。

 フードの付いた革のマントに、ボロボロになった革製の手甲、鉄と革で作られた重そうなブーツ、腰のベルトには黒い鞘に納められた大型のナイフがぶら下がっている。

 厚い布で作られたパンツは擦り切れて所々に穴が開いていて、しばらく髭を剃っていないのか無精髭が目立っていた。マルクは旅人のような男性をカッコいいと思った。

 男性の髪は赤黒い色をしていて、目は真っ赤な色をしている。ふと、マルクは男性と自分の顔が似ていると思った。そっくりとまではいかないが、とても似ていると思った。

 マルクは気が付くと男性のすぐ側まで来ていた。彼は膝に大きな本を乗せている。

 それはとても古い本のようで埃を被り、表紙は擦り切れていて白っぽい色になっていた。

 男性のささくれ立った指が表紙の傷を撫でている。マルクが彼の顔を覗き込むと、彼はわずかに目を細めた。マルクは彼のことを知っていると思った。

 近付いて気が付いたことだが、思ったよりも男性が若いことにマルクは驚いた。

 ――若いことに驚いて、それから彼が姉よりも若かったことを思い出した。

 思い出した情報にマルクはとても混乱したが、すぐに前世の記憶だと思い至った。

 アムールなのか、リェサーニアなのか、どちらの記憶なのか分からない。だが、確実に彼とは何度も会っている。マルクは確信していた。

 マルクが男性の隣に座ると、彼はマルクに見せるように本を開いた。そこにはグネグネとした文字ではなく、カクカクとした模様のような文字が書かれていた。

 模様のような文字を見た時に胸がとても熱くなった。だが、すぐに冷たくなった。

 それが氷を押し付けたような冷え方だったので、いつもと違う感覚にマルクは小さく首を傾げた。不思議そうに服の上から胸を撫でていると、男性が口を開いた。


「――これは三人の王の話、フレリアからこの話は聞いたかな」


 マルクが首を横に振って答えると男性は頁を捲った。

 カクカクとした文字とベッドに置かれた三つのタマゴの絵が描かれている。タマゴには光が当たっているのかトカゲのような影が透けて映っていた。

 そして、三つのタマゴを優しげな表情で見詰める男の人も描かれていた。

 マルクは描かれている人を直視することができなかった。覚えのない罪の意識を感じた。


「ガルニの始まりには三人の王がいた、彼らは神に作られた子供たちだった」


 男性はマルクに三人の王の話をしてくれた。淡々とした口調で不愛想に語った。

 男性は絵本の読み聞かせには慣れていないようで、度々言葉を詰まらせていた。

 それでもマルクは嬉しかった。姉に昔話を語ってもらうのとは違った嬉しさがあった。

 ――彼らの母親は夜の魔物だった。人間の子供を産むことが出来ない女だった。

 女は神の親友だった。女は親友に頼み、子供を授けてもらうことにした。

 しかし、神の力を以てしても子供を授けることはできなかった。

 そこで神は女の魂と男の魔力を三つに分けて子供を作ることにした。女は子供を授かることができたが死んでしまう。男は魔法の使えない身体になった。

 最愛の人を亡くして悲しむ男に神は言った。


「最初に生まれる子供は怒りの愛を、次に生まれる子供は悲しみの愛を、最後に生まれる子供は幸せの愛を持って生まれるだろう。三人は常に一緒に居なければならない」


 女の魂を別けて作られた王たちは三つで一つ、どれか一つでも欠けてしまえば皆が不幸になるだろうと神は男に告げた。そして神はクレガルニに祝福を与えた。

 神に作られた三人の王はヒトの姿で生まれてこず、尾が生えた四つ足で歩くモノだった。

 最初に生まれた王には眼と鼻があったが口と耳はなく、次に生まれた王には口と鼻があったが眼と耳はなく、最後に生まれた王には長い耳と鼻があったが眼と口がなかった。

 最初に生まれた王は巧みに水の中を泳いで見せ、次に生まれた王は巧みに言葉を操って見せた。しかし、最後に生まれた王は楽しげに耳を揺らして踊るだけだった。

 すぐに二人の王はヒトの子供たちと同じような姿に成長したが、最後の王はゆっくりとヒトの姿へと変化した。だが、三人とも大人になるまで尾と水かきが生えたままだった。

 最初の王は勇敢な青年に、次の王は賢い青年に、最後の王は純粋な青年に育った。

 最初の王はその勇気で国を大きくし、次の王はその知恵で国を豊かにした。最後の王はというと、その純粋な心でガルニの民を笑顔にしてみせた。

 最後の王に飛び抜けて秀でたものはなかったが、皆が最後の王を愛した。最後の王もガルニの人々を、家族を愛していた。彼らはとても幸せだった。

 しかし、年老いた父親が亡くなってしまうと彼らの仲に亀裂が入った。

 神に作られた彼らには明確な寿命がなかった。しかし、ガルニの民の誰よりも長く生きるのは明白だった。それに気が付いた最初の王は力を求めるようになった。

 最後の王は考え方の違う最初の王と口喧嘩をするようになった。二人の口喧嘩を嫌がった次の王はあまり喋らなくなってしまい、本棚の影に隠れるようになった。

 幼い心を持っていた最後の王は最初の王と激しく言い争いをして、二人を置いて城から出て行ってしまう。最後の王が城に戻ってくることはなかった。

 父親との約束であり、遺言でもある「三人で力を合わせて永く幸せに生きてほしい」という言葉を三人の王は守れそうになかった。

 最後の王がいなくなり、次第に二人の王から笑顔が消えていった。

 二人は幸せの愛を持っていなかったからだ。幸せの愛がなければ幸せにはなれない。

 幸せの愛を持っていても、一人では幸せにはなれない。一つでは幸せになれない。

 三人の魂は三つで一つ、どれか一つでも欠けてしまえば幸せにはなれない。皆が不幸になってしまう。城を出た最後の王も不幸だった。だが、彼は最期になっても帰らなかった。

 帰ってきたのは彼が書いた一冊の書物だけだった――男性はそう締め括って本を閉じた。

 この話を聞いたマルクは悲しさを覚えた。内容に悲しみ、男性に読み聞かせてもらった嬉しさが心の中で複雑に絡まり合う。喜べばいいのか、悲しめばいいのか分からない。

 困ったマルクが男性を見上げると、彼はマルクの長い耳に触れた。


「お前の行動次第では幸福が齎される、破滅も齎される。お前があの忌々しい神から何を聞いたかは知らない。だが、アレはお前を幸せにする存在ではないよ」

「……フリュージアさんは良い人だよ、すごく優しいんだよ」


「今は希望でも、アレが絶望でもあることを忘れるな」と男性は言いながらベンチから立ち上がる。そして彼はマルクにボロボロになった本を差し出した。その顔は無表情だった。

 マルクが本を受け取ると、男性はマルクに背中を見せた。

 男性は歩き出す前に「お前のことは嫌いではないけど、好きにはなれないよ」とマルクに伝えると広場から去って行った。マルクの心に複雑な感情が残った。

 寂しくなったマルクは大きな本を抱えた。額を擦り付けるとわずかに薬の臭いがした。

 本に染み付いた薬の臭いを嗅いで、マルクはフリュージアがティアムとアミルに説明していたことを思い出した。マルクの前世の一つであるリェサーニアには兄がいたのだ。


「ナトリア・ドルガー……」


 その名前はピッタリと彼に当てはまったように感じた。

 彼はリェサーニアの兄であるナトリアに違いないとマルクは思った。ナトリアがリェサーニアを嫌いではないと言ったように、きっとリェサーニアもナトリアを嫌いではない。


「ぼくは……神さまに作られたから何回も生まれ変わっているのかな?」


 マルクはそう呟いてから自身の長い耳に触れた。特別な耳、幸せの愛を持った耳、人を幸せにするが不幸にもする耳。三番目の王、アムールの耳。


「アムールが生まれ変わっているなら、二人の王さまはドコに行っちゃったんだろう」


 マルクは「会いたいな……」と呟いた。家族に会いたいと漠然と思った。

 特定の誰かに会いたいという強い思いではなく、ただ家族に会いたかった。

 マルクが不安そうな面持ちでユースを待っていると、しばらくしてから彼は戻ってきた。

 ユースは俯いているマルクの顔を覗き込むためにベンチへと降り立った。

 マルクが古い本を抱えていることに気が付いたユースは不思議そうに首を傾げたが、題名が目に入ると動きを止めた。しばらくしてユースは小さく震えた。


「どこで……えっ? な、なんでぇ……マルクが、それ、持っているのぉ?」


 今まで頑なに喋らなかったが、動揺したユースはマルクに問い掛けた。

 マルクが「ナトリア……」と小さな声で答えると、ユースがベンチに倒れ込んだ。

 ユースは呆然としているらしく小さな声で「なとりあ」と呟いた。

 すぐにユースは「なとりあぁ」と嘆きながら足をバタバタと動かした。そして「フリュージアに怒られちゃうよお」と泣きながらベンチの上を転げ回った。

 ユースの様子を眺めながらマルクは本を抱える腕に力を込めた。大事なものを抱えるようにギュっと本を抱きしめて項垂れる。無性に家族が恋しい。

 とても落ち込んでいる様子のマルクを見て、ユースは起き上がった。跳ねるように膝元に近寄ってマルクの顔を見上げると、その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。

