宮廷魔術師筆頭の煩悶
特に意味はない番外編
ルイが真っ当に魔術師やってた頃の話
宮廷魔術師には、中途採用制度がないわけではない。
それは宮廷に勤める者の推薦であったり、ものすごく有能な魔術師であると認められた者を連れてくるわけだが、難解な試験を受けて合格できるのは一握りである。ただでさえ高難度とされる宮廷魔術師の登用試験よりもさらにレベルの高い頭脳と実力が求められるので、中途採用という言葉すらあまり出てこない有様なのだが。
本日は、その有能な者を正式に迎える日である。
ルイは正門にて新しい部下と顔を合わせ、にこりと微笑んだ。
新しい部下は、ルイの顔を見て引き攣った笑みを浮かべた。
まだ年若いという宮廷魔術師筆頭を、正直舐めてかかっていたその男は、初めて顔を見合わせた瞬間に敗北を認めたのだった。「ひっ」と声に出さなかった自分を褒めたい。
「では、案内しますね」
「はいっ」
冬の晴天は薄ら青い。小春日和の穏やかな冷気が急激に冷え込んだ気がした男だった。
まさか筆頭自らが新人の世話に手を出すとは思わなかった。
もしかして、試験など楽勝で通った自分天才と自惚れていたばかりか、筆頭を内心小ばかにしていたことを見抜かれたのかもしれない。心をべきべきしていく心積もりなのだろうか。
恐々としている新人に敢えて何も言わないのは、ルイの悪戯心ゆえである。新人が筆頭を見くびってくるなどよくあることなので、第一印象でまず威圧してしまうことにしているのだった。自分の顔と「にこっ!」の使い方を、ルイはよくよく理解している。
各研究所、資料室、素材庫、様々な場所と注意点を案内しつつ、二人は進んだ。
そうして玄関口に接する廊下を歩いていた際、新人の目がふと他所に向いたことに、ルイは気付いた。その視線を辿って玄関を見ると、「……ああ」と息を吐く。
雌妖精がいた。
人間に扮した彼女が、休憩中の宮廷魔術師と話している。
彼女の手には小包があった。ルイの昼食を届けに来たようだ。すぐ近くにいる彼に気付かない彼女は、宮廷魔術師に小包を託そうとしているらしい。許可がなければなかなか入ろうとしない彼女らしいな、と思いつつ、ルイはついでとばかりに新人へ説明する。
もちろん彼個人の事情を一切省いた言い方で、だけれど。
「ああして、時々部外者が入ってくることもあります。基本的には門で発行される通行証を持っている者しか入れないのですが……、怪しい人がいたら、とりあえずお近くの先輩を頼ってくださいね。先走って声をかけたりはしないように」
「はい」
「食堂に行く暇もない時などは、身内に昼食を届けてもらうのも手です。なので、ああいう光景も珍しいことではありませんよ。慣れてくれば、知った顔も増えるでしょう。では次に――」
と、ルイが進路に戻ろうとした時である。
「筆頭!」
エレノアと話していた魔術師がルイを呼び、駆け寄ってきた。
「ここは俺が引き継ぎますよ」
「いいえ、これも仕事ですし」
突然なんだろうか、と聞きたげなルイに、魔術師は苦笑で答える。
「いやいや、筆頭の昼食なんて託された方が不安なんで……。ここまで来たなら、後は練習場だけでしょう? 俺は昼食摂りましたし、行ってやってください」
「……気を遣わせてすみません」
「いえ」
部下の気遣いを察すると、ルイもまた食い下がらない。思いやりを素直に受け取っておくのも仕事である。
新人がまず知っておかなければいけない場所への案内は終えていたし、あとは部下の言うとおり、練習場へ行くだけだった。
そこではたまに四徹明けの部下が、うまく結果が出せないストレスを訓練用の的にぶちまけて危ないことになっていたりもするけれど――、まあ、大丈夫だろう。
魔術研究所という特性上、不幸な『事故』に巻き込まれた場合、その責は負いかねると誓約書に大きく書かれてあることだし。
そもそもそんな『些細なこと』で終わるようなら、此処に来たこと自体が間違いなのだし。
何があっても、ここには治癒のエキスパートの巣窟であるわけだし。
以上をさらっと考えたルイは、部下に「ではお願いしますね」と言い置いた。そして新人の男に一礼し、エレノアの元に向かった。
それに驚いたのは新人である。
先ほどは彼女を他人事のように「部外者」と言った筆頭が、今はその態度を一転させていた。
新人と、それなりにベテランな魔術師両名が眺めている先で、ルイは彼女の手を取った。
