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姉弟

 


 聖クレメニス国はこの世界で広く普及している宗教の聖地であり、三大国と称される国の一つである。観光と学業と魔法薬が主な収入源の島国だ。

 クレメニスは政治の舞台である大聖堂と港を繋ぐ大通りを中心に栄えている。

 島の中心に聖樹と呼ばれる巨大な神木が生えていて、その根元に大きな湖が広がっている。湖の周辺は農村になっていて、そこはクレメニスから少し離れている。

 クレメニスは第一から第八地区で分けられているが農村は地区には含まれずに独立している。農村の名前はフェーニシアの里だ。この里がクレメニスの起源である。

 そして、魔法薬とは薬効のある材料を魔術的に精製して作られる薬だ。効能が高く、副作用が少ないことで有名である。作る手間が掛かるので短期間に大量生産はできない。

 魔法薬はとある一族が技術を独占していて、管理を任されている。その家の者の管理や指導が受けられない場合は魔法薬を製造してはいけないことになっている。

 その一族はドルガーという姓を持ち、現在の当主は三五歳のアミーナ・ドルガーである。

 ドルガー家は第三地区に建っていて、第三地区のほとんどがドルガー家の所有地だ。

 土地のほとんどが畑や果樹園になっていて、たまに従業員宿舎が建っている。

 ――そんな第三地区にしーは降り立った。そこはドルガー家の庭だった。

 疲れて眠ってしまったマルクを抱いて、フリュージアはしーから降りた。フリュージアが黒革の手綱を外してやるとしーは慣れた足取りで庭の奥に建つ小屋に向かった。

 フリュージアは屋根に止まるユースを見ながらマルクを抱え直した。

 物音に気が付いた女性が屋敷の中から出てきてフリュージアを歓迎した。


「おかえりなさい……って、その子は一体ドコから誘拐してきちゃったの?」

「ちょっとナジアリディクレアから誘拐してきちゃった」


 女性の冗談に冗談で返してからフリュージアは「ただいまアミーナ」と笑った。

 フリュージアの言葉を聞いたアミーナは少し驚いた様子を見せた。


「えぇ……リディクレアから? ずいぶん遠くまで遊びに行っていたのね」

「というか……あそこに人って住んでいたっけ?」とアミーナは首を傾げながらフリュージアを屋敷に入れた。内部は少々薄暗く、細長い造りをしていた。


「アミルとティアムが寂しがって、ママ……フリュンおじさまはドコに消えちゃったのって言いながらソファーの下とかベッドの下とかを見ていたのよ」

「あぁ……何か言ってから出て行けばよかったね」

「二人の様子をお父さまが面白がって笑うから、ティアムが怒ってお父さまの果実酒にペットのスライムちゃんを入れちゃったから朝から大変だったのよねぇ」


「アミルはお父さまのことをハゲさまって呼ぶし」とアミーナは困ったように呟いた。

 フリュージアは二人の様子を想像したらしく、アミーナに気付かれないように声を潜めて笑った。だが、アミーナはすぐに気が付いてフリュージアに「怒るよ」と言った。

 すぐにフリュージアは謝ったが、アミーナの機嫌は直らなかった。

 アミーナの機嫌が直らぬまま二人は居間に着いた。

 フリュージアはマルクをソファーに寝かせて、アミーナは台所へと向かった。

 アミーナはガラス製のポットとコップを三つ盆に乗せて居間に戻ってきた。ポットは透明な液体で満たされていて、青い色をした果実とハーブと氷が入っていた。

 フリュージアはアミーナに感謝を述べてから眠っているマルクを軽く揺すった。

 揺す振られて目が覚めたマルクは室内を見回してアミーナに視線を止めた。

 マルクが小さな声で「おはようございます」と挨拶をすると、アミーナは笑顔を見せた。

 そしてアミーナは「おはよう、ジュース飲む?」とマルクに聞いた。

 少し戸惑ったが、マルクはコクリと首を振って肯いた。

 マルクはアミーナから差し出されたコップを受け取った。中には見慣れない青い皮の果実が入っている。よく冷えているようでガラスのコップは汗を掻いていた。

 ゆっくりと飲むと癖のあるハーブの香りがした。ハチミツの甘みを感じて、それから果物の爽やかな酸味を感じた。青い皮の果物は柑橘類に似た酸味と香りがしていた。

 後味がすっきりしているので何杯でも飲めそうだった。

 アミーナは「その足どうしたの? いつ怪我したの?」とマルクに質問をした。

 だが、アミーナの質問に答えたのはマルクではなくフリュージアだった。

 フリュージアが「割れたガラスを踏んじゃったんだよ、耐魔加工されていたから魔法で取れなくって」と言うと、アミーナは「やだ、診てくれたのがフリュンちゃんで良かったね、他の医者は魔術に頼ってばっかりだから歩けなくなっていたかも」と言った。

