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6/7

【コミックス一巻発売記念】妖精観察

本日6/27、ありがたいことにコミカライズ一巻が発売されます。(漫画:杜若わか先生)

その記念に書きました。

というわりには会話しかしていない、七割ほのぼの作です*

 ルイが転移魔術を開発したばかりの頃。

 愛しのエレノアとは、まだ『家長』と『家政婦』、あるいは『少年』と『乳母』の関係であった頃。


 職場と自宅への行き来に徒歩は必要ではなくなったけれど、やはり歩きたい気分のときもあった。

 その日ルイはなんとなく歩いて職場を出て、なにとはなしに大通りを歩いていると、見慣れた銀髪を見つけた。家で家政婦として飼っている雌妖精のエレノアだ。

 彼女は、食器類を売る陶器屋のショーウィンドウに見入っている。

 ルイがそうっと近づいても気づいた様子はなく、深い青の瞳は一点にくぎ付けだ。周囲から寄せられているのは、彼女の外見に釣られた不埒な視線と、彼女の噂に関する不穏な眼差し。


 ルイは早上がりにしてよかったと心から思いながら、


「何かほしいのですか?」

「っ!」


 びく、と肩を跳ねさせて、彼女は慌てて振り向いた。

 一瞬だけ背側が膨れたのは、服の下で妖精の羽が広がりかけたからだ。長い髪とショールに隠されているから、注意深く見ないとわからない程度だけれど。


「ルイ、……あ、今日は早上がりだっけ」

「はい。今から帰るところです。……それで、なにが欲しいのですか?」

「欲しいっていうか、興味はある程度だよ。そんな必要なものでもないし、ね!」


 エレノアはあわあわと言い繕う。

 ルイはショーケースに目をやって、彼女が見つめていたであろう品物を特定した。


「ティーカップですか。うちでは見ないタイプですね」


 通常よりも広く浅い、大きめのカップ。ソーサー付きだ。香りを楽しむためのカップ、と簡単な紹介文が付いていて、なるほどと思う。

 色は二種で、片方はゴールドのラインと青い花模様。もう片方は銀のラインに黒の草模様だ。


「店に入ってよく見ましょう。他にも良いものがあるかもしれませんし、気に入ったものを買いましょうか」

「でも、あの、悪いよ。家にカップいくつもあるのに、さらに買ってもらうなんて」

「ティーカップの一つや二つ、余分に買ったところで家計に響くような稼ぎじゃないんですけど」

「でも買ってくれても、私の専用カップになるよ。ルミーナちゃんにもルイにもお客様にも出せなくなるんだよ……用途的に」

「用途とは」


 飲料を飲む以外に、使い方があるだろうか。

 彼女はばつの悪い顔で、周囲を気にしながらルイの肩を下に引く。耳を貸せということらしい。

 小声でこそこそと、


「これをお風呂にしてみたいの。元の大きさになった時に、このカップならお風呂としてちょうどいいかなって」

「家にもバスタブはありますよ?」

「それはそうなんだけど。……お茶碗にお湯を張ってお風呂にしてるキャラクターっていたじゃない? 日本の国民的な作品でね、あれって気持ちよさそうだなって。せっかく人間より小さいんだから、やってみたいなーってちょっと思っただけなの」


 ぽそぽそと囁いて、彼女は離れた。恋人のような距離感を意識してしまったのはルイだけのようで、彼女は「子どもみたいなんだけどね」と苦笑していた。


 このティーカップに。

 この妖精が浸かって。

 かぽーん、というか、まったりと寛いで。

 溶けそうなくらい至福の顔で、上機嫌な鼻歌を歌っている様子すら想像できる。

 率直に、いいなと思う。


「是非とも買いましょう。好きなものをいくらでも選んでください。棚を空けなければいけませんね。あ、新しいラックでも買いましょうか?」


 もちろん女性の入浴を覗くほど無粋ではない。ただ、小さな生き物が湯に浸かるという行動、それ自体がかわいくて癒されそうだ。

「え、え?」と戸惑うエレノアの背にそっと手を当てて、半ば強引に入店していった。

 ルイ様だ、と密かに騒ぐ他の客ににこりと笑みの一つでも送って、あのカップを探した。店内の目立つところにあった。


「ひとまずこのカップですね。どちらの色がいいですか?」

「どっちも好きだけど、え?」

「では青にしましょう」


 彼女の持ち物に、さりげなく自分にまつわる色を増やした。ルイの魔力は青い光を発するし、金はいわずもがな、金髪からだ。

 他には結局めぼしいものもなく、会計を済ませた。店員から紙袋を受け取ったエレノアはルイを見上げて、


「ありがとう。大事に入るね」


 大事に入る。

 なかなか聞かない言葉だ。

 

