ifエピローグ後
ハピエンルートのエピローグを先にお読みください。
典型的な悪役成金男に注意です。
彼女は突然、この町にやってきた。
まっすぐな銀髪が花嫁のヴェールみたいに風に靡いて、絶対にどこかのお嬢様だと思って、道を歩くだけで人々が道を空けていた。彼女の隣にいた『彼』とは友達って風でもないから、少し年の離れた姉弟なのかなと思った。ゆるいワンピースに上着とかいうシンプルな服装の彼女と、どこかのご子息様みたいな格好の彼と併せて、美人姉弟。世の中なんてフコーヘーなんだろって思う。
だから彼が「母さん」とその人を呼んで、その人が「なあに」と応じたその瞬間、ぼーっと道に突っ立っていた誰もが沈黙した。だってその人は二十歳で時間が止まっているみたいに、あんまりにも若々しかったから。
彼女の目は深い青だ。
彼の瞳は母親のイデンなんだなってわかった。
彼女が初めて店に訪れた時、わたしもその場にいたけれど、緊張して使い物にならなかったことは一生のフカクだ。
パパが店長の意地で対応していたけど、それでもやっぱり緊張したと後で聞いた。あれはお貴族様か、何か地位のある、そこらの一般人とは全然別の家庭なんだって。
『うちの子がお世話になって。いつもありがとうございます』
微笑むお母様は、わたしのママと全然違った。ほんわかしていて、いつもにこにこで、でもやっぱりママにするならわたしのママがいいなあなんて思ったり。
これ以上なく美人だけど、どこか人間らしくない、無機質さみたいなものがあって。わたしは彼が好きだけど、お母様のことは苦手かもしれない。
『その耳のって』
『作ってくれたの。前に町の人に話しかけられたの知って心配になっちゃったみたい』
『…………、…………呪われてませんか?』
『大丈夫だよ、慣れたし』
『慣れちゃダメでしょそこは』
とかなんとか彼と話しながら出て行くのを、その日のわたしはぼうっと見ていた。
彼のお母様があれだけ綺麗で、彼が「両親が両親なので」と言うくらいだから、お父様の方もそれはそれは綺麗なんだろうな。
それからお母様の目撃情報が流れるようになった。頻度は三十日に一度。彼女は町の果物専門の店を覗いたり、喫茶店を巡ったり、思い思いに過ごしているようだ。このド田舎を心の底から楽しそうに満喫する様はまるで、今まで好きに出歩けなかったお嬢様のようだ。
その傍にはご子息である彼がいたり、一人だったりするらしい。
雰囲気がふわふわしているお母様と、穏やかな彼。似ている。やっぱり母子だ。
お父様を誰も知らない。
年頃の男の一人がついに、彼女はリコンしたのだ、と言い出した。
――彼女はどこかの大きな国の深窓の令嬢で、貴族の男と政略的な結婚をした。けれど外見が麗しい男は甘やかされて育ったせいでゴーマンで、女を食っては捨て食っては捨ての最低なやつで、それに胸を痛めた正妻の彼女はとうとうリコンを切り出した。元々外見だけで面白味のない女だと夫に好かれていなかった彼女は、多額の慰謝料を手切れ金代わりにもらってリコンした。そして醜聞を気にして、遠いこの地に引っ越してきたのだ。唯一の宝物、一人息子の手を引いて。彼女は今、信頼できる夫の候補を探している――。
という筋書きだった。
おばさま方の井戸端会議で種が生まれ、一部男たちの「こうだったらいいな」妄想話を経て、変に熟成された物語。彼女を気にする男の中では、それが真実みたいに語られていた。
大人ってバカだなあ。
「どうしました?」
「や、だいじょーぶです」
あなたの母親のことを考えてましたって言ったら「なんで?」ってなるに決まってるので、わたしは何も言わない。
ただ気になることがある。
子供のわたしでも知っている娼館通いの厄介者が、お母様に手を出したりしないかなって。人妻だろうが独身だろうが、様々な女性を金で買おうとする不埒なやつがいる。そいつにだけは見つからないでほしい。
頑張れお母様、うまく隠れろお母様。
噂に聞く厄介者の好みにぴったりなんだから。
「ところで今日は新作探しで?」
「いえ、新作ではなくていいんです。フルーツティーを作るのに合う、クセのないやつがいいそうです。見させてもらいますね」
彼は今日も礼儀正しい。店内を見て回る彼に、新たに来店したご婦人がびっくりしてる。
