再誕
この作品にはオリジナルの言語(ローマ字表記のもの)や宗教や神話などが出てきます。
挿絵が後から追加されたり、されなかったりします。
眠りにつく前に姉が聞かせてくれた話がある。
初めて聞く話でも懐かしさを感じたのは姉が語ってくれるからだと思っていた。
喜びや楽しみ、幸せや苦しみ、怒りや悲しみ、愛情や憎しみ。語られる話に鮮やかな色が付いていたのは姉の表現力が素晴らしいからだと思っていた。
あの瞬間まで、そう思っていた。
大昔に在った小さな国の物語、湿地の側にあった国の物語。
その国の王子だったナクディ=リルには、マクディ=リルという双子の弟が居ました。
ナクディとマクディの顔はとても似ていましたが、二人の性格は正反対でした。
兄のナクディは女性好きで、何時もフラフラと遊び歩いていました。弟のマクディは仕事好きで、何時もフラフラと国の外へと出て行ってしまうのです。
マクディは幼い頃から植物が大好きで、植物についての知識は誰にも負けない自信がありました。マクディは薬草にも詳しく、気が付いたらマクディは薬師になっていました。
マクディはいつも植物の絵を描いていました。植物のことで分からないことがあればすぐに本を読み、物知りなお爺さんやお婆さんに話を聞いて回ることもありました。
努力家で真面目なマクディと、遊び人で気儘なナクディは正反対な双子でした。
ですが、ナクディは弟想いのとても優しい青年でした。植物以外には興味を示さないマクディを一番に理解していて、彼のために行商から本を買うのはナクディの役目でした。
彼らは二人で一人なのです。他の者に理解されなくても、二人は一人だったのです。
何時ものように大好きな植物の絵を描こうと思ったマクディは国の外へと出かけます。
その日は珍しくナクディも一緒でした。マクディが遠くの森まで行きたがったので、心配をしたナクディが付いてきたのです。
二人は互いの文句を言い合っていましたが、その様子はとても楽しそうでした。
ですが、マクディは帰ってきませんでした。国に戻ってきたのはナクディだけでした。
その日、その国の運命に歪みが生じたのです。
始まりの声によって幕は上がり、その国の悲しい物語は演じられました。
何度も同じものを繰り返しているのです。終わりの声が響くまで、物語は終わりません。
しかし、幕を下ろすための終わりの声が国に響くことはありません。
終わりを告げるもの――転換を告げるものが、舞台から降りてしまったからです。
彼が舞台に上がるまで、私たちは永遠に演じ続けなければならないのです。
同じ役を、永遠に、繰り返し、繰り返し。最期には舞台が壊れるのか、人形が壊れるのか、それは誰にも分かりません。分かりたいとも思いませんでした。
鳥のさえずりが聞こえた。
さえずりに導かれるように少年が意識を浮上させると青い匂いが鼻を擽り、心地良い暖かさを肌で感じた。布団を掛けていないが、寒さは感じなかった。
閉じていた瞳を開くと強い光が眼を刺した。腕で日差しを遮って影を作り、ゆっくりと目を瞬かせた。瞳の奥に感じたわずかな痛みに手を握り締めると、何かを掴んでいた。
身体を起こしながら掴んだものを確認すると、それは細く柔らかな葉だった。葉は青い色と言うよりも、温かさを感じる黄色だった。太陽の下で映える色をしていた。
少年が周囲を見回すと、そこは見慣れた部屋ではなかった。
生命力に溢れた木々が生い茂り、瑞々しい植物が絨毯のように生えている。
顔を上げれば枝の隙間から青い空が見えた。いつもの白い天井はどこにもない。
これは夢だ、少年は思った。夢だと思ったが、今まで体験したことのない光景を目の当たりにした少年の心に不安が入り込んだ。
「……お姉ちゃん?」