 マルクは「みんなを不幸にする」と呟いた。それを聞いたユースは不思議そうに首を傾げる。「なんでぇ?」とユースが問い掛けるとマルクは「耳が長いから」と答えた。

 また不思議そうにユースは首を傾げた。マルクの言葉の意味が分からなかった。


「魔人も……耳、長いよ?」

「ぼくは幸せの愛を持っているから……長い耳なんでしょ?」


「違うよぉ」とユースが言うと、マルクは「三人の王の話は嘘なの?」と聞いた。

 ユースは首を傾げながら「そもそも……幸せの愛ってなあに?」とマルクに問い掛けた。

 その問い掛けを聞いたマルクも首を傾げた。アムールが持っていた“幸せの愛”とは何だろうか、他の王が持っている“怒りの愛”と“悲しみの愛”も何を指すのか分からない。

 本を開いてみたが、マルクは本に書かれた文字が読めなかった。挿絵にも幸せの愛や怒りの愛や悲しみの愛らしきものはどこにも描かれていない。

 マルクは「なんだろう……」と呟いて腕を組んだ。その姿を見ていたユースは真似をするように羽を交差させた。マルクが首を傾げればユースも真似をして首を傾げた。

 真似をされているのに気が付いたマルクは恥ずかしそうに「やめてよ」と言った。

 ユースは真似するのを止めると、まっすぐとマルクを見詰めた。


「幸せの愛はねえ、誰かのために頑張れる愛だよお」

「幸せなのに、頑張る愛なの?」

「そうだよ。フェーミーがねえ……ナクディのためにも、自分のためにも、幸せのために子供を願った気持ちが幸せの愛なんだよ。だから、幸せの愛は誰かを幸せにできる」


 ユースの話を聞いて、マルクは不思議そうな表情で「幸せの愛を知っていたのに、どうして聞いたの?」と質問した。ユースは「泣きそうだったから」と答えた。


「だからねえ、アムールはみんなに愛されたんだよ。誰かの幸せを願える人だったから」


 ユースの言葉を聞いたマルクは困った顔で「ぼく、そんなすごい人になれるかな」と呟いた。そんなマルクに「アミルとティアムの幸せを願ったよ」とユースは言った。

 マルクは恥ずかしそうに頬を掻いて、はにかんだ笑顔を浮かべた。


「怒りの愛も悲しみの愛も幸せの愛もねえ、三人の心や考え方を指しているんだよ」

「だから……アムールは最初の王さまと喧嘩しちゃったの?」

「アムールの愛とねえ、イクレンの愛が違っちゃったんだよぉ……」


「愛ってむずかしいんだね」とマルクは呟いた。ユースも「難しいねぇ……」と呟いた。

 マルクが愛について考えていると、ユースがマルクの膝の上に飛び乗った。

 そして、ユースはマルクの太腿の上で飛び跳ねながら「アミルのキラキラは?」と問い掛ける。マルクはその言葉に「忘れてた」と返答してから本を抱え直した。

 ユースが地面に降り立ってから本を抱えたマルクが立ち上がる、ユースは飛んで行かずにマルクの前を歩いた。マルクは紫色の小さな背中を追いかけて歩いた。

 広場の街灯の下を彼らが通った時に、マルクの影がわずかに揺らいだ。ユースもマルクも気が付かなかったが、マルクの影の形がゆっくりと変化したのだ。

 変化した影にはマルクの頭にはない大きな二本の角が生えていて、マルクよりも髪が長くて耳が短い。細長い尻尾らしきものが四本も生えていて、杖のようなものを持っていた。

 広場から抜ける前にユースは地面から飛び立って街灯に止まる。大通りには人々が多くいたので、小さいユースが地面を歩くのはとても危険だった。

 ユースを見上げながらマルクは大通りを進む。マルクは“アミルの手を綺麗にする”という目的を達成するために、はしゃいで走り回るということはしなかった。

 マルクは額に滲んだ汗を袖で拭った。少し傾斜が急になったのか足がわずかに痛む。

 大通りの終着点には大きな乳白色の建物があった。周りにいた観光客たちの会話に耳を立てると、その建物が大聖堂と呼ばれていることが分かった。

 大聖堂の影に建っているのは聖クレメニス魔術学園や国立図書館らしい。

 マルクが口を大きく開けて大聖堂を眺めていると、離れたところからユースが鳴いた。

 鳴き声の聞こえた方向に視線を向けると、大通りから逸れる道が見えた。そこに設置されている街灯の上にユースがいた。自分の存在を主張するように街灯の上で跳ねている。

 ユースは大聖堂を通り過ぎる道へとマルクを導こうとしていた。

 灯りに照らされて夜空に浮かぶ大聖堂を名残惜しそうに見てから、マルクはユースの元へと向かった。その道は下り坂になっていて、観光客はあまり歩いていないようだ。

 坂道を下り始めると、ユースはマルクの頭に乗った。

 ユースが道案内を止めたということは、しばらくはまっすぐ進めば良いようだ。

 マルクがゆっくりとした足取りで進んでいると、大きな男性や武装した人々の姿が目立つことに気が付いた。さっきまで一緒にいたナトリアと似たような格好の人物が多い。

 マルクがキョロキョロと辺りを歩く人たちを見ていると、ユースが小さな声で「ギルドの人たちだよぉ」と教えてくれる。だが、マルクはギルドが分からなかった。


「フリュージアさんもギルド歴とか言っていたけど、ギルドってなに?」


 マルクの質問に「みんなは何でも屋だって思っているの……」とユースは答えた。

 その返答にマルクは違和感を覚えたが、何に違和感を覚えたのかまでは分からなかった。

 わずかに首を傾げて考えてみたが、分からなかったので考えるのはすぐに止めた。


「傭兵とか、お使いとか、古い遺跡の調査と未開の地の調査とかもやってるよぉ」


 ユースの説明を聞きながらマルクは道行く人々に目を遣った。普通の人、耳が長い人、羽が生えた人や角が生えた人など、色々な人が通りを歩いている。

 通りに並ぶ店は飲食店が多いようで陽気な笑い声や言い争う声、食器を重ねる音や液体をグラスに注ぐ音が聞こえた。周囲はアルコールの臭いが漂っている。

 またキョロキョロとマルクが辺りを見回していると、マルクと同じ背丈の人物たちが見えた。彼らもマルクのように耳が長いが、先は細くなっていなくて丸くなっている。


「ねえ……ぼくと似ている人たちがいるよ、あの人たちもギルドの人なの?」


「あれはヒトじゃなくて妖精だよぉ」とユースが教えてくれた。

 マルクが「妖精?」と問い掛けると、ユースは「妖精のエルフだよぉ」と答えた。

 背丈はマルクと同じくらいだが、マルクよりも長生きをしているらしい。

 酒場が立ち並ぶ細い通りを抜けると、正面に立派な花壇が見えた。花壇の中心に大きな彫像が立っていて、花壇に沿うように道路が作られている。

 どうやら花壇に沿うように作られたロータリーのようで、車が走れるほどの広さだ。

 ロータリーを囲むように大きな建物がいくつも建っていた。

 現在が夕食時だからか、建物に入っていく人は少ないが出てくる人は多かった。

 その中には緑色の肌をした大きな耳の小人や、二足歩行の喋るネコ、他の生物の下半身を持つ人もいた。蹄が石畳を叩く音が聞こえるが、馬や牛などはここには居ない。

 本の世界からそのまま出てきたような彼らの姿を見て、マルクはポカンと口を開いた。

 そんなマルクを置いて、ユースは一つの建物の前に立つ街灯に止まった。マルクはキョロキョロと周囲を世話しなく見回しながら、ユースが止まった街灯に近付いて行った。

 ユースは一言だけ「ホッ」と鳴いてから街灯の近くにある建物を見た。

 マルクがその建物を見てから視線を街灯の上に戻すと、ユースは大きく羽を広げた。

 大きな建物に一人で入るのは勇気が要ることだったが、マルクは本を抱え直して短い階段を上った。出てくる人たちを避けながら中に入ると受付のようなものが見えた。

 受付には耳の長い黄色い髪の女性と白い髪の仮面を着けた男性がいる、二人の奥には扉と棚があり、待合所には大量のソファーと紙の張り付けられた掲示板が窓際にあった。

 待合所の奥の廊下には多くの扉と階段があり、扉にはプレートが取り付けてある。

 掲示板の側や廊下には談笑する人々の姿があり、彼らには荒々しい雰囲気があった。

 マルクはソファーの上で眠る大きな男性を眺めながら受付に近付いた。

「あのぉ……」とマルクが控えめに声を掛けると、受付にいた女性が「ギルドは初めてのご利用ですね、身分証明印をお見せください」と笑顔を浮かべて言った。

 マルクは女性の言った身分証明印という言葉に混乱した。どうしたらいいのか分からなくなってオロオロとした様子で周りを見た。頼れるものは何もなかった。

 挙動不審なマルクを見た受付の女性は訝しげな顔をして、隣の男性に視線を遣った。

 怪しげな仮面を被った男性はマルクに興味がないようで雑誌を眺めている。

 彼は机に肘を突き、雑誌の頁をペラペラと捲りながら「身分証明印の提示ができないならおかえりくださーい」と気だるそうに言った。

 女性が「李白(りはく)さん!」と叱るが、気にした様子のない男性は「構成員になるには若すぎるので五年後くらいに生きていたらまた来てくださーい」と先程と同じ調子で言った。

