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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

痛いの痛いの飛んでいけ

作者: さむらいみ

 痛みを表現する言葉というのは、意外と貧弱だ。

 結局のところ、ほとんどの場合比喩に頼らざるを得ず、例えば、焼き鏝を押し付けられたような、と言うように痛みを感じるシチュエーションで説明せざるを得ない。

 だが、いったい何人の人間が焼き鏝を押し付けられたことがあるのだろうか。その時に感じるだろう痛みを本当に想像出来るのだろうか。

 喜びや悲しみを表現する比喩であれば、多くの人が共有できる。似たような経験、似たような感情を味わった人が多数いる。

 しかし、痛みはそうはいかない。

 どれだけ痛かったかを比喩や形容詞を使って説明するのは、あまり意味が無い。

 ただ淡々と何が起こっているのかを描写する。それ以外にその時に感じている痛みを表現する方法は無い。

 つまり、その時自分が感じていた痛み。

 それを説明しようと思ったら、ペンチで足の指を潰される痛み、としか表現出来ないのだ。

 だから、ただ自分が何をされているかを描写しようと思う。

 もちろん、その瞬間自分はあまりの痛みに絶叫し、吐き、失禁し、気を失い、固定された体をのたうち回らせている。しかし、それをいちいち言うのも無駄だろう。

「あまりの痛みに叫び続けた」などという一文は、意味がない。ただ単に「そいつは俺の右足の親指を大振りなペンチで挟み、一気に握りしめた。親指は完全に潰れ、肉が弾けて皮膚を突き破り、ペースト状になったそれがペンチの隙間から溢れ出る。そいつは骨が全て粉々になるまでペンチを握る手に力を込め続ける。溢れ出る肉を細かな骨の破片が突き破る。ようやく力を抜いてペンチを外すと、親指が完全な平面となっていた」と書くしか無い。

 さらに、これも当然だが、俺は事が起こっている間、ひたすらそいつに向かって話しかけていた。

「やめてくれ」「助けてくれ」「どうすればいいんだ」「望みを言ってくれ」

 そんな懇願の言葉を繰り返し、時には罵倒し、哀れみに訴え、なんとかその状況を変える試みをし続けた。

 それも完全に省略しよう。

 まったく意味を為さなかったそれらの言葉も、不要なものだろう。


 目を覚ますと、見た事の無い部屋に立っていた。

 昨晩はいつも通り自分の部屋で寝たはずだった。しかし、目を開くと、まったく装飾の無い壁も床もむき出しのコンクリートで囲まれた部屋が視界に入った。

 驚いて動こうとして、体が固定されていることに気付く。

 手足も、頭も動かない。

 なんとか視線だけで左右を見回す。

 両端を床と天井で固定した鉄のパイプに繋がれていた。

パイプは三本。一本は背骨に沿っていて、額と首、そして腰が何か結束バンドのようなもので縛り付けられていた。後の二本が等間隔で左右にあり、それぞれ肘の少し先と、足首が同じように固定されている。

 自由に動かせるのは、両手の指だけだった。

 縛られている箇所は全て相当な強さで固定されていて、両足は床から少し浮いている。

 慌ててさらに体を動かそうとし、同時に強い薬を飲んだような朦朧と頭痛を感じる。舌が膨れ上がって乾ききった口の中を圧迫している。

 部屋には窓が無く、天井に複数はめ込まれた蛍光灯が眩しいほど真っ白な光で部屋の隅々まで照らしている。

 横幅は五メートルほど、前の壁までも同じような間隔だ。背後がどうなっているかはわからないが、恐らく何かを保管しておくための細長い地下室のような場所に思えた。

 衣服は着ておらず、競泳水着のような体に密着する素材の下着だけを履かされていた。そして、そこに感じる空気から、頭の毛は全て剃られているようだった。

 まったく状況を把握出来ず、声を出そうにも誰に何を言っていいかわからない。戸惑っていると、背後でドアが開き、そして閉まる音がした。

 