不安に駆られた少年が――マルクが森の奥に声を掛ける。
しばらく待っても、誰もその言葉に応えてはくれなかった。
気が付くとマルクは上着をギュっと掴んでいた。ちょうど心臓の上の辺りだ。
服装は眠りにつく前と同じで、それはお気に入りの部屋着だった。
普段は横になっていることの多い病弱なマルクは立ち上がるという動作をすぐに思いつくことができなかった。しばらくはそのままの姿勢で周囲の様子を窺っていた。
強い風が木々や葉を揺らして、それに驚いた羽虫が飛び立った。その風はマルクの赤みを帯びたブドウのような細い髪と、普通の人間とは違う長い耳も揺らした。
おとぎ話に出てくるエルフのような、あるいはそれ以上に長い、ユリの葉のような耳だ。
小さな音も拾える耳を澄ましてみたが森の中に人が居る気配はなかった。
太陽の光を浴びながら空を舞う羽虫を見上げていると、立ち上がるという選択肢がマルクの頭を過った。マルクにはそれを選ばない理由はなかった。
迷うことなく地面に膝を突いて、ゆっくりとした動作でマルクは立ち上がる。
水気を帯びた柔らかな土をえぐると、膝は地中の水分に触れてじんわりと濡れた。
優しい色合いの部屋着は湿っぽい土で汚れてしまい、薄汚い色になってしまった。
しかし、不思議なことに背中は濡れていない。汚れた様子もなかった。
マルクの高くなった視界に羽虫の群れが映る、翅は光を浴びてキラキラと輝いていた。
閉め切ったカーテンに遮られて、外の景色を直接見たことがないマルクはその光景を不思議そうな表情で眺めていた。パチパチと瞬きを繰り返し、もう一度空を見上げた。
そこには雨や太陽から身を隠す天井はなく、見慣れた薄暗い照明もない。
ぼんやりと木々の間から覗く空を眺めていた。だが、長く空を見上げていた所為かマルクはバランスを崩して背中から倒れ込んでしまった。
大きな衝撃を感じたものの、土も植物も柔らかかったおかげでどこにも痛みはない。
マルクは驚いたように目を見開いて、そして何度も目を瞬かせた。
視界が何度黒くなっても世界は変わらずに青く、そして変わらずに高かった。
「思ったより……空って白い」
マルクは正直な思いを小さく呟いた。青いというより水色をしている、マルクはそう感じた。写真や本で見るよりも白っぽくぼやけているように見える。
しかし、写真や本で見た空よりも、この空には終わりがないように見えた。永遠にずっと、どこまでも空が続いている。そう思わせるような、そんな光景だった。
ゆっくりと起き上がると、今回は背中が汚れている。少しだけ背中が冷たくなった。
恐怖心はどこかに落としたのか、先程まで感じていた不安はどこにもなかった。
マルクは羽虫の飛んでいる方向へと歩き出した。羽虫に近付くと、透明な翅が光を浴びて七色に煌めいているのが分かった。羽虫はマルクの気配を感じて森の奥へと逃げていく。
羽虫を追いかけようとすると――誰かに呼び止められたような、そんな気がした。
なぜか自分を引き止めたのが姉だとマルクは思った。
姉に“そっちに行ったら家に帰れなくなるよ”と言われたようにマルクは感じたのだ。
マルクは直感を信じて振り返り、ゆっくりと歩き出した。
柔らかい足裏に枝や小石が刺さって鈍い痛みが走る、それでも足を止めずに歩き続けた。
この先に何かあるような気がしたからだ。とても大事な“何か”がこの先にはある。
温かくなる胸を服の上から押さえながら、マルクは木の根が張ってデコボコになった大地を踏みしめた。根に足を引っ掛けて転びそうになりながらゆっくりと歩いた。
胸は温かいを通り越して、少し熱くて痛いような気がした。
ずいぶんと長い時間を歩いたような気がする。しかし、休みながらゆっくりと歩いたので、現在地は目覚めた場所からそう遠くはない。引き返せば今日中に戻れるだろう。