 ふと、思いついた。

 妖精の生態についての小難しい考察は本に書いたことがあったけれど、人間との感性の違いとか、身近な生活について言及したことはあっただろうか。


 人間と妖精の関係を考えると、自分たちはうまくやれていると思う。

 これほどのモデルケースはきっとない。


 ルイは心おきなく書き記すことにした。


       *


 家に帰って、さっそくペンをとった。

 今日はリビングで書く気分だ。


『――妖精と人間はかつて共存していた。その時代の名残か、こちらの話し言葉を簡単に理解してくれる。

 生活圏が人間のそれと乖離してしまっていても、彼らはたしかに知能ある生物なのだ。

 奇跡的にも私は、一匹の雌妖精に出会えた。

 本著に綴る内容のほとんどは、彼女からもたらされた情報である。

 個体差の一切を考慮せず、研究結果よりも個人の感想に基づいた随筆であることを、深くご留意いただきたい――』


「異議あり」

「まだ本題に入ってすらいませんけど」


 ルイは手を止めて、目の前の紙から左上に視線をずらした。

 折よく魔力を使い切って手のひらサイズになった妖精、エレノアがいる。彼女は買ったばかりのティーカップに入って、縁に頬杖をつきながらルイを見ていた。湯のないそこにすっぽり収まっている。よほど気に入ったのだろう。


「で、なにが不満ですか」

「この書き方だと、私がたまたま出会った少年にホイホイついていったみたいな感じする。勘違いされたら困るよ、妖精は人間と簡単には仲良くしないよ。その点もっと注釈ほしい」

「はいはい」


 ルイは『妖精は警戒心の強い生物だ。私が彼女と親交を深めるために、多少なりとも強引な手段を用いた事実は否定しない』と付け加えた。

 彼女を気にしつつ、ルイはペンにインクを付け直した。書き進める。


『――妖精の味覚は、人間とほぼ同じだ。だが肉類はあまり好まず、果実をよく食べる。けれど我々と同じ栄養は必要ではなく、魔力の摂取を重要とする。彼女は私の血液を好んで飲み、私の魔力に生かされ、』


「異議あり! 間違ってないけどそれを書くのは意義あり!」

「…………。」


 ルイは『彼女が怒るので以下省略』と書きなぐった。

 エレノアは勝手に白熱してカップから飛び出し、紙面をぺしぺし叩いている。


 幾度かの「意義あり」と「以下省略」があった。

 もう妹が帰ってくる時間だ。


『――始まりこそ抵抗があったようだけれど、今では傍で眠ってくれるほどには懐いている』


 脇に積んでいた、別の紙を用意した。ペンは鉛筆に持ち替えた。

 カップの中で丸まって寝ている妖精の姿を、さらさらとスケッチしていく。羽脈の流れも髪の一筋も見逃さないように、忠実に。

 これが生物学的なスケッチであれば、意味のある線を総合的に見抜いて、影もつけず、わかりやすく描かなければいけない。けれどこれはほぼ日記だ。前書きにもことわりを入れた。だから思うがまま、線を引いても大丈夫。誰も文句は言わない。


 彼女の愛らしさを、存分に表せる。


 このスケッチを世に出せば、エレノアが妖精だと見抜かれてしまうかもしれない。けれどその時までには、妖精でも安全に暮らせる国になっているはずだ。外でも羽を伸ばせるようになる。