 どうやらここはギルドの建物らしい、何でも屋だと思われているギルドの建物だ。

 困ったマルクは仮面の男性――李白を見上げる、よく見ると彼には大きな白い羽が生えていた。仮面は鳥を模ったもののようで嘴が付いていて、彼は白鳥のようだった。

 困り果てたマルクが泣きそうになっていると、マルクの背後から「……李白さん?」と呟く女の人の声が聞こえた。マルクが振り向いても寝ている男性しかいなかった。

 マルクが視線を受付に戻すと、李白がジッとマルクを見ていた。

 しばらく黙り込んだ後に李白は「……用件は何かな?」とマルクに問い掛けた。

 受付の女性が「えっ」と驚くと、彼は「古い友人が居るようだから」と困ったような声で笑った。マルクはもう一度背後を確認したが、やはり女の人の姿は見えなかった。

 不思議に思ったが、マルクは受付に視線を戻して質問をする。


「アミルちゃんの手をキレイにしてあげたいです、どうしたらキレイになりますか?」


 マルクの質問を聞いた二人は呆気に取られたのか動きを止めた。

 そんなことを聞かれるとは思っていなかったようで、すぐに答えることができなかった。

「えっと、今なんて?」と受付の女性が聞き直すと、マルクは同じ質問を繰り返した。

 質問を理解した李白が「好きな子のために健気だね」と笑うと、受付の女性は「祭りが近いですからね」と疲れた声で呟いた。彼女の声色は疲れていたが表情は微笑んでいた。

 李白は雑誌を閉じてから小さなため息を吐いた。


「綺麗にもいろいろあると私は思うのだけど……君はアミルお嬢さんの手をどう綺麗にしてあげたいのかな。具体的に言ってくれれば君の願望に副えるかもしれないよ」

「えっとね、こう……ツヤツヤだから、キラキラってなったらいいなあって思う」


 マルクの返答を聞いた李白は隣の女性に「私には彼が何を言いたいのか全く分からないのだけど」と耳打ちをする。返答に困った女性は苦笑いを浮かべていた。

 二人が困惑しているのを感じ取ったマルクは「星空みたいな感じで」と付け足した。

「手を星空みたいにしたいの……?」と不思議そうに女性がマルクに問い掛ける。それを聞いた李白は「君はネイルアートには全く興味がなさそうだからね」と笑った。

 李白に笑われた女性はとても悔しそうな表情を浮かべた。


「私が言えることは……アミルお嬢さんは手先をよく使うし、衛生面をとても気にするようなことをしているからネイルアートはあまりお勧めできないかな」


 李白は「贈り物ならバレッタかブレスレットがお勧めかな」とマルクに助言をした。

 その言葉を聞いたマルクは納得して頷き、それから不思議そうに首を傾げた。

 李白の助言はアミルを知らなければできないようなものだった。


「アミルちゃんをしっているの?」


 李白は笑いながら「話したことはないね」と答えた。


「気を使える男は女性に好かれるから、憶えておくといいよ」

「良いことを言っていますけど、李白さんが言うと悪い意味に聞こえます」


 女性が不愉快そうに言ったのでマルクが「悪い人なの?」と質問すると、彼女は「この人はものすごく悪い人ですよ」と答えた。それを聞いた李白は軽く笑っていた。

 マルクには李白が悪い人に見えなかった。不思議そうに首を傾げていると李白が呟いた。


「女性に好かれると何故か怨まれやすくなるみたいでねえ」


 李白の言葉を聞いた隣の女性はため息交じりに「自分で原因を作っておいて何を言っているのやら……」と呟いた。それを聞いていた李白はやはり軽く笑っていた。


「まあ、私の話はどうでも良いよ……贈り物が欲しいなら良い店がある。君の保護者もよく知っている店でね、アミルお嬢さんの爪にも負けない石がある筈だよ」


 李白は「三区に在るトゥアレイニーアだよ」と言いながらマルクに紙切れを差し出した。

 紙切れを受け取って見てみると、そこには模様のような文字で何かが書かれていた。

 マルクが「わからない」と素直に伝えると「読む必要はないさ」と李白は言った。

 李白が「ポケットにでもしまっておきなさい」と言うので、マルクは言われた通りにポケットに押し込んだ。ポケットの中で紙がクシャクシャと音を立てた。

 マルクが色々と教えてくれた二人に感謝と別れの挨拶を言っていると、受付に一人の男性が近付いてきた。その男性も耳が長く、女性と同じ黄色の髪だった。

 男性は長い耳の先にピアスを着けていて、ピアスの重みで耳が垂れ下がっていた。

 マルクが受付から離れようとすると、男性が「ちょっと待って」と言って引き止めた。

 男性を見上げると、彼は両目を閉じていた。だが、しっかりとマルクの立っている方へと顔が向いている。瞼の向こう側からジッと顔を見られているようにマルクは感じた。


「いきなりでごめんよ、君が良ければその本を見せて欲しいんだよ」


 マルクは少し悩んだ。落ち込んでいた時は本が大事なもののように思えたが、今はそれほど大事だとは感じない。しかし、知らない人に物を貸すのには抵抗があった。

 困った様子のマルクを見た男性は「やっぱり駄目だよねぇ」と少し残念そうに言った。


「一度も見たことがない本だったから気になっちゃってね……引き止めてごめんね」


 その発言を聞いた受付の女性が驚いたように「ユフィーリエさんでも見たことがない本ですか?」と聞いた。彼――ユフィーリエは「絶対に見てないし、読んでない」と言った。

 スゴイものをもらったのかなあとマルクは本を見ながらぼんやりと思った。


「……絶対に返すから見せてよぉ、お金も払うから」


 ユフィーリエの言葉を聞いたマルクは自分が通貨を持っていないことに気が付いた。

 このままではブレスレットもバレッタも買えないことに気が付き、マルクは深く悩んだ。

 ナトリアから貰った大事な本を見ず知らずの人に貸すべきか、それともアミルへの贈り物を諦めるべきなのかをマルクはとても悩んだ。

 ――悩んだ末にマルクはユフィーリエに本を貸すことにした。なぜなら、ここまで導いてくれたのがユースだったからだ。神の導きには何かしらの意味があると思ったのだ。

 マルクが本を差し出すとユフィーリエは瞳を開かずに驚いた顔をした。

「良いの?」とユフィーリエが問い掛け、マルクは「ブレスレット買って」と頼んだ。

 頷いたユフィーリエはマルクから本を受け取り、待合所のソファーに座る。本の表紙を眺める時に彼は瞳を開いた。彼の目は一言で表すと緑色だった。

 ユフィーリエの眼は白目がなく、緑色だけだった。ただ緑色をしているだけではなく、その眼はキラキラと宝石のように輝いていた。まるでエメラルドのようだ。

 フリュージアの杖やティアムの角やアミルの爪と色は違うが同じように見える。ユフィーリエの瞳は部屋の灯りに照らされてキラキラと、そしてツヤツヤと煌めいていた。

 マルクがユフィーリエの宝石のような眼をジッと見ていると、同じように受付にいる女性がユフィーリエを見詰めていることに気が付いた。

 マルクが受付の女性を眺めていると、彼女は見られていることに気が付いたようで恥ずかしそうにユフィーリエから顔を逸らした。隣にいる李白は少し機嫌が悪そうだ。

 不満がありそうな李白が「遠距離は絶対に上手くいかないと思うけどね」と呟くと、女性は「近距離でも問題のある人が何を言っているのですか」と怒ったように言った。


「リハクさんはお姉さんが好きなの?」


 マルクが問い掛けると、受付の女性は「この人は女性が好きなだけですよ」と言った。

 李白が「運命の相手が現れないだけさ」と笑うと、女性がため息交じりに「物は言いようですね」と呟いた。二人はとっても仲良しなのかなとマルクは思った。

 マルクが二人と話していると、読み終わったらしくユフィーリエが立ち上がった。

 ユフィーリエがマルクに本を返す時、彼の瞳は開かれたままだった。

 宝石のような眼をマルクが見上げると、ユフィーリエの眼がわずかに光ったような気がした。それから彼は驚いたような表情を浮かべた。

 ユフィーリエは何かをマルクに言おうとしたが、諦めたのか首を振ってからマルクの背後に顔を向けた。それに釣られてマルクも自身の背後を見たが、何もなかった。


「あれ、すごく久しぶりだよね。私のことは……もう憶えてないかなぁ」


 ユフィーリエは喋り掛けていた。マルクは背後をもう一度見たが、やはり何もない。

「あ、憶えていてくれたんだね」とユフィーリエが嬉しそうに言うのを聞いて、マルクは自分には見えない女の人が背後にいるかもしれないことに気が付いた。

 戦慄したマルクがユフィーリエと李白の顔を交互に見上げると、二人は笑いながらマルクに大丈夫だと言った。二人は大丈夫だという理由を説明してくれなかった。

 それに納得できなかったマルクが受付の女性を見ると、彼女も大丈夫と言った。

 マルクは納得できなかったが、三人が大丈夫だと言ったので渋々信じることにした。


「それで……ブレスレットっていくらするの?」


 ユフィーリエの質問にマルクは「わかんない……」と答えた。

 そんな返答をされると思っていなかったユフィーリエはとても困っていた。

 困っている二人を見て、李白が「彼に送って行って貰うと良いんじゃないかな」と提案した。だが、知り合ったばかりの人について行くのは良くないことだとマルクは思った。

 心配そうにマルクが考え込んでいると、李白がマルクの背を押すような説明をした。


「ユフィーリエは世界図書館の司書をしていてね、世界図書館というのはミアーティス国に在る特別な図書館なのだけど……元々は魔人の国に在ってね」


 マルクが「魔人の国?」と不思議そうに聞くと、李白は「魔人の国ができる前からその地に図書館は在ったようだよ」と答える。そして彼はマルクの背後に視線を向けた。


「そこには国が在ったらしくてね、だけど……どんな国が在ったのかは分かっていない」


 李白の説明に、ユフィーリエが「クレガルニだよ」と説明を追加した。

 マルクは二人の言葉を聞いて、ユースが自分をギルドに導いた理由が少しだけ分かったような気がした。「二番目の王の本棚……」と呟いて本に視線を落とした。

 二人の王が言い争うのを嫌がって本棚の影に隠れるようになってしまった二番目の王は世界図書館にいるのだろうか、まだアムールを待っているのだろうか。


「やっぱりその本はクレガルニの本なんだね」


 マルクが「書いてなかったの?」と問い掛けると、ユフィーリエは「国名までは書いてなかったよ」と答えた。冒頭の言葉はナトリアが付け足したものだったようだ。

 ユフィーリエが司書だと知ったマルクはこの本は世界図書館に寄付しようと思った。

 もしも二番目の王が世界図書館にいるなら、彼にもこの本を見て欲しいと思ったのだ。

 本棚が故郷から離れているので、二番目の王も寂しい思いをしているかもしれない。

 マルクが世界図書館に置いて欲しいと言って本を差し出すと、ユフィーリエは少し驚いてから微笑んで肯いた。少しの寂しさと少しの嬉しさをマルクは感じた。

 寂しさはナトリアに貰った本を手放すことを残念に思うリェサーニアの心で、嬉しさは二番目の王のために本を譲れて誇らしく思うアムールの心かもしれないとマルクは思った。

 本を受け取る際にユフィーリエは小さく「幸せの愛なのかな」と呟いた。

 ユフィーリエに微笑んでからマルクは李白の顔を見上げた。


「どうしてリハクさんは、ぼくがクレガルニに関係しているってわかったの?」

「君の後ろにいるご婦人に聞いたからさ」


 その言葉を聞いたマルクが少し怯えるような仕草をすると、その様子を面白がった李白がクスクスと笑った。笑われたマルクは口を尖らせて怒った。

 そしてマルクは頬を膨らませて「怖がってないよ」と強がって見せた。

 肩掛けの鞄に本を閉まっているユフィーリエの手を引いてマルクは出入り口に向かう。

 出て行く前にマルクは念を押すように「怖がってないよ!」と言ってから外に出た。

 二人で短い階段を下りているとマルクの頭にユースが止まる。紫色のミミズクが飛んできたことに驚いたのか、ユフィーリエが短い悲鳴を上げた。

 マルクが「友達なの」と伝えるとユフィーリエは「……しょうがないよね」と言った。

「かまないよ」とマルクは言ったが、怯えた様子のユフィーリエは「分かっているんだけどね……」と呟いた。彼は鳥が苦手なのかなとマルクは思った。

 ユースが翼を広げて「ホォ」と鳴くと、ユフィーリエがビクリと震えたのが分かった。

 それを面白がっているのか、ユースは翼をバサバサと羽搏かせて高い声で鳴いた。

 マルクが「やめなよ」と注意するとユースは大人しくなった。だが、ユースは頭だけを後ろに向けてジッとユフィーリエの顔を見上げていた。

 ユースが嘴をパッカリと開くとユフィーリエは怯えた。ユースはそれを面白がった。

 グネグネと首を動かしてユフィーリエを怖がらせていると、気が付いたマルクに二度目の注意をされた。ユースは反省したのか落ち込んだような鳴き声を上げた。

 マルクは「三区は畑ばっかりだけど、お店ってあるの?」とユフィーリエに問い掛けた。


「レイニーアなら二区に隣接しているところに在るみたいだよ」


 ユフィーリエが「ちょっと遠いね」と言う、マルクは三区から歩いてきたので遠さは身に沁みて分かっていた。ここまでの長い道のりを思い出してため息を吐いた。

「バスに乗っていこう」とユフィーリエが言ったので、マルクは喜んだ。

 しかし、マルクは通貨を持っていない。気が付いたマルクが戸惑っていると、ユフィーリエが払ってくれると言う。貴重な本を寄贈してくれた礼だと笑った。

 今度はユフィーリエに手を引かれてマルクは歩き出した。ギルド前のロータリーにはバス停があり、そこでは様々な人たちがバスを待っていた。

 ユフィーリエが時刻表を確認していると、丁度良くバスが来た。そのバスは二区の外れにも止まるらしく、ユフィーリエは「タイミングがピッタシだ」と笑った。

 バスは元の世界と一つしか違いがなかった。その違うところは運転手が人間ではないというところだ。彼は狼のような姿をしていて身体にモフモフとした毛が生えていた。

 マルクは後ろから二列目の窓際の席に座り、ユースを怖がったユフィーリエは通路を挟んだ席に座った。少し寂しさを感じたマルクは隣の席にユースを置いた。

 ユースは人前だと喋らないようで、ユフィーリエも離れた席に座っていたのでマルクは乗車中に誰とも喋らずに窓の外を眺めて過ごした。

 バス停を四つ通過して、ようやくバスは二区の外れに向かい始めた。アナウンスによると、第二地区のマクリシュト通りという場所にあるバス停らしい。

 バスはマクリシュト通りに止まり、ユフィーリエが乗車賃を払ってくれた。

 マルクはユースを頭に乗せてバスを降りる。バス停の周囲には閑静な住宅街が広がっていて、この辺に装飾や宝飾を扱う店があるようには見えなかった。

 バスから降りてきたユフィーリエの案内でマルクはトゥアレイニーアに向かって歩き出した。少し歩いてからマクリシュト通りから隠れるようにあった細い道に入った。

 街灯があまりないので暗かったが、ユースが微かに発光していたので足元はよく見えた。


「ねえ……マクリシュトってどういう意味?」

「昔はね、あの通りを使ってドルガー家で作られた魔法薬が運ばれていたんだよね」