 やがて足音もさせずに、男が一人目の前へ回り込んできた。

 中肉中背、大きな特徴の無い体型。口にはマスクをし、花粉症の人がするような透明なゴーグルを付けていて、頭は綺麗に剃りあげられたスキンヘッド。マスクとゴーグルではっきりとはわからないが、知っている顔では無かった。裸に見える体に、膝下まである丈の長いエプロンをし、その下からはむき出しの脛が覗いている。何も履かず素足のままで、それで足音がしなかったようだ。

 そいつは、俺の目が開いているのを見ると、軽く頷き、視界から消えた。

 当然俺はいろいろとそいつに話しかける。

 ここはどこだ、とか、お前は誰だ、とか、なんでこんなことになってるんだ、とか、こんな状況なら誰もが言うであろう当たり前で退屈な言葉を投げ続けた。

 そいつは、一切何も答えない。

 背後で金属製の扉が開かれる音がし、そこから何かを取り出している音が聞こえる。硬い金属がぶつかり合うガチャガチャという音と、それを同じく金属の上に置いていく音。

 やがて男が金属製のワゴンを押して視界に戻った。

 ワゴンのトレイには、いくつかの大きさの鋸、大きさも使用目的も様々な刃物、ペンチ、鋏、錐、そんなものが30点ほど丁寧に並べられていた。

 一つだけ、はっきりした。

 そいつは、今から俺に拷問をしようとしている。


 普通、拷問というのにはいくつか目的がある。

 秘密を聞きだす場合。

 思想を変化させる場合。

 恨みを晴らす場合。

 上二つについては無関係だと思えたが、最後のひとつは、いくらでも思い当ることがあった。

 人に恨みを買うようなことを、これまでにいくらでもしてきていた。それについて語るのは止めておくが、それでもこんなことをしようと思う人間がいてもおかしくは無い事だけは事実だった。

 そいつは、俺の前に立つと、少しの間俺の目を見つめた。その目からは、なんの感情も読み取れなかった。


 男は、まずトレイの上から裁ち鋏を手に取った。そして、マスク越しで少し不明瞭な甲高い声で、言った。

「笑顔」

 男は手を伸ばし、俺の上唇をつまむと、それを思い切り引っ張った。そして、鋏で俺の唇と切り始めた。首を振って逃れようとするが、頭を固定するバンドが思った以上にきつく、摩擦抵抗も強くほとんど動かない。

 そいつは出来るだけ正確に唇の線に沿って鋏を動かしていく。柔らかい肉が断ち切られていく感触。最後の一裁ちで上唇が切り取られた。そいつは、左手につまんだそれを少し眺め、無造作に床へ放り投げる。

 そして、今度は下唇をつまみ、同じ作業を繰り返した。

 下唇を切り取ると、男はトレイに裁ち鋏を置き、スプレー缶を手に取った。それはゴキブリ駆除に使う物ほどの大きさで、特にパッケージが施されておらず、金属缶の表面には何も書かれていない。

 そいつは、そのスプレーを俺の口に向かって数秒浴びせる。シンナーのような臭いが鼻腔を直撃する。やがて、歯の隙間から口に流れ込んでいた血が止まり、唇の切り口が歯茎に張り付けられたような感触。どうやらそのスプレーは止血の役割をするらしい。

 そいつはスプレーをトレイに置くと、俺のむき出しになった歯を見て、目元を緩めた。

 そいつの言った「笑顔」の意味を悟った。

 

 しばらく俺の顔を満足気に眺めていたそいつは、急に何かを思いついたように、トレイからニッパーを取り上げた。

 そして、それで上顎の剝き出しの前歯を挟んだ。きつく口を閉じて抵抗しようとするが、先の尖ったニッパーを無理矢理こじ入れられた。そいつは、前歯を挟んだニッパーをゆっくりと前後にゆすり始める。やがて、歯茎に固定されていた歯が緩み始める。揺する動きが大きくなっていく。かなりグラグラに緩んだとこで、そいつはその歯を一気に引き抜いた。そして、次は下の前歯。上の歯が抜けているせいで、嚙合わせる事が出来ず、抵抗の術も無い。

