旧友
クレガルニから離れて、フリュージアはマルクを背負って海沿いを歩いた。
海は夜空よりも暗い。星も月も映さずにジッと二人を見詰めていた。
砂を踏む音がマルクの長い耳を撫でる。擦りガラスのように曇った頭はボンヤリと周囲の場景を認識するが、すぐに輪郭を濁して暗闇に消えていく。
眠いような、眠くないような、曖昧な感覚の中にマルクはいた。
意識を水面に残して身体だけが水の底に落ちて行くような、そんな感覚がマルクに付きまとった。フリュージアのマントを掴んでいる手先の感覚が鈍る。
マルクはこれが眠気ではないことに気が付いたが、口を開くのも億劫だった。
身体の中から必要なものが流れていく音が聞こえる。
その音はマルクを眠りに誘っているようで、ゆっくりと目を閉じた。
――水の底から強引に身体を引き摺り出されるような感覚だった。鋭い針のような痛みがマルクの意識を身体に縫い付けた。糸が解れないように、しっかりと縫い付ける。
意味を為さない音が口から流れ落ちる。悲鳴を聞いたのは初めてだった。だが、マルクの悲鳴は周囲に響かなかった。くぐもった音がわずかに漏れ出ていた。
その時は何かを噛まされていることに気が付くことができなかった。
どこが痛いのか、どうして痛いのか、どういう状況にあるのか、理解できずにマルクは呻いた。暗闇で逃げ場のない痛みに苦しんでいると、彼の胸の上が重くなった。
小さな音が聞こえた。囁くような声だったが、確かに音が聞こえた。すると、マルクを苦しめていた痛みが不自然に引いていった。何が起こったのか分からなかった。
滲んだ視界で胸の上を見ると、紫色に輝くシルエットが見えた。
小さなミミズクが心配そうにマルクを見下ろしていた。
ようやく口の中に何かが入っていることに気が付いた。
少し身体を起こすとフリュージアが見えて、マルクは自身を苦しめていた痛みの正体を把握した。彼は真剣な表情でマルクの足裏を見ていた。
フリュージアは集中しているらしく、マルクの様子に気が付いていないようだ。
細いピンセットのような物を使い、フリュージアはマルクの足裏から何かを抉り出していた。彼は取り除いたものをその辺に放り捨てていた。
それは暗闇で光を反射してキラキラと輝いている――その正体はガラスの欠片だ。
その様子を見て、足裏に深く刺さった異物を取っていたから痛かったのだと理解した。
状況を把握できたマルクは安心して息を吐いた。額に浮かんだ汗を拭って、邪魔にならないように寝そべった。
視界の先に星空は見えず、赤く照らされた岩肌が見えていた。光源へと視線をずらすとたき火が見えた。パチパチと音を立てて枝や骨のような流木が燃えている。
視界の隅に黒い布が映っている。手の甲を当てると、そこには柔らかな布のしっとりとした感触があった。布はフリュージアのマントだった、マルクの身体の下に敷かれている。
叫び疲れていて動くのが億劫だったが、マルクは口内に入っていたものを取り出した。
口に入っていたものは白いハンカチだ。厚めの木綿で作られたハンカチだった。
ハンカチを口に入れる意味がよく分からなかったが、フリュージアは必要ないことをしないだろうと思い、マルクはハンカチを噛んでおくことにした。
痛みを感じていないマルクには必要のないものだったが、指摘する人はいなかった。
汗を大量に掻いたらしくマルクの全身が濡れていた。夜風が少し寒い。
マルクが寒さで身体を震わせると、ミミズクがマルクの頬に体を寄せた。ふわふわとした羽毛は心地よく、励ますような仕草に心が暖かくなった。
心に余裕ができると下半身が全く動かせないことにマルクは気が付いた。
縛りつけられているような感覚はあるが、足を見た時は何もなかった。
足裏の治療が終わったらフリュージアに聞こうとマルクは考えて、ミミズクの腹に額を擦り付けた――気が付くと鳥の鳴き声が聞こえていた。
ハッキリしない頭を振りながら起き上がると明るくなった空と綺麗な海が見えた。
足を見ると綺麗な包帯が巻かれている。しばらくは自力で立つことはできないだろう。
辺りを見回すとミミズクが居たが、フリュージアの姿は見えなかった。
ミミズクは真っ赤な炭が気になっているらしく、長い足を伸ばして炭を突いている。