 ユフィーリエは「古い薬の道って意味だね」とマルクに教えてくれた。

 マクリシュト通りは第一地区に在る大聖堂から第三地区に在るドルガー家まで繋がるとても長い通りらしい、大昔はクレメニスのメインストリートはここだったそうだ。

 今では大聖堂に魔法薬を運ぶ必要がなくなり、次第に住宅街になっていったようだ。

 目的地であるトゥアレイニーアはひっそりと存在していた。とても古い建物のようで窓ガラスは少し曇り、壁には苔が生えている。入り口をオレンジ色の光が照らしている。

 店だと知らせるような看板は出ておらず、一見したら古い民家のようだ。

 青鈍(あおにび)色の鉄の玄関扉はオレンジ色の明かりに照らされて、赤錆色のように見えた。

 マルクがレバーハンドルを引いて扉を開くと、店内の様子が視界に広がった。

 商品棚にはアクセサリーや雑貨が並んでいるのが見える。小瓶に詰められた色の付いた液体や、万年筆や羽ペン、石鹸のようなものまであった。

 店の奥にはカウンターがあり、そこで一人の青年が新聞を読んでいるのが見えた。

 ユフィーリエの後から店内に入ると、石鹸の良い匂いがふんわりと鼻を擽った。

「好きに選んでいいよ」とユフィーリエが言ったので、マルクはアクセサリーの並ぶ商品棚に近付いた。キラキラと輝いている商品を見たユースが嬉しそうな声を上げた。

 嬉しそうなユースが小さな声で「キラキラ、キラキラ……」と呟いていた。

 いくつもあるブレスレットを見てみたが、マルクにはどれが良いのか分からなかった。

 どのブレスレットもとても綺麗で、どれも良い商品のように思えた。

 手に取って見比べてみたが、やはりどれも綺麗でとても素敵だった。

 マルクが悩んでいると、ユフィーリエが店主らしき青年と話している姿が見えた。

 二人の様子を見ていたマルクは、カウンターの奥の棚に置かれているジュエリーに目が留まった。それはアミルの爪と同じ色、黒い色の宝石で作られた腕輪だった。

 マルクは二人のいるカウンターに近付いて、黒い腕輪を指差した。そしてマルクは「あれが欲しい」と言った。ユフィーリエは「あれは非売品だよ」とマルクに告げる。

 だが、店主は「売っても良いぞ」と言った。


「これはお前に……クレガルニの王子に贈るために作るように頼まれた商品だからな」


「ぼくに?」とマルクが首を傾げると、店主は「すでに身分証明印も刻んだ」と言った。

 身分証明印とは何かとマルクが問い掛けると、ユフィーリエが答えてくれた。

 文字通り、身分を証明する刻印らしい。魔術を学んだ人であれば、その印を見れば持ち主の身分が分かるらしい。国籍と名前と生年月日と犯罪歴と病歴などが印されている。

 マルクの住んでいた世界でいうパスポートの役割も果たしているようだ。

 この世界の人々は何らかの形で身分証明印を所持しているらしい。身体に直接印を刻む者もいれば、身に着ける物に刻んで常に持ち歩いている人もいるようだ。

 身分証明印は国家立ち会いの下で刻まれ、悪用や複製をすると重罰が下されるようだ。

「それは違法じゃないよね?」とユフィーリエが問い掛けると、店主は「当然だろう、九代目のファフルゼア・シュニクリアが依頼してきたのだから」と答えた。

 ユフィーリエが店主に証明書を見せてもらっていると、ユースがバレッタを掴んでカウンターに飛んできた。マルクが咄嗟に頭を触ると、当然ながら何も乗っていない。

 いつの間に降りたのだろうとマルクが不思議に思っていると、ユースが「アミルのキラキラ……これが良いよぉ」と言いながら片足を上げてバレッタを見せてきた。

 バレッタには白色の石で作られた月と紫色の石で作られた星が着けられている。


「アミルちゃんが黒いから、白い月と紫の星なの?」

「三つで一つ……だよ」


 ユースの言葉を聞いたマルクは納得した。

 自分では決められそうにないので、マルクは言葉通りにバレッタを贈ることにした。

 やっぱりこっちが良いとマルクが言おうと顔を上げると、ユフィーリエが店主に「もう既に料金が支払われているのに、なんで買い取らないといけないの」と文句を言った。

 ユフィーリエの文句を聞いて、店主は腕組をしながら「保管料」と言った。


「品物に対する料金は支払われているが、保管に関しての料金は支払われていない」


 店主は「数年なら大目に見たが、まさか百年近くも待たされるとは思っていなかったのでその時には要求しなかった」とユフィーリエに言った。

 店主の発言を聞いて、驚いたマルクは彼の顔を見上げた。どう見てもユフィーリエよりも若く見え、百歳以上には見えなかった。彼もヒトではなかったようだ。


「……ユフィーリエさん、ぼくこっちがいい」


 マルクがそう言うと、ユフィーリエは「身分証明印は大事なものだから」と言った。

 ユフィーリエの言葉を聞きながら店主はユースの持ってきたバレッタを見た。


「このバレッタなら七千八百ジェトだ」


 値段を聞いたユフィーリエは「純魔石なのにそんなに安い値段なの?」と怪訝そうな表情を浮かべていた。それに対して店主は「十万七千ジェトでも構わないが」と言った。

 ユフィーリエはすぐに怪訝そうな表情を消して、笑顔を浮かべながら「やっぱり七千八百ジェトでお願いするよ」と返した。安いに越したことはないと思ったようだ。

 どうやら、この世界で使用されている貨幣の単位はジェトというらしい。

 金貨や銀貨を出すユフィーリエを見ながら、マルクは「保管料はいくら?」と聞いた。

 店主は「せめて百二十万ジェトは欲しいな」と言った。

 その値段を聞いたマルクはユフィーリエが文句を言った気持ちが分かった。


「盗まれたら大変なことになるコレの所為で俺は長いこと本業を休まされることになったんだぞ。最低でもそれくらいは貰わないと納得できそうにない」


 店主がそう言うと、マルクの背後から「……すみませんでした」と謝る女の人の声が聞こえた。その声はギルドで聞こえた声と同じで、マルクは振り向かなかった。


「シーシープドラゴンの毛と角で許してくれませんかね……?」

「それらは加工に時間が掛かるからな」


 マルクの背後から「水晶蜘蛛の金糸とサラマンダーの鱗も付ける!」と女の人が言った。

 それを聞いていたマルクはわずかに首を傾げた。「もしかして、フリュージアさん?」と背後に問い掛けると、女の人の声で「バレちゃったか……」とフリュージアは言った。

 マルクは振り返ってみたが、やはりフリュージアらしき姿は見えなかった。

 キョロキョロと見回していると、女の人の声で「下だよ」とフリュージアが言った。

 マルクが下を見ると自身の影が見えた。だが、よく見ると影が自分の形をしていない。

 ジッと影を見ていると影はどんどんと濃くなっていく、最後には床も見えないほど真っ黒になった。その黒は光沢もなく、何もない暗闇だった。

 影には二本の角が生えていて髪も少し長く、フリュージアと同じ形の杖を持っていた。

 そんな影をジッと見ていると、顔の部分に赤い色の眼が現れてマルクを見上げた。

 それに驚いたマルクは悲鳴を上げて後退り、カウンターに背中をぶつけてしまった。

 まるで水中から手を伸ばすように影から手が出てきて、床を掴んで影から出てこようとしていた。マルクはゾッとしたが、これはフリュージアだから大丈夫だと言い聞かせた。

「よっこいしょ」と言いながら影から出てきたのはフリュージアだった。女の人の姿ではない、普段通りの男性の姿をした普通のフリュージアだった。

 フリュージアの顔を見上げると、彼の目は黒い色をしていた。赤い色ではない。


「二人とも帰ったらお説教だからね」


 フリュージアはマルクとユースにそう言ってからカウンターに近付き、店主に「私の角も付けるから、腕輪を引き取らせてください」と願った。

 フリュージアの本当の姿は先程の影と同じ姿をしているようだ。

 マルクがユフィーリエを見ると、彼は驚いていなかった。マルクはその姿を見て、ユフィーリエはユースが星の神だと気が付いていたのかもしれないと思った。

 視線を戻すと、どうやら店主と話が付いたらしくフリュージアは品物を受け取っていた。

 フリュージアは「後で持ってくるね」と店主に言って、ユフィーリエに感謝を述べた。


「このお店のアクセサリーが安いのはフリュージアさんがいるから?」


 マルクが思ったことを問い掛けるとフリュージアは恥ずかしそうに笑った。


「人件費も何も掛かってないからっていうのもあるよ」


 フリュージアは「あと、ここの魔石は魔力濃度が高いから魔法に弱い人が身に着けると身体に良くないんだよね。魔力異常とかの病気になるから」とマルクに教える。

 この話を聞いていたユフィ―リエは「違法品じゃなくって良かった」と安心していた。

 フリュージアはマルクの前で膝を突くと、マルクの左腕に腕輪を着ける。腕輪は近くで見ると金の線と白の線で模様が描かれているのが分かった。黒に金と白が栄える。

 どちらも月をモチーフにしているようだが、金と白は対立しているように見えた。

 そして腕輪は少し重く、子供の腕には不釣り合いな分厚さと大きさだった。

 マルクが「カッコいいね」と言うと、フリュージアは誇らしげに「シェ……親友がデザインしたからね」と答えた。ユフィーリエも覗き込んで「本当だ、カッコいい」と言った。


「終焉神話のムールレーニャとガァルルニーだねえ」


 ユフィーリエの感想にマルクが首を傾げると、彼は「ガァルルニーはこの世の最期をイメージして書かれた本に出てくる金の神さまさ」と丁寧に説明してくれた。

 ガァルルニーは分かったが、ムールレーニャが分からなかったマルクが首を傾げていると、マルクの頭に止まったユースが小さな声で「月の神さまだよぉ」と教えてくれた。

 月の神がムールレーニャ、星の神がユーヴェリウス、夜の神がウェルサー、この世界ではみんなが知っているのだろう。マルクはしっかりと名前を憶えておこうと思った。

 そんな話をしていると、店主に「用がないなら帰れ」と言われて店を出ることになった。

 ユフィーリエとはトゥアレイニーアを出る際に別れた。マルクが手を振れば、彼も同じように手を振り返してくれる。彼の垂れた耳がピョコピョコと上下に揺れていた。

 マルクとユースとフリュージアはバスに乗ってドルガー家に帰ることにした。

 後ろの座席に三人は並んで座り、フリュージアが何も言わずに出て行った理由をマルクに問い質した。マルクが正直に全てを話すと、フリュージアは怒らずに諭した。


「クレメニスは他の国に比べると治安が良い国だけど、この国にも人攫いとか変質者はいるから大人と一緒に出掛けないとダメだよ。何か遭った時に守れないからね」


「怒らないの?」とマルクが問い掛けると、フリュージアは「帰ったらアリジアとアミーナとアミルとティアムが怒るから、私が怒る必要はないでしょ」と笑って答えた。

 怒られる想像をしたマルクが嫌そうな顔をすると、フリュージアは声を忍ばせて笑った。

 マルクの頭の上で大人しくしていたユースが小さく息を吐くと、思い出したようにフリュージアが「でも、ユース君は帰ったらちゃんとお説教するからね」と言った。

 それを聞いたユースはビクリと震えて、絶望したような顔でフリュージアを見上げた。

 大きな瞳が涙に濡れて、夜空のようにキラキラと輝いている。


「可愛い子ぶってもマルクを連れ出したのは事実だし、危ないのは知っていたもんね」


 ユースが「ホ……ホッ」と鳴くと、フリュージアが「あと、ユフィーリエさんを怖がらせて遊んでいたよね」と言った。ユースは反論できなくなったようで項垂れていた。


「マルクなら大丈夫だと信じていたけど、すっごく心配したんだよ」

「フリュージアさん……心配させてごめんなさい」


 素直に謝るマルクの背中をフリュージアは撫でた。彼の表情はとても優しかった。

 しばらくして、マルクの背中から手を離したフリュージアは天井を見上げる。気になったマルクが横顔を窺うと、彼はとても悲しそうな顔をしていた。

 マルクは、どうしてそんなに悲しそうなの? と聞くことができなかった。

 ――なぜなら、あのフリュージアが涙を流したからだ。



 ドルガー家に戻ったマルクは出迎えてくれたアミーナに叱られ、連絡を受けて戻ってきたアリジアとティアムに叱られ、部屋から出てきたアミルにネチネチと(なじ)られた。

 フリュージアに居間へと連れていかれても、アミルとティアムはその後を着いてきてマルクをネチネチと叱った。喧嘩をしていたとは思えないほど二人は息が合っていた。

 マルクはフリュージアが作ってくれた夕食代わりのジャムサンドを摘み、項垂れながら二人の説教が終わるのを黙って待つしかなかった。

 見兼ねたフリュージアが「反省しているみたいだし、その辺にしておいてあげなよ」と言ったが、二人は「マルクは絶対に分かってない」と主張した。

 フリュージアは「そんなことないよ……反省してるよ」と二人に言ったが思うところがあったようで、膝を突いてマルクの顔を覗き込む。マルクはすぐに外方を向いた。

 その様子を見ていた二人は「ほら反省してない!」と声高に主張した。

 騒ぎ立てる二人に困ったフリュージアがマルクの表情を確認しようとすると、マルクは必死になって顔を隠した。そして「はんせいしてる」とマルクは主張した。


「嘘でしょ、だって怒ってるもん。昼間でも危ないのに、マルクは危機感がないわ!」

「八区以外だって危険なんだよ、人が多いところには犯罪者も居るんだよ!」


 二人に怒られて不機嫌になったマルクは「はんせいしてるって言ってるの!」と怒鳴り返した。その発言を皮切りにマルクとティアムは言い争いを始めてしまった。


「その言い草はなんだよ、僕たちがどれだけ心配したと思っているの!?」

「もう、もーうるさい! 昨日は帰れって言った!」

「そのことについてはもう謝っただろ!」

「あーもうしらなーい、もうしらないもーん。ずーっと怒っててヤな感じ!」


「二人とも鬼だ、鬼のアミルと鬼のティアムだ!」とマルクが言うと、黙っていたアミルが「なによお、お子ちゃまの癖に生意気ね!」と言い返した。それに続いてティアムが「だから子供は嫌なんだよ」と鬱陶しそうに呟く。ティアムの発言にマルクはさらに怒った。

 甲高い声で言い争う三人を見て、フリュージアは疲れたようにため息を吐いた。

 フリュージアが「もう喧嘩は止めなさい、眠れなくなるから」と注意をしたが、興奮状態の三人にはその言葉が聞こえていないようで全く効果がなかった。

 言い争う三人を見ながらフリュージアが考えていると、アミーナが居間にやって来た。

 アミーナは居間の中央に丸いテーブルを運び込むとその上に何かを並べ始めた。

 アミーナの行動が気になったようで、三人は言い争いを一旦止めて彼女を注視した。


「もう不毛な言い争いは終わりにして、ゲームとか楽しいことで勝敗を決めなさいよ」


 その発言にティアムが「誰も勝ち負けなんて争ってないけど」と指摘した。

 指摘されたアミーナは人数分の椅子を運びながら「子供がいちいち細かいことを気にするんじゃないわよ」とティアムに言い返した。それにアミルが「若さを追求するあまりママは頭まで子供になったのね」と言い、怒ったアミーナに頭を軽く叩かれていた。

