モブAの思い出
他視点俺つえー風味番外編。
最初の場面は『学園と宮廷魔術師(ルミーナ視点)』
最後の場面は『魔物と筆頭と魔王様』から。
魔法科の授業で、毎年著名な魔術師に特別講師を任せる。大講堂を使って話を聞くだけの、いわゆる「せんせいのありがたいおはなし」だ。ためになるんだかわからない自慢話や、学生には到底理解できないレベルの話をされたりもして、寝る人もいるらしい。呼ばれた講師によって話の内容は違うらしいのだけど、正直そこまで楽しみにするもんでもない。
と、聞いていたのに。
オレが朝に教師たちの話を聞いてしまったのは偶然だった。その名前が聞こえた時は、ガラにもなく動揺してしまった。
――筆頭が来るらしい。
――頼んでいた人が倒れてしまって。
――その上司である彼が、わざわざ……。
噂は数時間のうちに、どういう情報ルートを辿ったのか、学園中に知れ渡った。
そしてその日、俺は天才を見た。
『ええと、実は筆頭補佐の方が来る予定だったのですが、ここへ向かう途中でぶっ倒れてしまいまして、講師を急遽変更させていただくことになりました――』
純粋で、強大で、追い付こうとする者すべてを置き去りにしてしまうような。
彼は本物だった。本物でしかなかった。
*
あれから半年経った今でも忘れられなかった。どうにか会おうと画策した。街中では常にあの金髪を探し、王子様じみた穏やかな声を捉えられるように耳を澄ませた。けれど彼は基本的に、研究所と家との往復には魔術を用いているらしいと魚屋のおばちゃんから聞いた。街で見かけるのは、たまの休日に家政婦や妹と買い物に出かけたり、仕事で街中の色々なところの様子を見ている時くらいなのだと。たまの休日って言ったって不定期らしい。筆頭の仕事の予定なんてわかるわけない。
そんなこんなでこんなに時間がかかったけど、もう限界だ。半分はやけっぱちだ。耐えられない。
前々からの計画を決行してみることにした。……計画って言ったってさ、こんなガキに小難しいことできないし下手すりゃ前科持ちになっちまうんだから、正面突破しかないよな。うん。
彼が居る研究所は王宮敷地内にあるから、その大門前に立って、
「あの!」
守衛に声をかける。
筆頭に会いたいと言うと、通行証や招待状はあるかと聞かれた。もちろん、そんなもんは無い。
「その制服は、シェスタクローブの学生だな。ルイ様は多忙なんだ。解るだろ?」
「んなことわかってんだよ! でもオレ、」
「まあ訊くだけ聞いてみよう。断られても文句は言うなよ」
守衛は「またか」って顔をしていた。筆頭に会いたいって人が俺の前にも沢山いたんだと思う。毎回筆頭に窺いを立てて、その末の答えが毎回「お断り」で、そのたびにこの守衛たちが追い返していたんだと思う。あの人に多くの信者がいることは知っていたから、さもありなんってやつ。
目に見えた暗い未来に、早くもくじけそうになった。
「宮廷魔術師筆頭への面会希望ってことでいいな?」
「はい」
「所属と名前は」
「シェスタクローブ学園五年生、名前は――」
オレの名前と所属を暗記した守衛が中へ入って、そう経たずに戻ってきた。その表情はさっきと変わらず、やっぱりダメかと落胆しかけた。が、
「……運がいいな、学生さん」
どうやら会ってくれるらしい。
「ちょっと中行ってくるわー」と軽くもう一人の守衛に言って、中へ入っていく。オレも慌ててその背を追うけど、守衛ってそんなんでいいのか? 軽くない?
