夜の交流システム
幼子――ルイは、つい十分前の屈辱を思い出した。
子供だと見くびってわざと金の勘定を『間違えて』しまう悪質な店に、たまたま当たってしまったのだ。そこで子供がどう言い募ろうと、大人はつっけんどんにそ知らぬふりでやり過ごそうとする。
その場に偶々居合わせて助けてくれたのが、買い出し中の彼女だった。スティラス家の家政婦、エレノアである。
『なんで拗ねてんの?』
『……拗ねてません』
ルイはエレノアに手を引かれていた。
見上げなければ目を合わせられないほどの身長差が悔しくて、わざと俯き気味になる。
彼女の肩からかけられている質素な布の袋からは、野菜の葉が少し飛び出ていた。ごく自然に街中に溶け込んで、家庭に入った一般女性という風情でいる彼女――妖精の姿を、幼子はこの時ばかりは苦々しく思ってしまった。
きっと周囲からは、親子か年の離れた姉弟としか見られていないのだろう。
本当は、自分が彼女を『養って』いなければいけないのに。
彼女を飼うと決めた以上は、彼女を守ってやりたいのに。
理想と現実は大きく離れていた。九歳のお子様ができることなどたかが知れているし、彼女自身、ルイを守ることを義務と感じているのだろう。ルイはそんな現実が非常に歯がゆいのに、それを止めてくれと言えるほど考えなしではない。そんな子供じみた我が儘を言えるほど子供ではなかった。
今はただ、もらった給料を彼女に渡すだけの日々だ。妹の看病、手抜かりのない家事に加え、うるさく言わずとも生活費や支出を細かく纏めたものを提出してくれる彼女は、家政婦として申し分はない。
対してルイは大黒柱というには程遠い。彼女と妹が住まう家を守る壁には、まだなれない。
手の大きさすらも負けてしまう矮躯を、彼はずっと恨めしく思っていた。
――そんなこともあったな……。
ルイが風の力を頼って上った屋根上には、一匹の妖精がいた。ぽつりと膝を抱えて月を恋しそうに眺めている。遠目に見れば大きめの虫と変わらないけれど、よくよく見れば周囲にちらちらと青い光の粒が舞っている。神秘的なその生き物を羽虫と間違えたことなど一度もない。
ルイは屋根の上を忍び足で歩いて移動する。宿屋の主に見つかると悪い気がするけれど、見つからなければいいのだ。
「こんばんは」
「あれ……? どうしたの?」
妖精がルイの姿を認めて、きょとんと首を傾げた。
ルイは彼女を潰さないように気をつけて、その隣に座る。
「好感度は時々ケアしておかなければと思いまして」
「……うん?」
「ゲーム風に言えば、夜交流システムですよ」
「ああ、」
妖精は「あれか」と思い当たった顔をした後に、呆れの表情へ変わっていった。
夜交流システム。宿屋に泊まるとランダムで行われる、ボーナス好感度イベントである。夜間に旅の仲間が思い思いの場所に散らばって出かけるので、勇者である主人公は出かける場所を選択し、そこにいるキャラクターと会話し、一定の条件を満たすことで好感度を上げることができる。
ゲーム発表当時から大きく宣伝されていた一メインシステムなので、エレノアもその存在は知っていた。
「それじゃあ、今は他の人たちも散らばってるの?」
「ええ。騎士は公園の噴水、武闘家は夜の屋台、神官は教会前。そして妖精は宿屋の屋根」
「魔術師様は街の傍の森じゃなかったっけ」
「そこはほら、見逃していただけると助かります」
「職務怠慢だよ」
「手厳しいですね」
ルイは攻略対象キャラクターとしての職務など全うする気はないので、怠慢上等だが。
「それで、何か特別な会話をするはずですよね。親交を深められる感じの」
「と言われてもなあ。今更そんなことする必要あるの? ……一応、あの、……結婚、してるんだし……」
「半分以上は好奇心です」
「だよね」
エレノアは「うーん」と唸り、考え込んで、
「私の好きな食べ物はなんでしょう?」
こんな基本的な問題をルイに寄こす。
「これってたしか四択で、『ぶどう』『オレンジ』『りんご』『かぼちゃ』だったかな。どれでしょう?」
これに正解すると「どうしてわかったんですか……? そんなにわかりやすいのでしょうか……」とかいう反応と共に好感度が10ほど上がるシステムである。あくまでエレノアとルイが知っているゲーム内の話だが。
彼女を世界で一番愛している夫を相手に、こんな初歩の初歩を問うなんて。
ルイはにこりと笑って、自信満々に答える。
「五番目の、ルイ・スティラスの生き血」
沈黙。
「……うーん、……そこは譲らないんだ……?」
「お好きでしょう?」
ルイの血を至上の餌に、ルイの魔力を生命力として、現実的な問題からルイに依存しなければいけない小さな生き物だ。エレノア自身が「なんか思ってたのと違う」という顔をしたところで、実際にそうなのだから仕方ない。
「難しいから、先にそっちからお手本見せてほしいな」
「僕ですか?」
「うん。私も魔術師さまの好感度上げに挑戦する。全スチルコンプリートの実力見せてあげよう」
「とは言っても、君は呼吸しているだけで勝手に可愛いので常に好感度爆上がり状態なんですよね。これ以上何をしてくれるというのか……」
「妖精過激派も大概にしようね」
「おかげさまで毎日が新規妖精スチル入手状態ですよ。脳内のアルバム補完がはかどりますが、コンプリートするにはまだまだです」
「純正攻略対象者がどうしてこうなっちゃったかな」
「妖精のせいですね」
「ようせいのせい」
「妖精のせい」
「そうなんだ……」
そうなのだ。彼女は自覚していないかもしれないけれど。
「ほら、ここに」
「うん?」
彼女を指に乗せて、彼女の背景に満月が見えるように持ち上げる。
長い銀髪がさらさら靡く。月光に照らされて透かされたワンピースと、肢体のシルエットですら清らかだった。不思議そうにルイを見つめる彼女は、己の美貌を自覚していない少女のようだ。
ああ、ほら。
「また綺麗な絵ができました」
これでいいと、ルイは思う。
手を引いてくれなくていい。お茶を淹れてくれるにしても、買い物になど行かなくていい。
いつまでも画面の向こうにいるように神秘的で、この手に囲われてくれるだけの非現実的な存在であれば、ずっと守ってあげられるから。