 アミルは不満そうに「いつも私はまだ若いのぉとか言ってるくせに」と呟いた。

 “楽しいこと”と聞いたマルクは怒っていたことを忘れて満面の笑みを浮かべ、椅子を運ぶアミーナの手伝いを始めた。背の高い大人が座れる椅子は運ぶのも一苦労だった。

 楽しげな声を上げて椅子を運ぶマルクの姿を見て、アミルとティアムは顔を見合わせた。


「ここから六区まで歩いて行ったのに、なんであんなに元気があるの?」

「そんなことよりもアミルはあの変わり身の早さに驚くけどね」


 どうでも良さそうに「子供だからでしょ?」とアミルは言ったが、ティアムは納得できなかった。七歳児がギルドまで行き、まだはしゃぐ元気があるなんて信じられなかった。


「フリュンちゃんはホットミルクでも作ってきて、今の状態じゃ眠れないだろうし」


「アミルはココアがいいなあ」とアミルは言ったが、アミーナは許可しなかった。

 それにアミルが不満そうな声を上げながら椅子に座り、ティアムも渋々と椅子に座った。

 ウキウキした様子のマルクが椅子に座るのを見て、ティアムが口を開いた。


「やっぱり僕はオカシイと思うんだ。普通ならバスや車に乗って行くような距離を歩いたのに、そんなに元気があるのはすっごくオカシイことだと思う!」


 ティアムが続けて「だってマルクってヒトだよね!」と言う、それに対してアミーナとアミルが声を揃えて「気にし過ぎ」と返した。マルクは不思議そうに首を傾げていた。

 ティアムから疑うような眼を向けられながら、マルクは自身の身体を確認した。

 マルクの身体は特に変わりはなく、他のヒトと違う特徴がある訳でもなかった。

「ふつうだった」とマルクは言ったが、ティアムからの疑いは晴れなかった。

 ティアムにジッと見詰められながらマルクがテーブルに視線を移すと、アミーナが大きな紙を広げているのが視線に映る。大きな紙の他にはサイコロや駒などが見えた。

 どうやらすごろくゲームのようだが、マルクにはマスに書かれた文字が読めなかった。

 マルクが素直に文字は読めないことを告げると、アミーナが二人に文字を読んであげるように頼んだ。アミルは嫌そうな声を上げたが、ティアムは何も言わなかった。

 朝食後にマルクから在宅学習をしていたとティアムは聞いていたので、文字が読めなくても変ではないと思ったらしい。ティアムは「気にしなくても大丈夫だよ」と言った。

 ティアムの言葉にアミルが「すぐに猫被るんだから」と文句を付けた。

 喧嘩を始めそうな様子の二人を窘めながらアミーナがゲームの準備をしていると、ホットミルクを乗せた盆を持ったフリュージアが居間へと戻ってきた。

 マグカップを子供たちの前へと置きながらフリュージアはアミルとティアムに言った。


「魔法とか魔術で妨害したら問答無用で最下位だからね?」


 笑顔のフリュージアが釘を刺すと、二人はとても不満そうな表情になった。

 アミルは「妨害がないなんて面白くないじゃない!」と嘆き、ティアムは「そんなのただの子供の遊びじゃないか!」とフリュージアに抗議をしていた。

 マルクが首を傾げながら「二人はエルフだったの? 子供じゃなかったの?」と問い掛けると、フリュージアは軽く笑いながら「大人ぶっているだけだよ」と答えた。

 明日も朝が早いらしいアミーナは先に眠りに着くことになり、子供たちの面倒は眠る必要がないフリュージアが見ることになった。その時は全員がすぐに終わると思っていた。

 ――しかし勝敗は中々着かず、気が付けば朝になっていた。

 アミルとティアムによる妨害はなかったが、不思議と誰もゴールに辿り着かなかった。

 あと一歩という所でスタート地点に戻ってしまったり、後退してしまったりしていて決着がつかないのだ。違和感を覚えていたフリュージアは不思議に思い首を傾げた。

 アミルは負けたくなかったが、疲れ果てていたので「ねえ……もうアミルの負けでいいからやめていい?」と聞いた。それを聞いたマルクが不満そうな声を上げた。

 不満そうなマルクを見たティアムが「なんでまだ元気なんだよ」と不機嫌そうに呟いた。

 二人の妨害ばかりに気を遣っていたフリュージアはそんなマルクの様子を見て、まだゲームを続けたいマルクが無意識に魔法を使用して妨害行為をした可能性に思い至った。

 マルクは魔法や魔術の扱い方を学んでいないが、魔力を扱う素質はあったのだ。

 その可能性に気が付いたフリュージアはマルクの肩に手を置き、アミルにサイコロを振るように指示をした。アミルは嫌そうだったが、渋々とサイコロを振った。

 その一振りでゲームの勝敗はあっさりと決まり、アミルの駒はゴールへと辿り着いた。

 驚いている二人を見ながら、フリュージアはマルクが妨害していたことを確信した。

 フリュージアが「……マルクが最下位ね」と疲れた声で言うと、二人が声を揃えて「マルクが妨害したの!」と怒った。怒られたマルクはきょとんとした顔をしている。

 しばらくしてからどうして怒られたのか理解したらしく、マルクは嬉しそうな顔で「ぼくも魔法使いになれる?」と質問をした。そんな様子を見た二人は深いため息を吐いた。

 マルクはフリュージアに魔法の使い方を教えて欲しいと強請っていたが、しばらく経つと何も言わなくなった。そして、マルクは小刻みに震えながらテーブルに突っ伏した。

 突然静かになったマルクを見て、ティアムは「すべて魔法の所為か」と納得した。

 小さな声でマルクが「なんか……痛い」と呟くと、フリュージアが「疲れているのに無理に身体を動かしていたからだよ」とマルクの背中を撫でながら答えた。

 痛みに嘆くマルクを見ながらアミルがニヤニヤと笑った。


「今日の朝ごはんは絶対にママの薬膳スープよ、超不味いヤツが出てくるのよ」

「……あーあ、マルクかわいそう。すんごい不味いママのスープを飲まされるんだ!」


 アミルと同じようにティアムもニヤニヤとした笑みを浮かべながらマルクを憐れんだ。

 そんなアミルとティアムの様子をフリュージアは呆れたような顔で眺めていた。

 ティアムとアミルが「かわいそうに……あんな不味いものを飲まされるなんて!」と笑うと、二人の背後から「朝から騒がしいな」と声が聞こえた。二人の表情が強張った。


「懐かしいなあ……あのスープは悪さばかりするアミーナに飲ませるためにお祖父ちゃんが作ったんだぞ。味はとっても悪いが、とっても身体に良いんだぞ」


 アリジアは笑いながら「良い子になれるようにおまじないを掛けんといかんなあ」と言って居間の前から去って行った。しばらくアミルとティアムは何も言わなかった。

 神妙な表情を浮かべながらアミルが「今日は朝早くから学校に行かなきゃいけない用事があるから、もう行かなきゃ」と呟くと、絶望したような顔のティアムが「ズルい、僕は早く行かなきゃいけない理由なんて作れないのに!」と嘆いた。

 フリュージアがため息交じりに「今日は魔法薬の特別授業があるから、早く行ってもアリジアからは逃げられないよ」と言うと、アミルは顔を青くして頭を抱えた。

「なんでドルガー家に生まれてしまったんだ!」とアミルが嘆くと、ティアムは声を潜めてその姿を笑った。腹が立ったアミルが睨み付けるとティアムは声を上げて笑った。

「朝はみんなでまずいスープだね」とマルクが笑うと、二人は俯いて何も言わなくなった。

 二人の様子を見たマルクがケラケラと笑うと身体に軋むような痛みが走った。

 しばらくマルクはフリュージアに背中を撫でてもらっていた。すると、軋むような身体の痛みはだんだんと和らいでいき、すぐに動ける程度には元気になった。

 フリュージアが言うには、身体の痛みは疲労とずっと魔法を使用していたことが原因なのだという。魔法は大量の魔力が移動する際に起こる現象なので、一晩の間でマルクの体内にあった魔力は何度も移動を繰り返していたことになる。さらには魔力には鮮度があるらしく、古くなった魔力は体外に放出され、新しい魔力を体内に取り込むのだという。

 魔術や魔法に慣れているものなら長時間の使用は問題ないが、まだ長時間の使用に慣れていない、魔力の扱い方が分かっていないマルクには相当な負担になったようだ。

 魔力が足りない時は体内で少し生成されるらしいが、ヒトは生成できる量がとても少ないので魔法を使用するだけで死に至ることもあるらしい。マルクは少し怖くなった。

 また、魔力そのものに耐性がないこともあり、その場合には例え身体に良い効果を与えるものであったとしても死に至ることは十分にあり得るようだ。

「魔力アレルギーみたいな」とフリュージアが言うと、マルクはとても怯えていた。

 怖がるマルクに「マルクは大丈夫だよ」とフリュージアが言ったが、長いこと真っ青な顔をして震えていた。しばらくしてマルクは「魔法使いにはなりたくない」と呟いた。

 マルクとアミルとティアムの様子はこの世の終わりが来たかのようだった。

 しばらくは嫌な沈黙が続いていたが、アミルとティアムは小さく喋り始める。二人が言うには、“不味い薬膳スープ”は叱られた方がまだマシな味がするようだ。

 アミルは「健康に良いらしいけど、間違いなく不味さで眠気も疲労も吹き飛ぶから」と言い、ティアムは「むしろあの不味さが健康に害を与えていると思う」とマルクに言った。

 そのスープを見たことがないフリュージアは二人の様子を見て大袈裟だと笑った。

 笑われた二人はフリュージアを睨み付けてからマルクを連れて居間を出た。


「朝からあんな不味いものを飲まされたら一日中ずーっと気分が悪いよ!」

「フリュンおじさまも一度はアレを飲んでみるべきよね、絶対に笑えなくなるから」


 顰め面で文句を言う二人に「そんなにまずいの? 薬よりも?」とマルクは聞いた。

 すぐに「絶対に不味い」と二人は答えた。力強く即答した姿を見て、物凄く不味いのだろうとマルクは判断し、絶対に薬膳スープを飲みたくないと思った。

 二人はマルクを廊下に残して自室に入ると、すぐに身支度を整えて部屋から出てきた。

 アミルは手提げ鞄と肩掛けの大きな鞄を持っていて、ティアムはリュックサックを背負っている。二人の様子を見て「もう学校に行くの?」とマルクは問い掛けた。

 アミルとティアムはマルクの問い掛けを否定して、裏を含ませた笑顔を浮かべる。


「あれは人が口にして良いものじゃないから飲まない方が良いのよ」

「あの不味さは虐待の域に入っていると思うし、マルクも一緒に逃げようよ」


 二人の言い分を聞いたマルクは困り顔で「でも、アミルちゃんもティアムくんも笑ってた……」と言った。すると、アミルは「子供が細かいことを気にするんじゃないわよ」と言い、ティアムは「それはマルクが見た夢だよ、そんなに性格は悪くない」と主張した。

 マルクはその発言に納得がいかず、不満そうな顔で二人を見上げた。


「ぜったいに夢じゃないもん、ティアムくんもアミルちゃんと一緒に笑ってたよ」

「ティアムはすかしている嫌みなヤツなのよ、すぐに猫を被るんだから」


 ムスッとした表情をしているマルクにアミルが「共犯者になるか、不味いスープを一人で飲むかの二択よ」と選択を迫ると、マルクは「まずいのはヤだ……」と答えた。

 マルクの答えを聞いたアミルとティアムはとても明るい表情になった。


「そうだよね、嫌だよね! あれは飲んだらトラウマになるよ」

「マルクが逃げたいって言っているし、助けてあげるのが年上の役目よね」


 顰め面のマルクが「スープは二人のせいだよね」と不満を漏らすと、満面の笑みを浮かべたティアムが「それはもう忘れようよ、僕たちは仲間じゃないか」と言った。

 アミルとティアムは唇を尖らせて怒りを表すマルクの腕を引っ張って裏口から外へと連れ出す、その様子を裏庭にいたユースに見られてしまうが、二人は「告げ口したら秘密にしていることを言うから」とユースを脅して口封じをすると裏門から堂々と出て行った。