熱くないのだろうかと思いながらマルクが不思議そうにミミズクを眺めていると、フリュージアが戻ってきた。彼は芋のようなものと青魚を持っていた。
フリュージアは優しそうな笑顔を浮かべてマルクに足の具合を尋ねてきた。
マルクが「大丈夫だよ」と答えると、フリュージアは「良かった」と安心していた。
魚は捌いてきたらしく腹が開いていて中に内臓はなかった。丈夫そうな枝に魚を刺して、その枝をミミズクに咥えさせた。魚の大きさがミミズクとほぼ同じだった。
そんなミミズクを火の側に立たせて、フリュージアは枝を刺した芋を火に当てた。
ミミズクもフリュージアも火と距離が近いが、彼らは熱がる素振りを見せなかった。
マルクが神様だから熱くないのかなと考えていると、フリュージアが慌て出した。
「あっ……どうしよう、袖が焦げた。火が点いたらどうしよう」
その言葉を聞いたマルクはフリュージアが普通の服を着ていたことに驚いた。
なんとか火から距離を取ろうとするフリュージアと、そんなフリュージアを心配そうに見ているミミズクをマルクはぼんやりと眺めた。
フリュージアの必死な姿が段々とおかしいと感じ始めて、マルクは声を潜めて笑った。
守ってくれた姿や治療してくれた姿からは大きくかけ離れていて、その姿はとても可笑しかった。すぐに笑われていることに気が付いたフリュージアも釣られて笑った。
「――フリュージアさん、その格好なんか変だよ!」
マルクが笑いながら言うと、フリュージアも笑いながら「だって、服が燃えちゃったら全裸だし」と返した。その返答も可笑しかったようでマルクはさらに笑った。
必死なフリュージアもおかしいが、魚を焼くのに梃子摺るミミズクも可笑しかった。
月の化身である虎が人に化けられるので、星の化身であるミミズクも人に化けることができるはずだ。ホゥという鳴き声しか聞いていないが言葉も話せるはずだ。
姉から聞いた話では、月の化身と星の化身は対等な力を持つ夜の女神の眷属神だった。
彼らは夜の女神の目であり、腕や足でもあった。月が女神自身を照らし、星が彼女の周囲を照らした。女神には常に夜の闇が付きまとっていたが、彼らが周りを照らし出してくれたので女神は他の生き物と交流を図ることができたのだという。
人に化けないのは何か理由があるのかもしれないが、それでもミミズクの後姿は可笑しかった。オロオロと火の周りを歩き回るので長い尾羽が地面を掃いてしまっている。
魚と芋が焼きあがる頃にはフリュージアの袖とミミズクの尾羽は真っ黒になっていた。
フリュージアが恥ずかしそうに鼻を擦ると、彼の鼻の頭は黒くなってしまった。
「顔が真っ黒になっちゃったね」
「まさかこんなところに落とし穴があるなんて思いもしなかったね」
フリュージアが「ちゃんと対策すれば良かったぁ」と笑うので、マルクも一緒になって笑った。笑い合う二人の間に昨日の緊張感は一切なかった。
楽しそうな二人の仲間に入りたくなったらしく、ミミズクは跳ねるようにマルクに近付いた。しかし、彼らは熱さに強かったので気が付かなかったが、ミミズクの体はとても熱くなっていた。それが熱々のフライパンのようだったのでマルクはとても慌てた。
「まってなんか……なんか、ちょっとまって!」
マルクが「こっち来ないで!」と拒絶すると、ミミズクはショックを受けたような鳴き声を上げて動きを止めた。大きな目が潤んでいるように見えた。
しばらく動かずにマルクを見上げていたが、ショックがとても大きかったようでミミズクは俯せに倒れ込んだ。落ち込んでいるらしくピクリとも動かなかった。
その様子を見たマルクは「ごめんね……すっごく熱かったんだよ」と謝った。
謝罪をされたミミズクは「ホゥ……」と小さく鳴いた。
その鳴き声がどのような意味なのか、マルクには全く分からなかった。
フリュージアは焼けた魚と芋をマルクに渡して、動かなくなったミミズクを持ち上げた。
「ちょっと海で冷やしてくるから、その間に二つとも食べちゃっていいよ」
「えっ……悪いよ。ぼく、お手伝いも何もしてないよ」
フリュージアは「私は食べる必要ないから」と笑いながら言って、ミミズクを連れて洞窟を出て行った。残されたマルクは少しだけ寂しくなった。
