僕は家に帰るのがイヤだった
「お前を大学に送り出してやれるだけの貯金がない」
親父が力なく言い放ったその言葉に、僕は目の前が真っ暗になった。
弁護士になって家族を養うために、東京の難関大学を受験し、合格した。その矢先の出来事だった。
僕の家族には母さんがいない。僕が小学生に上がる前に金持ちの男を作って出て行ってしまった。
取り残されたのは親父と男兄弟二人。
親父は電気工事の仕事をしていた。
日がすっかり落ちて窓ガラスが真っ黒く染まった頃に、「ただいま!」と無理して笑う親父を見ていると胸が痛んだ。
仕事がキツいのか、休日の親父は
僕は進学校に進み、二つ上の兄貴は工業高校に進んだ。
兄貴は、僕と比べられるのを嫌ってか一緒に過ごすことはほとんどなく、会話も全く交わさなかった。
そんな兄貴は高校に入ってからは帰りが遅くて、しょっちゅう親父と言い争いになっていた。それでも家計が苦しいのは知っているので、高校を卒業するとすぐに工場での勤務を始めた。
こんな隙間風の吹いた家庭でも別段寂しいとは感じなかったし、だからといって満ち足りているというわけでもなかった。母さん以外の何かが欠けているような気持ちが拭えなかったけれど、他の家庭の事情なんて知らないし、これが普通だと思っていたから。ただ、何が欠けているかは自分でもハッキリとは解らなくて、家に帰るのがひたすらイヤだった。
だから僕は母さんのことを思い出して、「お金」さえあればこのポッカリと開いた心の空洞を埋められるんじゃないかと考えた。
いつ思い至ったのかは定かではないけれど、中学生くらいだったように思える。
元々勉強が得意だった、僕は熱心に勉強に打ち込んだ。
それこそ友達と遊ぶ時間なんてないくらいに。
自分の喜びを擲ってここまでやっと辿りついたのに、僕の夢想は現実という壁の前に、いとも容易く打ち砕かれた。
その翌日、兄貴は僕に厚みのある茶封筒を手渡した。
なかにはおよそ三百万円が入れられていた。きっと高校に入ってすぐにバイトを始めてコツコツと貯めていたんだろう。
「俺の分と、奨学金と、親父の金を足せばなんとかなるだろ。俺はお前みたいに立派なヤツにはなれないからさ、せめて応援だけでもしてやろうと思ってな。お前は俺の自慢の弟だ。誇りに思うよ。俺と親父のことは気にしないで頑張ってこい」
そう言い残して兄貴は仕事に向かおうとした。涙が止まらなくて何を言えばいいか思い浮かばなかった。一言だけかろうじて声を絞り出すことができた。
「俺も、こんな最高の兄貴の弟に生まれることが出来て本当によかったよ」
兄貴は振り向くこともなく、くすんだ作業着に身を包んで玄関を出て行った。
このときふと思った。家族っていうのは、ただ血が繋がっているだけの存在じゃない。ただ同じ家に住んでいるだけの存在じゃない。
一番身近な存在だからこそ、心から応援出来て、支え合える。そんな存在だ。
僕は今、新米弁護士として上司の手伝いや、慣れない実地経験に日々奮闘している。毎日が勉強づめなのは前と変わらない。
ただ一つ変わったのは、親父と兄貴の暮らしている。あの家に帰るのが楽しみになったことくらいだ。
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