 アミルとティアムの間に会話はなかったが、まるで事前に打ち合わせをしていたかのように迷いがない。しっかりとした二人の足取りは同じ行先へと向いている。

 朝日に照らされた畑道はマルクが街に行くときに通った道とは違って十分な舗装はされていなかった。人の足や車輪で踏み固められた土の道が遠くまで続いている。

 二人に連行されていく中でマルクは空を見上げた。まだ朝焼けの朱色が残っている。

 ぼんやりと空を眺めていると、逃げられないように両腕を掴まれていることがとても嫌なことのように感じた。少し俯いてマルクは「ひとりで歩けるよ」と二人に言った。

 解放されると気分が少しだけ良くなったようにマルクは感じた。

 すぐにアミルはマルクの顔色が良くないことに気が付いて「大丈夫なの?」と体調を気遣ったが、マルクは「顔色は生まれつきわるいもん……」と生気のない声で答えた。

 あまり体調のことを触れられたくない様子に見え、アミルはそっとして置くことにした。


「お腹が空くと思ったからビスケットを持ってきたけど、食べる?」


 手提げ鞄から紙袋を取り出しながらアミルがティアムとマルクに問い掛けると、二人は声を揃えて「食べる」と答える。マルクの視線はティアムへと向いた。

 ティアムはマルクと声が揃ってしまったことをとても恥ずかしそうにしていた。


「ナッツ入りと干しリイム入りがあるんだけど……マルクは両方とも平気? 五つあるけど、ナッツのやつは二つしかないのよね」


 アミルは「干しリイムのやつを食べて欲しいから」とマルクに言った。

 マルクが「たぶんへいき」と答えると、少し俯いたティアムが「止めてよ……恥ずかしいから」と呟いた。どうやら“干しリイム“が食べられないのはティアムのようだ。

 少し意地悪なところもあるが、アミルは優しいお姉ちゃんなのかもとマルクは思った。


「不味そうな顔して吐きそうになりながら食べられるのはごめんなの」


 紙袋から棒状のビスケットを取り出しながらアミルは「ナッツが二つしかないのはティアム用だから多く作らなかったんだからねぇ」と不満そうに言った。

 大きめに作られた棒状のビスケットを齧りながらアミルは紙袋を二人へと差し出した。

 ティアムは無言でアミルから紙袋を受け取り、干しリイムというドライフルーツが入ったビスケットをマルクへと手渡した。渡されたビスケットには藍色がちらほらと見える。

 干しリイムはブルーベリーやレーズンのような色合いをしていて、味はオレンジピールのように甘くて後味がほんのりと苦い。食感はグミのような強い弾力があった。

 ビスケットのサクサクした食感とグミのような食感に違和感を覚えて、マルクは「美味しいけど、なんか変なの」と素直に言ってしまう。だが、アミルは怒らなかった。


「なんかねぇ、わりと言われるのよ……生のリイムを入れた方が絶対に美味しいって」


 アミルは不思議そうな顔で「好きなんだけどなあ」と呟いた。

 ナッツのビスケットを黙々と食べていたティアムが不思議がるアミルに問い掛けた。


「なんでテニアスフィールさんに習ったのに変わったお菓子ばっかり作るの?」


 アミルは「干しリイムが好きだから」と簡潔に答えた。

 食感が変だと思っていたマルクだったが、食べ終える頃には気にならなくなっていた。

 残った干しリイムのビスケットをアミルとマルクが分け合って食べていると、ティアムは信じられないものを見るような眼でその光景を見詰めていた。

 マルクが「ふつうに美味しいよ」と言うと、ティアムは「いらない」と答えた。

 ビスケットに入っていた“リイム”とは、マルクがドルガー家にやって来て初めて口にした飲み物に入っていた青い皮の果物のことらしい。飲み物に入っていたリイムは早摘みにしたもので、熟すと色は変わらないが酸味が減って甘みが増すらしい。

 リイムは健康にとても良く、この世界ではリンゴではなく『一日一個のリイムで医者いらず』と言われるようだ。この周辺の果樹畑ではリイムが大量に栽培されている。

 だが、ティアムは食感が嫌いで、干すとさらに弾力が強くなるので嫌なのだという。

 そんな話をしていると気付かない内に畑道を抜けていて、住宅が等間隔で建っているのが見えた。二人がバスの停留所らしき場所で立ち止まったので、マルクも足を止めた。

 しばらくバスが来るのを待っていると、周辺の家々から子供たちが出てくるのが見えた。

 様々な年齢の子供たちがいたが、全員がアミルやティアムと同じ制服を着ていた。

 双子と同じ年頃の女の子がアミルに気が付いて近寄ろうとしていたが、ティアムへと目が向くと動きを止めた。彼女は三人には近付かずに距離を取った。

 マルクが不思議そうに辺りを見ていると、子供たちはバスの停留所に集まってきていたが三人の周りに近付かなかった。正確にはティアムに近付こうとしなかった。

 アミルとティアムは周囲の子供たちの話題にされていたが、二人に気にしている様子はなかった。少し考えてからマルクはティアムが避けられていることに気が付いた。

 マルクが気になってヒソヒソと会話をしている子供たちを見ていると「十一代目のレンシィアがいる」という発言が小さく聞こえてきた。子供たちは不思議そうにしていた。

 他にも「どうしてレンシィアがバスに乗るの?」という発言も聞こえてきた。

 マルクが二人に「れんしーあってなに?」と聞くと、アミルが小さな声で「偉い人って言う意味の昔の言葉」と答えた。よく分からなかったが、イジメではないようだ。

 マルクが「えらいの?」と問い掛けると、アミルが「かなりね」と小さな声で答えた。

 それを聞いてマルクがティアムを見上げると、彼は無表情になっていた。

 ティアムは緊張しているようで、握り締められた手にはかなりの力が入っていた。


「アミルちゃんよりもえらいの? フリュージアさんよりもえらい?」

「フリュンおじさまの方が偉いけど、アミルよりもレンシィアの方が偉いよ」


 それを聞いて「なんか大変だね」とマルクが言うと、アミルは「大変なのよぉ」と答える。二人の会話を聞いていたティアムは小さく「ごちゃごちゃうるさい」と文句を言った。

 文句を言われたアミルとマルクは口を閉ざして遠くを眺めた。しばらくはマルクも黙っていたが、暇になってくると我慢できなくなってティアムに「いつまで?」と聞いた。

 ティアムが「目的地まで」と小さく答えると、マルクは「目的地はどこ?」と聞く、少し苛立った様子のティアムが「大聖堂」と言うと、マルクは「学校は?」と問い掛けた。

 ティアムは「着いたら言う」と答えてマルクとの会話を強制的に終わりにした。

 会話を強制的に終わりにされたマルクはとても不満そうな表情になっていた。



 ――マルクはティアムの言い付け通りに何も喋らなかった。

 停留所にバスが来ても、そのバスに乗って大聖堂前の停留所に向かう途中でも、大聖堂前の停留所に着いた後も一言も喋らずに眉間に皺を寄せて唇を尖らせて黙っていた。

 拗ねているマルクはアミルに手を引かれて大聖堂に連れてこられたが、やはり何も言わなかった。夜に見た大聖堂と朝に見る大聖堂は雰囲気が違ったが、それでも喋らなかった。

 アミルとティアムは両開きの扉が大きく開かれた表口からは入らず、建物の後ろへと回った。裏には質素な両開きの扉があり、修道士らしき二人の男性が裏口を見張っていた。

 二人の修道士はティアムに気が付くと頭を深々と下げてからすぐに警備に戻った。

 ティアムに先導されるように裏口から大聖堂に入ると、そこには何もない長い通路と階段があった。長い通路の先には小さな扉があり、その扉は表口から入れる礼拝所に繋がっているらしい。礼拝所は一般人でも立ち入ることができるようになっている。

 階段は地下と二階に繋がっていて、三人は階段を上って大聖堂の二階へと向かった。

 すれ違う修道士や修道女の全員がティアムやアミルに敬意を払っていて、それを眺めながらマルクは本当に偉い人なのだとボンヤリと実感していた。

 フリュージアの玄孫だから彼らには夜の神の血が混じっていることになるのかとマルクは気が付いた。聖職者にとって二人はどのように見えているのか少し疑問に思った。

 マルクがぼんやりと辺りを見回していると、室内にいるはずなのに温かな風を感じた。

 視線を前方へと向けると大きく開かれた両開きの白い扉と立派な屋上庭園が見えた。

 庭園には暖かな日差しが差し込んでいて、朝露に濡れた葉がキラキラと輝いている。

 それだけでも庭園は十分に綺麗だったが、庭園の中央で空を見上げている耳の長い人物がより一層とその空間を幻想的で美しいものへと昇華させていた。

 長く青い髪は日差しを浴びる海のように煌めき、白い肌は作り物のように滑らかだった。

 しかし、その人物が女性なのか男性なのかマルクには分からなかった。なぜならその人はとても背が高く、マルクが今まで見てきた人々の誰よりも身長が高かった。

 その人の服装は全身が黒く、その格好はマルクが住んでいた世界の聖職者に似ている。

 その光景をぼんやりと眺めていたがアミルに引っ張られてしまい、マルクは庭園から視線を逸らした。遠ざかっていく中で再び目を向けると、そこには誰もいないように見えた。

 それからしばらく歩き、ティアムは一つの扉の前で足を止めた。

 ティアムが扉を叩くと部屋の中から男性の声が聞こえてくる。声を掛けてから扉を開くと、机の上の本を整えている男性の後ろ姿と壁際に置かれた本棚や黒板が見えた。

 男性は振り向きながらティアムとアミルに挨拶をする。


「今日はお早いですね、リアレンシィア」


 彼が腕時計を確認しながら「まだお迎えに上がる時間ではなかったと思いますが」と言うと、ティアムは「健康を考えて今日は早起きをしたのです」と答えた。

 マルクがティアムの顔を窺うと、彼はいつもの顔をしている。嘘を吐くことに慣れているのか、悪びれる様子も気にしている様子もなかった。

 そんなティアムの顔をジッと見詰めて、それから男性は「……そうですか」と呟いた。


「それでは、どうしてアミル様と……マルクくんがいらっしゃるのでしょうね」

「マルクはフリュージアさまのご友人です、退屈そうにしていらしたのでお連れしました」


 ティアムが「アミルには面倒を見てもらおうと」と伝えると男性はため息を吐いた。

 男性は「託児所ではないのですけどね」と呟いてから三人に背を向けた。

 マルクは幼児扱いをされて腹が立ったらしく頬を膨らませて唇を尖らせていた。

 そもそも二人が揶揄(からか)わなければここまで来ることもなかったのに、とマルクは不満に思った。乳白色の石の床を睨み付けながら不満を表したが、二人は気が付かなかった。

 男性とティアムの会話を聞いていると、彼がティアムの先生だと分かった。

 彼はアミルを学校に向かわせて、マルクを家に帰そうと思っていることも分かった。

 アミルはその会話に口を挟まずにジッとティアムを見詰めていた。


「リアレンシィアだったとしても我儘が許される訳ではありませんよ」

「フリュージアさまのご友人を持て成したいという純心を汲んでくれませんかね?」

「汲めません。フリュージアさまご本人ではありませんし、頼まれた訳でもないでしょう」


 男性が「駄目なものは駄目です」ときっぱりと言うと、ティアムは残念そうな顔をした。

 その結果を聞いたアミルは少しだけ悲しそうな顔をしていた。

 マルクはアミルの表情が少し気になった。その表情は不味いスープや説教を嫌がる顔には見えず、恐れる顔でもなかった。その顔からは悲しみと寂しさを感じた。

 ティアムはリュックサックを机に置くとアミルとマルクを送るために部屋から出てきた。

 アミルが小さな声で「残念よ」と言うと、ティアムは「仕方ないよ」と言った。

 少し俯きながらアミルは「本当に、残念よ」と先程よりも小さな声で呟いた。

 マルクは二人の思う“残念”には違う意味が込められているように感じた。

 アミルは説教を回避できなかったことではなく、ティアムと一緒に居られないことや同じように勉強することができないことを残念に思っているように感じたのだ。

 しかし、マルクにはそれを上手く言葉にすることができなかった。

 アミルもそのことを上手く言葉にすることができなくて悩んでいるのだろう。

 ティアムは落ち込むアミルとマルクを裏門まで送り、二人に「じゃあ、戻るから」と別れを告げて教室に戻っていった。アミルはその後ろ姿をジッと見詰めていた。

 ティアムを見送ってからマルクが顔を上げると、アミルは悲しげな表情のままだった。

 しばらくしてアミルが「きっとおじさまが迎えに来てくれるから、図書館にでも行きましょ」とマルクに言った。アミルは悲しそうだったが、マルクに笑顔を作って見せる。

 マルクはアミルをジッと見詰めた。先程のアミルを真似て何も言わずに見詰めた。

 困惑したアミルが「怒ってる?」と聞いたが、マルクは答えずにジッと見詰めていた。

 マルクがまっすぐとアミルの目を見ていると、どこからか綺麗な音が聞こえてきた。

 心地良い弦楽器の音と女性の高く細い歌声が聞こえる。その演奏に誘われるようにマルクは走って大聖堂に戻っていった。その後をアミルが慌てて追いかける。

 長い階段を上り、長い廊下を走る。どこから演奏が聞こえてきているのかマルクは既に分かっていた。二階にある美しい屋上庭園から聞こえてきているのだ。

 マルクはアミルのことを途中までは覚えていたが、走っている内に忘れてしまった。

 あの時は誰もいないように見えた屋上庭園には青い髪の美しい人がいた。

 屋上庭園には季節の花々が咲き、その奥には東屋があり白いガーデンテーブルと数脚の椅子が置かれている。青い髪の人はその中の一脚に腰掛けて銀色の竪琴(たてごと)を演奏していた。