 その時までこつこつ書き進めようと、ルイは考えた。

 構成も終わり方もまったく考えない、雌妖精のあるがままを書き記した文章を。


『月明かりの下で飛ぶ彼女は、普段よりも美しく見える』

『銀は妖精に多い色だ。人間の髪や金属よりも、なぜか繊細な光沢がある。贔屓目か、妖精独自の組織が作用しているのだろうか』

『驚くと羽が反応して面白い』

『大量にいただいた桃の山の中で彼女が眠りこけていた。果物の香りに安心するのは妖精の本能らしい』

『彼女は異種の恋愛をどう思うだろう』

『深く考えない性質なのは知っていたけれど、ここまで鈍いとは』


 ――。

 ――……。

 ――…………。


       *


 ルイがリビングに降りてくると、テーブルでエレノアが寝転がっていた。

 お気に入りのティーカップの台座と、床との隙間につま先を引っかけ、両膝を立てて、両腕は後頭部に回していた。その体勢をルイも知識として知っている。


「なにをしているんですか?」


 とりあえず訊ねたけれど、この体勢から答えは一つだ。


「筋トレしようかと思って。まずは腹筋から!」

「それはなぜ?」


 本当にどうして。


 原作からして美少女のエレノアは、体形が崩れない。身を敷き締める必要もないのに。

 ルイが困惑していると、エレノアは器用に寝たまま胸を張った。そんな姿勢でどやぁと得意げにされたところで、ひたすら可愛いだけだった。


「ルイ少年はお忘れのようだけど、私は魔法も物理もできる万能な妖精さん……になるはずなんだから。ちょっと体を鍛えれば、強くなれるかもしれないでしょ。具体的には街中で変な男に絡まれても一撃で対処可能になりたい」

「ああ」


 その動機にはルイにも心当たりがあるから、彼女の行動に異は示せなかった。

 そして彼女なりのトレーニングが始まった。ふん、……ふんっ、と大層ゆっくり腹を鍛える妖精は、遠目に見ると死にそうな虫みたいだった。


 ルイは腕を組み、その様を静かに観察している。

 隣に、同じような目をしたルミーナも立った。

 麗しき兄妹の視線の先で、エレノアはまだまだ頑張る。そして、どへっと力を抜いた。


「つ、つかれた……むり……もう百回はやった……」

「…………。」


 たった十三回だった。


「もうやらない……無理だよ……この貧弱な体では……。くっ、無念……!」

「…………。」


 ルイは特に指摘することなく無言の笑みで、転がる妖精をただ眺めている。

 同じようにエレノアを見ていた妹も生暖かい瞳をして、


「妖精って元気で不思議ですね。お兄ちゃんが研究しようと思うのもわかる気がします」

「あれは妖精の生態ではなく、ただの愉快な情緒不安定です。急に筋肉を意識しだす個体なんて人間にもいるでしょう」

「なるほど。じゃあエレノアの情緒についていけるわたしになります!」

「やめなさい」


 スティラス家は一族の多くが研究者の気質を持つので、興味があるものは追及したくなってしまう。



 ルイは例の随筆に、また文章を足した。


『彼女は妖精でなくても、おもしろい女性なのだろう』


       *


 ある休日の午後。よく晴れた春の日だった。

 妖精サイズのエレノアが窓の外をやけに気にして、ひょいと窓の下に隠れたり、おそるおそる外を覗いたりと、やけに忙しなかった。なにかを恐れているわりに「ふふ」と楽しそうだ。

 ルイがそうっと近づいてみると、なんと外に仔猫がいた。白と茶の被毛が生えそろっていない。ぱやぱや期というやつだ。


 猫は外から窓を引っ掻き、ちゃ、ちゃ、と音がする。そのたびにエレノアは身を隠したりして、遊んであげているつもりらしい。

 たまに全身を見せて、ほーらほらと挑発している。そして、


「にゃあ」


 にゃあって。え、今のエレノアが?

 ルイは脳内アルバムに、目の前の光景を美麗スチルとして納めた。仔猫と戯れる妖精。ほのぼのとして、とてもいい。

 仔猫が小首を傾げる。エレノアも同じようにきょとんとして、再び「にゃあ?」


「っ……ふふ」


 ルイはとうとう噴き出してしまった。

 エレノアが真っ赤な顔で振り返る。


「み、見てたの? 声くらいかけてくれたって、……もう……っ!」


 すぐさま目の前に飛んできた妖精は、怒っていようと愛らしい。

 外にいた仔猫は、母猫の迎えがあったのか、どこかへ行ってしまった。


「猫と遊んであげていたんですか?」

「私はそのつもりだったけど、あの子はたぶん、私のこと本気で獲物としか見てなかったと思う。かわいいよね」

「獲物視点でその感想ですか」

「だって家にいれば安心だし、見ている分にはかわいいだけだよ。外にいたら飛んで逃げる一択だけど」


 人間だった時から猫は好きだからね、ということらしい。



 ルイは例の随筆に、また文章を足した。


『妖精は人間を警戒するのに、猫様に獲物として見られるのは許すようだ。格差がひどい』


       *


 ルイが悪夢による心労で、エレノアに想いを吐露してしまった時。彼女に避けられ始めてすぐのころ。

 