 歩けなくなっていたかもという言葉を聞いたマルクは改めてフリュージアに感謝した。


「ねえアミーナ、ティアムの古い服とか靴とかない?」


 フリュージアの質問にアミーナは「屋根裏にまだあったと思う」と答えて居間を出て行った。アミーナを見送ってからマルクはフリュージアの顔を見上げた。

 フリュージアの頭上で小振りのシャンデリアがキラキラと輝いていた。

 不安そうなマルクの頭を撫でながら、フリュージアは「ここが私の家だよ」と教えた。


「さっきの女の人はフリュージアさんの奥さんなの?」

「ううん、玄孫なの。私の曾孫の子供だよ……あと、私は男に化けているだけだよ」


「……フリュージアさんってすっごい長生きしているの?」とマルクが質問すると、フリュージアは首を振った。そして「フリュージアになる前の人生の家族だよ」と答えた。

 フリュージアが生まれたのは数か月前のことらしい。年齢だけで言うならマルクの方が年上なのだという、少し不思議だなとマルクは思った。

 どうやって家族だと証明したのかマルクが不思議に思っていると、扉の開く音がした。

 すぐに「ただいま」と二人分の声が聞こえてきた。誰かが帰ってきたようだ。

 フリュージアが立ち上がり、廊下へと出て行った。玄関扉を開けたらしい人たちの声が聞こえる。それは女の子と男の子の声で、その声には幼い雰囲気が残っていた。


「フリュンおじさま帰って来ていたんだ!」

「おじさま……ハゲさまが酷いのぉ、アミルとティアムを馬鹿にして笑うのよぉ」


 男の子の喜ぶ声と女の子の嘆く声が聞こえてきた。

 マルクから見えるフリュージアは苦笑いを浮かべていた。そんなフリュージアが「ハゲはダメでしょ、傷付くよ」と注意すると女の子の不満の声が聞こえた。

 マルクよりも少し背の高い男の子と女の子がフリュージアに近付いた。二人はフリュージアと同じ黒い髪をしている。よく見ると男の子の頭には小さな黒い角が生えていた。

 フリュージアの杖と同じような艶のある黒い角が耳の上の辺りに生えている。女の子には角が生えていない。髪型は二人とも同じで、髪の長さは肩に着くほどだ。

 マルクがぼんやりと三人の様子を眺めていると女の子がマルクを見た。彼女に釣られるように男の子もマルクを見た。二人は同じような顔をしていて、目も同じ赤色だった。

 だが、全てが同じわけではなく女の子の目元には真っ黒な模様があった。

 ジッと二人に見詰められたマルクは緊張して下唇を噛んだ。

 心臓がドキドキと音を立てて、手のひらには汗が滲んだ。

 マルクを怪訝そうに見詰めていた女の子が「フリュンおじさま、あの子だれ?」とフリュージアに問い掛けた。その声に少し刺々しさを感じた。

 女の子の警戒心を感じ取ったフリュージアは少し困った顔をしていた。


「マルクだよ、私の友達なの。仲良くしてあげてね」


 フリュージアの言葉を聞いた男の子は「お友達……?」と呟きながら首を傾げた。

 不思議そうな顔でマルクを見詰めている男の子からは敵意を感じなかった。

 フリュージアに紹介をされたマルクは勇気を出して「マルクです、えっと七歳なの。よろしくお願いします」と自己紹介をした。あまり声は出なかったが、二人には届いた。

 マルクの自己紹介を聞いた男の子も自己紹介で返した。


「ティアム・ウェリ・ドルガーです。えっと……えーと、よろしく?」


 フリュージアの友達という発言に戸惑っているらしく、ティアムはマルクとどう接したらいいのか分からないようだった。

 困ったティアムは忙しなくマルクとフリュージアと女の子へと視線を動かしていた。

 女の子はムッとした表情でマルクを睨んでいた。腕を組んで拒絶を表している。

 しばらくして女の子は「……アミル・リド・ドルガー」と呟くように言った。

 アミルの刺々しい視線に困惑したマルクはフリュージアを見詰めた。助けを求められているフリュージアは

 困った顔をしながらアミルの頭を撫でた。


「すぐに仲良くするのは難しいと思う……でも、できれば仲良くしてあげてね」

「……おじさま、ドルガー家は他人を簡単に上げちゃいけないのよ。おじさまはルールを破っているわ。この子がドコの子か知らないけど、スパイだったらどうするの」


 アミルの発言を聞いて過剰な反応を示したのはティアムだった。フリュージアとマルクの表情を窺って、

 それからアミルに心配そうな視線を向けた。


「そうなんだけどね……でも、マルクは無関係な人間ではないんだよ」

「嘘だ、だって魔人族なんて家系図に載ってない」


 アミルは泣きそうな表情を浮かべていた。アミルはフリュージアが嘘を吐くような人ではないと分かっていた。それでもマルクを受け入れたくない一心で否定をした。

 その表情を見たフリュージアは申し訳なさそうにアミルに告げた。


「マルクはナトリア・ドルガーの弟であるリェサーニアの生まれ変わりなんだよ……アミル、ごめんね。しばらくはマルクもこの家で暮らすから」


 フリュージアの答えを聞いたアミルは「フリュンおじさまなんてキライ!」と強く非難して屋敷の奥へと引っ込んでしまった。すぐに大きく扉を閉める音が聞こえてきた。

 困った様子のティアムと落ち込んでいる様子のマルクを見てフリュージアは謝った。


「フリュンおじさま、アミルを怒らないであげてね」

「怒らないよ、いきなり連れてきちゃった私が悪いんだから……」


 落ち込んだ様子で「事前に言っておけば良かったね」とフリュージアは呟いた。

 ティアムはマルクの様子を窺ってからアミルを追いかけて行った。

 フリュージアはマルクの隣に座り込むと肩を落とした。落ち込むフリュージアの背中をマルクが撫でて、彼と同じように肩を落としてため息を吐いた。

 二人で落ち込んでいるとアミーナが居間に戻ってきた。


「なんかアミルの怒った声が聞こえたんだけど……何かあったの?」


 不思議そうな表情でアミーナが「二人とも暗いよ」と言った。

 フリュージアが事情を説明するとアミーナは呆れたような表情を浮かべた。

「アミルはフリュンちゃんが大好きだからね」とアミーナは言いながらフリュージアに大きな箱を渡した。箱の中には男児用の服とサンダルが入っていた。

 マルクが小さな声で「……アミーナさんもぼくがいると困る?」と問い掛けると、アミーナはきょとんとした表情になった。すぐに事情を飲み込んだアミーナは「家事をするのはお姉さんじゃないからぜんぜん困らないんだよねえ」と豪快に笑いながら答えた。


「二人には同年代の友達が必要なのよ、ずっと大人に囲まれていたら腐っちゃうからね」


 アミーナは笑いながら「子供の感性を磨かなきゃ面白い大人にはなれないし」と言ってマルクの髪をグシャグシャと掻き混ぜた。驚いたマルクは悲鳴を上げながら笑った。


「アミーナ! ジュースが零れるよ!」


 二人の様子を見ていたフリュージアは慌ててマルクからコップを取り上げた。

 しかし、フリュージアが取り上げた時にはコップの中身は残っていなかった。

 ジュースはマルクの服を汚したが、ソファーや絨毯には零れなかった。

 アミーナはマルクの身体を擽った。足を負傷していて逃げられないマルクはゲラゲラと笑いながら身体を捩ることしかできない。だが、嫌な気分にはならなかった。

 マルクが苦しそうに笑いながら「やめてえ」と言うと、アミーナは擽るのを止めた。


「この家にはもう既に子供が三人いるから、一人増えても変わらないでしょ」

「……もう一人いるの?」


 マルクが不思議そうに問い掛けると、アミーナは「私もまだ子供よ」と笑った。

 アミーナの発言にフリュージアが呆れた様子で同意すると、居間の外からも呆れたようなため息が聞こえてきた。

 マルクが居間の外に視線を向けるとティアムが立っていた。


「ママ……三五歳のおばさんの癖になに言っているの」

「失礼なこと言わないで、まだまだ現役でしょ。ママはこれからバンバン攻めていくよ」


 ティアムは呆れた顔で「ドコに攻めていくの……」と呟いた。

 アミーナが「クロドジェニアかな、パパいるし」と言うと、ティアムはため息を吐いた。

 ティアムは居間に入るとテーブルの上にあったジュース入りのポットを手に取った。

 二つのコップにジュースを注ぐティアムにアミーナが声を掛けた。


「ティアムもお兄ちゃんね、マルクの面倒を見てあげてね」


 アミーナの発言を聞いたティアムは「……そんなに長くこの家にいるの?」とフリュージアに問い掛けた。フリュージアは困った顔をしながら「運命次第かな」と答えた。

 少し嫌そうな表情のティアムがマルクを見詰めた。

 マルクはわずかに俯いて下唇を噛んだが、すぐに顔を上げてティアムを見返した。


「ティアムくんやアミルちゃんと仲良くしたいです、迷惑かけるかもしれないけど……」


 マルクが「お世話になります」と言って頭を下げると、ティアムは視線を逸らした。


「僕は良いけど……アミルのことは知らないから」

「お兄ちゃんは冷たいわねぇ、それとも照れているの?」


 ティアムは「僕はマルクのお兄ちゃんじゃない」とアミーナに言い返しながら足早に居間から出て行く。テーブルの上から盆と二つのコップがなくなっていた。

 マルクが落ち込んで肩を落とすと、フリュージアがその背中を撫でた。

 アミーナも困った顔をしていた。ため息交じりに「前途多難ね」と言うと居間を出て行った。残されたフリュージアとマルクは顔を見合わせてもう一度ため息を吐いた。

 ――それからマルクは部屋を貸してもらい、フリュージアに入浴と着替えを手伝ってもらって恰好を整えた。土やジュースなどで汚れていた身体が綺麗になって気分が良い。

 普段はパジャマで過ごすことが多いのでそれ以外の物を着るのは斬新だった。

 弛んだ裾の長いシャツと七分丈のパンツはマルクには少し大きかった。

 マルクはフリュージアに背負われながら屋敷の案内を受ける。入ってはいけない部屋と入っていい部屋を教わり、アミーナやフリュージアの部屋を教えてもらった。

 ティアムの部屋とアミルの部屋も教えてもらう。その時にフリュージアは部屋の中のアミルに「今日のお手伝いは無理そう?」と問い掛けたが、アミルからの返答はなかった。

 残念そうなフリュージアをマルクが励ましながら、二人は屋敷の外へと出た。

 表庭にも裏庭にも多くの植物が生えていて、とても木が多かった。

 特に裏庭は木々が多く、まるで小さいジャングルのようだった。

 フリュージアは裏庭の低木に実っていた赤い実を取ってマルクに与えた。赤い実は少し青みがかっていて、マルクの瞳や髪と同じ色だった。

 ブルーベリーのような赤い実はとても甘くて美味しかったが、後から辛味を感じた。

 舌はヒリヒリと痺れてわずかに痛んだ。マルクはフリュージアに問い掛ける。


「なんかベロが、ベロがヒリヒリする……毒とか入ってないよね?」


 マルクの不安を聞いたフリュージアは「身体に良いものだから大丈夫だよ」と笑った。


「これを乾燥させて潰したもので味付けするのがクレメニス風だよ」


「ちょっと甘いけどね」とフリュージアは笑いながら実を収穫した。

 フリュージアはエプロンバッグから袋を取り出して収穫した実を入れる。両手が塞がっていて持ち歩くのが大変そうに見えたので袋はマルクが持つことにした。

 袋は木綿でできているらしく、とても柔らかな手触りだった。

 マルクが「今日のごはんなに?」と聞くと、フリュージアは考えているのか唸った。


「フレニュの実いっぱいあるし……カレーかなあ、鶏肉と海老ならどっちが良い?」


 フリュージアの質問に「エビがいい」とマルクは即答して足をバタバタと揺らした。

 その様子に微笑みながらフリュージアが肯けば、マルクはとても喜んだ。興奮してさらに足をバタバタと揺り動かした。しばらくはその行動を大目に見ていたフリュージアだったが、何時まで経っても興奮が静まりそうになかったので止めるように注意した。

 注意されたマルクはフリュージアの首に強くしがみ付いた。


「だって……エビだよ、エビって美味しいよね」


 フリュージアが「マルクは海老が好きなの?」と質問すると、マルクは嬉しそうに「カニとかエビとかムール貝とかね、イカとかタコも好き!」と答える。

 フリュージアが「魚は?」と続けて質問するとマルクは「ふつう」と答えた。

 さらに好みについて質問すると、鶏肉や豚肉や牛肉も普通だと答えた。タマゴやチーズは普通に好きらしい。フリュージアは普通という評価に困惑した。それは好きなのか、嫌いなのか、迷った。迷った後に、食べられるが進んで食べたいものではないと解釈した。