疲れたマルクが足を止めて息を吐くと、彼の頭上から「ホゥ」と囁き声のような小さな鳴き声が聞こえてきた。マルクはキョロキョロと周囲を見回して、それから顔を上げた。
大きな木の全体を眺めると、枝に止まった小さなミミズクがマルクを見下ろしていた。
そのミミズクは尾羽が長く、全身が紫色の宝石のようにキラキラと煌めいている。
宝石細工のようなミミズクは大きな丸い瞳でマルクを見詰めている。じっくりとマルクを眺めた後に、ミミズクはもう一度「ホゥ」と小さく鳴いた。
そのミミズクをぼんやりと眺めていると、姉が話していたおとぎ話を思い出した。
――大きな紫色のフクロウは夜空に輝く星。ずーっと私たちを見詰めていたの。その瞳は世界の全てを見ようと思えば視ることができて、始まりから私たちを見守ってくれていたの――たしか、そんな話だった。
「あの、国に帰りたいから……えーっと、通ってもいいですか?」
マルクが控えめに問い掛けると、ミミズクは何かを考えるように首を傾げた。
何度か瞬きを繰り返した後に、ミミズクは「ホゥ」と鳴いた。
ミミズクは翼を大きく広げて見せると、長い尾羽を揺らしながら飛び立った。
光を浴びたミミズクはキラキラと輝き、どんな宝石よりも価値が有りそうだった。
飛んでいくミミズクの後姿を眺めていると、ミミズクは違う木の枝に止まってマルクへと視線を遣った。マルクを呼ぶように翼を広げて鳴き声を一つ上げた。
そんなミミズクを不思議そうな眼で見返して、マルクはゆっくりと歩き出した。
ミミズクはマルクが動くのを確認してから飛び立つ、先導するかのようにゆっくりと木々の間を飛んだ。マルクと距離が開くと、ミミズクは枝に止まって待った。気を遣うように小さく「ホゥ」と鳴いて、マルクが近付けば飛び立つ。それを繰り返した。
そんなミミズクの後を追って森を歩いていると、木々の間に強い光が見えた。その先は木が生えていないのか、日光を遮るものがないようだ。
マルクはなぜだか嬉しくなって、疲れていたことを忘れて走り出した。
森を抜ければ視界が広がった。視界を遮る木々はそこにはない。
しかし――そこに見えた光景はマルクが予想していたものとは大きく違っていた。
マルクは言葉を失ったようにその光景をただ見詰めていた。視界の先には崩落した城壁が小さく映っている。長い年月を物語るかのように城壁には蔦が這っている。
森から離れた河尻に戦火を浴びて崩壊した国があった。それはマルクにとっては見覚えのない景色で、初めて見る光景だった。マルクには関係のない国の跡地だ。
それなのに、マルクの胸には悲しみや苦しさが満ちていた。
人が通らなくなって久しい石造りの街道に植物が根を張っていた。根に蝕まれて、雨風に晒されて脆くなった石畳を踏みしめて、その国を目指してマルクは歩き出した。
一歩ずつ赤い足跡を付けながら、終わったものへと足を延ばした。
姉が語ってくれたおとぎ話の一つにこのようなものがあった。
――国の近くには森があって、その森を抜けると湿地草原が広がっている。その先に“夜の森”がある。夜の女神はそこに住んでいる。女神は私たちに恩恵を与えた、だけど……その恩恵は人々にとっては大きすぎて、強すぎて、恐ろしい……これでは、まるで呪いと変わらない――そう語る姉の暗い顔が頭を過った。
夜の女神は死そのものだった。しかし、女神は生でもあった。
生と死を繰り返し、未来を創る存在だ。そんな女神の加護を受けてあの国は繁栄していた。死を忘れた、永遠の居座るおとぎの国。今はその面影がない。
国が近付くにつれて、マルクは自分が病弱だったことを忘れて走り出した。