外から見るよりもずっと広い道とか、名前も知らないでっかい木とか、遠くに霞んで見える塔とか、敷地内はとにかくなにもかも大きくて、小人にでもなったみたいだ。こういうところで働く人たちってみんな頭が良く見える。擦れ違う人みんながなにかしらのエリートなんだろうから、実際に頭は良いんだろうけど。
ここに入れて嬉しいはずなのに、漂う気品の圧迫感に潰されそうだ。高貴な黒いローブは魔術師の憧れで、それを身に着けた人がうじゃうじゃいる。ほらだって噴水脇のベンチで集まってお菓子食べてる魔術師達の声だって心なしか上品だもん。おばちゃんの井戸端会議じゃないもん。
心臓がばくばくしてきた。こんな学生服のお子様が入って良い場所じゃないっていうのはわかってる。わかってるのに、ここまで来られたんだ。今更怖気づいてどうするんだよ。
しばらく進んで、大きな噴水があって、その左手。
白くて清潔な印象の建物が見えた。
「……気、引き締めとけよ」
「おう」
「最低限、敬語は使え」
「はい!」
これでも名門シェスタクローブの学生だ、きっちりできるところはしておかねえと。なんて安っぽいプライドみたいなものを原動力に、足を動かす。
深呼吸しよう。
緊張してる時は、それを認めるのが大事なんだっておじいちゃんが言ってた。緊張してる。オレは緊張してるぞ!
正面入り口から入った。衛兵が、そこに立っていた男性魔術師に頭を下げる。オレ達を待ってくれていたらしい。これから内部にはこの人について行けって言われた。
三十代くらいに見えるけど、この人も何らかの能力に特化した魔術師なんだろう。彼についていって、奥へぐんぐん進む。ここまで来るとなんか機密っぽいものに触れてしまわないかと余計な心配をするオレに、彼は「緊張しているか」と聞いてきた。「ものすごく」と答えた。笑われた。
やがて着いたのが、研究所の離れ扱いみたいな別棟だった。
とんとん。
魔術師さんがノックする。
中から聞こえた『はい』という一声に、オレの心臓が止まった心地がした。忘れもしない声。美しい男というのは、声までもお美しくあらせられるようだ。
「お客様をお連れしました」
『どうぞ』
ドアが開かれる。魔術師の彼が、まごつきそうなオレの心情を察してか、背をそっと押しながら促してくれた。
足を、一歩。
そうして、
「ご苦労様ですね」
ドア越しだった声が明瞭になった。
窓に面していたデスクに座っていたその人は、ゆっくり振り返って、その綺麗な瞳にオレを捉えた。――にこ、と細められて、それが微笑だと気付いた時には、オレはわけもわからず恥ずかしくなった。
「筆頭、お疲れ様です。……おい」
「おぁっ……、と、……は、初めまして――」
連れて来てくれた魔術師さんにせっつかれるまま、自己紹介する。
あの人は有名人だ。一介の学生の名前なんて、伝えても覚えてはもらえないだろう。けれどしっかりきっちり名乗ってやった。そうすると、彼も挨拶代わりに自己紹介を返してくれる。
「ルイ・スティラスです。……貴方はもう持ち場へ戻ってください。大丈夫ですから」
「は。では、私はこれで」
「はい」
魔術師さんが出て行っちゃう。「がんば」って目を一瞬だけ向けられたけど、最高峰の魔術師相手にどう頑張ったらいいの?
かちかちに固まっているオレはまたくすりと笑われて(よく笑うなこの人)、勧められるままにソファに座って(高級品だこれ)、テーブルを挟んだ向こうのソファにその人が腰かける。
眼前のその人は、近くで見ても綺麗だ。
金髪がさらりと揺れて、瞳は奥深くて、物腰柔らか。一種女性的とも言えるその人がソファにいるだけで、貴族か聖人の肖像画でも見ているみたいだ。
「まずお聞きしたいのですが、貴方の要件は宮廷魔術師へのものですか? 僕個人ですか?」
「え、っ……あ、ああああの、……個人の方で!」
「そうですか。では少しお待ちください」
そう言うと、その人は人差し指で空中を掻いた。――風魔法だ。背後のデスクから何か小さい紙を呼び寄せて、そこにペンで何かを記入している。
不思議そうにしているオレの視線に、その人は「勤務の前と後に、時刻を記すことを義務付けているので」と答えてくれた。
「え、なんで」
「監視ですよ。研究おばけが沢山生息していますので、適度に休息を摂ってもらうためです。発案者である僕も、一応はやっておかないと」
記入した紙を、今度は空中にほいっと投げる。それはデスクにすうっと戻って行った。なんだかあっさりすごいものを見た気がするけど、今のオレには理解できない。
「僕個人への用事と言うなら、貴方との対話などは仕事のうちに入りません。もう上がりとしました。……お気になさらず。今日はもう殆ど終わりでしたし、迷惑なら守衛にそうと伝えていますので」
それで、お話とは?