 上下の前歯が抜け、俺の笑顔はさぞかし間が抜けたものになったのだろう。そいつは、こらえきれずにマスクの下で「グフッ、グフッ」と笑いを漏らしている。

 そいつはさらにもう一度裁ち鋏を手にすると、それを開いてそれぞれの刃を俺の鼻の両穴に突っ込み、一気に閉じた。俺の鼻の穴が一つに繋がる。そして、そのままその鋏で、両側の口角を、頬の真ん中あたりまで切り裂く。さらに、両耳にザクザクと切れ目を入れていく。

 俺の笑顔は、さらに大きく、さらに間抜けなものになったに違いない。


 そいつは一通り顔の細工を終えると、少し距離を取って俺を眺めた。次に何をするのか、迷っているように見える。

 やがて、視線が左足に定まる。さらに考えた後、そいつはかなり大振りなペンチを手に取った。そして、それで足の指を挟むと、次々と完全に潰していった。

 全ての指が平たく潰され、両生類のようになった足を、そいつは少しの間眺め、満足すると、今度はそれをもう一度ペンチで挟み、一本ずつ引きちぎっていく。

 すでに破損の激しい皮だけでかろうじて繋がっていた指は、少し伸びるとプチンと簡単に取れた。両足の指を全て引きちぎられ、両生類だった足が偶蹄類になる。

 そいつはそこに例のスプレーを吹き付け、すぐにワゴンに振り向くと、ペンチを置いて、少し迷った後に顔細工に使った裁ち鋏をもう一度手に取った。

 そして、俺の背後に回ると、鋏で右膝裏にある太い靭帯を挟んだ。しばらくの間、軽く握ったり緩めたりを繰り返しながら、これからする事を俺に充分認識させる。

 充分恐怖が膨れ上がったタイミングで、そいつは鋏を握る力に思い切り力を込める。

 ブチンッというはっきりとした音が聞こえたような気がする。

 男は間髪入れず、対になったもう一本も断ち切る。

 そうして置いて、そいつは俺の右足首の拘束を解いた。

 そいつは鋏を置くと、土踏まずの辺りを握り、足を前後左右に振る。太ももとの連絡を絶たれた膝から下があり得ない角度でぶらぶらと揺れる。それを見て、そいつはまたグフッグフッと笑いを漏らす。

 次に手にしたのは、切れ味が鋭そうな小振りのナイフだった。

 そのナイフでまず太ももの真ん中辺りで横向きに切れ目を入れた。そして、その横線を起点にして、足の先に向けて縦方向にも切れ目を入れる。

 同じように縦の切れ目を五センチほどの間隔を空けて、足を周回するように入れていく。

 合計で10本ほどの縦線がついたところで、そいつは横線と縦線とが重なる部分に出来た切れ目の端を指でつまみ、皮だけを剥ぎ出した。出来るだけ皮だけを剥ぐよう、慎重に、肉が張り付いた箇所はナイフでこそげながら、少しずつ作業を進める。一本の縦線を剥がし終えると、また隣。その度に俺のあしの筋肉が露出していく。やがて、俺の右足は太ももの真ん中あたりから下が、完全に理科の標本人形のようになった。

 そいつは右足の前にしゃがむと、おもむろに右手の指先を脹脛の筋肉の隙間に刺し込んだ。そして、折り重なる筋肉の間を指で掻き分け、掻き分け、さらに奥まで手を突っ込むと、筋肉に守られた中心にある脛の骨を思い切り握る。握った手を、擦りあげるように上下に動かす。細かい筋がブチブチと千切れる。そいつは、手首まで埋まった右手の横から左手も同じように突っ込むと、両手で骨を握り、思い切り力を込めて折ろうと試みる。しかし、脛の骨は人間の骨の中で最も丈夫な物の一つだ。そう簡単には折れない。そいつは筋肉の隙間から差し込んだ両手で握った脛に向かって、自分の膝を思い切り叩きつける。その頃になると、俺の膝関節も完全に破壊された状態で、太ももと脹脛を繋ぐものは数本の筋だけとなり、完全に横向きに曲げる事になんの抵抗も無い。