彼とお母様は謎の母子として有名だけど、本人に話しかける猛者は少ない。遠くから見守るくらいでちょうどいいのだ。
なのに。
――「ほんと困ります。夫がいるので」
外から知ってる声が聞こえた。
開店中のドアは開けっぱなしだから、それがとてもよく聞こえた。
棚を見て回っていた彼が、ぴた、と止まって、
「すみません、急用ができました。また来ます」
即座に退店していった。
とうとうこの日が来たかと思う。
あの噂のこともあるし、お母様は押しに弱そうだし。
店内にいたお客さんも即座に商品を選んで会計を終わらせると、店を後にする。いかにも気にしていませんという顔をしていたけれど、どうせ野次馬しにいくんだろう。
この町は平和すぎて、些細ないざこざも広まりやすい。
あの不思議母子なんて格好の餌食だ。
――「この方は知り合いですか?」
――「ううん、ちょっとお話してただけなの。すぐに行くから、あの喫茶店で待っててくれるかな」
――「君もお父さんが欲しいと思わないかい? 片親では色々と偏見もあるだろうし、生活していくには資産の方も、」
――「子供に変なことを言わないでください。私は貴方のことを少しも知りませんし、そんなご心配をされる筋合いもありません」
――「母さん、もう行きましょう。相手にしない方がいいです」
大丈夫かなホント。
声だけでも状況がよくわかってしまった。
お店の外をそうっと覗くと、まあ予想通り。
あの厄介者――でっぷりとした嫌われ成金好色野郎が、お母様と彼に絡んでいた。
こいつも近頃よく見ると思ったら、噂のお母様を狙ってたみたい。はっきりお断りされているのに口説き落とそうとする成金野郎は、ごみ屑を見るような周囲の目に気付かないのか。
彼も見たこともない険しい顔をしていた。
「まあまあ、詳しい話は我が家で聞いてくれればね、ほらお連れしろ」
とうとう実力行使に出ようとした成金野郎が、お付きの男に命じる。お付きの男がお母様に手を伸ばす。
お母様と彼が身構えて、これはさすがに我慢ならないと数人の大人が動こうとした時、
「僕の妻が何か?」
その一言で、ざわついていた群衆がぴたりと静まった。
どこから現れたのか、お母様の後ろに男が一人立っていた。
ぺかーーーーーーって何が光っているのかと思ったら、金髪とご尊顔だった。街灯でも背負って歩いてんのかってくらい後光がさしてる。どんなものを食べてどんな生き方をすれば身に着くオーラなんだ?
あれ? 僕の妻って言った??
あれがお父様???
妙齢のご婦人方が黄色い悲鳴をあげそうになる口を必死に押さえて、顔を赤くしながら男を見つめる。
「お、おまえはなんだ!」
顔真っ赤なのはこいつもだった。
引っ掛けようとしたお母様の前で恥をかかされたからなのか、絶対に勝てないと一目で理解してしまったからなのか、厄介者が大声でがなり立てる。
「彼女の夫で、この子の父親です。見てわかりませんか? 我ながらそっくりだと思うのですけど」
「なんだと……?」
彼とお父様を、みんなで見比べる。たしかに金髪と顔がそっくりだった。服装は上等な仕立ての紳士服で、服装の趣味は母親よりも父子で似ているらしい。
というか、お父様を縮めて目を青くすればそのまま彼だった。
神々しいその人は、まるで彼の未来予想図だ。
厄介者とお父様は確実にわたしたちより上流階級なんだけど、同じ分類の人間とは思えない。
お父様は彼を呼んで、
「行きつけの喫茶店があるのでしょう。先に行っていなさい」
「父さんも来るんですか?」
「ええ、後で」
父子の会話をして、彼はするりとその場から退いていった。
厄介者が彼女を睨みつけ、
「離婚したと言ったじゃないか!」
「はい?」
お父様がお母様を見下ろす。なんか怖い。
お母様は「夫がいるって何度も言ったよ」と首を振った。
「だからそれは体のいい断り文句で、言い訳だと誰もが思うだろう! 勘違いをさせて、こっ、この女が、」
「勝手に勘違いしたのはそっちなのに……」
噂を鵜呑みにして彼女本人の話も聞かなかったのは厄介者の方なんだから、もうその辺で引き下がればいいのに。
よりによってこいつは。
「夫に捨てられた売女風情が、私に口答えをするか!」
――!