 家のぎくしゃくとした空気の中で、唯一変わらなかったのはルミーナだった。

 お手伝いしますーとキッチンに突入して、肉に塩をふりながら、エレノアをちらちら見る。

 茹でた葉野菜の水気をきりながら、エレノアは「どうしたの?」


「エレノア以外の妖精さんを見たことがないです。みんなエレノアみたいに、お料理上手なんですか? お菓子を作ったりするんです?」

「……ううん、お料理とかはしないかな。他の妖精は、ルミーナちゃんが思ってるより人間っぽくないよ。私が特別なの」


 なにせエレノアは、人間として生きていた記憶がある。

 二人の会話を、リビングのルイは遠く聞いていた。


「妖精ってね、自分たちが楽しければいいってところがあるの。普通なら、私みたいに一ヵ所に留まって家事仕事やろうとは思わないよ。好きならやるけど、お仕事みたいにきっちりしたものじゃなくて、自分がやりたいことをやるってだけになっちゃうかな」

「じゃあエレノアは、特別に人間っぽい妖精さん?」

「うん、そうかも。感性はどっちかっていうと人間寄りなのかな」


 だってエレノア――の中の人――は元々、人間だったから。


 ルイは急に居づらくなって、自分の部屋に向かった。責められたわけでもないのに。

 階段を上がるルイの足音を、エレノアが聞き取ったことも知らないまま。



 深夜の書斎。ルイがろうそくの光で本を読んでいると、ノックが聞こえた。こんな時間に起きているのはエレノアしかいない。深く考えずに「はい」と返事をする。

 時々、ページから目が離せないことがある。

 そういう時には、相手からアクションがないとルイも反応できない。

 視界の端にカップが置かれた。やさしいレモンバームの香りにほっとする。スティラス家にはエレノアが集めたハーブや茶葉が多くあって、彼女が必要に応じて淹れてくれるのだ。


 ルイとの関係がどんなに気まずくても、真面目で優しい彼女は、普段通りの仕事を心掛けているようだ。


 そのまま去って行こうとする気配を、「エリー」と愛称で呼び止めた。

 ルイの目は、もう本の文章を追っていない。


「……な、なに?」


 ドアに手をかける直前で止まった彼女は、やはり戸惑っている。声が固くて、はやくここを去りたいと心の叫びが聞こえてきそうだ。


「僕を恨んでいますか? 君を無理に留めて、閉じ込めて」


 現状は、妖精として自然な生き方ではない。

 キッチンでの会話は、妖精にとって不自然な生活だと認めたようなものだ。どちらかといえば人間に近いと。


 ――けれど彼女を人間ではないと断じたのは、ルイだ。


 彼女はどう見ても妖精だ。人間ではない。それは事実だけれど、もともと人であった彼女が妖精に生まれた現実をどう思っていたのか、聞いたことがない。

 気にしていたらどうしよう。

 人間でない自分を受け入れられない時期とか、ひそかに気にしていた時期があったのだろうか。


 それなりに成長して、悪夢の件もあって、ルイは悩みが多くなった。ほんの少し落ち込むけれど、当のエレノアは「ええ……?」と不思議そうにしている。


「恨んでたら、家政婦やりますなんて言わなかったよ」


 けれどその時は、スティラス兄妹への同情が多分にあっただろう。

 ルイの中に、罪悪感にも似た後味の悪さがじわじわ滲み出てきている。ただでさえ、自分は彼女に大きな隠し事をしているというのに――。


 エレノアはルイの背中を見ていた。そしてすっと口を開き、


「『君はもう人間ではないのに』」


 いつかのルイの言葉を、そのまま声にした。


「――って、ルイ少年が言ったよね。たぶんあのとき、私の中にちょっとだけ生きてた人間が、諦めたんだよ。妖精でいることにしっくりきたっていうか、……変に納得しちゃったんだよね。この世界に生まれてからはずっと妖精なわけだし。違和感はないよ。大丈夫」