 ようやく脛の骨にヒビが入り、さらに数回同じ動作を繰り返すと、完全に折れた。

 そいつは額に汗を浮かべ、マスクの下で荒い息を吐く。しばらくの間、膝に手を当てて呼吸を整えると、俺の膝から下を、軽く蹴飛ばす。膝から下が、ブラリ、ブラリと揺れる。

 そいつは、ブラブラ揺れる足の足首あたりを掴むと、そのまま捩じり始める。一周、二周、三周。太ももとの繋がりがかなり怪しくなっていた膝下が、30周あたりで千切れた。

 筋肉が剝き出しになって、真ん中辺りで折れ曲がったそれで、俺の頭を何度か軽く叩きながら、グフッ、グフッと笑っている。


 足をその辺に放り投げると、そいつは一旦視界から消えた。

 背後で、水音がする。洗面台があるのだろうか、手を洗っているような音が伝わってくる。やがて、何かに水を汲む音と、ガスをひねって火が点く音。どうやら簡単なキッチンのようなものがあるらしい。数分して、右手にカップラーメンとお箸、左手にパイプ椅子を持って視界に戻って来た。

 そいつは俺の前でパイプ椅子を開くと、マスクをずらしてカップラーメンを食い始めた。マスクをずらしても、やっぱりそいつの顔に見覚えは無かった。

 ラーメンを食い終わると、そいつは残った汁を思い切り俺の顔に向かってぶちまけた。当然、数々の傷に熱い汁がかかるのは痛い。しかし、その程度の痛みは、これまでに味わったものに比べればどうってことないはずだ。それでも、その行為はひどく俺を傷めつけた。単純な肉体的苦痛と、屈辱感のような精神的苦痛は、やはり別の場所で感じる物なのだろう。


 そいつは簡単な食事を終えると、パイプ椅子を片付け、俺の前で腕組みをする。

 手に取ったのは、再びペンチ。

 今度は右手の中指の第一関節を挟み、握る。関節が破壊される。次は、第二関節。それを全ての指、両手で行い、計二十個の関節が潰された。体の中で唯一自由に動かせていた指が死んだ。

 そいつはトレイにペンチを置くと、代わりにカンナを手にする。そして、俺の手のひらを上に向かせると、カンナで手のひらの肉を削りだした。最初は皮、やがて肉、筋、と手のひらの肉が少しずつ削られていく。刃の間に挟まった肉の破片を錐でこそげ落としながら、丁寧に削る。指の肉を残して手のひらから削るものが無くなると、手を裏返し、今度は手の甲を削る。時間をたっぷりかけて、少しずつ、丁寧に。ある程度削れたら、カンナを置き、少し大きめの耳かき程度のスプーンを手にする。そして、それで手の骨の間に残った肉やら筋やらをこそげ落としていく。指先の肉はそのまま、手の骨が露出していく。手から削る肉がほとんど無くなると、親指の先をつまみ、思い切り引っ張る。親指の肉だけが、ずるりと抜ける。人差し指、中指と全ての指の肉を、引き抜いて行く。トレイに五本の骨なし指を置くと、同じ作業を左手で繰り返す。

 左手の作業を終えると、トレイに置かれた十本の指を、そいつは全て自分の指先に嵌める。そしてその両手を俺の目の前で開いて見せ、バイバイをするように振って見せながら、グフッ、グフッっと笑った。