訊ねられて、オレは真っ先に、要件を口にする。
「弟子にしてください」
「だめです」
にっこり微笑まれながら言われた。手厳しい!
「君が気に入らないとかそういう話ではありませんよ。これでも忙しい身なので、身内の面倒を看るので精一杯なんです」
「……そう、ですか」
「何故、僕に教えを乞おうと?」
まあそりゃ聞いてくるよな。これでぽいっと帰されても困るんだけどさ。
覚悟はしてたけど、この人相手にこれ言っても通じるかな……。
「……オレ、おちこぼれで」
「おちこぼれ」
「学園に入ってから、難しいことは全然わかんねーし、でも魔力だけは馬鹿みてーにでかいらしくて、……それで」
――それで。
言い淀んだ。
「どうしたら、あんたみてーに……なれますか」
「さあ?」
「そんなすっぱり」
びっくりするほど手厳しい! あと笑わないでください。
大きい魔力を持っていて、しかも操作が怪物級と言われる魔術師は、オレの前で相変わらず淡々としている。
「どうしたら僕のように……と言われましても、生まれてこの方、学生レベルの魔術がわからないということも、操作できないということもなかったもので。君が今の時点でそこまで分厚い壁にぶち当たってしまったのなら、もう僕と同じではありません。そもそも僕は人に教えるのには向いていないんです」
この人の言葉はただの事実だった。自慢なんかじゃなくて、事実をそのまま言葉にしている。だからなのか、あんまり腹は立たなかった。圧倒的すぎて、自分と比べられないだけなのかもしれない。
その人があんまりにも穏やかでいるから、それに流されているのか。
それにしても規格外だな、この人って。
(……でも、そういうのって疲れそー)
ちょっと失礼なことを考えたけど、忘れとこう。
この人の風格は、少しの苦労も知らないって感じじゃない。オレは馬鹿だけど、こういう勘だけは当たっている気がするから。
「誰かに魔術を習いたいなら、僕以外の魔術師からお話を聞いた方がよほど賢明かと思いますよ」
「……それで宮廷魔術師になれますか」
「それはきみ次第ですが、ここに就職したいんですか?」
「はい」
「ここに来るのは難しいですよ」
その人は、初めて難しい顔をした。笑顔以外の表情があったのか。「ふむ、」と一瞬考えると、さっきと同じ柔らかい声で、えぐいことを話し始める。
「学生さんにはお話しづらいことですが、学園からこちらに就職した宮廷魔法使いの三年後離職率は、八割を上回ります」
「サンネンゴリ?」
「十人入ったとして、三年後、二人残るか残らないか、ということです。まだ宮廷魔法使い――魔術師と認められていない段階で、その数字です。それを踏まえれば、宮廷魔術師という職がどれほどの名誉であるか。……残った者だけが磨かれて、さらに高度を求める。ここはそういうところです。それでも君は、ここに入りたいと?」
「はい」
「……こだわりますね」
「家を建て直すには、それしかないんだ。俺はきっと魔術しかできない」
傾きかけた家を建て直すためには、箔がいる。
オレをなんとか名門に入れてくれるだけの金を捻出してくれた家のためにも、凄腕の証がほしい。ここで諦めたらいけないんだ、オレは。身分を保証されて、尊敬されて、高給取りの魔術師になって、家を支えて。
影でオレを馬鹿にしている奴らを見返してやるのなんて、目的の端っこの端っこだ。
「個人的な理由だってのはわかってるんです! 国のために働く筆頭に、こんなこと言ったら、えっと、……あれですけど、でも、」
「そこまでです。詳しくは聞きませんよ」
そう言って、その人はソファから立った。
まさかこれで面接終了かと思いきや、
「僕の家でお話でもしますか。お茶はそっちで出させましょう」
特別待遇もいいところな提案をしてこられた。
オレは近いうちに死ぬかもしれない。主に筆頭の信者によって。
この人に近づきたがっていた先輩や、下手したら筆頭の部下たちまで差し置いて、まさかの御自宅招待だ。
冒頭で言った「せんせいのありがたい~」なんか死ぬほどどうでもいいけど、魔術師の憧れで高嶺の花なこの人の話なら、金を払ってでも聞きたい。魔術師は、生来から気になったものに対しては一直線なんだ。ああ、それもたしか、この人が書いた本の中で見たんだっけ。
だって、そうだ、本の『著者』とか、逸話の中で名前を見る人物が、目の前にいるんだろ?