 それにね、と続けて、


「あの時もらった血が、すごく……おいしかったの」


 ほう、と熱い吐息が混じった。当時の恍惚を思い出すような声。

 ルイはようやく、エレノアの方に振り向いた。


 彼女は「言うつもりなかったのに」と小さくぼやいて口を覆っている。顔は真っ赤だった。

 とんでもなくかわいい。

 にやけてしまいそうな顔を見られたくなくて、ルイはまた本へ向き直った。


「僕の麗しの妖精さん、聞いていただけますか」

「……うん?」

「君がどんなに逃げても、僕の気持ちはなかったことにはなりません。時が過ぎるのを待っていても無駄なので、諦めてください」

「う……」


 かち、とドアレバーに触れた音が聞こえる。

 ルイは「そのまま聞いてください」と咄嗟に止めた。


「君をこの家に閉じ込めたことも、血を与えたことも、後悔はしていません。それで君の中の人間が終わってしまったのだとしても、反省もしません。君がここに居てくれるなら、それは僕の『正解』なんです」

「……?」

「僕の血はおいしいでしょう。君にとって、これ以上のごちそうはないはずです。それに君の事情を知っていて、なおかつ君に尽くすことができる男は、きっと僕以外にはいません」


 ――わかってくれますか。

 ――僕はいま、君を口説いているのですよ。


 そんなことを言ってしまっては、もういっぱいいっぱいな彼女を追いつめるだけだ。

 自分の下手なプレゼンはここまでにして、ルイは本を閉じる。


「以上、ご清聴ありがとうございました。おやすみなさい」

「……おやすみ、なさぃ……」


 彼女はふらりと退室していった。ほどなく廊下からガッと音が聞こえた。足をぶつけたのだろう。

 動揺の隠せなさから察するに、ルイのプレゼンは効果的だったらしい。


 翌日のエレノアは、ルイと同じ部屋にすら入らなかった。

 そして長い攻防戦が始まった。



 ルイは例の随筆に、また文章を足した。


『僕も妖精になれたらいいのに』


 そしてこれ以降、文章は増えなかった。


       *


 一般大衆の目にさらすには愛にあふれすぎていて、本にできなかった『妖精観察』。


 一度スティラス宅に戻った時に、懐かしさが高じて魔王城に持って帰ってきてしまったそれ。

 経年劣化で黄ばんだ紙束を眺めていると、背後で熟睡していたはずの愛妻、エレノアがむくりと起き上がった。体にシーツを巻き付けて、後ろからぎゅうと抱き着いてくる。


 真夜中。二人きりのベッドで、こそこそ囁き合う。


「なあに、それ」

「僕が長年綴っていたラブレター、のようなものです」

「ふうん? 誰への?」

「君しかいませんね」

「……そう」


 前世日本の基準にしてA4サイズの紙が、二百枚分のラブレター。

 エレノアはちょっと引きつつ、紙束の中の一枚に目を止めた。


「この絵、いつのまに描いたの?」


 ティーカップで眠るエレノアを描いた、スケッチ画。

 後の波乱も絶望も、なにも知らない頃の雌妖精。寝顔はあどけなくて、なにより無邪気だ。


「ルイ少年には、私がこんな綺麗に見えてたんだ」

「こんなもなにも、限りなく現実に近いはずですよ。君が無自覚なんです」

「……思い出したけど、これって妖精の観察日記みたいなやつだよね? 昔よく書いてた。本にする予定じゃなかったっけ」

「そのつもりだったのですけど、私情が思った以上に多く混ざってしまって、人目にさらせるものではなくなりました。だからラブレターのようなものと言ったんです」


 さて。

 ルイは風魔法で、持っていた紙束をサイドチェストに飛ばした。

 彼女の体を押えて横たえ、唇を奪い、羽を撫でて、銀髪を弄び、ふにゃりと眠そうにする彼女を抱き締める。


 そうしながら、先ほどまで見ていた紙束をちらりと見た。

 紙の端から火がついた。

 二百枚分のラブレターは、煤も残らず燃え尽きた。


 彼女のお気に入りだったカップは、クレアとの乱闘の際に割れてしまった。

 だからこれでお揃いだと、ルイは思った。

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