街道の側に以前は畑があったのか、土を掘り返して作った畝の跡がまだ残っていた。野生化した作物が痩せ細った実をつけている。自然は逞しく息を続けている。
人々が使用していた建物や家畜小屋は瓦礫の山となっていた。
人工物に生える植物が時の流れを物語っている。
商人や旅人を出迎えていたはずの大きな門があった場所には、その痕跡しか残されていない。ひっそりと残っている門衛の詰め所には侘しさが残っていた。
町中を流れる水路は以前のまま綺麗で、小魚が群れを成して泳ぐ姿がハッキリと見えた。
しかし、その水路の中には人の骨が沈んでいる。それも一人分の骨ではない。
マルクの目から気付かぬうちに涙が零れ落ちていた。とても悲しくて、言い表せない苦しみで胸が圧迫されている。知らないはずの人々を想いながら幼い少年は泣いていた。
色々な人々が集まり、活気に満ちていた市場には静寂が満ちている。
あの潰れた建物では何か食べ物が売られていたのかもしれない、錆びてボロボロになった大型の調理器具と木製の椅子たちが誰かを待っている。
城門跡地を抜けて、城へと続く階段を上る。息が上がって苦しいのに、心臓は壊れそうなほどに脈打っているのに、それ以上に心が苦しかった。
止まりそうになる足を悲しさが急かす、気力とは言えない力で立っている。
城に近付くに連れて建物の崩壊は激しくなり、争いで遺された鉄片が視界に映った。
マルクが辿り着いた先で見た国の中枢は城の形を残していたが――それを城と呼ぶにはあまりにも悲劇だ。
荒く息を吐きながら、流れる涙を拭うのも忘れてマルクは城を見詰めた。そこにはおとぎの国の終焉があった。死が形を成して存在している。
言葉で表すことができない虚しさにただ立ち尽くした。視線を逸らすことはできない。
――気が付くと太陽は沈みかけていて、周囲は暗くなっていた。
マルクはわずかに開いていた城の扉から城内へと踏み込んだ。城内は想像以上に血の跡が残っている。臭いが残っていなかったからか、不思議と恐怖は感じなかった。
足元には瓦礫やガラス片が散乱していたが、すっかりと足裏の感覚は鈍っていた。ドクドクと脈打つような熱を感じるのみで痛みは感じない。
頭の中からもドクドクと脈打つような音が響いている、自身がとても興奮していることが分かった。慣れない感覚に頭が鈍く痛みを発している。
マルクは恐怖を感じなかったが、心の中で悲しみと怒りと虚しさが入り混じっていた。
ペタペタと素足で歩く音が城に響き渡っている。人がいなくなった城に生気はない。
しばらく歩くと、扉が大きく開かれた謁見の間がマルクの視界に現われた。
謁見の間に残っていた王座は贅の限りが尽くされていて、その悪趣味さと品のなさにマルクは表情を顰めた。周囲をよく見ると、城に着飾らせた調度品や美術品の数々に品性を感じられない。マルクの中でわずかな違和感が芽生えた。
姉の語ってくれたおとぎの国のはずなのに、この城には楽園の住人ではない、まるで違う何かが住んでいたみたいだとマルクは感じた。
おとぎの国の最後の王が姉の語ってくれた王であるならば、きっと“金に余裕があるなら本を買え、腹や欲を肥やすくらいなら知を肥やせ”と言っただろう。
辺りの様子を窺いながら謁見の間に入ると、マルクの背後からカツンと石を叩いたような音がした。ビクリと肩を震わせて振り返ると、そこには何も居ない。
――しかし、また背後から音がした。今度はミシリと木が軋むような音だった。
音を追って振り返れば、今回は音を発するものを視界に捉えた。趣味の悪い王座の背凭れの上を陣取る大きな白虎のような生き物が見えた。
虎は白く光り輝いていて、尾は付け根から二股に割れていて足が六本もあった。
白虎は敵意を剥き出しにしてマルクを睨み付けていた。鋭い爪が王座に食い込んでいた。