 確認のためにフリュージアが「肉は嫌いなの?」と聞くと、少し考えてから「かたいし、あぶらっぽくってお腹痛くなるからあんまり好きじゃない……」とマルクは答えた。

 もう一度「魚は?」と質問すると「魚はおいしかったよ」と答えた。

 マルクの『ふつう』は答えに困った時に使用するのだろうとフリュージアは思った。

 まだマルクは幼いので、考えを言葉にすることができない時もあるのだろうと考えた。

 アミルやティアムはマルクとそう変わらない背丈や見た目をしているが、二つ年が違うのでマルクよりも言葉を巧みに扱うことができる。二歳の差は大きいなと実感した。

 それに加えてマルクには身体の問題もあった。外出するのは難しい体質をしていて、他人とあまり接しない生活を送っていたので内向的な性格をしている。

 口が達者で勝気なアミルと、境遇故に未成年者との交流が少ないティアムと仲良くなれるのかフリュージアは不安になった。マルクよりも大人だが、どちらも子供だ。

 フリュージアが連れてくるのは早かったかなと考えていると、マルクが声を上げた。

 マルクは声を潜めてフリュージアに言った。少し怯えているようだった。


「フリュージアさん……花が動いてる」

「魔物……植物の魔性動物の一種だよ、音が聞こえたから警戒しているみたい」


 フリュージアが「人を襲ったりはしないよ」と教えると、マルクは安心していた。

 魔性動物を警戒するマルクに庭に住む生き物について教えておくことにした。


「茎に顔があるものがドリアード、根に顔があるものがマンドレイク、花や葉や実に顔があるものがアルラウネ。それぞれ三から八種類くらい埋まっている」

「みんな襲ってこない?」

「襲ってはこないけど……危険を感じると毒を吐く種類が多いから危ないよ」


「それに魔性動物は魔法が使えるから怒らせると危険だよ」とフリュージアは答えた。

 フリュージアの話を聞いたマルクは怒らせないように気を付けようと思った。

 彼が言うには知能が低い魔性動物は魔法が扱えない場合もあるらしいが、魔法や魔力を体の構造上では扱うことが可能な生き物が魔性動物に分類されるらしい。

 この世界の分類学では普通の人間も魔法や魔力を扱うことが可能なので魔性動物に分類される。魔性動物界ヒト目ヒト科ヒト属ノルマル種という分類になるらしい。

 シーシープドラゴンのしーは魔性動物界ミミクリー目シードラゴン科シープドラゴン属ノルマル種になるらしい。母親と父親から生まれるのがノルマル種だと説明された。

 マルクにはフリュージアが何を言っているのか理解できなかった。

 フリュージアが「元の世界と比べるとぜんぜん細かく分類されてないから、これからもっと細かくなると思うよ」と笑って言うのを見て、マルクは憂鬱な気分になった。

 既に覚えるのが大変なのに、もっと細かく言われたら何も分からなくなってしまう。

 マルクは「植物には触らないよ」と宣言して魔性動物の話を終わらせようとした。

 しかし、フリュージアは一番大切なことをまだ言っていなかった。


「あとね……あのゼリーみたいな生き物がスライムね、襲ってこないし毒もない」


 フリュージアは「家の中に迷い込むこともあるけど無害だから覚えておいてね」と締め括った。マルクは小さく頷いてフリュージアが指を差した花壇を見詰めた。

 少し濁ったゼリーのような物体がゆっくりと土の上を這っているのが見えた。

 透明なナメクジみたいだとマルクが思っていると、スライムの近くでワサワサと全体を揺らしていた花が動きを止めた。次の瞬間にはスライムの体が二つになっていた。

 茶色の紐のようなものがスライムを叩いている。それはスライムの体をばらばらにするほどの威力だった。しかし、死んでいないようで逃げようと必死に動いている。

 よく見るとスライムを叩いているのは花の根っこだと分かった。


「スライムは良い養分になるし、分裂してどんどん増えて行くんだよね」


 その発言を聞いたマルクは首を傾げて「ぶんれつ?」とフリュージアに問い掛けた。

 フリュージアは笑いながら「何でもない」と誤魔化すように答えた。

 マルクは疑問に思ったが、スライムはミミズのような存在なのかなと納得した。

 スパイスになる実を収穫し終えたらしく、フリュージアはマルクに室内に戻ることを告げて屋敷の勝手口から中に入る。勝手口は厨房に繋がっていた。

 ドルガー家の厨房はマルクの家のキッチンよりも広かった。

 実を入れた袋を天板に置きながらフリュージアはマルクに言った。


「あと……この屋敷に仕えているメイドはヒトじゃないんだ。ファントムって言うオバケみたいな魔性動物で喋れないんだ、でも良い人だよ」


 困ったように笑いながら「見た目はちょっと怖いけどね」とフリュージアは呟いた。

 マルクは小さく肯きながらファントムという生物の見た目を想像してみた。ホラー作品などで見るような血の気のない肌で瞳が黒目だけの幽霊の姿しか思いつかなかった。

 怖くなったマルクがフリュージアの背にしがみ付くと、彼は「きっとすぐ慣れるよ」と苦笑いをしながら励ました。


「メイドは倉庫と温室の管理をしているから……近付かなければ大丈夫だよ」


 マルクは肯いたがフリュージアの背中に押し付けた顔を上げられそうになかった。

 しかし、フリュージアは夕飯の準備をするらしくマルクは食堂へと連れていかれた。

 横に長い大きなテーブルと八脚の椅子があり、マルクは三脚並べられた椅子の右端の席に座らせられる。マルクの左側に置かれた二脚の椅子にアミルとティアムが座るらしい。

 フリュージアからその説明を聞いたマルクは夕食時に何か起こりそうだと思った。

 マルクから見て向かい側の三脚のどれかにアミーナが座り、左横の一脚に双子の祖父であるアリジアが座り、右横の一脚にフリュージアが座るようだ。

 フリュージアは「アリジアはハゲさまって言われた人ね」と言うと食堂を出て行った。

 食堂に一人で残されたマルクは寂しさと恐怖を感じていた。

 オバケみたいな生物を見てしまったらどうしようとマルクは怯えていた。

 叫び声を上げれば厨房に声が届くだろう。しかし、フリュージアが来る前に何かされてしまうかもしれない。屋敷の中に有害な生物はいないかもしれないが、やはり一人は怖い。

 マルクが背中を丸めてフリュージアを待っていると話し声が聞こえてきた。

 どうやら話し声は食堂の外から聞こえてくるようだ。

 その声がアミルとティアムのものなのか、ここからでは判断ができなかった。

 誰の声か確かめるためによく耳を澄ませてみると、ハッキリと声が聞こえてきた。


「また非常食がないわ、こっそり食べようと思っていたのに!」


 アミルの声だとマルクは思った。彼女は何かを探しているようだった。


「ちゃんと蓋をしたの? ネズミとか虫に食べられたんじゃないの?」


 ティアムが呆れたような声で言った。二人で食べ物を探しているらしくゴソゴソと探し回る音が聞こえる。まるですぐ側で行動をしているかのような音だった。

 辺りを見回しても二人はいない。だが、マルクにはハッキリと聞こえていた。

 マルクが困惑していると、アミルがティアムに文句を言った。


「ちゃんと封をしてあったもん、ティアムがこっそり食べたんじゃないの?」


「食べてない、濡れ衣だよ!」とティアムが怒ると、アミルは「だって三日連続でなくなっているのよ、場所も変えているのに……絶対にオカシイでしょ!」と怒鳴り返した。

 二人が言い争っているのはアミルの部屋だということが分かった。どうして二人の位置まで分かったのか、マルク自身にも分からなかったがぼんやりと思ったのだ。

 直感のようなものだと感じたが、どうして急に直感が働いたのか分からなかった。

 マルクが困っていると、近くで声が聞こえた。見回しても声の主は見当たらなかった。

 だが、確実にその声はマルクに掛けられたものだった。


「落ち着きなよ。大丈夫だって、幼い頃にはよくあることさ」


 とても小さな声だった。女の子の小さな声がマルクを落ち着かせようと和めた。

 マルクが辺りを見回していると「こっちこっち、下だって」という声が聞こえた。

 テーブルの下を覗き込むと小さな姿が見えた。それはテーブルの脚に寄り掛かって座り込んだ全身をピンク色で統一した女の子だった。目が合うと彼女は笑顔で手を振った。

 女の子は着物のようなドレスを着ていて、帯に実寸大のサクランボの飾りがついている。

 身長は人形ほどで、まるでおとぎ話に出てくる小人のようだった。

 女の子は半分に割れたクッキーを頬張っていた。脇には三枚のクッキーが積み上げられている、どう見ても彼女がアミルの非常食を盗んだ犯人だった。

 よく見ると女の子は光っていた。小人だとマルクは思ったが、妖精かもしれない。


「きみの耳は特別な耳っぽい、魔人の耳とは違う耳っぽいよね」


 マルクが「マジンってなに?」と質問すると、妖精は「ヒトの親戚じゃん」と答えた。

 妖精はクッキーを豪快に頬張った。その所為で食べカスがボロボロと絨毯に落ちた。

 半分のクッキーを食べ終えた妖精が「アミルには内緒ね」とマルクに口止めをした。

 マルクが「言えないよ、仲良くないから」と答えると、妖精は「どんまい」と笑った。

 妖精は立ち上がって三枚のクッキーを抱え上げた。重いのか足元が覚束ない。


「誰かに魔法や魔術の使い方を教えてもらいな、知りたくないことを知る前にね」


 妖精は「じゃあな」とマルクに別れを告げると、羽も何もないのに空中へと飛び立った。

 ピンク色の光る粉を振り撒きながら妖精は厨房の方へとゆっくりと飛んでいく。

 厨房から「あれ……ブロッサムさま何時の間に来ていたの?」というフリュージアの声が聞こえてきて、妖精は彼の知り合いであることが分かった。

 マルクはもう一度耳を澄ましてみたが、アミルとティアムの話し声は聞こえなかった。

 何度やっても声も音もハッキリと聞こえなかった。遠くで喧嘩をする声が聞こえているので、二人が話しをしていないという訳ではなさそうだ。

 ピクピクと耳を動かしながら屋敷の中の音を聞いていると、耳元で声が聞こえた。


「――レーニィさま、あまり他人の会話に耳を立ててはいけませんよ」


 マルクがビクリと肩を震わせて辺りを見回したが誰もいなかった。

 不思議そうにマルクは「レーニィ……?」と呟いて首を傾げた。

 おそらく前世に関連する呼び名だろうが、リェサーニアでもアムールでもなかった。

 もしもレーニィがどちらかを指す呼び名であるなら、それはとても砕けたものだった。

 可能性があるならば、おそらくリェサーニアの愛称だろう。


「……だれか、ぼくを知っているの?」


 食堂を見た限りではマルクの問い掛けに答える人はいないはずだった。

 だが、マルクの問い掛けに「よーく存じておりますよ」という答えが返ってきた。

 テーブルの下に小さな人がいる様子もなく、食堂に他の人がいる様子もない。

 マルクが「だれなの?」と姿のない声に問い掛けたが、返事は返ってこなかった。

 この屋敷にはフリュージア以外にもマルクを知っている人物がいる。おそらくその人物はフリュージアよりもマルクについて知っているだろうとマルクは確信した。

 マルクはわずかな不安を覚えた。屋敷にいる姿なき声は、クレガルニに取り残されていた国民たちとは明らかに様子が違っていたからだ。

「ようこそおいでくださいました、レーニィ王子さま」とわずかに笑いの混じった声が聞こえてきた。姿の見えない女性の声はマルクを嘲笑っているようだった。

 誰かに魔法や魔術の使い方を教えてもらいな、知りたくないことを知る前にね――妖精の言葉が不安と共にマルクの頭の中をグルグルと廻っていった。



 マルクはどこにも行くことができずに食堂の椅子に座っていた。

 姿なき声はマルクを害する気はないようで他には何も起こらなかった。

 暇を持て余したマルクはフラフラと足を揺らしていた。先程の声を怖がる様子も、ファントムを想像して怖がる様子もない。怖がるのにも飽きてしまったらしい。だが、心の中で生じた不安を拭い去ることはできなかった。その所為で気分が良くない。