ホカホカと湯気が立っている焼き魚を齧ると、皮がパリッと焼けていた。白い身はフワッと柔らかく、魚の脂はほんのりと甘い。うっすらと効いた塩味がちょうどいい。
マルクは小骨をペッと吐き出しながら焼き魚を齧った。
とても美味しかったので焼き魚はすぐに食べ終えてしまい、気が付くと味気ない芋が残されていた。美味しいものを食べ終えてしまった後では美味しいと感じられなかった。
マルクが味気ない芋をチビチビと齧っていると、フリュージアが戻ってきた。
無心で芋を齧っているマルクを見たフリュージアはクスクスと笑った。
「ペース配分を間違えちゃったみたいだね」
「あんまり味がしないね」とマルクが素直に言うと、フリュージアは「魚と一緒に食べないからだよ」と言った。この芋がサツマイモのように甘かったら良かったのにと思いながらマルクは芋を頬張った。口内の水分が芋に取られるので飲み込み辛い。
マルクから枝を回収して、それを火にくべながらフリュージアは背中に手を遣った。
「そろそろ薬を塗りなおしたいんだけど……我慢できるかな?」
マルクの足元に座り込んだフリュージアの手には軟膏薬の入った瓶が握られていた。
昨日はマントを着用していたので気付かなかったが、フリュージアはエプロンバッグを身に着けているようだ。バッグにはいっぱい物が入っているようで大きく膨らんでいる。
エプロンバッグを背中から横腹へと移動させながら、フリュージアはマルクの足に手を伸ばした。マルクがわずかに身構えると、フリュージアは困ったような表情を浮かべた。
「ごめんね、昨日は痛がっているのに気が付けなくって」
「でも、薬を塗らないと治らないから」と申し訳なさそうに言った。
拒めないのは分かっているが、痛いかもしれないと思うと身体が強張る。
マルクが小さな声で「……痛い?」と聞くと、フリュージアは「ちょっと沁みるかもしれない」と答えた。医者の言う『ちょっと痛い』は『かなり痛い』だとマルクは思っていた。なので、かなり沁みるかもしれないと思うと嫌な気分になった。
「魔法みたいなので治らない?」
「あぁ、ごめんね……怪我を治す魔法とか使えないんだよね」
マルクが「ほんとうに?」と確認すると、フリュージアは「ダメな大人でごめんね」と申し訳なさそうに謝った。どうやら本当に怪我を治す魔法は使えないらしい。
小さくため息を吐いてからマルクはマントの上に寝そべった。
そして両手で目を塞いでからマルクは小さな声で「お願いします……」と頼んだ。
包帯が解かれていく度に嫌な汗が滲んだ。昨日の痛みを思い出すとマルクは逃げたくなった。マルクの頭の中は真っ白だった、恐怖で何も考えられない。
「――はい、終わったよ」
フリュージアの声が聞こえたが、マルクはその言葉を疑った。なぜならあまり痛みを感じなかったからだ。指の隙間から恐る恐る足を窺うと、綺麗な色をした包帯が見えた。
薬は沁みなかった、フリュージアの言葉は本当だった。マルクが安心して息を吐くと身体の強張りが解けた。緊張から解放された身体は強い疲労感に襲われた。
マルクはフリュージアを見上げる。彼は瓶をエプロンバッグにしまっていた。
「フリュージアさんはどうしてぼくを助けてくれるの?」
マルクの問い掛けにフリュージアは困った顔になった。どう説明したらいいのか悩んでいるようで顎や唇を触りながらたき火を見ている。
「えっと、私は獣医で……困っている命を見捨てられない性分というか」
フリュージアはマルクが何も知らないと思っているらしい、幼いマルクでもそれが分かった。マルクは悩むフリュージアを見ていた。彼はマルクを見なかった。
「フリュージアさんは夜の女神さまなの?」
マルクがそう問い掛けるとフリュージアはギクリと身体を強張らせた。
フリュージアがマルクの表情を恐る恐る窺う。フリュージアの顔色が少し悪かった。
「お姉ちゃんが言っていたの、夜の女神さまは月の神さまと星の神さまを連れているんだって、月の神さまはトラで星の神さまはミミズクなんだって」
「トラの男の子、夜の一部だって言ったから」とマルクが言うと、フリュージアはばつが悪そうな顔で頬を掻いた。