「え」と、新人が驚嘆を声に出す。
エレノア――新人にとっては『名前は知らないけれどやけに美人な女性』――は、ルイに何か言い募っていた。「お弁当届けに来ただけなのに」「この後で用事でも? ……あ、今日は遅くなりますので、夕食はあの子の分だけでお願いします」「それは、いいけど、でもお仕事の邪魔になったりしたら――」とかいう会話が遠ざかっていく。通りすがる人は二人を見て微笑ましげにするか、見て見ぬふりをするか、だった。日常茶飯事らしい。
完全に、夫婦だ。愛妻弁当を持ってきた妻と、愛妻家の夫の図だ。
それに二人は若いから、あれだ、新婚か。
「筆頭って結婚してたんですね」
ルイとエレノアの背はもう見えない。
新人が意外そうな顔で先輩魔術師を見ると、彼は重々しい顔で一つ頷くだけだった。
「いいか後輩」
「はい」
「あの女性には手を出すなよ」
「人様の奥さんに手なんて出さないですよ……」
実際には結婚どころか付き合ってすらいないのだが。
新人はそんなことを知る由もなく、不貞の話題にとんでもないと頭を振る。
先輩魔術師はどこまでも真剣である。
「エレノア様。筆頭が大事にしているお方だ」
「へえ……」
「声かけたとか、デートに誘ったとかいう強者もいたんだけどな……」
「もしかして干されたとか?」
「いーや。筆頭はそんなことを仕事に持ち込む人じゃないし、使える奴はとことん使う方針だ。その面では安心していいんだが」
「はあ……」
「本気にした奴が二人ほどいたんだが、そいつらは心が折られた」
「は? そりゃあ、やっぱり筆頭が何か……?」
「筆頭が何したっつーわけでもない。が、個室内での会話を聞いていると自動的に独り身の精神が粉砕されていく仕組みだ。正直キツい。書類を届けついでにうっかり立聞きなんかしちまった日にゃ……、っ……今から、心し、て、おけよ……っ」
「先輩……泣いてるんですか……?」
「泣いてねえよ……」
「はあ……宮廷魔術師のそんな生々しい事情知りたくなかったんですけど……魔術師っぽくない……」
「俺たちだって癒しがほしいんだよお……!」
口元を覆いながら「うっ……」と涙ぐむ先輩の姿に、新人は少し後悔した。自分はなんだか変なところに来てしまったらしい。
研究所では、休み時間は完全に個人の時間です。
しかし最低限の節度は保つべきですね。ベンチで恋人と談話したり、手を繋いだり、予約制完全個室仮眠所で膝枕をしたりされたりというのが、交際中の男女の楽しみ方であるらしいです。なので許される範囲はこれくらいだと思ってくれて構いません。
人前ならば手を繋ぐまで。隠れていてもベッドは止めろ。これは明文化されていませんが、僕がまだ宮廷魔法使いであった時から伝えられている決まりだそうです。先輩から後輩へと受け継がれている暗黙の了解となっていまして、今現在僕の中での線引きもそれに準じています。
さらに、調剤室や研究室、高等精密器具庫や最高位魔術練習場など、潔癖が求められる場所では――結局、研究所内のほぼ半分が当てはまるのですが――私語すら咎められる対象です。
雰囲気でいえば、厳粛な研究所というよりは学生のサークル活動に似ているのでしょうか。
だから研究所内の男女が交際するなんてよくある話です。幼馴染であるクレアは、これを風紀の乱れの元として、己の部下には職場恋愛を禁じていますけど。
上の者が悪ければ下の者が苦労する。上の者が違えば下の雰囲気も違う。――この二つは有りがちでお決まりの文句ではありますけれど、それがここまで顕著に可視化される職場もなかなかないでしょう。
――以上の説明でもお分かりのとおり。
僕が彼女にやっていることは、『交際中の男女』の行動を前提としたぎりぎりの接触です。
なので、部下たちの目には自分たちがどのように映っているのかなんて、僕にもわかっています。それを計算しながら振る舞っているところがあるので。
そんな事情を全く知らない彼女は、今日も呑気に家政婦の仕事をこなして暮らしています。
仕事は思った以上に早く終わり、自宅に転移する。
食堂にお世話になるつもりでしたし、夕食は必要ないと言いましたが、帰れるのなら彼女の料理が食べたいと思います。家政婦というか、メイドというか。それが彼女の仕事とはいえ、面倒をかけるのも悪いとはわかっていますけども。……簡単な軽食でも作ってもらいましょうか。