今まで縮こまっていた肝が、高揚感に膨らんでいく気がした。
*
転移魔法を使ったことがなかったから、実は期待してたんだけど。
その人は普通に徒歩で研究所を出て、普通に大門を出て、普通に街中に入っていった。廊下の魔術師さん方が慌てて「お疲れさまです!」と道を開けていたし、筆頭がオレを連れて歩く様を守衛が唖然とガン見してたし、街中の婦人方が「ひっ」と悲鳴なんだかわかんない声を発して顔を赤くして固まった。
優雅な暴風域のように街中を歩くその人は、ある店の前で止まった。店頭の箱に詰まったとある野菜を見定めて、「これと、これと、これ」と三つ、手に取った。……トマト?
店のおばちゃんが手際よく包んでくれている間に、オレの方を見て「家の者に頼まれていたので」なんて言う。意外と庶民的だった。
目的を果たしたらしいその人に続いて、また歩く。
途中で、
「おちこぼれ」
って声が聞こえた。よく知っている奴がオレを睨んでいた。クラスでテストの成績が一番のやつだ。実技だっていつも上位で、先生に褒められているのをよく見かける。
オレが筆頭といることが気に入らないんだろう。
そいつは悪意しかない視線で、オレを突き刺す。
筆頭はそれに気付いたようだった。けれどオレを気遣ったりしてくれることもなく、ぼそりと呟く。
「……井の中のおたまじゃくしを眺めている心地ですね」
カエルと言わずひねりを加えていたあたりに、この人のこだわりを感じた。
着いたのは、どこにでもありそうだけどちょっとだけ大きい一軒家だった。屋敷と言えなくもない感じ。魔術師筆頭って言うからにはもうちょっとそれっぽいぎらぎらした家を想像していたけど、穏やかで拍子抜けだ。
「ただいま帰りました」
その人が家の中に声をかけると、奥からぱたぱたと足音が駆け寄ってくる。女性だった。長い銀髪を靡かせて、深い青色の目をした、綺麗って言葉が陳腐に思えるほど綺麗な、女のひと。雰囲気がふんわりとして、年頃は筆頭と同じくらい。彼女は筆頭から黒いローブを受け取って「おかえりなさい」「ただいま」の応酬をする。新婚かな。
「ちょっと早かったね」
「学生さんが訪ねてきたので、もう終わってもいいかなと」
「学生さん」
筆頭の後ろに隠れるようにして立っていたオレに、初めてその目が向けられた。「あらかわいい」とか言われた。
「はじめまして、エレノアです。桃の紅茶は好きかな? くるみは大丈夫?」
「は、い」
「そっか、良かった」
女性は筆頭のローブを持って、奥へ引っ込んでいく。オレはその様子をぼうっと見ていた。
――もものこうちゃ?