 マルクがぼんやりとダイニングテーブルを眺めていると怒鳴り声が屋敷中に響いた。


「もう、勝手にして! 僕に八つ当たりするのは止めてよ!」

「勝手にするよ! ティアムなんかキライだ、ティアムの所為でアミルがどれだけ苦労しているかなんてティアムは知らない癖にぃ!」


「弟なんていらない、ティアムなんか知らない!」と怒鳴るアミルの声が聞こえた。

 アミルの発言でさらに腹が立ったらしいティアムが叫んだ。


「僕だって姉なんていらない、少し早く生まれただけなのに偉そうにしないでよ!」

「なによ、アンタだって偉そうにしているでしょ!」

「僕がいつ偉そうにしたんだよ! アミルみたいな傲慢ちきじゃないし!」

「次のレンシィアだからって調子に乗ってすかしている嫌みなヤツのくせに!」

「そんなの嫉妬だよ、アミルは僕に嫉妬しているだけだよ!」


 ティアムは「もうアミルの顔なんて見たくない!」と怒鳴った。ティアムは苛立ちを踏みしめるように歩いているのか足音が荒く、廊下がギイギイと悲鳴を上げた。

 アミルも「アミルだって見たくない!」とティアムの背中に投げつけるように怒鳴った。

 二人の喧嘩する声を聞いたフリュージアが心配そうに厨房から顔を出す。

 自分が来た所為で二人は仲違いしてしまったのかと思うと、マルクの気が重くなった。

 小さくため息を吐くと、玄関の方から年老いた男性とティアムの話し声が聞こえた。

 フリュージアが布巾で手を拭きながらソワソワした様子で厨房から出てくると、お爺さんとティアムが食堂にやって来た。

 マルクが挨拶をすると、お爺さんは困った顔をしていたがマルクに笑顔を見せた。


「アミーナからお前のことは聞いたぞ、よろしくな」


 お爺さんは「アリジアだ」と言ってマルクに手を差し伸べる。マルクが控えめに手を出すと、アリジアはその手をしっかりと握って軽く揺らした。

 そしてアリジアは空いた片方の手でマルクの肩を叩いてから握手を解いた。

 不貞腐れた顔をしたティアムが左下の椅子に乱暴に座ると、アリジアは「こら、ティアム止めんか」と注意をした。注意をされたティアムは顰め面で黙り込んだ。

 アリジアは左横の椅子に腰掛けるとティアムへと身体を向けた。


「気が済んだら許してやれよ、アミルだって本気で思っている訳じゃないさ」


 アリジアが「お前もそうだろう?」と問い掛けると、ティアムは彼に背を向けた。

 腕を組んで唇を尖らせる。どうやらティアムは答える気がないようだ。

 ティアムのそんな様子を見たアリジアは息を吐いて肩を竦めた。


「ティアム、お祖父ちゃんにそんな態度はないだろう。お前が酒にスライムを入れたのを許してやった私の寛容な心を見習いなさい」

「……寛容な心で許してやっていたのに、アミルが調子に乗るから悪いんだ」


 ティアムは小さな声で呟いて、爪先で椅子をカリカリと引っ掻いた。

 その話を聞いていたマルクが「じゃあ、もう会わないの?」と問い掛けた。

 問い掛けられたティアムは顰め面でマルクを睨んだ。しかし、マルクが純粋な目で自身の顔を見上げていたのでティアムは気まずくなって顔を逸らした。


「マルクの言う通りだな、ティアムはもう本当にアミルには会わないのか?」

「そんなことないけど……でも、アミルが悪いんだよ!」


 膨れっ面のティアムは「僕は悪くない」と主張した。

 二人の会話を聞いていたマルクは悲しい気分になってしまった。

 マルクはティアムとアリジアの話し合いを聞きながら俯いた。自分は姉や両親にはもう会えないかもしれないことを思い出した。忘れようとしていた感情を思い出した。

 会わないと決めて会いに行かないことですら辛いのに、不意に会えなくなってしまうことがどれだけ辛いのか、マルクはこれから身を以って知らなければならないのだ。

 マルクが悲しい気持ちに浸っていると前世の感情も思い出してしまった。クレガルニで味わったような感情がマルクの気持ちとは別に心の中に存在していた。

 悲しみは心の形を変えてしまうこと、時には姿すらも変えてしまうことをマルクは知っていた。悲しみは真実を指し示すが、真実を映し出す魔法の鏡を曇らせる。

 曇った鏡は誰かが拭ってやらなければいけないことをマルクの魂が知っていた。

 俯いていたマルクは「かえりたい……」と小さく呟いた。

 その言葉は食堂に響いた。それだけではなく、言葉はマルクの心に反響する。

 返ってきた言葉はマルクに事実を突き付けた。悲しみに満ちた心に波紋を作った。

 ――本当はとても家に帰りたいのだとマルクは認めざるを得なかった。

 マルクの呟きを聞いたティアムが「……別に、帰ればいいでしょ」と言った。

 そんなティアムを小さな声でアリジアが叱った。マルクの様子を見たアリジアは彼がとても重い事情を抱えていると悟ったのだ。家に帰れない事情があると考えた。

 気が付くとマルクは椅子から飛び降りていた。柔らかな絨毯の感触が包帯越しに足裏に伝わった。ジクリジクリと傷口が痛んだが、痛みを気にしていられない。

 心の赴くままにマルクの足が動いた。家に帰らなきゃ、その気持ちが足を動かした。

 アリジアが「待ちなさい!」と言ったが、マルクは立ち止まらなかった。フリュージアが「まだダメだよ!」と言うが、足を止めることができなかった。

 玄関の冷たいレバーハンドルを引っ張ってドアを開くとマルクは外に飛び出した。

 この国にマルクの家はない、この世界のどこにもない、分かっているはずなのに表門までの道を走った。薄暗くなった空にはうっすらと欠けた月が、表門の先では街灯が輝く。

 屋敷前の道路は緩いカーブを描いている。道路を渡った先にあった大きな柵から身を乗り出して下を覗き込むと段々畑がマルクの視界を占めた。畑の先には海が広がる。

 この海の先にもマルクの家はない。分かっているのに、分からなかった。


「おねえちゃぁ――ん!」


 マルクは家族を呼ぶように「おとうさん、おかあさん!」と海に向かって叫んでいた。

 届く訳がないと分かっているのにマルクは叫ばずにはいられなかった。

 マルクは返ってくるはずのない返事を待って立ち尽くした。痛みと悲しみの重みに耐えられずに柵の前で座り込んだ。マルクの心のように空はどんどんと暗くなっていく。

 心臓と胸が痛い、熱を持っているようでジクリジクリと痛みを発している。

 マルクが襟から胸元を見ると赤い模様が中央に浮かんでいるのが見えた。まるで脈打つように模様が赤く点滅を繰り返している。それが心臓のようだとマルクは思った。


「……おねえちゃん」


 マルクが小さく呟くと、ゆっくりと赤い模様が消えていった。

 赤い模様が消えるのと同時に痛みが消え去っていく、不思議に思ったマルクは足の包帯を解いた。足裏には血が少しついていたが、深い傷が跡形もなく消えていた。

 マルクが赤い模様の浮かんでいた辺りを撫でていると、いつの間にかフリュージアが側に立っていることに気が付いた。フリュージアはマルクのすぐ側で膝を突いた。

 驚いたマルクがフリュージアの顔を見上げると、彼は悲しげな表情を浮かべていた。

 マルクの頭を撫でながらフリュージアは謝った。


「ごめん……家に帰してあげられなくて、リナにも会わしてあげられなくて」


「お姉ちゃんが近くにいるみたいなの」とマルクが言うと、フリュージアは顔を逸らした。

 とても悲しそうなフリュージアを見て、マルクも泣きそうな表情になった。


「お姉ちゃんが側にいるから、ぼくは大丈夫」


 確かめるようにマルクが言うと、フリュージアは居た堪れない表情を浮かべていた。

 そんな顔をされてしまえば幼いマルクでも悟ってしまう。悲しみに気が付いてしまう。

 マルクになる以前の経験が、それよりも昔の悲しみが真実を指差している。

 しかし、その事実は自分の目で確認したことではないので、マルクは思い至った可能性を心の奥深くに沈めた。マルクは鏡を裏返し、悲しみが鏡に映らないようにした。


「フリュージアさん……ごめんなさい。もうお屋敷に、お家に戻ろう」


 素足のままでマルクが立ち上がろうとするのでフリュージアが止めた。そしてティアムが以前使っていた革製のサンダルをマルクの足に履かせた。

 フリュージアは俯いたままのマルクに小さな声で「……ごめんね」と謝った。

 謝られても顔を上げることができなかった。悲しい顔のフリュージアを見られなかった。

 それでもマルクは泣かなかった、とても悲しいが涙が出てこなかった。


「お姉ちゃんは……ぼくのことを心配しているのかな」


 フリュージアは「……すごく心配しているよ」と答えてマルクの手を握った。

 マルクは小さな声で「そうだといいな……」と呟いて、小さな手でフリュージアの手を握り返した。フリュージアは小柄な男性だが、手の大きさは父と変わらなかった。

 ――大昔は死を象徴する存在だったフリュージアにはどのように見えているのか問い掛けたい気持ちと、何も知りたくないという感情がマルクの心の中でせめぎ合っていた。

 そして、マルクの姉の名前はたしかにリナだった。家族について何も教えていないはずのフリュージアがうっかりと姉の名前を言い当てたことにマルクは驚かなかった。

 なぜなら姉にも前世があるとマルクが確信したからだ。

 太陽の化身が言ったフレリアという名前が姉の前世の名前だろう。

 だからフリュージアも太陽の化身も姉のことを知っていたのだとマルクは思った。

 そして姉はマルクと違って前世を覚えていた。ハッキリと覚えていたのだろう。

 毎晩のようにおとぎ話としてこの世界のことを話してくれたのはマルクがこの世界に行くことを知っていたのかもしれない。もしくは一人で抱えるのが辛かったからなのかもしれない、マルクには姉の気持ちまでは分からなかった。

 フリュージアに手を引かれて食堂に戻ったが、マルクは一言も喋らなかった。

 アリジアに心配されても、気まずそうなティアムに控えめな謝罪をされてもマルクは喋れなかった。口を開けば感情が溢れてきそうで何も言うことができなかった。

 フリュージアに「やっぱりご飯は無理そう?」と聞かれたマルクは首を振った。

 小さな声で「だいじょうぶだよ」と答えてマルクはテーブルクロスを睨み付けた。

 ティアムはばつが悪そうな顔で角の生え際を掻きながらマルクの隣の席に移動する。

 顔色を窺いながらティアムは「お姉さんがいたの?」とマルクに問い掛けた。

 マルクが小さく肯くとティアムは「知らなくて、ごめん」と謝罪をした。


「……お姉ちゃんは、ぼくよりも大人で、怒られることはあったけどケンカはなかった」


 質問していいのか迷いながらティアムは「……もう、会えないの?」とマルクに聞いた。

 どう答えたらいいのか悩んだが、マルクは胸元を撫でながら「側にいるから、平気」と答えた。その言葉に応えるように胸が熱くなる。ここにいると主張しているようだった。


「ずっと側にいてくれるから……だから、ぼくは大丈夫だよ」


 自分に言い聞かせるように、姉に宣言をするようにマルクは呟いた。

 マルクは家に帰れないことでは泣かないと決心した。姉が見守ってくれていると思ったからだ。見守ってくれている姉に心配を掛けないと決めた。

 ここに悲しい事実があったとしても姉を悲しませないと覚悟を決めたのだ。


「ずっとお姉ちゃんに甘えて、ずっとお姉ちゃんを頼っていた。お姉ちゃんがいないとダメなんだって思っていたの……でも本当はぜんぜん違うんだ」


「ぼくはまだ生きていて、生かされている」と呟いた。その時、マルクはクレガルニに取り残されていた国民たちを思い出していた。あの時に感じた感情を思い出していた。


「今度はちゃんと“ただいま”って言わなきゃ……」


 覚悟を決めたマルクの発言を聞いて、ティアムは口を噤んだ。

 前世があるとフリュージアから聞いたが、その時のマルクの様子は幼い子供と変わらないものだった。それなのに今はどうだろうか、自分よりも大人だとティアムは思った。

 マルクの喋り方はまだ拙いのに心は強かった。ティアムは少し恥ずかしくなった。


「……マルクは前世を覚えているの?」


 その質問にマルクは首を横に振った。思い出そうとしても自由には思い出せない。

 それでも感情は残っている。マルクとは違う感覚が心の中にあった。

 今、クレガルニの民を想い描いているのはマルクの心だ。マルクの心があの時に感じた感情を思い出しながらクレガルニの民を想っている。前世は関係ない。

 マルクは知らないといけないことがたくさんあると感じていた。この世界についてもっと知らなければならないと思った。まだ辛いことを知る覚悟は決められないが、生きるために必要なことを知らなければならない。クレガルニについて知らなければならない。