怖気づいたマルクが後退ると、謁見の間の扉が勢いよく閉まった。大きな開閉音が城内に響き渡り、退路が断たれたことを実感した。
マルクを睨み付けながら白虎は王座から飛び降りた。白虎が埃の積もった石材の床に降り立つと、前足と後足に着いた金の輪がぶつかり合って高い音を立てた。
「忌まわしきガルニの英雄、破滅を齎すもの……何故この地に戻った」
白虎は低く唸るようにマルクに問い掛けた。見た目とは裏腹にその声は幼い子供のようだ。少女の声のようでもあり、少年の声のようでもある。
その質問にマルクが答えられずにいると、白虎は忌々しそうに唸り声を上げた。
「此処はお前の在るべき場所ではない――消え失せろ! お前が女神の腕に抱かれる夜は訪れない、理の世にて永遠の苦痛にのた打ち回るがいい!」
白虎の咆哮に驚き、マルクは肩を大きく震わせた。
空気が重くなったようで、上手く空気を吸うことができない。
どこかに置いて来てしまったように思えた恐怖が芽生えて、足が震えた。
早く目を覚まさないと、と思ったものの目を覚ます方法がマルクには分からなかった。
マルクがジリジリと後退ると、ひんやりとした扉に背中が触れた。後ろ手に開けようと力一杯押したが扉は開かない。体温が奪われるだけで、開く気配はない。
血の気が失せた顔のマルクを追い詰めるように、白虎はゆっくりと近付いてきた。
白虎はマルクを睨み付けていたが、何かに気付いたように目を見開いた。
そして何かに気が付いた白虎はすぐに牙を剥き出しにして怒りを露わにした。
「帰さない……あの世に戻ることも許さない! 今すぐにその身体を裂いてやる!」
「あの男とこの世を繋いだ!」と白虎は大きく吼えた。
心当たりのないマルクには言い返すこともできず、恐怖に震えることしかできない。
気が付くとマルクは扉に身を寄せるように座り込んでいた。恐怖に震えながら身を小さくする彼の視界に白虎が飛び掛かろうと身を屈める姿が映った。
目を固く閉じて、身体を強張らせながら自身に降りかかる死を待った。
しかし、白虎の爪がマルクを裂くことはなかった。
訪れる気配のない死に疑問を覚えて、マルクは恐る恐る目を開いて様子を窺った。
一番初めにマルクの視界に入ったのは二本の黒いもの――人間の足だ。黒い服を着た人間が、誰かがマルクと白虎の間に立っている。顔を上げると、黒い後ろ姿が見えた。
その人は暗い色合いのマントを羽織っていて、黒く長い杖を持っている。
白虎はその人を見て後退る、虎はその人を威嚇しなかった。吼えることもしない。だが、立ち塞がれて苛立たしそうに唸っていた。
それからすぐにバサバサと羽搏くような音が聞こえて、マルクはさらに上を見上げる。
紫色に煌めくミミズクがその人の肩に止まるのが見えた。森で出会ったミミズクだ。
謁見の間を見渡しても人間が通れそうな穴は見つけられなかった。小さなミミズクが通れる穴もない。窓に嵌められているガラスは一つも割れていない。
「むーちゃん……止めてよ、彼は何にも悪くないよ」
男性の声が聞こえて、マルクはその声に違和感を覚えた。目の前に立っている人を無意識に女性だと思い込んでいたからだ。その思い込みは確信に近かった。
その人はとても小柄で、成人男性にしては背が低い。黒い服装から覗く肌は青白いが白人ではなさそうだ。黒髪は硬そうで、癖がなくサラサラとしていた。
その人の言葉に続くようにミミズクが翼を広げて白虎を威嚇した。その姿を見た虎は苛立たしそうに咆哮を上げた。そんな一羽と一匹を見て、その人はミミズクを手で制した。
「怒らせちゃダメだって……気性が荒いんだから、まずは落ち着いて話そうよ」
「話すことなんかない、そいつは忌まわしき王とこの世の縁を結んだ。それだけで十分に殺す理由にはなる!」