 その竪琴は一般的に知られているハープではなく、水瓶型のハープだった。

 通常の人よりも背が高く腕も長い彼女が扱うために(あつら)えてあるようで、とても重みのありそうな大きさの美しい水瓶型の竪琴だった。マルクやアミルよりも重そうだ。

 白い指が弦を弾くとまるで血液が流れるように青色が弦を流れていく、青色だけではなく緑色や黒色、様々な色が弦を流れていった。その竪琴は生きているようだった。

 マルクが近付いて見てみると、彼女は目を瞑って演奏に集中しているのが分かった。

 マルクは目を輝かせると女性に何の断りもなく椅子に座って演奏を静聴した。

 その演奏をうっとりと聴き入り、演奏が終わるとマルクは大きな拍手を女性に送った。

 女性は演奏に集中していたがマルクの存在に気が付いていたらしく驚かなかった。

「すてきぃ、かっこいい」とマルクが感想を言うと、少し恥ずかしそうに女性は「恐れ入ります」と小さく感謝しながら前髪を指先でかきあげた。

 マルクが「ハープきれい」と言うと、女性は竪琴の胴体に触れながら囁くように「そうね」と呟いた。その姿は我が子を慈しむ母の絵のような、芸術品のような美しさがあった。

 マルクが「お姉さんもきれい」と容姿を褒めると女性は少しだけ困り顔になった。

 もっと聴きたいとマルクが強請っていると、疲れ果てたアミルがフラフラと庭園へと入ってきた。アミルは息を整えてから文句を言おうとしたが、女性を見て動きを止める。

 短い悲鳴を上げたアミルは二人に駆け寄るとマルクの頭を押さえつけ、強引に頭を下げさせた。アミルは真っ青になっていて、今にも倒れそうな顔色だった。


「ご、ごめんなさい……申し訳ありませんでした!」


 アミルは震えながら頭を下げて「世間知らずな子なんです……!」と言う。女性は優しい声で「あまり気になさらないで」と返したが、それでもアミルは震えていた。

 恐縮しているアミルの声を聞いて、マルクは良くないことをしたのだと気が付いた。

 頭を押さえられたままマルクが「失礼なこと言ってないよ」とアミルに言うと、アミルは「そういう問題じゃないの!」と焦ったようにマルクに言い返した。

 アミルとマルクの様子を見ながら女性は上品に笑う。


「わたしが許すと言ったのですから、他の者にとやかく言わせませんよ。それに幼い子供のしたことですもの……可愛いらしいものではありませんか」


 女性が「ですから、気になさらないで」と言うと、アミルは恐る恐るマルクを解放した。

 マルクは事態を理解していなかったが、頭を上げながら「ごめんなさい」と謝った。

 女性は「構いませんよ」と笑った。アミルの様子を窺うと、まだ青い顔色をしている。


「本来であれば礼を尽くさなければならないのはわたし……ですが、わたしも神々に仕えるものの一人であることに変わりありません。お許しください、アムール」


 不思議そうにマルクが「ぼくのこと知ってるの?」と聞くと、女性は小さく肯いた。


「今は腕輪の証明印の通り、あなたをクレガルニの王子として歓迎します」


 女性が「クレメニスにようこそ、マルクさん」と言って手を差し出してくれたが、マルクは小さく首を振りながら「ぼく、王子じゃない……」と言って否定した。


「いいえ、あなたは王子です。夜の神がそう扱うように意思を示されました」


「その腕輪を着けている限り、あなたはクレガルニの王子です」と女性が言った。

 そう言われて腕輪を見たが、マルクには腕輪に何が印されているのか分からなかった。

 マルクはしばらく腕輪を眺めていたが、差し出されたままの手に気が付いて慌てて女性の手を握った。失礼なことをしたと思い様子を窺ったが、彼女に気にした様子はない。

 マルクが「お姉さんもえらい人なの?」と聞くと、混乱した様子のアミルが「し、失礼よ……失礼よね?」と曖昧に注意する。どうやら女性の発言に戸惑っているようだ。

 アミルは額に手を当てながら「アミルも失礼なの……?」と小さく自問自答をした。

 純粋なマルクの問い掛けを聞いた女性は微笑みながら自己紹介をした。


「わたしの名はゼラ、アムシェシェレンシィアを務めております」


 マルクは混乱しているアミルに「あむしぇしぇれんしーあってなに?」と問い掛けた。


「……クレメニスの女王さまで、アムシェクアーノの法王さま」


 アミルは震える声で「超偉い人、すんごい偉い人なのよ……」とマルクに教えた。

 “アムシェクアーノ”とは、聖クレメニス国を聖地としている宗教である。

 “力の父”と“理の母”が世界を作ったとしていて、他の神々は二柱の子供たちであると定めている。神々を子供たちだと定めているものの、その扱いについては明確には定められていない。そのため、同じアムシェクアーノでも地域によって神々の扱いは異なる。

 その始まりには様々な説があるが、世界中に広まった理由はハッキリとしている。

 ギルドを通して教えがヒトに伝わり、ヒトが世界にアムシェクアーノの教えを広めた。

 “Amusye kuâno”とはこの世界の古い言葉で“大切な希望”という意味がある。

 とても偉い女性だと分かったが、マルクにはその偉さがよく分かっていなかった。

 マルクが「女王陛下、すごーい」と言うと、アミルは「庶民が気軽に話し掛けて良いお方じゃないの、みんなに怒られちゃうのよ」と教えた。マルクはコクコクと頷いた。

 マルクが両手で口を押さえると、それを見ていたゼラは口元を手で隠しながら笑った。

 ゼラの笑う姿はとても美しく、まるで女神のように神々しいとマルクは感じた。

 しかし、マルクは本当の女神であるフリュージアには神々しさを感じたことはない。


「ドルガー家を庶民というのは間違っていますよ、アミルさんも椅子にお掛けになって」


 ゼラが手を差し出して座るように促すと、アミルは恐る恐る椅子に腰を掛ける。

 口を押さえるマルクにゼラは「今はお話しをしても大丈夫ですよ」と言う。だが、マルクはどうしたら良いのか分からないので、助けを求めてアミルへと視線を向けた。

 すると、アミルは「お断りするのも失礼だと思うわ」とマルクに助言をしてくれた。

 マルクが口から手を離すと、またゼラは声を忍ばせて笑った。


「ゼラさまもとっても耳が長いけど、魔人なの?」

「いいえ、わたしは半人です。魔人の父と人魚の母から生まれたのですよ」


 ゼラは「それが原因なのか、とっても背が高くなってしまって」と笑って言った。

 その返答を聞いたマルクは「耳が長いから背が高いんじゃないんだ……」とがっかりしたように呟いた。残念そうなマルクにゼラは「夜更かしせずに頑張りましょう」と言った。

 アミルはマルクのことを魔人だと思っているので、その会話を聞いて首を傾げた。


「魔人の成人男性の身長はとっても高いから、マルクは大丈夫ですよね?」


 マルクが「ぼく、魔人じゃないよ」と答えると、アミルは不思議そうな顔をした。

 その言葉に同意するように「そうね、マルクはヒトね」とゼラが言うと、アミルはとても驚いていた。しばらくしてアミルは「耳が長いヒトなんて初めて見た」と呟いた。

 この世界でも長い耳のヒトは珍しいらしい、マルクは幻想的な世界でも少数派だった。

 マルクは長い耳を弄りながら「やっぱり変なんだ……」と呟いた。

 アミルは容姿を気にしているマルクの背を撫でながら「アミルも変な見た目だし、気にしなくても大丈夫」と励ました。励まされたマルクはアミルの顔を見上げた。

 目元にある真っ黒な模様は遠くからでも目立ってしまう。ティアムの角は帽子で隠れるが、アミルの模様は隠すのが難しい。常にサングラスを掛けている訳にはいかないのだ。

 マルクが「かっこいいよ」と言うと、照れたアミルは「まあ、ありがとう」と返答した。

 その様子があまり嬉しそうには見えなかったので、マルクはじっくりと考えてから「じゃあ、セクシーだね。とってもすてき!」と思い付いた言葉でアミルを褒めた。

 恥ずかしそうにアミルは「将来が心配になるような褒め言葉をありがとう」と返した。

 褒め言葉が気に入らなかったのだと思ったマルクが他にも言おうとすると、顔を真っ赤にしたアミルが「もういいから、恥ずかしいから止めてよ」とマルクを止めた。

 残念そうなマルクが「まだ言えるのに……」と言うと、ゼラは声を上げて笑った。


「マルクさんは良い子ですね、そんな良い子のマルクさんにお願いしたいことがあるの」


 その言葉を聞いたマルクは不思議そうに「お願い?」と聞き返した。

 ゼラは小さく頷いてから口を開いた。


「無意識に魔法を使用してしまうのはとっても危険です。ですから……魔力の扱い方を学んでいただきたいのです、夜の神もそれを望んでいらっしゃる」


 マルクが「フリュージアさんも?」と問い掛けると、ゼラは小さく肯いた。

 まだ顔の赤いアミルが「そんなお願いができるのはフリュンおじさまくらいですよ」と呟くと、ゼラは「わたしが勝手にしていることなのですけどね」と微笑みながら答えた。


「それにブロッサムさまも気にしていらしたから、マルクさんのこと」


「ぶろっさむさま?」とマルクが首を傾げると、アミルが「花妖精の主よ」と答える。


「難しいことは何もありませんよ、すぐに終わりますもの」


 マルクが「すぐに終わるの?」と尋ねると、ゼラはマルクに手を出すように言った。

 言われた通りにマルクは手を差し出す、その小さな手にゼラは自身の手を重ねた。

 彼女の手はとても大きく、マルクの手をすっぽりと包み込んだ。

 ゼラが手にギュっと力を込めると、マルクは急激に身体が冷えたような感覚に襲われた。

 マルクが驚いてゼラの手を強く握ると、身体を冷たいものが巡っていくのが分かった。

 まるで血管の中に氷水を流し込まれたようで、それは刺すように冷たかった。

 冷気が身体中を巡り、鋭い冷たさがマルクの形をハッキリと描き出した。

 驚いて呆気に取られるマルクにゼラは呼び掛ける。ゼラは自身に意識を向けさせるために「マルク・ベルナール」と呼び掛けた。その呼び掛けに驚いてマルクはゼラを見上げた。


「冷たく感じているものがわたしの魔力です、あなたの中に流れている」


 ゼラの言葉を聞いたマルクは血管の中に青いものが流れていく様子を簡単に想像することができた。それは竪琴の弦を流れていたものと同じように青くキラキラしたものだ。

 グルグルと身体を巡り、血液と共に中央に向かう。ゼラの魔力は心臓に入り、また身体に流れる――マルクはそう思ったが、そうではなかった。違う形をマルクに教えた。

 ――自分の心臓の中にはトカゲが住んでいる、マルクはそう思った。

 それは黒いトカゲだ。毒々しい赤い模様が入った、棘のような耳が生えたトカゲだ。

 自分の胸に時々浮かぶ赤い模様がトカゲの胸部にもあった。

 しかし、その想像が見えたのも一瞬のことだった。魔力はすぐに心臓を抜けていった。

 ゼラがマルクの腕に手を伸ばす、優しく触れるようにマルクの両腕を撫でた。

 冷えた魔力が身体の中から出て行ったのがマルクには分かった。その魔力はゼラの手を渡って、彼女の身体の中を巡る。マルクはぼんやりとその感覚を追った。

 マルクの目は開いていたが、目の前のことは見えなかった。まるでマルクはゼラの後方にいるように彼女の背が見えていた。ゼラが竪琴に手を伸ばし、その指先が弦を弾くと魔力が竪琴に移動したのが分かった。青いキラキラしたものが竪琴の全体に流れる。