 きっと姉もそれを望んでいる。マルクが強く生きていくことを望んでいる。

 まだ顔を上げることはできないが、マルクの心は少しだけ静まっていた。


「ティアムくんはアミルちゃんのこと嫌いなの?」


 ティアムはマルクの質問に答えようとしたが、アミルとアミーナが食堂に入ってきたのを見て口を閉ざした。本人の前では答えられなかった。

 顰め面のアミルは右上の席に座り、腕を組んで外方を向いた。目の前のマルクやティアムに一切目を向けなかった。ジッと見ていても目が合わなかった。

 フリュージアとアミーナがテーブルに料理を並べるが、空気は一向に良くならない。

 アミルはマルクやティアムだけではなくフリュージアもいないものとして扱い、視線を合わせようとしなかった。アミーナは拗ねた態度を取るアミルを叱った。


「もう……いい加減に機嫌を直しなさい、何時までそうしているおつもりで?」


 叱られたアミルは「絶対に許さない」とアミーナに言い返した。

 ティアムは苛立って眉を吊り上げたが、深く息を吐いて心を落ち着かせた。

 普段ならすぐに怒鳴り返してしまうので姉弟喧嘩に発展してしまうが、家族に会えなくて落ち込んでいるマルクに気を使った。

 寛容な心だと心の中で繰り返し呟きながらティアムはまっすぐとアミルを見た。


「傲慢ちきとか嫉妬しているとか顔も見たくないとか言って悪かったよ。姉なんていらないって言ってごめん、でもクッキーは食べてないからね」


 ティアムはできるだけ心を込めて謝った。アミルはティアムの様子を窺ったが、プライドが邪魔をしているのか謝ることができなかった。

 アミルは鼻を鳴らして外方を向いて「その子と仲良くすれば良いでしょ」と言った。

 アミルの発言を聞いたアミーナとアリジアは「アミル」と声を合わせて怒った。

 苛立ったティアムは勢いよく席を立った。そのままの勢いでアミルに言葉を返そうとしたティアムの袖をマルクが引いた。袖を引っ張られたティアムはマルクに意識を向ける。

 マルクはティアムを見上げてからテーブルの下に視線を移した。

 妖精に内緒ねと言われていたが、マルクは先程見たものを正直に言うことにした。


「クッキーはピンクの小人がテーブルの下で食べていたよ、三枚は持って帰っちゃった」


 その言葉を聞いたティアムがテーブルの下を覗き込むと食べカスが絨毯の上に散乱しているのが目に入った。手に取らなくてもクッキーだと分かった。


「えっ、ブロッサムさまが持っていたクッキーはアミルのクッキーだったの?」


 フリュージアの言葉を聞いたティアムは怒っているのが馬鹿馬鹿しく感じて、脱力しながら椅子に座った。アミルを怒る気力が生まれなかった。


「なんか……僕は疲れちゃったよ、さっさとご飯食べちゃおうよ」


 疲れた声でティアムが言うと、アリジアはテーブルに着いた五人の顔を見渡した。


「マルクには馴染みがないかもしれんが、クレメニスでは夕食前に祈りを捧げるんだ」

「……夜ごはんのときだけなの?」

「今日も恵みを与えてくださりありがとうございますと神に感謝して、明日も恵みを与えてくださるようにお祈りをするんだ。クレメニスには夜の神がいたからな」


 アリジアの言葉を聞いたマルクはフリュージアの顔を見上げた。フリュージアは苦笑いを浮かべながら「まあ、そういうことだよね」と呟いた。

 マルクが「フリュージアさん今日もありがとうございました、明日もお願いします」と頭を下げながら言うと、その様子を見ていたティアムがクスクスと笑った。

 アミーナとアリジアも釣られて笑うとフリュージアは顰め面になった。


「ちょっと笑い過ぎでしょ、私に失礼だよ。大昔は神々しかったんだよ!」

「えー……アルバムに残っているフリュンちゃんの昔の写真も神々しくないけど」

「もっと昔の話だよ、その時はもう既に神さまを止めていたから」


 恥ずかしそうに「ほら、もう笑わなくて良いから黙祷して!」とフリュージアは怒った。

 その言葉を聞いたアリジアとアミーナとティアムがマルクに手本を見せるように目を閉じて祈りを捧げた。手を組んだりせずに目を閉じて祈っている。

 ティアムの手は膝に置かれたままだったので、マルクはその姿を真似して祈った。

 マルクは先程口に出したことを祈り、それから会えない家族の幸せを祈った。

 夜の女神は生と死を繰り返して未来を創り出す存在だ。死という絶望を担っているが、生という希望も担っている。未来は希望の象徴だとマルクは思っている。

 フリュージアがその力を失っていたとしても、祈ることに意味があるのだと思った。

 マルクが目を開くと、みんなは先に祈りを終えたようでマルクを待っていた。

 アリジアの「では食べようか」という言葉を皮切りに食事が始まった。マルクはティアムやアミーナの様子を観察してから真似をするようにフォークを手に取った。

 目の前に置かれた真っ白な皿は大振りな海老が入ったカレーで満たされている。海老のカレーはマルクが知っているものよりもサラサラとしていて、スープのようだった。

 周りをよく観察するとティアムの海老には尻尾や頭が付いたままだが、マルクの海老には尻尾も頭も付いていなかった。カレーの入った皿も少し小さいことに気が付いた。

 サラダの入った深い器もティアムの物より小さく、フォークもスプーンも小振りだ。

 だが、水の入ったコップはみんなと同じ大きさだった。

 マルクが気付くと空だった受け皿に小さな丸いパンが一つ入っていて、マルクはフリュージアを見上げた。目が合った彼は不思議そうな顔をした。

「ぼくの家族はこんなにしない……」と呟いてから海老に噛り付いた。フリュージアに不満がある訳ではなく、彼がまめ過ぎてマルクは困惑しているのだ。

 その発言を聞いたフリュージアは慌てている。悪い意味で取ったらしく焦っていた。

 マルクが「てきとうなのかな?」と問い掛けるとフリュージアは安心していた。

 みんなで楽しく食事を取っていたが、アミルだけは外方を向いたままだ。

 横顔が寂しそうだとマルクは思ったが、なんて声を掛ければいいのか分からなかった。

 そんな臍を曲げたままのアミルに痺れを切らしたアミーナが注意をした。


「アミルも食べちゃいなさい、後はアンタが機嫌を直せば収まるんだからね」


 そう言われたアミルは渋々と夕食を食べ始めた。シャキシャキとしたレタスを黙々と齧っている。シャクシャクとレタスを食べる姿がウサギみたいだとマルクは思った。

 マルクがパンを頬張りながら見ていると、見られていたアミルがマルクを睨んだ。

 睨まれてしまったがマルクはジッとアミルを見詰めていた。目を逸らすタイミングを逃してしまったようで、アミルから目を逸らすタイミングが分からなかった。

 そのままの状態でパンを飲み込むと海老のカレーに手を伸ばした。

 しばらくすると食べることに真剣になり、アミルのことは意識から外れていた。

 マルクが真剣に食事をしていると小さな笑い声が聞こえてきた。必死に耐えるような笑い声はアミルのいる方向から聞こえてきて、気になって顔を上げるとフリュージアに布巾で口の周りを拭われた。マルクの顔を拭うフリュージアはニコニコと笑っている。