フリュージアは小さく息を吐いてからマルクの方へと身体を向けた。真剣さを感じ取ったマルクも起き上がってフリュージアの顔を見上げる。
「逃げられるようなものじゃないけど、辛いことばっかりでとっても嫌な話なんだ」
フリュージアの言葉を聞いたマルクは黙り込んでしまう。
真剣な表情のフリュージアは「聞きたくなかったって言われても、いつかは聞かないといけない話なんだ」と続けて言った。マルクは返答することができなかった。
安易に答えて良いものではないと思った。覚悟を求められているのが分かったからだ。
マルクは考えた。一生懸命考えたが、適切な言葉が見付からなかった。
マルクが何も言えないで俯いていると、困り顔のフリュージアがマルクの頭を撫でた。
「先ずは状況の確認からだね。この世界のことを知って、気持ちの整理を付けなきゃ」
フリュージアはマルクを安心させようとして笑った。少しぎこちない笑顔だった。
マルクが「昨日のより怖い?」と問い掛けるとフリュージアは情けない顔になった。
どうやら昨日の月の化身や太陽の化身よりも、足の治療よりも怖くて嫌なことらしい。
マルクは不安になった。あんなに怖くて辛いことよりも怖くて辛いことがこの世にあるなんて、どうしたらいいのか分からなくなった。頼りになる姉もいない。
昨日は信じてもいいと思ったフリュージアだが、本当に信用して平気なのかマルクは分からなくなってしまった。恐怖はマルクの判断力を鈍くさせた。
分からないことだらけで、本当は夢だったらいいのにとマルクは思った。
こんな考え方をしているからダメなのだろうなとマルクは感じた。この考え方ができなくなった時が、本当に覚悟を決めた時なのだろうなとぼんやりと感じ取った。
不安そうなマルクの耳に手を当てて顔を上げさせ、フリュージアは少し強引にマルクと視線を合わせた。フリュージアからは他の生き物と同じように生きている音がした。
「私の本当の名前はウェルサー、今はフリュージア。昔は夜の神だったこともある、獣医だったこともある。でも、私は神威を失った。もう神様じゃない」
「神に近しい生き物でしかない」とフリュージアは言った。
親指でマルクの目元をなぞる。フリュージアの眼差しはマルクの本当の姿を見ようとしているようだった。透かすような視線はマルクの心を見ようとしていた。
「全てから守ることはできない、私自身の行動でマルクを危険に晒すこともあるよ。それでも私は……マルクを、君の心を守ってあげたいんだよ」
フリュージアは泣き出しそうだった。泣き出しそうだったが、泣かなかった。
「……どうしてなの?」とマルクが問い掛けると、フリュージアはマルクの目を見た。
先程は交わらなかった視線が交わった。しっかりと相手を見ていた。
「マルクには関係ない話だけど……君が私に心をくれたんだ。人と同じ心をくれた」
「こころ?」
「楽しいことも嫌なことも、君の心が私に心というものを教えてくれたんだよ」
「ぼくはおぼえてない」
「そうだね。君がマルクになる前の話だから、私が死ぬ前の話だもん」
「どうしてなのかって言うなら、私が勝手に親友だと思っているからだよ」とフリュージアはマルクに答えを返した。先補は濁そうとした答えを返してくれた。
親友という言葉に引っ掛かるものがマルクの中にはなかった。生まれてから一度も友達ができたことがないからだ。会うのは家族と医者だけで、他の人に会わなかったからだ。
親友について考えているマルクにフリュージアは言った。
「私が勝手にやっていることだから、マルクが気にすることはないんだよ」
マルクは思った。昨日はフリュージアを信じていいと思ったのは“マルクになる前の自分の心”が判断したのだと思った。自分の心だが、自分の心ではない。
もしも昔の心が自分の中に残っていたら、フリュージアはどっちの心を優先するのだろうか――マルクがそう考えていると、フリュージアは目を伏せた。
「私が勝手にやっていることだし、前世のこととかマルクには関係ないし、ちゃんと守れるかどうかは謎だし……嫌だなって思うなら素直に言っていいよ」
「ハクボ島で保護してもらえば逃げられなくなる時までは安全に暮らせる」とフリュージアは言った。マルクはその言葉にショックを受けた。