「確かに彼は扉になった。でも、扉を壊したとしても道はもう在る……イレンス王はこの世に戻ってくる。彼が居ても居なくても、イレンス王は必ず現れる」
「怒る気持ちは分かるけど、彼を殺しても何も解決しない」とその人が言うと、白虎は唸ることしかできなかった。どうやら白虎は彼に逆らえないようだ。
マルクは戸惑いながらその人の後ろ姿を見詰めた。
なぜだか彼のことは信じられるような気がした。信じても良いと思えた。
その人は白虎に視線を向けたまま、影に隠れて扉に身を寄せているマルクに「君の名前は?」と問い掛けた。事態を把握しようと精一杯だったマルクはすぐに答えられなかった。
その質問が自分に投げかけられたものだと気が付けなかったのだ。
「えっ、え……あ、名前――ぼくはマルク」
「そっか、マルクね……良い名前だね、君の名前はマルクなんだね」
「初めましてマルク、私は……フリュージアって名乗ろうかな」と小さく笑いながら彼は名乗った。その名乗り方に疑問を覚えたが、マルクは問い掛けなかった。
フリュージアは宝石のように艶やかな黒い杖の先を白虎へと向けながら、マルクを庇うように手を広げた。その様子を見て、マルクは白虎の方へと視線を向けた。
白虎の後ろに位置する王座に、いつの間にか朱色に燃える球体が在った。鮮やかな炎を纏い、周囲を照らし出している。それはまるで小さな太陽のようだった。
フリュージアの焦ったような「ちょっと……不味いかな」という呟き声がマルクの耳に届いた。フリュージアの背を見て、マルクは小さな太陽へと視線を移した。
王座の上の小さな太陽は大きく燃え上がり、その姿を変えた。
女性へと姿を変える炎を見て、マルクの心臓が不自然に脈打った。胸が熱く、痛みを発している。マルクは痛みに顔を顰めながら、張り詰めた空気を肌で感じていた。
朱色の長い髪に同色の瞳、白い頬には紅い模様が描かれて、紅い縁の眼鏡が現れる。
民族衣装のような朱色のドレスを纏い、腰には白いエプロンが巻かれている。
朱色の髪は誰の手を借りることなく、二本の束へと編まれていく。最後には大きな紅い宝石のついた髪留めで三つ編みは纏められた。
見た目は家庭的な町娘であったが、彼女の纏う空気は炎のように熱い。
そして、その細腕には不釣り合いな大きさの戦斧が握られていた。持つ者の背よりも高く、重そうな戦斧だ。炎で作られたような朱色の戦斧は彼女を表しているようだ。
太陽の女の視線はマルクを射抜いた。守るために壁となっているフリュージアには目を向けずに、女はまっすぐにマルクを睨み付けた。
睨み付けたまま太陽の女は太々しく王座に腰掛ける。肘掛けに腕を乗せて、頬杖を突きながらマルクを見下げた。纏う空気とは違い、マルクを刺す視線は冷え切っている。
「マルクって言うのか、お前にはもったいない名だ。その名は誰がお前に送った?」
太陽の女は鋭さを持つ言葉でマルクに問う。
マルクが小さく「お、お姉ちゃんです」と答えると女は不愉快そうに表情を顰めた。
「姉、フレリアか――つまりお前の名は俺を表す言葉から取られたものか、正しさを表す“Marukwasu”から取ったものだな」
太陽の女はそう言うと腕を組んで瞳を閉じた。
苛立たしさを飲み込みながら太陽の女は「……気に入らねぇなあ」と静かに呟いた。
ふと気が付くと、フリュージアの腕が小さく震えているのが見えた。
その様子を見て彼はあの人に弱いのだとマルクは気が付いた。
王座に座り込む太陽の女に白虎が近付く、女の前に着く頃には白虎も人の形へと変化していた。それは一瞬の出来事だったので、マルクは虎が人に化ける瞬間を見逃した。
白虎が人に化けた姿は小さな子供だった。マルクとそう変わらない背丈で、真っ白な髪をしている。そして獣のような耳と尻尾が生えていた。なぜか尾は二股に割れていない。