 どうやらアミルはマルクの顔を見て笑っていたようだ。

 マルクが確認するように顔に触れてみると口周りが少しベタベタしていた。

「笑ったわね」とアミーナが指摘すると、アミルは「笑ってない」と否定した。

 ティアムも「笑っていたよ」と指摘したが、アミルは「違う」と否定した。

 二人に怒ったアミルが「絶対に笑ってない!」と言って、それから何も喋らなくなってしまった。そんな姿を見たアリジアが「まるで昔のアミーナみたいだ」と笑った。

 もうティアムはアミルに怒っていなかった。自身の所為でアミルが苦労していることは事実であったし、少し気取っているのは確かに否めなかった。

 そして、あのクッキーは遠い国に出張に行ってしまった父親がアミルに送ってくれた大事なものであり、毎日ほんの少しずつ大事に食べていたのをティアムは知っていた。

 ティアムはアミルを許すことにしたのだ。あとは機嫌が直るのを待つしかない。


「あっ……マルクまた零した、ちょっと大き過ぎたみたいだよ」

「ごめん、大きい方が喜ぶと思って」


 ティアムは「マルクは食べるのが下手だね」と笑いながらマルクの口を拭ってやった。

 マルクの口の中にはたくさんの海老やパンが詰め込まれていて、モゴモゴと感謝を伝えてみたがティアムには意味が伝わらなかった。

 その所為でティアムに「飲み込んでからじゃないと行儀が悪いよ」と注意をされた。

 マルクが飲み込んでから改めて感謝すると、ティアムは恥ずかしそうにしていた。

 ――アミルの機嫌が直らぬまま、全員が夕食を食べ終えてしまった。

 アミルはすぐに部屋に戻ってしまう、ティアムはそんなアミルを気にしていた。

 アリジアは時間が経てば大丈夫だと笑ったが、ティアムは少し不安そうだ。

 そして満腹になったマルクはというと、とても眠そうにしていた。大きなあくびを一つして、赤いブドウのような色の頭がフラフラと揺れていた。

 マルクが椅子から落ちそうになっていたので、その背中をティアムが支えた。

 マルクが眠そうに目を擦っていると、食器を片付けたフリュージアに抱えられた。彼の手はひんやりとしていたので驚いたマルクは目が覚めてしまう。

 フリュージアに洗面台の前へと連れてこられてパジャマへと着替えさせられる。

 そのままマルクは顔を洗い、歯を磨き終えると部屋へと連れていかれる。

 貸してもらった部屋はマルクの部屋と同じくらいの広さだが、自室よりも狭く感じた。

 部屋には何も入っていない大きな本棚や年代を感じる木製の勉強机や椅子があり、壁には全身を見るための大きな鏡と星空を描いた絵が掛けられている。

 フカフカのベッドの側にはキャビネットやロッキングチェアまであった。

 キャビネットの上の置き時計にはキラキラと輝く石がたくさん散りばめられていて、可愛らしいフクロウが描かれている。すぐに星の神をモチーフにした時計だと分かった。

 少し目が覚めていたが、ベッドに寝かせられると眠気がマルクに擦り寄ってきた。

 フリュージアはマルクの頭を撫でてから部屋を出て行った。

 扉が閉められた部屋は真っ暗にならなかった。キャビネットの上に置かれたテーブルランプが弱い光で室内を照らしていたからだ。

 夢現なマルクが服の上から胸を撫でると、じんわりと胸元が温かくなった。


「おねえちゃん、おやすみなさい」


 ――マルクは夢を見た。だが、マルクが夢の中で横になっていたベッドが眠る前と同じベッドだったのですぐに夢だと気が付けなかった。もう朝なのかと思った。

 昼間のように明るい室内を見回すとロッキングチェアがわずかに揺れていた。

 誰かが座っているのか、チェアがキイキイと音を立てている。

 それを見ていたマルクは自分の部屋に置いてあった椅子とチェアの位置が同じだと気が付いた。ベッドから見える姿が自室の椅子の雰囲気とよく似ていた。

 部屋には誰の姿も見えないが、そこに姉が座っているような気がした。

 姉はいつもおとぎ話を語ってくれたが、たまには別のことをして欲しいと駄々を捏ねたことがあったのをマルクは思い出した。

 眠いのに眠れない時や、眠気で言葉を理解するのが難しく感じた時は困らせた。

 覚悟をしても恋しい気持ちを取り去ることはできず、会いたいことに変わりはない。

 マルクは夢の中ですら姉の姿を見られないことにガッカリした。

 わずかに呼吸する音が聞こえるだけで姉は何も語らない。キイキイとチェアが揺れる。

 もしかしたら姉は何かを語っているのかもしれない。マルクに聞こえないだけで、何かを伝えようとしているのかもしれない。姿を見ることができないので判断はできない。

 もしマルクに魔法が使えたのなら、姉の声を聞くことができたのだろうか。

 魔法で聞かないことを選択できるのなら、聞くことを選択できてもおかしくはない。

 マルクは魔法が使えるようになりたいなと思いながら瞳を閉じた。

 眠りにつく際に姉の声が聞こえたような気がした。子守唄を歌うような声が聞こえた。

 それは記憶の中の姉の声だったのか、夢の中の姉の声だったのか分からなかった。

 室内に差し込んだ朝日で目覚めたマルクは小さく呟いた。


「ふるーし、あくりあ、ふるーし、あむりあ、くあのあ、ゆむ、あくりあ」


 姉が子守歌として歌ってくれたもので、マルクは言葉の意味を知らなかった。

 世界に本当の朝が訪れていた。カーテンの隙間から差し込んだ光で室内が明るい。

 鳥たちのさえずりと犬の鳴き声が聞こえる、ガラスがコツコツと音を立てている。

 置き時計を見ると七時を過ぎていた。こちらの世界の時計と元の世界の時計には違いがなかったのでマルクは正確に時間を知ることができた。

 可愛らしい時計を眺めてからマルクはロッキングチェアへと視線を向けた。

 チェアは静かに佇んでいた。揺れてキイキイと音を立てることもなく、そこに在った。

 マルクは何も言わずに目を伏せた。夢の中の揺れる姿が頭に浮かんでいた。

 しばらく手元を眺めていると、窓の外から聞こえるコツコツとガラスを突くような音が激しさを増していた。気になったマルクがカーテンを開くと、紫色のミミズクが見えた。

 朝日を浴びて輝くユースと、彼をモチーフにした時計を見比べた。置き時計に描かれたフクロウの方が神々しいとマルクは思った。

 窓を開けてほしいようでユースは窓の前でウロウロとしていた。

 マルクは神のことを詳しく知らないが、子供に懐いてしまう神でいいのか不安になった。

 そんな愛嬌のある神はフリュージアとユーヴェリウスだけであることを願った。