……あれだあれ、桃の紅茶か。びっくりした。
その飲料の存在は知ってるけど、生まれてこの方そんな洒落たもん飲んだことねえわ。咄嗟に返事したけど、嫌いな味だったらどうしよう。
しかし桃の紅茶ねえ。果実は基本的に皮をむいて生で食べるしかない俺の家とは雲泥の差ってやつだな。
さあ、と促されて、前を行く筆頭の背を見る。
美しすぎる史上最年少魔術師筆頭ともなれば、やっぱり育った環境からして違うんだろうか。そんな馬鹿なことを考える。……この人なら、こんな小さい人間のこんなにつまらない考え方なんてしないんだろうな。じゃあ何考えてんだろう。新しい魔術とか、俺にはよくわかんねえ生物の生態系がうんちゃら? 難しいことで頭いっぱいなんだろうな。
頭、痛くなんねえのかな。……頭の造りからして違うのか。
通された部屋で椅子に腰かけ、少しして。
さっき見た女性が、オレと彼の前に一つずつカップを出した。桃の甘い香りのするお茶が、白い湯気を上らせている。味も甘いかと思ったけど、一口飲んだらそうじゃなかった。「砂糖はこれを使ってね」とテーブル中央のシュガーポットを示されたので、素直に従うことにする。
お茶うけにと出されたのが、くるみの入ったパウンドケーキだった。
「それじゃあ、ごゆっくり」
そう言ってまた戻ってしまった彼女の背を、オレの目が無意識に追う。
「家事の一切を彼女に任せています。このお菓子も彼女の手作りですけど、店のものと遜色ないので、おすすめですよ」
「……えっと、奥さんですか?」
「いずれそうなります。かわいいでしょう」
「はい」
即答すると、その人は嬉しそうだった。自分が褒められたみたいに「ありがとうございます」なんて言って、この時の笑顔だけは、それまでと違って見えた。
彼は宮廷内の女性騎士と噂になっていた気がするけど、噂は噂ってことか。
いずれ妻にするつもりの女性のお手製ケーキを幸せそうに食べるその人を見ていると、なんというか、平和だなーなんて思う。
「お話の続きになりますが、」
「はい」
「僕が宮廷魔術師になったのは、お給金がすごいからです」
その高尚な顔に似合わない俗物的な単語に、ぽかんとした。
いや。
あれ。
今なんて言った?
「……おきゅうきん」
「ええ」
「……金?」
「はい」
「……いいんですか、そんなこと言って」
「働かずにお金がもらえるなら働いていませんけど?」
「……わあ」
「許されるなら、好きな研究だけしていたいじゃないですか。ねえ?」
首傾げられても。
みんなの憧れがこれで大丈夫なんだろうか。オレの中の王子様的筆頭像が音を立てて崩落していく。
もっとこう、国のためとか民を守るためとか、そういうこと言わないんだ。
もしかしてこの人って顔に似合わず乱暴……いや、適当? な人なのかもしれない。
オレが唖然としている間にも、彼はもそもそとケーキを消費していく。オレもなんとなくそうした方が良いのかな、なんて場の雰囲気に流されて、その人の真似をしてみた。おいしい。……本当においしい。これは止まらない。
まだ学生の身分で、国一番の魔術師の家に招かれて、男二人もっさもっさと焼き菓子を味わう。
その奇妙な空間が出来上がってしばらくした時、と、と、と、と新しい足音がした。二階から誰かが下りてきている。
キッチンと思しき方向から時々かちゃりかちゃと音がするから、エレノアさんはそっちにいるはずだ。だからこの足音は、また別の人か。
足音は階段をおりきって、こちらに来る。
「あれ、お兄ちゃん?」
――ルミーナ・スティラス。オレでも知ってる有名人だ。
「居ましたか」
「居ましたよっ。お兄ちゃんこそ、いつのまにおかえりなさいしてたんですか」
「つい先ほどただいましていました。それと、お客様ですよ。魔法科五年生です」
「魔法科! 同級生さんですね!」