どうしてショックを受けたのか自分でも分からないが、マルクは悲しくなった。
マルクは昔の心が嫌がっているのかなと考えながらフリュージアから視線を逸らした。
少しだけ泣きたくなって俯くと、紫色のミミズクがマルクを見上げているのが見えた。
ミミズクが側まで来ていたことにマルクは驚いた。全く気が付かなかったのだ。
ミミズクは小首を傾げてマルクの顔を覗き込んでいる。先程の目は潤んでいたが、今の目は潤んでいなかった。キラキラと強く煌めいている。
「だから、マルクの意志が聞きたい。マルクの心で判断して欲しいと思っているの」
フリュージアにそう聞かれても自分の心が分からない。とても悲しいが、これが昔の心なのか、今の心なのか、マルクは判断ができなかった。
自分が何に悲しんでいるのか、マルクはそれすらも分からなかった。
マルクがジッとミミズクの目を見ると、ミミズクは背を伸ばした。ピンと足を伸ばして、それから小さく鳴いた――そして先程と同じようにミミズクは俯せに倒れた。
ピクリとも動かない。落ち込んでいないはずなのに、ミミズクは動かなかった。
マルクがその様子を見ているとフリュージアは呆れたように言った。
「ユースくん、ごめんね……今は大事な話をしているから」
その言葉を聞いたミミズクは抗議をするように「ホゥ!」と強く鳴いた。
フリュージアの手がマルクの耳から離れていった。煩く流動する音が聞こえなくなる。
マルクは目を大きく見開いて口をわずかに開いた。ミミズクが教えようとしてくれていることに気が付いたのだ。どうして悲しいのか、教えようとしてくれている。
「フリュージアさん……ぼく、ぼくも仲良くしたい」
「もっとお話したい」とマルクは言った。その言葉はすんなりと心に納まる。今の自分はもっと仲良くなりたいと思っている。会えなくなるのは寂しいと思っている。
ハクボ島で保護されたらフリュージアは会いに来ない、それを心で感じたのだ。
頭では分からなかったが、それを心で感じたからマルクは悲しかったのだ。
その気持ちに前世は関係ない。マルクの本当の気持ちだ。
「怖いのとか、辛いのなんて分かんない……でも、会えなくなったら悲しい」
フリュージアが良いから一緒に居たいとは今は言えない。
それはフリュージアをよく知らないからだ。でも、知りたいとマルクは思っている。
それにフリュージアもマルクを知らないはずだ。昔を知っているだけで、マルクのことを何一つ知らない。何を思い、どんな考え方をするのか知ってほしい。
そして、その上でマルクとしての意志や覚悟を問いて欲しいのだ。
「……それじゃ、ダメなの」とマルクは呟いた。マルクはフリュージアを見ていなかったので反応が分からなかった。しかし、反応を確認する勇気は出ない。
マルクが俯いていると頭に重みを感じた。温かな重みがマルクの頭を撫でた。
恐る恐る窺うように見上げると、照れたような困り顔で笑うフリュージアが目に映った。
マルクと眼が合ったフリュージアは「――大丈夫だよ」と答えた。
その答えにマルクがはにかんで笑うと、フリュージアに抱えられていたミミズクが抗議の鳴き声を上げた。フリュージアの腕から離れて二人の間に立つと翼を大きく広げた。
ミミズクはホゥホゥと大きな鳴き声を上げていたが、驚いて見ているマルクと苦笑いを浮かべるフリュージアに痺れを切らして言葉を発した。ミミズクは「仲間外れやだあ」と幽かな声で主張したのだ。駄々を捏ねるように「やだあやだあ」と泣いていた。
マルクが思った通りミミズクは言葉を理解して喋ることができるようだ。
やっぱり喋れるのかと感心していると、ミミズクは仰向けに倒れ込んで暴れた。誰も答えてくれないので、自己主張のために激しく翼と足を動かして暴れた。
マルクは軽く頭を振って考えを切り替えて暴れるミミズクに声を掛けた。
「えっと、星の神さまとも仲良くできたらいいな……なんて呼んだらいいの?」
マルクが意識を向けてくれたのが嬉しかったのか、ミミズクは明るい鳴き声を出した。
跳ぶように起き上がるとマルクの側へと走り寄った。その勢いでマルクに体をぶつけて喜びを表し、それだけでは表現しきれなかった感情は鳴き声として嘴から漏れた。
困ったマルクがフリュージアの顔を見ると、彼は首を横に振った。