一瞬の浮遊感があって、自宅へはすぐに着く。
玄関から上がり、階段に差し掛かった時。
「あっ」
「……いや、『あっ』じゃないでしょう」
彼女がいた。
「あれ……今日は遅くなるって……ご飯作ってないよ?」
二階に行こうとしているらしいけれど、それを忘れてとててててと寄ってきた。
えっと、待ってくださいそんな。濡れた髪で火照った肌で上気した頬で僕のローブを羽織っただけの美味しい格好で、こっちに来ないでください。
思考停止している僕に戸惑った顔をした後、彼女はやっと自分のあられもない姿を思い出したらしい。
「……ごめん。着替え忘れてて、洗濯物ちょっと借りちゃった……」
くらっ……!
眩暈がして、倒れ込みそうになりながら傍らの壁に手を着いた。咄嗟に、適当に呼び寄せたカップを手に取った。それは宮廷魔術師筆頭が紅茶を常飲しているという噂を聞きつけたお偉いさんから貰ったお高い代物だったけれど、どうでもいい。もう何でもいい。この妖精をどうにかしなければ、自分が死んでしまう。育ての女性相手に不埒な行いをして、社会的にも自尊心的にも死んでしまう。
震える手でカップを差し出した。
エレノアは片手で額を押さえる僕を心配しておろおろ狼狽えている。
「このカップをあげます」
「……うん」
「これからシャワー……、いえ『水浴び』は、これを使いなさい。自分の部屋で。水魔法と火魔法で湯加減を調節するなんて初歩の初歩、君ならできるでしょう?」
実際には初歩どころか、できない者の方が大半だ。
大陸中の生き物の中で魔力の適正が絶望的と言われる人類は、複合魔法などとは縁のない者が八割を占めるほどです、が。この家では、まさしく『初歩』です。
「……わかった」
神妙な気配を察したエレノアは、こくり……! と力強く頷いてカップを受け取った。若干嬉しそうなのは、ただ単に贈り物が嬉しいからだ。僕の許しがなければなかなか自分のものを買わない彼女は、簡単なプレゼントに素直に喜んでしまう。彼女は僕たち兄妹を愛しているから、僕やルミーナにもらったものなら喜びも一入らしい……です。
彼女は本能に生きている。自分の欲に忠実な面があります。
と言えば、ルミーナなどは間違いなく「……そうですかねー?」と首を傾げるでしょう。妹は、彼女の保護者然とした態度を目にする方が圧倒的に多いので。
しかし妹と同じく彼女の保護対象である――非常に不本意ですが――僕が、どうして妹と同じ印象を持たないのか。彼女の内面を知っているのか。それはただ単に、お互い慣れているからなのでしょう。
彼女は僕に、今まで幾つもの醜態を晒している。年上面しても無駄なことと理解してくれています。天井に頭をぶつけたり、血の提供を拒否した末に飢えて動けなくなる醜態。これは彼女が理想としている『保護者』とはかけ離れたものでしょうから、それらを知っている僕にはどうにも甘えた態度になりがちです。けれど完全に対等には扱ってもらえずに、僕は彼女にとってまだまだ子供であるらしいのです。
この独特な距離感は、まあ……嫌いではありませんけれど。
ただ先の事件のように、彼女が女性なのだと見せつけられたり、彼女と甘やかな時間を過ごす夢などを見てしまっては、この関係性を少しばかり疎ましく思うのも確かでした。
細く開いていた扉から、小さな彼女が顔を覗かせる。好奇心旺盛な彼女は、時折こうして研究所に飛び寄ってくることがある。
手元を見て、危険はないことを確認した。「どうぞ」と許可すれば、飛んできた彼女は机に降り立つ。
「これ、なに?」
「睡眠薬ですよ」
「睡眠薬」
「研究に夢中で寝ようともしない方々に、強行手段をとらせていただこうかと。寝不足が過ぎて器具を壊されても堪りませんし」
「ふうん……」
僕の手にある小瓶には、蜂蜜色のとろりとした液体が詰まっている。
彼女はきっと「おいしそう」と思っているに違いない。……ふむ。
「興味あります?」
「うん。睡眠薬って、飲んだことなくて」
「……そうですか。……動物実験とでも思えば良いのでしょうかね」
これまでも、彼女に薬品を与えたことはあった。人間に無害でも妖精にとっては有害であるという可能性もあるけれど、今まで見てきた例で考えれば、この睡眠薬はそう危なくはないだろうと思う。妖精は薬の効き方が鈍いし、これも一つの研究ということでいいですか?