 マルクが窓を押し開くとユースが室内に入ってきた。朝の外気は少し冷たかった。

 グイッと身体を伸ばしてからベッドを降りるとマルクの頭にユースが止まる。

 ユースがマルクの頭に止まる時、頭皮に彼の爪が引っ掛かって痛かった。だが、痛みを感じたのはその時だけで他の痛みや重みは感じなかった。

 不思議に思ったマルクが見上げようとするとユースが抗議の声を上げた。

 ユースが落ちそうになったらしく、バタバタと羽搏く激しい音が頭上から聞こえた。

 マルクが「ワガママだなあ」と呟くとユースは怒ったような鳴き声を上げた。

 ユースが何を言ったのか分からなかったが、彼は『耳が邪魔で乗れないんだもん』や『痛みとか重みは感じないから良いじゃん』とか言っていそうだとマルクは思った。

 部屋から出て細長い廊下を歩く、ドルガー家の屋敷は朝でも薄暗かった。

 フリュージアが光に弱い薬品があるから基本的に家は暗いと言っていたことをマルクは思い出した。日光が入らないような造りらしく、この家が薄暗いのは仕方がない。

 食堂に行くとティアムとアリジアが朝食を食べていた。アミルとアミーナの姿は見えなかった。フリュージアは厨房に居るらしく、厨房から音が聞こえている。

 マルクに気が付いたアリジアとティアムが挨拶をしてくれたので、マルクも二人に挨拶を返した。マルクの頭の上にユースがいたが、二人とも気にした様子はなかった。

 昨日も座っていた席に近付いたマルクが気付く。昨日はフリュージアが椅子に乗せてくれたので気が付かなかったが、テーブルも椅子もとても高かった。

 背の高い人を基準に作られたような椅子とテーブルにマルクが戸惑っていると、ティアムが手を貸してくれた。マルクが礼を言うと、やはりティアムは恥ずかしそうだった。

 アリジアが「すっかりお兄さんだな」と笑うと、ティアムは恥ずかしそうに否定した。

 マルクが「アミルちゃんは?」と聞くと、ティアムが「もう学校に行った」と答えた。

 不思議そうにマルクが「ティアムくんは?」と聞くと、ティアムは答え辛そうに「事情があって」と言った。マルクが首を傾げるとティアムは言葉を濁した。

 その様子を見ていたアリジアが朗らかに笑った。

 笑われたティアムは恥ずかしがってアリジアを睨み付けた。

 不思議そうなマルクに「通っている場所が違うの……」とティアムは答えた。

 マルクがアミーナについて聞くと、彼女は朝早くから仕事があり、空が明るくなる前に家を出たそうだ。アリジアは朝食が食べ終わったら畑に行くらしい。ティアムには送迎の車が家の前まで来るらしく、それに乗って通っている場所に行って勉強をするらしい。

 マルクは何も思わずに聞いていたが、よく考えるとおかしいと思った。


「くるま……?」

「マルクは車とか知らないの?」


 ティアムが不思議そうに聞くので、マルクは「分かる……」と答えた。

 魔法や神やドラゴンという不思議なものが存在する世界だが、どうやら科学が発展していない訳ではないようだ。移動手段が馬ではないことにマルクは少しガッカリした。

 車の他には汽車やバスもあるらしい。だが、飛行機はないらしく安心した。

 クレメニスは大きな円形をしているらしく、丸く線路が敷かれているらしい。第一地区から第七地区まで路線が繋がっていて、独立している農村にも繋がっているらしい。

 第八地区は暴力団や違法行為が蔓延っていてとても危険らしい。なので、第八地区の駅は使用されておらず、道路も整備されていないのだという。

 第八地区の治安を良くするのが今後の王に課せられている使命だとティアムは呟いた。

 真剣な表情のティアムに「何があっても八区に近付いたらダメだよ、死ぬよ」と脅されて、マルクは震えながら肯いた。

 怖がるマルクを見て、この様子なら八区に近付かないだろうと思ったティアムは満足そうに頷いた。しかし、マルクは第八地区の場所どころか現在地すら把握していない。

 そんな話をティアムとしていると、フリュージアが料理を持って厨房から出てきた。

 フワフワと柔らかそうな卵焼きや新鮮そうな野菜のサラダが美味しそうだった。

 昨日は気分が落ち込んでいて食べることに真剣になっていたが、海老のカレーもとても美味しかったのを思い出した。きちんと美味しかったと伝えていないことに気が付いた。

 マルクが礼を言おうと顔を上げると、フリュージアに抱えられてしまった。

 フリュージアは「歯を磨いてからね」と言って、マルクを洗面台へと連行した。

 マルクが嫌そうな顔をして「歯磨きの味になっちゃう」と言うと、フリュージアは「健康のためには仕方ないね」と笑った。マルクはため息を吐くしかなかった。

 マルクは洗顔をして、嫌々歯を磨いた。そんな様子を見ていたフリュージアは磨き終わったマルクの口内を確認した。見た限りでは磨き直しは必要なさそうだった。

 確認されたマルクは「お姉ちゃんとお母さんはこんなことしない」と文句を言った。

 フリュージアが笑いながら「ごめんごめん」と謝り、マルクは「しょうがないなあ」と言って許した。彼は小柄な青年だが、中身は玄孫がいるお婆ちゃんだ。

 しかも、彼はマルクの前世まで知っている。中身だけなら相当なお婆ちゃんだった。

 フリュージアに手を引かれて食堂に戻ると、居たのはティアム一人だけだった。

 真剣に新聞を読むティアムを邪魔しないようにマルクは一人で椅子によじ登った。

 こっそりと新聞紙を覗き込むと、見たこともないグネグネとした文字がびっしりと書かれていてマルクには理解できなかった。掲載されている写真には本棚が写っていた。

 テーブルの中央の籠に残っていたまん丸なパンをフリュージアに取ってもらって、マルクは少し大きなパンに噛り付く。香ばしくて美味しそうな匂いがした。

 外側が硬くなっていて噛み千切るのに苦労したが、中はふんわりとしていた。

 このパンは牛乳と合う味をしていて、マルクは牛乳を大量に飲んでしまう。気が付くとコップの中が空になっていて、マルクは牛乳のおかわりを強請った。

 フリュージアに「お腹を壊しそうだからダメです」と言われてしまい、マルクは残念そうにパンを齧った。硬い外側の部分は野菜のスープにつけて食べることにした。

 フリュージアもパンの外側が硬いということを知っているようで、マルクがパンをスープに浸して食べても怒らなかった。お母さんとお姉ちゃんだったらこんな食べ方をしたら怒るだろうなとマルクは思いながらふやけたパンをスプーンで(すく)った。