虎だった少年は太陽の女を見上げていた。猫のような耳が周囲を把握しようとせわしなく動いている、その耳の動作がこの場の緊張感を表しているようだ。
太陽の女は機嫌悪そうに少年を見下している。
その表情はすぐに戦斧を振り下ろしたとしてもおかしくないものだった。
「アレは……ぼくの獲物だ。お前にくれてやる部分なんてない」
「お前はいつもそうだな……飼い猫が、主人に歯向かえない牙の折れた腰抜け野郎だ」
太陽の女の言葉に、少年は「それの何が悪いのか、ぼくには分からない」と返した。
二人の会話を聞いて、少年がフリュージアを庇っていることに気が付いた。
マルクはフリュージアの背に守られながら、彼と共に謁見の間の隅へと移動した。
二人が壁際に着いた時――太陽の女が戦斧を振り下ろすのが見えた。
マルクはその結果を見るのが恐ろしくなり、フリュージアの背にしがみ付いて目をきつく閉じた。しかし予想とは違って、聞こえてきたのは鉄のぶつかり合う音だった。
恐る恐る顔を出して何が起こっているのか確認すると――何も武器を持っていなかったはずの少年の両手に欠けた月を思わせるような美しい双剣が握られていた。
その双剣で戦斧を弾いたようで少年は無傷だった。白い双剣は少年の身体の一部のように馴染んでいた。その光景を見て、双剣は前足の爪か牙なのかもしれないと思った。
弾かれても戦意は衰えていないようで、太陽の女は大きな動作で戦斧を振った。女が片手で振るう大きな戦斧はおそらく人間には持つこともできないだろう。
当たればただでは済まない一振りに怖気づくことなく、少年は潜るように飛び込んでいく。彼の一閃に迷いはなく、肉食獣が獲物に止めを刺すように鋭かった。
それは喉を噛み切るかのようで、戦斧の一番脆い部分へと白い刃を立てた。戦斧は少年の全力に耐えられずに、頭とも言える厚い刃を失った。
遠のいた厚い刃は空中で溶けるように消えて、残った柄は女の腕の中で燃えていた。
少年の様子を見た太陽の女はゲラゲラと大きく笑った。
「お前、本気か。本気で俺とやるつもりか?」
「ぼくは何時だって本気だ。お前とは背を預けて戦い、同じ絶望を味わった仲だけど――今回ばかりはお前に背は見せられない」
少年がそう言うと太陽の女は笑うのを止めた。鋭い視線が少年を射抜く。
「……悔しくないのか、アレがこの地を踏み、お前の主人に守られているこの状況が悔しくないのか! それがアイツを守る剣として生まれたお前の選択だと言うのか!」
「悔しいよ、今すぐにでもアレの身体を切り裂いて永遠の苦痛を与えてやりたい。でも、それはできない――どんなに足搔いても、ぼくが夜の一部である事実は変えられない」
悔しさを滲ませながら少年は静かに言った。自身に向けられた恨みは心当たりがないものだったが、それでも少年の並々ならぬ悔しさが伝わって心が苦しくなった。
この世界が姉の語ってくれたおとぎの世界ならば――少年は月の化身で、女は太陽の化身だ。彼らはこの世界の神だ。精霊とも呼ばれる、この世界を管理するものだ。
二人が神であるならば、性別は違うがフリュージアは夜の化身に違いない。彼の連れているミミズクは星の化身で間違いないだろう。
怨まれている自分はこの国の住民か、もしくは王族の血を引いていたのだろう。
そうであるならば月の化身である少年に恨まれても仕方がない。彼の大事な家族である夜の女神を奪ってしまったのだから、憎まれていてもおかしくない。
これはおとぎの国の最後の王が夜の女神を殺してしまったその後に語られるはずだったとても悲しい物語だ。マルクがそう考えているとフリュージアが振り返った。彼は慌てたようにマルクを抱え上げると、全員に聞こえるように大きな声を上げた。