そうして一滴ほど飲ませて数分後。
「……強力なものを、とは思いましたけれど……」
妖精に即効性のある薬品では、人間には強すぎるかもしれない。もう少し考えてみましょう。
彼女は僕の脚を枕にして眠ってしまったので、組んだ脚を崩せなくなった。右腿にしがみつくようにされると小動物らしい。……元々小動物属性でしたか? ゲーム世界のエレノアってどういう妖精でしたっけ。ここまで慎みのない女性なんですか。
「飼い主の膝を無断で借りるとは、良いご身分ですね」
思った以上に穏やかな声が出たのは聞かなかったことにしましょうね。
「……さて」と呟いて本棚に視線を移すと、すぐに対象を定めて呼び寄せた。本の位置は全て覚えている。
『大峡谷における深契約の倫理論と血液について』――包み隠さない堂々としたタイトルの分厚い書物は、一般には受け入れられないものでしょう。
本のページを捲り、目的の術式に目を留めた。遠目から見れば紙面が灰色に見えるほど繊細且つ緻密な魔法陣が見開きで展開されている。それは以前から考えていた契約式だ。これだけでは完成していないので、任意の要素を組み込まなくてはいけない。
最初からこうするのが目的だったのかって?
いいえ、偶然です。こうする機会を窺っていたなんて、……そんな性格の悪いことはしませんので。
「『我が魔力を楔に――』」
しかし、上手くはいかないものですね。
魔力を込めて吐き出した言霊は、彼女の身に沁み込む前に弾かれた。ぱちり、と弱弱しい音は、それでも僕にとっては脅威です。この僕の魔力を、小さな生き物に弾かれたなんて。
「……やはり、受け付けてくれませんか」
知っていたことでしたけれど。
正式な契約は双方に意識がなければいけないという大前提を、一介の魔術師が破れるわけがなかったのです。
萎えてしまった心に従って、もう眠ることにした。
寝室に上がって彼女を籠に戻すと、僕も自分のベッドに沈み込む。
すうすうと、耳を澄まさなければとても聞こえない小さな寝息をたどって、籠を見た。中には銀色の妖精がいる。ついさっきまで僕の膝にいた柔い彼女。
「……エレノア」
僕も年頃なんですけど、貴女は分かっていますか?
自分の部屋があるのだからそこで眠りなさいと、一言でも誘導することができたらいいのに。睡眠薬がなくたって、彼女はここに帰ってくる。
僕のベッド横のテーブルに置かれた銀の鳥籠で、彼女は眠る。自ら籠に入り、籠の中で目を覚まし、籠の中から僕に笑いかける。僕が研究所に泊まり込みになる時や、休日前夜などはあらかじめ魔力を与えて、その時ばかりは自分の部屋を使ってくれるけれど、それ以外はずっとこうだ。
どうして休日の前夜に魔力を与えておくのかって? ……休日くらいは昼までゆっくり寝ていたいじゃないですか。そういうことです。
籠に入れたクッションに頬擦りしながら気持ち良さそうに寝入る姿は、飼い慣らされて野生を忘れた一妖精だ。そのクッションの役割を僕に譲ってほしいとか、思わないこともないですけど。
寝ている彼女をついつい籠にしまってしまう僕も、重症なのでしょう。