フリュージアは「興奮しちゃって喋れなくなっているみたいだね」と呆れ気味に言った。
「この子の名前はユーヴェリウスだよ、ユヴェでもユースでも大丈夫」
「神さまなのに呼び捨てしていいの?」
「ユースくんは全く気にしないから大丈夫だよ」
その言葉に続けて「月の神さまは怒るけどね」とフリュージアは呟いた。
ユーヴェリウス――ユースは頭をマルクの手に擦り付けて撫でるように催促した。
マルクが指先で頭を軽く撫でると気持ちが良いのかユースは目を細めていた。
その姿には神らしい威厳は全くなく、自然とマルクの顔が緩んだ。
フリュージアは彼らの様子を和やかに眺めていた。しばらくその様子を眺めてから、軽く勢いをつけて膝に手を突いた。膝に手を突く音でマルクとユースの注意を引いた。
彼らの視線を感じながらフリュージアは立ち上がり、土埃を払ってから喋り出した。
「そろそろここから移動しようか、血の臭いで肉食動物も集まっているだろうし」
マルクに笑い掛けながら「マルクの靴も買わないとね」とフリュージアは言った。
フリュージアの女性らしい喋り方と仕草を見て、やっぱり女神さまだなあとマルクは実感した。現在は男性のようだが男性らしさは感じない。
本当に男性なのか疑わしい。声の低い女性である可能性も否定できない。
気になったマルクはたき火の後処理をしているフリュージアに質問することにした。
「ねえ、フリュージアさん……聞いてもいい?」
「ん……なぁに、どうかしたの?」
「フリュージアさんは女神さまだったけど、男の人なの?」
「それとも女の人なの?」とマルクが聞いた。
フリュージアは答えを考えているらしく、悩むような小さな唸り声が聞こえた。
すぐにたき火の後処理を終わらせてフリュージアは振り返った。
「本当は女性だけど今は男性に化けているって感じかな」
「人じゃないからね」と苦笑いを浮かべた。続けて「落ち着いたら見せるよ」と言った。
その返答を聞いて、マルクは「ぜったいね」と念を押した。
フリュージアは肯きながら立ち上がれないマルクを抱き上げた。
そのまま洞窟を出ようとするので、マルクは振り返ってマントを見た。マントの側にしゃがみ込む少年の姿が見えたが、すぐに岩肌に邪魔をされて見えなくなった。
洞窟の方を眺めていると、ミミズクの姿のユースが出てきた。畳まれた黒いマントを両足で掴んでいて、ユースの体は少しだけ大きくなっているような気がした。
二人の側で飛びながらユースは「ホッ」と短く鳴いた。鳴き声の意味は分からなかったが、ユースが手の届く距離を飛んでいたのでマルクは手を伸ばしてマントを掴んだ。
マルクが掴んだのを確認してからユースは足を離した。気が緩んでいたので落しそうになったが、落とさないようにしっかりと掴んだのでマントは無事だった。
ユースは嬉しそうに鳴いていた。手渡せたことに喜びを感じているようだった。
マルクは自由に空を飛び回るユースを見上げた。青色の空に小さな紫色の星が弾丸のように飛んでいく、その姿は流れ星のようだった。
空を制しているユースから視線を外して、マルクは周囲を見渡した。
洞窟は森の中にあったらしく、洞窟内からは見ることができなかった木々が見えた。
森は砂浜の近くまで広がっていて、ここからでは木々に阻まれてクレガルニを見ることはできない。マルクは少し残念な気持ちになった。
海から洞窟までの獣道を通って砂浜に出る。浅瀬では白い砂浜が透けていて、遠瀬では底が見えずに青くなっていた。同じ青でも少し違っていて、空と海の境界線が分かった。
「海が透けてずっと向こうまで見えているみたい」とマルクは呟いた。
海上で魚を狙う鳥たちをユースが散らしているのが見えて、マルクは海から視線を逸らした。砂浜を見渡して「これからどうするの?」とフリュージアに尋ねた。
「海を越えないとね、この島には人が住んでないから」
「国がなくなっちゃったから人がいないの?」
「そうだよ。九四六年に魔装具戦争が起きて、人が住めない環境になったんだ」
フリュージアは「今は害がないから平気だよ」と教えてくれた。
この世界のことをマルクは何も知らないので疑問が次々と湧いて出てきた。