 そして魔力で満たされた竪琴の弦をゼラが弾くと、綺麗な音と共に魔力が広がる。まるで水のように、風のように庭園内を廻って草花を揺らし、泉の水面に波紋を作る。

 それから魔力は在るべき場所へと帰っていく、ゼラの中に帰っていく。

 魔力は目に見えないが、マルクの目には見えていた。音も温度もないが、マルクはハッキリと魔力を感じた。しかし、今は自分の感覚が分からない。身体が分からない。

 遠くで風が花を揺らしているのが分かるのに、自分の身体がどうなっているのか分からなかった。手を伸ばしているような気がするのに、感覚は何もない。

 そのことを恐ろしく思っていると、冷たい大きな手がマルクの手を握る。その手がゼラの手だと認識した瞬間――マルクの意識が身体に引き戻された。

 目の前にはゼラがいて、隣にはアミルがいた。ギュっと手を握ると爪が手のひらに食い込むのが分かった。さっきは分からなかった感覚が分かった。

 まるで眠りから目が覚めたようにマルクの意識はハッキリとしていた。

 しかし、先程まで分かっていた魔力が巡る感覚がマルクには分からなくなっていた。

 マルクがじっと手を見詰めていると、アミルが心配そうに「大丈夫?」と問い掛けた。

 ゼラは竪琴を抱えて椅子から立ち上がるとマルクに近付いた。


「先程の感覚を思い出しながら触れてみてください。大丈夫、恐れないで」


 ゼラは優しい声で「大丈夫」と言いながらマルクが触れやすいように竪琴を差し出した。

 マルクは自身の手と竪琴を見比べて、それから弦に手を伸ばした。

 巡る感覚を思い出しながら弦に触れたが、何も起こらない。マルクはゼラを見上げた。

 ゼラが「もう一度」と言うので、マルクは黒いトカゲと冷たかった感覚を思い出しながら弦を強く弾いた――すると、弦の中に黒い色が流れたのがハッキリと見えた。

 驚いてゼラを見上げると、彼女は「その調子です」とマルクを褒めた。

 緊張した面持ちだったマルクの顔は褒められて綻んだ。嬉しくなって弦に触れたが、何も起こらない。ゼラは「魔力を意識しながらですよ」と助言をした。

 そのやり取りを何度か繰り返すうちに、マルクは魔力を意識できるようになっていた。

 身体を巡る感覚は分からないが、どうすれば弦に魔力が流れるのか分かるようになっていた。この感覚さえ忘れなければ無意識に魔法を使うことはないだろうとゼラは言った。

 そして、この感覚さえ覚えていれば魔法を使うこともできるようだ。しかし、魔法と呼べるような立派なものはやはり練習が必要のようで、マルクはまだ使えそうにない。

 達成感からマルクが跳ねながら喜ぶと、アミルも「帰ったら祝杯ね」と喜んでくれた。

 アミルとマルクが喜びを分かち合っていると、周囲が真夜中のように暗くなった。

 二人が驚く声を上げる暇もなく周囲に明るさが戻り、周囲を見回すとゼラの隣にはフリュージアが立っていた。彼は困ったような顔をしていた。


「――喜んでいるところで言うのはとっても忍びないんだけど……ごめんね、クレメニスから離れなきゃいけなくなったんだ。もうすぐ出航時間なんだよ」


 アミルとマルクが「えっ!?」と驚くと、フリュージアは申し訳なさそうな顔をした。

 フリュージアの顔を見ていると沸々と怒りが湧いてきて、アミルは彼を睨んだ。


「なんで今になって言うのよぉ、もっと早く言えたでしょ!」


 アミルが「酷いわ、ホルスタインよ!」と罵ると、マルクも一緒になって「ウシ!」とフリュージアを罵った。なぜ牛なのか分からなかったが、面白いなとマルクは思った。

 二人は「ウシぃ!」とフリュージアを怒ったが、怒られている彼は笑ってしまう。

 仕舞いには「アミルは例えが上手いね」と二人の暴言を笑った。


「ごめんね、朝ごはんの時に言おうと思っていたら三人とも居なくなっていたから」


 フリュージアが続けて「追い付いたらアミルとマルクが仲良くしていたから、中々言い出せなくってね」とアミルとマルクに言うと、二人は何も言えなくなってしまった。

 せっかく仲良くなったのにとマルクは落ち込んだ。少し俯いてから、ふと思い出した。


「アミルちゃんのバレッタ、お屋敷に忘れてきた……」


 マルクは苦労して買いに行った髪飾りのことをすっかり忘れていた。

 落ち込んで肩を落とすマルクにアミルは「バレッタ?」と不思議そうに問い掛けた。


「ティアムくんとアミルちゃんの仲が悪くなっちゃったのは、ぼくが来ちゃったからなのかなって思ったから……アミルちゃんに元気を出してほしかったの」


 マルクが「だからバレッタ、あげたかった」と言うと、アミルは「……別に、マルクの所為じゃないのよ」と答えた。マルクは小さく首を振った。


「キレイにすると、気分がいいの。だからアミルちゃんもティアムくんと仲良くね」


 マルクがそう言うとアミルは複雑そうな顔付きになった。

 アミルが何も言えないでいると、しゃがみ込んだフリュージアが二人の背を撫でた。

 アミルとマルクがフリュージアを見上げると、彼は優しい表情で微笑んでいた。


「アミルはティアムが変わったと思っているかもしれないけど、ティアムもアミルは変わったって思っているよ。前みたいに思ったことをはっきりと言っても良いんだよ」


 フリュージアの言葉を聞いたアミルは「ちゃんと言っているよ」と答えた。

 すぐに「さっきは言ってなかったよ」とマルクが指摘すると、アミルは口を噤んだ。

 アミルが俯いていると通路から走る足音が聞こえてきた。ガラス扉の方へと視線を向けるとティアムの姿があった。ティアムは額に滲んだ汗を拭いながら三人に近付いた。


「さっき暗くなったから……やっぱり、おじさまが来ていたんだね」


 ふうとティアムが息を吐くと、静かに見守っていたゼラが「こんにちは、リアレンシィア……授業を抜けてきたのですか?」と微笑みながらティアムに問い掛けた。

 ゼラが居ることに気が付いたティアムは慌てたように姿勢を正し、それから地面に片膝を突く、その状態でティアムが深く頭を下げるとすぐにゼラは頭を上げるように言った。

 頭を上げたティアムにフリュージアが近付き、クレメニスから離れることを説明した。

 フリュージアが説明をしている間、マルクは俯くアミルに近付いて顔を覗き込んだ。

 下唇をモゴモゴと噛んでいるアミルにマルクが笑い掛けた。


「バレッタ着けてね。いつか……ぜったいに見せてね」


 マルクは「約束ね」とアミルに言ってからフリュージアの元へと駆け寄った。

 マルクがフリュージアに近付くと、彼はマルクの頭を撫でた。

 腕を組みながらマルクが「子供あつかいしないでよぉ」と言うと、フリュージアは笑いながら「あらら、マルクも大人ぶっているの?」と言ってマルクの頬を突いた。

 突かれる時にマルクはわざと頬を膨らませると口から空気が抜ける音を聞いてクスクスと笑った。マルクがまた頬を膨らませると、ティアムが呆れた表情を浮かべる。


「もうすぐ出航時間なんでしょ……何してるの? 僕には挨拶ないの?」


 マルクが「ごめん」と謝ると、ティアムは「ショックだよ」と文句を言った。


「まあ、でも……いつでも帰ってきてよ。見せたいものとかあるし」


 ティアムが「待っているから」と素っ気なく言うと、マルクは嬉しそうに肯いた。

 マルクと握手をしてからティアムは外方を向いて鼻の頭を掻いた。そして恥ずかしそうにティアムは「男兄弟とかに少しは憧れとかあるからさ」と小さく呟いた。

 それを聞いたマルクが「えー、イジワルなお兄ちゃんはいらなーい」と外方を向きながら言うと、ティアムは唇を尖らせながら「なんだよ、まだ口周りをベッタベタにするお子様の癖に!」と言いながらマルクの髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

 マルクが甲高い笑い声を上げながら逃げると、ティアムはそれを捕まえようと行く手を阻んだ。そんな二人の姿をゼラとフリュージアが微笑ましそうに眺めていた。

 複雑そうな顔のアミルは走り回る二人の様子を見て、それから気分を変えようと頭を振ってティアムとマルクに駆け寄った。


「アミルを仲間外れにしないでよ、なんか……寂しいじゃないのよお!」


 アミルが「ティアムのバカ!」と言うと、少し苛立ったような顔でティアムは「なんだよ、寂しいなら勝手に混ざればいいじゃないか!」と言い返した。

 そんな二人を見たマルクが「鬼のアミルだ!」と言うと、それを聞いたティアムはクスクスと笑った。そして、ティアムは揶揄って「鬼のアミルが出た!」と言った。

 アミルは「鬼はティアムでしょ!」と言い返しながらティアムとマルクを追いかけた。

 しばらく子供たちが追いかけっこをしているのを眺めて、フリュージアは口を開いた。


「そろそろ港に行かないと乗り遅れるから、寂しいけど……お別れしなきゃ」


 フリュージアの元に戻ってきたマルクは寂しそうな顔を浮かべて彼を見上げる。

 マルクが「また、クレメニスに来られる?」と聞くと、フリュージアは「きっと来られるよ」と答えた。マルクは小さく頷いてからアミルとティアムへと顔を向けた。

 二人は寂しさを堪えようとしているのか、少しだけ変な顔になっていた。

 マルクが「なんか変な顔」と言うと、アミルとティアムはムッと表情を顰めた。

 ティアムが「それが最後に言うことなの?」と不機嫌そうに言い、続けてアミルが「アミルもティアムも根に持つタイプだから、次に会った時は覚悟しなさいよね」と言った。

 二人の様子を気にすることなくマルクが「また来るね」と言うと、アミルとティアムはため息を吐いた。そして、二人は小さく笑いながら「またね」と返した。

 ゼラにも同じように別れを告げて、マルクはフリュージアと手を繋いで庭園を後にした。

 外に出たマルクが大聖堂を見上げると、アミルとティアムが手を振る姿が見えた。

 二人は見えなくなるまでマルクを見ていた。マルクも見えなくなるまで二人を見ていた。

 しばらくしてアミルとティアムは見えなくなり、マルクはフリュージアを見上げた。

 見上げたフリュージアは少しだけ寂しそうな顔をしている、彼の寂しげな顔を見ているとなんだかマルクも寂しくなった。マルクは少しだけ俯いて歩いた。

 周りの人々の笑い声も楽しげな音楽もどこか遠くから聞こえてくるように感じた。

 気分を変えようと思ったマルクが「次はドコに行くの?」と問い掛けると、意図を汲んだフリュージアは笑顔を作ってマルクへと顔を向けた。


「砂漠の国ヴァージハルトに向かいます、マルクのマントを用意したんだよ」


 そう言いながらフリュージアはマントの陰からリュックサックを取り出した。

 不思議に思ったマルクはフリュージアのマントを広げる。だが、リュックサックを隠しておけるようなところはなかった。バサバサとマントを振ったが何も見当たらない。

 マルクは不思議そうに「ドコから出したの?」と聞きながらフリュージアの周りをグルグルと回り、それから彼を見上げて「これも魔法なの?」と問い掛けた。

 フリュージアは笑いながら「私の場合は魔法というよりは特性かな?」と答えた。


「大体のものは影にしまってあるから、手ぶらで旅行ができるんだよ」


 フリュージアが「すごいでしょ」と笑うと、マルクは「いいなあ」と羨ましがった。

 その後にフリュージアからリュックサックを受け取ったマルクは彼を真似て自身の影にリュックサックを押し付けてみたが、影の中にしまうことはできなかった。

 マルクは残念に思いながらリュックサックを背負い、フリュージアの後を大人しく付いていった。落ち込むマルクを慰めながらフリュージアは微笑んでいた。

 ようやく二人が港に着くと、港は観光客でごった返していた。

 港に停泊しているのは大きな船が多く、小さなマルクはその大きさに圧倒された。

 マルクがフリュージアに聞くと、ここは大型船が泊まるところで漁船や個人が所有するクルーザーなどの小型船は港のずーっと奥の方に停泊しているらしい。

 ずーっと奥の方と聞いたマルクはつま先立ちで遠くを眺めてみたが、小型船を見ることはできなかった。そもそも、ここから小型船を見るのは構造的に無理だそうだ。

 二人ははぐれないように手を繋ぎ、人混みの流れに沿って歩く。帰る人々は楽しげに思い出を語り、これから旅に出る人々は期待を膨らませて語らっている。

 旅人の期待に満ちた空気に触れて、マルクの悲しみは徐々に薄れていった。

 二人が乗船する大きな蒸気船はマルクの心をワクワクとさせた。船には豪華なショーもプールも食事もなかったが、それでも蒸気船は十分にマルクの好奇心を擽った。

 マルクはフリュージアの手を引いて大はしゃぎで船内を見て回った。

 ――しかし、マルクが元気だったのは出航するまでのことで、外洋に出る頃には披露と寝不足が祟って動く元気はなかった。そしてマルクは一時間も経たずにフリュージアに背負われてぐったりとしていた。元より悪い顔色がさらに悪くなり死人のようだった。

 最初は心地が良かった揺れも、今ではマルクの船酔いを助長させるものでしかない。

 夕方にはアルトランテ大陸に存在するヴァージハルト領の港町に着くらしい。



姉弟、兄弟編はクレメニス編です。

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