 ひとしきり手を振ると、嵌めた指を外して、放り投げる。

 そして視界から消えると、再び背後で手を洗う。

 ロッカーらしきものの扉が開かれる音がし、何かの液体が器に流し込まれる音がする。

 そいつは、透明な液体を入れた金属のボウルを持って戻って来た。それを一旦トレイに置くと、代わりに金槌を手にする。

 再び背後に回ると、突然右側の肩甲骨に衝撃が走る。金槌で肩甲骨を破壊された。右の次は、左。

 それが終わると、そいつは手の拘束も解いた。

 そして、液体の入ったボウルを持つと、俺の両側でただぶら下がっているだけの右手を持ち、手首から先をその液体に浸した。同時に、液体が泡立ち、泡から煙のようなものと肉が焼ける臭気が立ち上る。手に残った肉やら筋やらが液体に溶かされている。右手を浸したまま、そいつは左手も同じように浸すと、溶けて尚骨にこびりついている肉を振り払うように、液体の中で手首から先を掻き回すように動かす。

 次第に泡も煙も臭気も収まり、それが無くなると、ボウルをトレイに戻す。

 両腕の先には、漂白されたように真っ白な手の骨が露出していた。

 そいつは、手首を持って、その手の骨を俺の目の前に掲げる。

 生まれてからずっと自分の物であり、ずっと思う通りに動かしていたはずのそれは、まったく自分の物に思えなかった。

 そいつは、骨だけになった右手と握手をし、手首を持って操作しながら、人差し骨指の先を俺の鼻に突っ込んで鼻くそをほじくるように動かした。

 そして、今までで一番大きな声で、グフッ、グフッと笑う。

 それをされている間中、砕かれた肩甲骨の破片が体の中でゴリゴリと音を立てている。


 最初にここで目を覚ましてから、何時間が過ぎただろうか。まったく時間の感覚がわからない。

 そいつはひとしきり骨となった手で遊ぶと、急におもちゃ遊びに飽きた子供のようにそれから興味を無くし、手を無造作に離すとそのまま視界から消えた。

 背後でドアが開き、閉じる音がする。

 その後、恐らく数時間、そいつは戻らなかった。


 何度か気絶と覚醒を繰り返していると、そいつが目の前に立っていた。

 仮眠でも取ったのだろうか、溌剌とした雰囲気が感じられた。

 そして、迷いなくトレイから手術で使うようなメスを取り、俺の腹の真ん中を縦に切り裂いた。相当切れ味が鋭いらしく、腹筋がサクサクと切り裂かれていく。

 切れ目が出来ると、そいつは両手をその切れ目の中に突っ込んだ。そして、その中で、絶妙な配置で収まっているはずの臓物を掻き回す。普段は意識することなど無いが、不思議なもので触られたり握られたりすると、そこに何があるのか、その形状までわかるものだ。ああ、今胃を絞り上げられているな、すい臓を握り潰されているな、と言うように。

 そいつは両手を下腹の方まで突っ込むと、腸を掴んで、腹の裂け目から引っ張り出し始めた。腸を持って、後ずさる。視界で、俺の腹から伸びた腸がどんどん伸びていく。外気で冷やされた腸から、湯気が立ち昇っている。腹の中にどうやって納まっていたのか、腸は思うよりもはるかに長く、そいつは部屋の端に背中が着くまで後ずさった。腸に引っ張られ、腹の中の他の臓物もこぼれ出している。

 腸を引っ張り、これ以上伸びない事がわかると、伸びた腸をホースを畳むように腕に巻き付けながら、俺の前に戻る。そして、丸く畳んだ腸と、その他のはみ出した臓物を合わせて無造作に腹の中に戻していく。