太陽みたいに明るく顔を綻ばせた彼女が、オレと同じ学年に在籍していることとか、筆頭の妹ってことも、前知識として知っている。魔法科のクラスは成績によって二つに分かれていて、オレは下級だ。彼女は言わずもがな上級クラス。
時間割も違うから顔は見たことなかったけど、……この兄妹の血筋は優秀なんだろう。文句なしの美形だ。見事な金髪といい、筆頭の妹だなって一発でわかった。
エレノアさんのことを考えてみても、この家に入るには顔面レベルに一定の取り決めがあるに違いない。オレは茶の水面に映った自分をそっと覗いて、内心撃沈した。
「お客様がいるなら、後の方がいいです?」
「いや、オレは、その、お構いなく……」
「だそうですので聞きますよ」
「ありがとうございますっ! じゃあ失礼して、……ええええええっと、教科書のここなんですけど」
「はい」
ルミーナさんは一冊の教科書をその人に見せて、指さした。
「ここの薬、うまくいく時といかない時があってですね」
「これは教科書が……。この材料であれば、最初にこれとこれを一緒に茹でてしまった方が安定しますよ。甘くもなりますし」
「すっっっっっっっごく辛いのに?」
「野菜と同じです。このやり方では、最後に入れた薬草にうまく火が通らないから辛いままなのでは。たしかに成分を残すことを至上とする魔術師もいますが、……これを書いた方もそういう主義なんでしょうね。しかし一番目のこの薬草であれば全体の成分をうまく閉じ込めてくれたりもしますし、壊れてしまう成分はほんの僅かです。誤差の範囲であれば、飲みやすい方が良いこともあるでしょうし」
「なるほどっ」
「それと先日の課題でやっていたところですが、……妖精の生態ですね。僕の机に最新版が置いてあるので、それの方がわかりやすいかと思います。持っていってください」
「さっすが妖精研究の権威! 読みます!」
麗しい兄妹の会話を盗み聞きする。……なんかもやもやした。目の前で不正が行われているのに、それを糾弾できない、みたいな。家族内で教え合うなんて珍しくもないことなのに。面白くない。
ずるいじゃないか。
こんなに魔術に特化した家庭に生まれていれば、オレも凄腕の魔術師を兄に持てていれば、悩まなくて良かったのかもしれない。
弟子にしてください! という率直な願いを、すげなく切り捨てられたことを思い出す。生まれながらに強力な師を持つルミーナさんが優秀なのは当然だなんて思えてしまう。こんな思考がいけないことはわかっているし、彼女が真面目なんだってこともわかるのに、それでもやっぱり自分と比べてしまう。
オレが決死の覚悟で宮廷に突撃までしたのに、その緊張とか苦労を一つも味わうことなくすんなりと、教えてもらえるなんて。そんな恵まれた環境を、どれほどの魔術師が渇望していることか。
まして、その恵まれた奴が、オレの同級生だって?
「エレノア―!」「後で桃のお茶持って行くねー」「ありがとう!」
ルミーナさんは目的を果たして満足したのか、声を張ってキッチンのエレノアさんにお茶を強請ってから、自分の部屋に戻って行った。
「ずるいと思いましたか」
その人の静かな声に、ぎくりと肩を揺らした。
いつの間にか俯いていた顔をおそるおそる上げると、その人と目が合った。
「……ん」
「正直でよろしい」
その人は「ふふ」と優雅な笑声を漏らして、カップを傾けた。
なんだろうな、この人には心を見抜かれているみたいで落ち着かない。
「教科書にも書いていないことを簡単に知れるのは、たしかに、成績で順位を付けられる学園であれば大きな差でしょうね。ルミーナを快く思わない生徒も、きっといることでしょう」
「…………。」
そうだ。
当たり前に、いるだろう。
たとえば街中でも見た、オレをおちこぼれと言ったあいつとか。誰かをこき下ろさずにはいられない誰かが、当たり前に存在しているんだろう。人がいっぱい集まって学問に当たれば、必ず上位と下位がいて、妬まれる人も妬む人もいる。オレでさえ気付いた集団生活の弊害に、あんなにも目立つ有名人が巻き込まれていないわけがない。