「――天井が崩れる!」
フリュージアが走り出すのと同時に謁見の間の天井が大量の水と共に月の少年と太陽の女の上に降り注いだ。その水はとても綺麗で少し不自然だった。
マルクを抱えたフリュージアが扉に近付くと、自然石でできた扉が自動で開く。マルクがいくら押しても開かなかった扉は夜の化身の出入りを許した。
瓦礫も美術品も調度品も、王国に仕えたものの亡骸さえも飲み込みながら濁流はマルクとフリュージアを追いかけた。全てが水に流されていく、跡形もなくなっていく。
フリュージアに抱えられたマルクは、彼の肩越しから小さな生き物を見掛けた。
流れに飲み込まれなかった大きな瓦礫の上に羊の人形のような生き物が乗っていた。
細部までは分からなかったが小さな羊には翼が生えているように見えた。
その生き物はすぐに飛び立って天井の穴から逃げ出していった。
濁流の勢いはすぐに収まったが、フリュージアは足を止めることなく城を後にした。
城の大きな正面扉も、二人の出入りを喜ぶかのように勝手に開いた。
フリュージアはマルクを抱えたまま長い階段を駆け降りて、灯りのともらない城下町をミミズクが発する淡い光を頼りに走った。
灯りがともらないはずの町中にいくつもの光が漂っていることにマルクは気付いた。
大勢の人々の囁くような声がマルクの長い耳に入り込んだ。小さな囁き声だったそれは次第に大きくなっていく、まるですぐ側に沢山の人々がいるかのようだ。
マルクが耳を澄ませると姿のない彼らが何と言っているのか分かった。
「おかえりなさい、リェサーニア。おかえりなさい、アムール王」
彼らの言葉をマルクが繰り返すと周囲に大きな音が響き渡った。まるで爆発が起きたような大きな音はマルクを包んだ。それが歓声だと気が付くのに少々時間が掛かった。
しかし、この声の主たちがこの地で亡くなった民の声であることはすぐに分かった。
聞き覚えのない名前だったが、その名前が自分を意味していることはすぐに分かった。
初めてのことだった。光の届かない部屋でしか生きることができなかったマルクにとって“おかえりなさい”はとても特別なもののように感じた。
そして自分がこの地に居ることを喜んでいる者が居るという事実を知ったマルクは喜びに涙した。こんなにも大勢の人が自分を待っていたことを嬉しく感じたのだ。それと同時に、彼らがもうこの世にいないことを惜しんで泣いた。
“おかえりなさい”というありふれた言葉に、ありふれた言葉であるはずの“ただいま”がきちんと返せないことがこんなにも悲しいことだったなんて初めて知った。
固く閉ざされていた城の扉を開けてくれたのは彼らだとマルクは思った。彼らの声を聞くことができたのは側にフリュージアが居るおかげだろう。フリュージアが居なければおそらくマルクはここに居た者たちの声を聞くことも、存在に気が付くことも、自分を必要だと思っていた人たちが居た事実を知ることはできなかっただろう。
おとぎの国を後にするマルクとフリュージアの背後で、大きな声が夜空に響いていた。
マルクがこの世に帰還したことを喜ぶ民の声が二人の背を見送っていた。
姿を失ってしまった者たちが、姿を失う原因を作ったかもしれない夜の化身と幼い王の身を案じていた。
――おとぎの国の名前はクレガルニ、この世に生まれることができなかった楽園。永遠を望み、永遠に望まれた。しかし、永遠にはなれなかった。ヒトが生まれた、最初で最後の神に愛された国。夜の女神を生き返らせるために、世界が終わらぬようにその存在を初めからなかったことにされた国は――その日、小さく息を吹き返した。
作者が書いている他の作品と同じ世界観ですが、読まなくても問題なく楽しめます。