 全て戻すと、そいつはトレイから業務用に見える大き目のホッチキスを取り上げ、腹の裂け目をバチン、バチンと閉じた。

 一見全て収まっているようだったが、腹の中の配置が決定的に無茶苦茶になっている感覚があった。


 そいつは、次にトレイの上から見た事の無い器具を手にした。

 金属製の円形な輪にハンドルのようなものが付いていて、何に使う物か俺はまったく知らなかった。

 それを持って背後に回り、パイプ椅子を開く音がする。

 頭の上に何かを押し付けるような感触があり、やがてゴリゴリと頭蓋骨を直接削られる感触があった。頭蓋骨の一部が円形に切り取られつつある。その感触だった。

 削っている感触が円を描き終わった。そいつがパイプ椅子から降りる気配がし、俺の前に戻ると、コップの縁ほどの大きさの頭蓋骨の一部を俺に向かって掲げて見せた。

 それをトレイの上に置くと、スプーンを手にして、再び俺の背後に回る。

 そして、パイプ椅子に乗ると、頭蓋骨に開けた穴から脳味噌に直接スプーンを差し入れた。

 脳味噌の一部をスプーンでこそげている感触がダイレクトに伝わってくる。スプーンの匙が、プチプチと脳の一部を切り裂いていく。いっそのこと、痛みを感じる部位を破壊してくれないか、そうじゃなければ、一気に死に至るような部位でもいい。

 しかし、そんな幸運は訪れない。

 最後のプチリという感触と共に脳の一部がスプーンで掬われた後も、俺の感覚や思考には何の変化も無かった。

 そいつは、俺の脳味噌が盛られたスプーンを大事そうに持って、前に戻って来た。

 掲げて見せるスプーンには、ピンク色を帯びた白いゲル状の肉塊が乗っている。

 俺にそれを見せて満足すると、トレイに振り返り、スプーンを左手に持ったまま、右手でオープンプライヤーを手にした。そして、その先を俺の前歯に出来た隙間にこじ入れると、無理矢理口を開かせると、脳が盛られたスプーンを口の中に差し込み、そのまま喉の入り口までねじ込んでいく。それが充分奥まで達したところで、スプーンを回転させ、舌の付け根辺りに脳味噌をこすり付ける。反射的にえずいてそれを吐き出そうという反応が起こるが、スプーンを使ってさらに押し込んでいく。えずきの反応が、押し込まれた物を吐き出せず、逆に飲み込むように作用する。

 もちろん、味など分からない。ただ、柔らかい何かが喉を通って、やがて先ほどの出し入れでひどく捩じれた食道の途中に留まった感触があった。

 そいつは、引き抜いたスプーンを少しの間眺め、視界から消える。

 背後で水音がし、少しして、パイプ椅子に上る気配と共に、再びスプーンが脳に差し込まれる感触があった。

 今度は、さっきよりもかなり少量の脳味噌を持ったスプーンを持って、俺の前に戻ると、スプーンの脳味噌を口に入れ、咀嚼する。同時に顔をゆがめ、思い切りそれを床に向かって吐き出した。ぐちゃぐちゃになった白い脳味噌が床に張り付いた。その後も、しばらくの間床に向かって唾を飛ばす。

 一瞬でもあれを美味そうだと思ったその思考がまったく理解出来なかった。

 明らかに不機嫌な顔になったそいつは、珍しく荒い足取りで背後へと消え、ドアが開かれ、閉じられる。

 

 意識を失っている時間が増えていた。思考は乱れ、混濁し、途切れがちになった。そろそろ限界だと思った。もう間も無く、死ぬか、死ねないまでも正気を失うだろう。そう考えると、気持ちが楽になった。

 ようやく、地獄から解放される。

 その瞬間は、もう間も無くなはずだった。

 

 突然上がった叫び声で、意識を取り戻した。

 目線の先、壁際の近く、俺と対面する位置に一人の女の子が、俺とまったく同じ姿勢で拘束されていた。叫び声は、その子の口から発せられたものだった。

 七歳になる娘の真由だった。

 消える寸前だった感覚が全て戻った。

 肉体的にも、精神的にも。

 痛みも、怒りも、哀願も、全てが一気に戻り、絶叫となって喉の奥からほとばしり出た。

 俺の前にあったトレイが、いつの間にか真由の前へと移動させられていた。

 やがて、背後のドアが開き、閉まる。

 そいつが視界に現れる。

 しかし、そいつは俺に背を向けたまま、真っすぐに真由の前へと向かう。

 もうすぐ地獄が終わるはずだった。

 しかし、今までに起こった事は全て、序章に過ぎなかった。

 本当の地獄は、今から始まるのだ。


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