ルミーナさんがどう言われているのかは詳しく知らないけど、「ずるい」とか、そういう声もあるんだろうか。あるんだろうな。
ただその人が言いたいのは、そこではないらしい。
その人の声色は、怖いくらいに平坦だった。
「学園内では辛いかもしれません。しかしあの子が実践しているのは、魔術師の常道そのものですよ。先人の知恵を踏み台に、更なる知識を得るんです」
早い話、学園内など見ていません。
その言葉に、ぞっとした。同時に、ここへ来るときに聞いた「井の中のおたまじゃくし」の意味も理解できた気がする。
「あの子は一生、僕と比べられることでしょう。僕こそが、あの子の絶対に追い越せない壁になるわけです。それは他の生徒にはない苦しみですね」
「…………。」
「君が師を必要としているなら、僕よりあの子がいいと思います。あの子の学習にも良いでしょうし。あの子は優秀ですよ。同学年の勉強を教えるくらい、わけないと思います」
「……迷惑じゃ、ないですかね」
「きみがその気なら、あの子に聞いてみますよ」
その人はオレをじっと見ると、「よろしい」と言い置いて、席を立った。
二階のルミーナさんに早速聞いてきてくれるらしい。少し待っていてくださいねと部屋を出て、言い忘れたことがあったのか、振り返った。
「僕が宮廷魔術師になってまでお金を求めた理由は、彼女たちです」
「……あの、お二人ですか」
「ええ。料理やお菓子作りが上手な家政婦と、僕に似て魔術の道に真っ直ぐな妹だけです」
――ね。とても個人的な動機でしょう?
*
あの日あの家に行ったのは現実だ。鮮明に覚えているのに、夢のようだった。オレみたいのがあの人の家に行って、おいしいお菓子を振る舞われて、話を聞いて。あの人が最後に見せた幸せいっぱいの苦笑さえ、現実味がない。忘れないように努めていたって、記憶はどうしても擦れていく。
あれは夢だったんじゃないかと疑って、そういう時に思い出す。
オレの魔術の基礎は、彼女に習ったことを。
あの日以降、七日に一度はあの家に行った。あの人が来ても良いと言ってくれたし、彼女も二つ返事で頷いてくれたから。教科書を持って、いつもより上等な服を着たり、時には学園の制服のままで、あの家に出入りしていた。
彼女は「お兄ちゃんから聞いたけど」と、自分が仕入れた知識を独り占めすることなく教えてくれた。「魔力の操作? 気合です!」と言われた時にはどうしようかと思ったけど、彼女なりに考えて伝えてくれた。
ある災害があった。
その日に彼女はいなくなってしまった。
彼女の『特別授業』が始まって、一年も経っていなかった。
オレの成績は信じられないほど上がった。オレをおちこぼれと馬鹿にしたあいつでさえ追い抜いてやった。
オレはもう過去のオレとは違う。
それでもオレは、自分の魔術の中に、いつも彼女の影を見た。
だから、オレの師匠はルミーナさんだ。
研究所の試験に合格した時は、一人で大空に彼女の名を叫んだ。底抜けに明るくて、青空の似合う同い年の師匠に、届けと。
いずれ彼女の兄みたいに立派な魔術師になるんだと。
天才とか鬼才とか! そんな大仰な言葉を、名前の頭にくっ付けて呼ばれるような魔術師になると。
浮かれていたから。
知らなかった。
オレが自分なりの魔法薬を完成させて喜んでいる間に、あの人が苦しんでいたなんて。オレが初めての魔術を成功させた時に、あの人の妻が死にかけていたなんて。知らなかった。
そして、そして――。
あの人が嗤った。
王都に二度目の大災害を齎したあの人は、相変わらず綺麗な顔をしていた。男一人の腕を楽しそうに壊して、不吉な風にふわりと服の裾を遊ばせながら、暗く濁った瞳を細めていた。
そうして、
「キーリ・ルナーク」
と、呼ぶ。
ここにオレがいることを疑わない声で、オレの名を。
なあ。
あなたを壊したのは、誰なんだ?