 パンとスープを食べ終えてからフワフワの卵焼きを食べ切り、ようやくサラダへと手を伸ばした。マルクが黙々とサラダを食べているとフリュージアが笑った。


「マルクは気に入ったものから食べるタイプなんだね、昨日もサラダは最後だったね」


 フリュージアに言われて昨日のことを思い返してみると、確かに最後に食べていた。

「でも、嫌いじゃないよ」とマルクが言うと、フリュージアは「そっか」と笑った。

 マルクがサラダを食べ終える頃に新聞を読んでいたティアムが質問をした。


「マルクは学校には行かないの?」

「いつもはお家で勉強してた」


 その返答を聞いたティアムは「そうなんだ……」と呟いてから何かを考え始めた。

 しかし、すぐに迎えが来てしまったのでティアムは考えたことをマルクに言うことができなかった。マルクは手を振って残念そうなティアムを見送った。

 ――昼間は屋敷で大人しく過ごした。屋敷にフリュージアしかいなかったので、マルクはしーのブラッシングを手伝ったり庭にいたスライムを観察したりした。

 スライムの感触は柔らかいゼリーのようで、触ったり突いたりすると分裂したり溶解したりすることが分かった。溶けてしまっても死んではいないらしい。

 フリュージアが言うには分裂したり溶解したりする時に体の一部を残すので、それが養分となって土を豊かにするらしい。畑の土壌改良として飼育されることが多い。

 それだけではなく、スライムは両棲類で水中でも生きられる。野生では綺麗な水辺で暮らしているが、生活排水で汚染された水域内でも生きられることが確認されている。

 水中に溶け出した汚染物質を吸収するらしく、その性質は水質改善にも利用される。

 元々は“夜の森”周辺の湿地草原にしか生息していなかったが、土壌改良のために持ち込まれたスライムが野生化してしまったので各国で今も増え続けているそうだ。

 被害は確認されていないが、生態系に影響を及ぼすのではないかと問題視されている。

 ドルガー家のスライムは逃げないよう、増え過ぎないように管理されているらしい。

 獣医だったこともあると言った通り、スライムを語るフリュージアは楽しそうだった。

 食堂でおやつを食べながらマルクがフリュージアに獣医だった時のことを聞くと、彼は獣医であったが普通の獣医ではなく、魔性動物を主に診ていた獣医であったそうだ。

 そんな功績から世界で初の魔性動物医としてクレメニスから認定を受けてしまい、前世は有名人だったらしい。なので、その時の名前をあまり名乗りたくないらしい。

 マルクはフリュージアが淹れてくれたハーブティーを飲みながら質問した。


「魔性動物医とふつうの獣医はなにが違うの?」

「普通の獣医さんには治療できない魔性動物の治療ができる獣医さんだよ」


「ドラゴンとかね」とフリュージアは言った。

 マルクの想像通りドラゴンは扱うのが大変な生き物のようだ。

 気のない返事をしながらマルクはフカフカした穴のないドーナツを齧っていると、アミルが帰ってきた。昨日はティアムと一緒に帰宅していたが、今日は一緒ではないようだ。

 すぐに自分の部屋に向かおうとするアミルにフリュージアが声を掛けた。


「今日はティアムと一緒じゃないんだね、歩いて帰ってきたの?」

「……悪いの? いつも一緒じゃなきゃいけないの?」

「そんなことはないけど……汗を掻いたでしょ?」


 少し困ったような笑顔で「ハーブティーでも淹れるよ?」とフリュージアが言うと、アミルは迷っていた。そして小さくため息を吐いて昨日と同じ椅子に座った。

 アミルは「ハチミツ多めね」とフリュージアに伝えるとマルクの前にあった皿からドーナツを取った。それはマルクのドーナツだったが、マルクは何も言わなかった。

 それを見ていたフリュージアはアミルとマルクの様子を窺っていた。人の物を取るアミルを注意した方が良いのか迷っているようだった。

 マルクが「フカフカしていて美味しいね」と笑顔で言うとアミルは表情を顰めた。

 アミルにおやつを取られたことをマルクは全く気にしていなかった。

「……マルクはそれで良いの?」とフリュージアが問い掛けると、マルクは不思議そうに首を傾げた。マルクは少し考えて「二個目は取られる用だよね?」と聞いた。

 マルクの発言を聞いたアミルが「いや、違うでしょ」と指摘した。アミルの指摘にマルクは「そうだったんだ……ぼく、ずっと取られる用だと思ってた」と呟いた。

 アミルとフリュージアはマルクを憐れに思ったが、二人の想像と実態は少し違う。

 マルクの顔色や体調を見ながら量を調節されていただけで、おやつを横取りされていた訳ではない。マルクもそれが分かっていたが上手く言葉にできなかったのだ。

 マルクに意地悪をしてやろうと思っておやつを取ったが、アミルは罪悪感を覚えた。

 顰め面のアミルが「フレニュジャムとドーナツ持ってきて」とフリュージアに頼んだ。

 フリュージアは迷ったものの、言われた通りにジャムとドーナツを持ってきた。

 アミルはドーナツを二つに分けてフレニュの実のジャムを塗った。マルクの皿に片方のドーナツを乗せてやり、そのドーナツを食べてみるように勧めた。

 マルクはフレニュの実が辛くてヒリヒリする実だと覚えていて「ベロがヒリヒリするやつだよね……?」と嫌そうな顔でアミルに問い掛けた。

 アミルは「良いから食べてみなさいよ」と高圧的にマルクに言った。

 とても嫌そうだったが、マルクは思い切ってドーナツを食べてみることにした。

 ギュっと目をつぶったマルクは口を大きく開けてドーナツに噛り付いた。一度で食べ切ってしまいたかったが口の中に全部は入らなかった。

 あまり噛まないで飲み込もうとマルクは思ったが、ジャムは不思議な味がしていた。

 わずかな辛味を感じて、旨みの強い甘みが口内に広がった。他にスパイスが入っているのか不思議な香りがしている。マルクが想像していたような辛味は全くなかった。

 マルクが黙々と味わっていると、その様子を見ていたアミルが言った。


「そのジャムはアミルが調合したのよ」


 マルクは不思議そうに首を傾げて「ちょうごう……?」と呟いた。

 その問いに答える気はないようでアミルは白いティーカップに口を付けた。

 真っ白なカップを支えるアミルの指は綺麗とは言えなかった。火傷を負った跡が多く残っていて、新しい傷があるのか絆創膏が貼られている指もある。

 そして爪が黒い色をしていた。アミルの目元の黒い模様やティアムの小さい角、フリュージアの杖と同じ色だ。もしかしたらティアムの爪も黒い色をしているのかもしれない。

 指は火傷だらけだったが、爪は宝石のようにツヤツヤしていた。

 アミルはマルクに指を見られていることに気が付くと手を隠した。よく見るとアミルのシャツは袖が少し長かった。手を隠すために長いものを選んでいるのかもしれない。

 アミルはもう片方のドーナツもマルクの皿に乗せてやり、それから席を立った。

「……制服を脱いでくる」と小さな声で二人に告げて食堂を出て行った。

 マルクは残っていたジャムのついたドーナツを口に放り込んだ。ほのかに香るスパイスの不思議な匂いが癖になりそうだった。スパイシーなのにとっても甘くて美味しい。

 カップに残っていたハーブティーで口内に残る油を流し込んだ。

 マルクは残ったドーナツを食べて欲しいとフリュージアに頼んで椅子から飛び降りた。

 元気なマルクにフリュージアは「どこ行くの?」と問い掛けた。マルクは大きな声で「お庭」と伝えて屋敷から飛び出した。庭にある石の小道を跳ねるように歩いた。

 しばらくマルクが石の小道を行ったり来たりしていると、表門の前に丸くて黒い車が止まるのが見えた。その丸くて黒い車からティアムが降りてきた。

 ティアムは運転手に礼を言ってから表門を潜る、マルクに気が付くとティアムは「ただいま」と言った。マルクもそれに答えて「おかえり」と言った。

 ティアムは屋敷に入ろうとしたがマルクに邪魔をされる。マルクはティアムの手を引っ張ってその指や爪を確認したのだ。彼の爪は普通の色をしていて黒っぽい様子もない、火傷や荒れている様子もなかった。アミルと違って普通の爪だった。

 困ったティアムが「どうしたの?」とマルクに問い掛けると、マルクは「アミルちゃんの爪は黒くてツヤツヤしているのに、ティアムくんの爪は黒くないね」と答えた。

 マルクの言葉を聞いたティアムは首を傾げた。少し不思議そうだった。


「……アミルの爪が黒いんだ?」


「宝石みたいにピカピカしてた」とマルクが言うと、ティアムは黙り込んでしまった。

 マルクが「あと、やけどとかいっぱいあって痛そうだった」と続けて言うと、ティアムは「魔法薬を作る時に火傷したんだと思うよ」と答えた。

「どうにかならないの?」とマルクが問うと、ティアムは「しょうがないよ」と答えた。

 魔法薬の製造には火を使う場合もあり、薬の中には皮膚につくと火傷を負ったような水膨れができてしまうものもあるらしい。なので、魔法薬を製造するのならば仕方がないのだとティアムは言った。マルクはその答えに納得することができなかった。

 ティアムは不満そうな顔をするマルクに困っていた。


「治しても火傷なんてすぐにできちゃうから、しょうがないんだよ」

「なんでティアムくんの手にはやけどがないの?」

「えっ……魔法薬を作ってないから、かな?」


 マルクは「……そうなんだ」と答えるとティアムの手を離した。納得できていない表情のマルクに困惑していたが、ティアムは屋敷の中へ入っていった。

 しばらくマルクは考えていた。何を納得できないのか、何が不満なのか考えた。

 しかし、マルクがいくら考えても何一つ思い付くことができなかった。

 考えながらマルクは様々な大きさの石を並べて作られた小道を眺めながら歩いた。小道の上にできた影が地上から自身を見上げているように見えた。

 マルクの頭に乗っている星の神も影は黒かった。星は暗闇でも輝くが、影は輝かない。

 綺麗なものでも影ができるんだなあとぼんやりと考えていると、マルクは前に姉と交わした会話を思い出した。機嫌が良さそうな姉の顔を思い出した。

 ――別に見せるためにしている訳じゃないんだけどね、綺麗にすると気分が良いの。

 塗ったばかりのマニキュアを乾かしながら姉はそう言っていた。綺麗にすると特別な気分になるのだと、女の子はそういうものなのだと言っていた。

 アミルも手や爪がもっと綺麗になったら、特別でとっても良い気分になるかもしれないとマルクは思った。そうしたらアミルとティアムは仲直りができるかもしれない。


「ぼくね、アミルちゃんの爪がもっとキレイになったらいいと思うんだ」


 マルクがユースにそう言うと、彼は賛同するように「ホウ!」と元気よく鳴いた。

「どうしたらいいかな?」とマルクが相談すると、ユースは頭から飛び立って表門に止まった。ユースが翼を広げて「ホウ」と鳴いたのでマルクは表門に近付いた。

 ユースは森でマルクを先導した時と同じように飛んでいった。

 まだ明かりが灯っていない街灯に止まってマルクが出てくるのを待っていた。

 黙って出て行くことに戸惑ったが、神様が一緒だから大丈夫かなとマルクは軽く考えると表門を潜った。ユースの止まる街灯に近付けば、彼は別の街頭へと飛び移る。

 屋敷の周りは畑やビニールハウスばかりで店などはなさそうだった。

 道路には車が走っていた。しかし利用者は多くないようで偶にしか車を見なかった。

 マルクが果樹畑らしきものの側にある道を歩いていると、一本の黒い横線の入った青いバスが丘の向こうへとゆっくりとした速度で走っていった。

 果樹畑へと視線を向けると、大きな木に青い皮の果実がたくさん実っているのが見えた。

 アミーナが出してくれたジュースに入っていた柑橘のような香りと酸味がする果物だ。

 大きく息を吸うと、空気は柑橘のような爽やかな匂いと海のしょっぱい香りがした。

 ぼんやりと果樹畑を眺めるとおじさんやおばさんが実を収穫しているのが見えた。

 マルクに気が付いた二人が手を振ってくれたので、マルクも手を振り返した。

 おじさんとおばさんが楽しそうに仕事をしているので、二人の様子や笑顔から聖クレメニス国がとても良い国であることが窺えた。

 マルクはとっても気分が良くなって、足が軽く感じて跳ねるように歩いた。

 底まで見える綺麗な海と段々畑と果樹畑、振り返るとドルガー家の屋敷が緩やかな丘の上に立っているのが分かった。その向こうにとても大きな木が見えた。

 遠くに見える大きな木はマルクが今まで見たものの中で一番の大きさだった。

 丘の先にはどんな街並みが広がっているのか、それを考えただけでワクワクした。

 急ぐように歩けばマルクの長い耳がピョコピョコと揺れる。心臓がドキドキと高鳴っているのは疲れているからではなく、とても興奮しているからだった。

 本来の目的をすっかり忘れてマルクは浮かれた様子で丘の向こうを目指した。

 すっかり観光客の気分になっているマルクを見て、ユースは不思議そうに首を傾げた。

 マルクが本来の目的を思い出したのは坂道に疲れて一息吐いた時だった。



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