余命
余命何年、何か月などと宣告され、誰かに渡す当てのない手紙を書くなど、まるで物語の中だけのことかと思っていた。しかし、人間というものは実際にそんなことを言われてみると、なんとも心細くてどうしようもなくなって、自然と筆を執ってしまうものなのだと今更ながら気づいた。
遅すぎるぐらいに、遅かった。ただ、遅いからと言って何もしないのは愚だ。
ここにそんな愚に成り切れない男の昔話を綴るとしよう。
この手紙を読んでくれたあなたに最高の幸を。
序章
少年だった私はその日の算数がたまらなく嫌だった。どうしてかは覚えていないが、国語も算数も全ての教科をそつなくこなす私が、なぜかその日の算数だけは無性に受けたくなくて図書室に閉じこもり、授業に出ることなく本を読みふけっていた。
読んでいた本も題名が定かではないが確か『itと呼ばれた子』などという題名だったはずだ。その本が特別読みたかったわけでもなかった。けれどたまたま目に留まり、その本の表紙に惹かれそこはかとなく懐かしい香りがし、手に取って読んでいた。あまり読書が好きでもなかった私は徐々に眠りに落ちて行った。
次の瞬間。
本の中から少女が飛び出してきた。夢でも見ているのかと思った私に、開口一番言った。
「初めまして。私の名前はくぐみって言うんだね」
あの少女との出会いは衝撃的だった。その時はやはり授業中であったし、なによりも本の中から出てくるという特異性に私は身動きが出来なくなっていた。
そこから授業の終了を告げるチャイムが鳴り響くまでの時間は、記憶にない。もしかしたら恐怖に慄き泣いていたかもしれないし、あるいはその登場に見蕩れて子供ながらに、熱い感情を抱いたかもしれない。
けれどもう、覚えていない。
やはり人生というのはうまくいかないもので、余命が宣告された後でもその時間は、曖昧に増えたり減ったりを繰り返す。
最近は物覚えが悪く、どうしても何をしようとしたかを思い出すことができない。そうなったときは決まって重要なことなのだが、思い出せなかった過去の私に罪はない。罪があるとするならば、過去の私がなにをするべきだったのか、正確に記憶をしなかった過去の私と言うことになるのだろう。
せめて色々なことを忘れてしまう前に、私のもっとも大切な昔話を記録に残そうと思ったのだが、そうもいかない。ここに来て何よりも重要だったあの日の記憶までもが、日に日に欠落していく。
微かにでも憶えている最後を、一章や二章などはいらない。最終章をここに綴ろうと思う。
最終章
「今日はありがとう」
くぐみはそう言って丁寧に頭を下げた。なんとも可愛らしい動きだったので、もう一度見たいと思ったがそうもいかない。そう簡単に頭を下げては、価値が失われてしまう。くぐみはそんなことを考えてはいないだろうが、私にお礼を言ったのはそれが最後であった。
「君にさようならを言うのはさみしいけれど、こうしなきゃあ明日になれないからね。しょうがなくそうさせてもうらうんだね」
手を振る。
僕も手を振る。
「僕はスポーツ選手にも、警察官にも、宇宙飛行士にもなりたくない。君は何になりたいのか、最後に教えてくれないかな?」
くぐみが背を向けて歩き出したところで僕は言った。もう僕と彼女の距離はさようならを言った時よりの十倍は離れている。
「私は本を書きたい。世界に、私は、野々乃くぐみはここにいるんだと知らしめてやりたい」
こちらを振り向かず、小さい背中を見せて言う。
「私は馬鹿だけど、おろかってやつだけど、そんな私でもきっとできるんだね。私は天才だと、そう信じてる」
最終章をつづろうといったものの、物語のしめをわすれてしまっているのだからどうも決まらない。覚えているおぼえていないなどの領域ではなく、そのことをきおくしている部分の脳みそがごっそりもっていかれてしまったような感覚さえおぼえる。
この一枚でこのてがみは最後になるだろう。
よまれないこともきっとあるだろう。いや、かく立としてはそちらのほうが高いだろう。もしもこれが誰かによまれたとき、これがその誰かのきおくにのこりつづけることを切にねがう。
追伸
なに私との物語を忘れてんだ。張っ倒すぞ。