町民が一斉に厄介者へ文句を叫ぶ。非難轟轟の罵詈雑言の四面楚歌だ。
それなのに、そいつは負けじとうだうだ言い募る。男好きのする体だとか、誘ったのはそっちだとか、女は男に従っていればいいとか、下品な言い分でお母様を侮辱する。いやお前もしかしなくても今日初めてお母様に会ったんだろ、お母様の何を知っているんだ。
こんな典型的な勘違い男がこの世に存在していたなんて!
お父様は、お母様の両耳を間一髪で塞いでいたらしい。
不思議そうに周囲を見る彼女は、自分が何を言われたのかわかっていない。どうして周りがこんなに怒っているのかと自分の夫を見る。
全世界のご婦人並びにまともな男性と全方位に失礼な発言をしたそいつは、まだお母様を惜しそうに見て思いつく限りの妄言を吐き散らかす。自分の恥と鬱憤を晴らすために、とにかく相手を貶められればいいと、事実もへったくれもない素敵なお言葉ばかりだった。
と、
「その女は私のッ、――、」
ぴた、と厄介者の言葉が止まった。声を突然奪われたみたいに。
お父様はお母様の両耳を開放すると、肩を抱いて仲の良さを見せつけてくれた。
「どうしたの? 何か言われた?」
「君の耳に入れる必要のない言葉でした。知ったばかりの汚い言葉を大喜びで連発する生意気盛りの子供のような有様で」
「そっか、そういう子もいるらしいもんね。私が育てた子の中には覚えないけど」
さりげなく厄介者に嫌味を擦り付けていくお父様。
ところでお母様、何人か産んでるの? 彼に御兄弟がいるの?
「君が育てた子はみんな大人しいですからね。あの方はいい年をしているはずなんですけど、……仕方がないですね」
「親の顔が見てみたいってやつ?」
「あれは親の問題ですかね……?」
のんびり会話する夫婦に、厄介者は憤慨している。とうとう掴みかかろうとするのを、周囲の男たちが力づくで止めている。そうしなければいけないと誰かに唆されたように。
くすくすくす、
お父様が美しく笑う。
厄介者は不思議と、一つの声も漏らさない。その異変には周囲もとっくに気づいている。
お父様の怒りを、これ以上焚き付けてはいけないとも。
いつからそうなったのか。誰も彼もが、この世のものとは思えないほど優美なお父様のご機嫌を窺って動いていた。冗談ではなく、そうしなければ町が壊されるかもしれないと本気で考えていた。
怖い。
厄介者よりお母様より、お父様が。
お父様は最初から微笑みながら、ずうっと怒っていた。
「彼女を諦めたくない気持ちはわかりますよ。大切に囲っておかないとすぐにこうやって他のところに誘われてしまうもので、だから外には出したくなかったんです。見せびらかしてしまっていたようで、さらに無駄な期待をさせてしまって、大変に申し訳ありません。心苦しいです、ええ本当に」
心苦しさなんて一欠片もない笑顔で、
「ところで貴方は、ディアドロ商会の会長さんですよね?」
厄介者の身分を確認する。
厄介者は顔真っ赤にしたまま、お父様を睨み付けている。
「よくわかりました。四日後から始めましょう。楽しみにしておいてくださいね」
四日後、ディアドロ商会の交易船が嵐で沈んだ。
その十日後、急にやってきた嵐で厄介者の館に雷が落ちた。
さらに十日後、商会が取り扱う宝石の中に偽物が混じっていたという訴えが大々的に広まった。
さらに十日後、商会の荷物が土砂崩れで埋まった。
そしてあの日から半年後、新聞にディアドロ商会破綻の記事が載った。
あの時周囲にいた野次馬たちは、きっとあの一家を思い出しただろうけれど、一年経った今でも沈黙を保っている。
そしてその一家は、今も時折、お茶を買いにやってくる。