マルクは何を聞くか迷ったが、まずは「西暦?」と質問をした。フリュージアは「この世界ではギルド歴なの、今はギルド歴一三八三年だね」と教えてくれた。
マルクは軽く頷き、憶えるために“ギルド歴”を頭の中で復唱した。
何度もギルド歴と頭の中で呟いていたが、途中でギルドという単語に疑問を覚えた。
ギルドも気になったが、どうやって海を越えるつもりなのかも気になった。
フリュージアは海辺を歩いているが、人がいないということは船ではないだろう。
しばらく歩いていると木々が徐々に減っていき、砂浜が広がった。フリュージアは遮断物がなくなって広くなった周囲を見渡しながら「この辺で良いかなあ」と呟いた。
そして、マルクを片腕で支えながらフリュージアは口元に手を遣った。息を吸う音が聞こえて、それからすぐに澄んだ高音が周囲に響き渡った。
フリュージアは何度か指笛を吹き、空と海を交互に眺めた。
何かを呼び寄せているようでフリュージアはゆっくりとその動作を繰り返した。
しばらくしてからフリュージアは指笛を吹くのを止めた。マルクが気になってフリュージアが見ている方へと顔を向けると、海原に白い生き物の姿が見えた。
その生き物はアルパカに少し似ているが、明らかにアルパカではなかった。
手足が六本ある虎も十分に幻想的だったが、その白い生き物は虎よりも遥かに幻想的な生き物だった。宝石のようなミミズクよりも幻想的だった。
キリンのように長い首で、顔は羊のようだった。頭には二本の大きな角が生えている。
顔は短い毛で覆われていて、首から下は柔らかそうな長い毛で覆われている。
遠目だったがコウモリの翼のようなものが生えているのが分かった。
マルクが呆気に取られて見ていると、それはゆっくりと砂浜に立った。
その生き物はとても大きかった。フリュージアに抱き上げられているマルクでも見上げないと全貌を知ることができないほどに背が高い。
よく見ると尾はライオンのようだった。先端に毛が纏まって生えている。
海を泳いで来たのに艶やかな毛はフワッとしていた。濡れている様子はなかった。
その生き物はすらりと長い脚で砂浜を蹴ってフリュージアに頭を垂れた。
巻角に結ばれた一本の赤いリボンが頭の動きに合わせて揺れた。
「彼女はシーシープドラゴンのしーちゃん、カッコいいでしょ?」
シーシープドラゴンのしーを見上げながら、マルクはぼんやりと「……シーアルパカドラゴンじゃないんだ」と呟いた。マルクにはしーが羊に見えなかった。
「若い時は羊っぽかったんだよ」とフリュージアは言うが、マルクには羊っぽい姿が想像できなかった。何度も想像してみたが小さいアルパカにしかならなかった。
しーが頭を上げる様子をマルクは口を開けたまま見詰めた。顔を上げたしーはマルクと眼が合った。しーはマルクが気になったのか、顔を近付けて臭いを嗅いだ。
大きさに怯んでいるマルクの背を撫でてフリュージアは「大丈夫だよ」と言った。
マルクを嗅ぎ終えたしーは「変なにおいがする」とたどたどしく言った。
しーが喋ったことに驚いて感動を覚えたが、体臭を指摘されたことが気になってしまってマルクは素直に感動することができなかった。
落ち込むマルクに「そういう意味じゃないんだよ」とフリュージアは励ましたが、マルクの気分は上がらなかった。
「ドラゴンは五感で力を感じ取るから、マルクの魔力は変わっているねって意味だよ」
マルクが「そうなの……?」としーに問い掛けると、彼女は首を傾げていた。
しばらくしてから「おいしそうなにおいだよ」としーは答えた。
草食動物のような外見をしているが肉を食べるらしい。
不安を覚えたマルクがフリュージアを見上げると、彼は苦笑いを浮かべていた。
「ふりゅーじあがダメって言うからたべないよ」
その発言を疑ったマルクが「本当に食べない?」と聞くと、しーは肯いた。
そしてしーはマルクに「ミミのとこかいて」と催促した。恐る恐るマルクが言われた場所を掻くとしーは「んぎゅー」と鳴き声を発した。
嫌がっているのか喜んでいるのかよく分からない鳴き声だった。
そもそも鳴き声なのだろうか、言葉を発するので鳴き声ではないのかもしれない。
ずっと「うー」という鳴き声を発しているしーにマルクが困惑していると、フリュージアが「嬉しそうだね」と笑って言った。
機嫌を損ねたら齧られそうなので、しーが嫌がっていなくてよかったとマルクは思った。
マルクが耳を掻くのを止めると、しーは「んぎゅ」と短く鳴いて二人から離れた。
「イイかんじだし、ふりゅーじあが見てないとこでもたべないようにする」
「見ていても見ていなくても人類を食べてはいけません」
「害獣は狩られるよ!」とフリュージアが怒ると、しーは「はいよ」と返答した。
しーが信用できるとは思えなかったが、マルクはフリュージアを信じることにした。
「仲良くなれたみたいだし、背中に乗せても平気かな?」
フリュージアが問い掛けるとしーは「いいよ」とすぐに答えてくれた。
乗りやすいように気を使ったのか、しーは二人に背を向けた。彼女の背中をフリュージアが撫でてやり、それからマルクをしーの背に乗せた。
しーの背中は柔らかいだけではなく適度な反発もあって座り心地が良かった。
マルクが「フカフカだ!」と喜ぶと、しーは少し誇らしげだった。
その様子を眺めながらフリュージアはエプロンバッグから細い黒の革を取り出した。
黒い革の綱をしーの顔に巻き付け、手に持った綱を引いてきちんと手綱が装着されているかをフリュージアは確認した。それが終わるとマルクの後ろに乗った。
フリュージアに寄り掛かってマルクが「どこに行くの?」と聞くと、彼は明るい声で「私の家がある聖クレメニスだよ」と言った。
その声はとても朗らかで、フリュージアが聖クレメニスを愛しているのが分かった。
フリュージアの指示でしーは立ち上がり、砂浜を蹴って走り出す。
走る衝撃でマルクとフリュージアは跳ねるように揺れた。大きく揺れていると段々と楽しい気分になってきて、気が付くとマルクはしーに対する恐怖心がなくなっていた。
マルクがキャアキャアと悲鳴のような笑い声を上げていると、フリュージアが「興奮しすぎて口の中を噛まないでね」と注意をした。
しかし、フリュージアの注意は興奮しているマルクには聞こえていないようだ。
フリュージアは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「マルクと同じくらいの双子の女の子と男の子が家にいるんだよ」
興奮状態のマルクに話しかけてみたが、フリュージアの言葉は届かなかった。
しばらくは何を話しても無駄そうだとフリュージアは判断して、手綱を引いてしーの進行方向を変えた。砂浜を走っていたしーは海に飛び込んだ。
「うわぁ、ぼく泳げないのに!」とマルクの悲鳴が聞こえたが、フリュージアは小さく笑っていた。返事はあえて返さなかった、すぐに騒ぎ始めるだろうと思ったからだ。
マルクは驚きから閉じてしまった目をゆっくりと開いた。
視界は低くなっていなかった。それに身体はどこも濡れていない。
不思議に思いながら辺りを見回して、それから足元に目を向けてマルクは感激の声を漏らした。太陽を浴びてキラキラと輝いている海面が視界に映ったのだ。
「――しずんでない……しずんでない! 海を走っているよ!」
フリュージアが思った通りにマルクは「すごーい!」と騒ぎ始めた。
しーはパシャンパシャンと音を立てながら海原を蹴り、翼を大きく広げた。
海風を捕らえようと翼を羽搏かせるしーの手綱を片手で握り締めて、フリュージアはマルクを強く抱いた。落さないようにしっかりと抱き寄せてからグッと手綱を引いた。
しーは海原を跳ねる。翼で海風を捕らえると――そのまま大きく空へと駆け上がった。
海から遠ざかるのは一瞬の出来事だった。太陽と雲が一気に近くなった。
マルクは口をポカンと開けて前を見ていた。近くをユースが飛んでいるのが見える。
「ほら、シーシープドラゴンはカッコいいでしょ!」
フリュージアの言葉は聞こえていたが、マルクは反応することができなかった。
しばらくしてからマルクは「――うん、カッコいい」と呟いた。
ごうごうと風の音が耳を塞いている。目が乾いてしまうのに瞬きを忘れてしまう。
マルクは涙を流していた。感動で泣くのは初めてだった。
生きていてよかったとマルクは思った。あの日、あの時、死ななくってよかった。
マルクの胸が温かくなる。少し熱かったが、痛くはならなかった。