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大雨ときどきに降る

作者: 白九 葵

 病院からの帰りに、停留所で雨をしのぐ人の姿を見つけて、懐かしい気持ちになった。

 若葉の時期をすぎた銀杏並木は深い緑を落とし、その中をしとしとと五月の雨が降り続いている。

 懐かしいといってもどれくらい昔のことを思ったのか、記憶をたぐりよせていくと、ずいぶんと幼い頃に行き当たった。


 その橋のたもとはひらけた辻になっていて、路地を少し入ったあたりに縁台がおかれていた。

 四つ辻の脇にある大きな呉服屋へ、叔母に連れられて度々足を向けたから、そのあたりの光景は幼心に強く残っている。

 家並みの向こうから朝の光が投げかけられる頃、店の娘が通りに水を撒く。昼には、店先の立派な百日紅の木が大きな影を落として、日陰を求めて足を休める人たちの姿がちらほら見られた。西日の傾く頃には屋台が止まって、夕涼みの客が姿を見せる。雨の日などは、百日紅の枝の下が、雨宿りの場所となった。

 ある時、店先で叔母の出てくるのを待って、木陰で夏の陽射しをやり過ごしていると、不意に涼しい風を肌に感じた。

 まさかと思ったら、間もなく雨が降り出した。夕暮れ前の重い雨が、通りにざあっと降りしきる。近くを歩いていた人が、ぱらぱらと店の軒先へ集まってきた。先に立っていた私は、通りの人が木陰に入れるようにと、なるべく奥へ身を潜めさせた。

 雨はしばらく降り続いた。辺りがむっとする水の匂いに満たされる。灰色に垂れ込めた曇空が町を覆っていた。大粒の雨が次第に引くと、涼やかな風が通りに流れ込んでくる。

「止んだなあ」

「なあ」

「涼しゅうなったわ」

「嫌や、濡れてしもうた」

 思い思いの会話を交わしながら、人が通りへとまばらに去っていくのを、軒と木の枝の作る影の奥まったところから眺めた。

ところが、木陰の下に入って佇んだままの人影がふたつある。ひとつは若い娘で、曇空の時折落とす大粒の雫を気にしてか、不安げに空を眺めていた。もうひとつは背の高い青年で、これが不思議と何をするわけでもなく、通りを見据えて立っている。

 わずかに胸をそらせて腕を組み、背をまっすぐに伸ばして立つさまは、誰かを待っているようでもあり、考え事にふけっているようでもあった。ただ、なにか強い意志でそこに立っているというような雰囲気を感じさせていた。

 二人の背中を眺めて、その間にある言葉にしがたい空気を感じていた。

 結い上げた髪のせいもあって、娘の横顔は、背後から見てもその美しさが分かった。色は白く、頬はふっくらとして、黒い睫毛が印象的である。やがて曇り空を透かして陽射しが通りにやわらかに照ると、それを合図に、娘は木陰を出た。何となしに、私は青年の背中へ視線をやっていた。隣をさっと抜けていった娘の気配に動じる様子はなく、青年は変わらず通りに眼差しを注いでいる。

 それから、思い立ったように、首をひねって筋肉をほぐすような仕草を見せると、何気ないふうに辺りへ視線をやった。青年はその時 はじめて奥に立つ子供に気がついて、こちらを眺めたのだった。

 口を開いた青年は、思いがけず大きな声になって言った。

「なんや、おったんか」

 その声が明るくくっきり耳に響いて、返事をするのも忘れてしまった。青年は照れたように笑ってみせたが、それだけで後は背中を向けて、通りへと出て行ってしまった。

 一瞬のうろたえを、一部始終を眺めていた子供のまぶたに残して、颯爽と町並みを歩いていく。青年の背中は、もとの強い意志を漂わせて、木陰の場所から遠ざかっていった。

 店の引き戸が開いてのれんが上がると、叔母が顔を見せた。陽射しをはねる銀色の路面に気がつくと、驚いたように、「雨、降ったんやなあ」と、声をかけた。

 叔母が店の奥に帰りの挨拶を投げかけて、引き戸を閉めるまでの間、私はもう一度、通りの向こうを見やっていた。青年の背中はもう小さくなり、陽射しが照って活気を取り戻した町の賑やかさに、紛れ込もうとしていた。

 大きな呉服屋の店先の、百日紅の木が枝を広げ、川添いに縁台の並ぶあの空間に、朝夕の時間が流れていく。人は暑いだの雨が降っただの夕風が心地よいだので、何をするでもなしにがやがやと集まって、天候が変われば自然と散っていった。

 そのおぼろげな記憶の中でも、ひと際あざやかな一場面が、まだ心に残っていたことに驚かされた。

 叔母について帰り途を辿る途中で、明るい蜜柑色に染まった夕空に気がついた。天の根元は濃密な紅色に燃え上がり、夜の近づいた天上が、優しい闇の色を広げていた。その狭間に色あざやかな明るい色が広がっていたのだ。

 叔母を待っている間、降りしきった雨のその突然さを話していると、叔母は一言、「夏の雨やなあ」と言った。

「暑かったから、ちょうど良かったやろ」

 陽は傾いて、夕暮れの涼しさが通りに流れ込んでいた。午後の雨は町の熱気を冷ましてくれたのか。それならば、あの空の色はなぜあんなにも熱い色なのか。雨の降った後に、沸き立つような心の熱情があるものかと、叔母にどうすれば尋ねられるか、よく分からなかった。


 あれからずいぶんと時がたった。百日紅の木陰で夏の雨をしのぐ二人の男女にあった甘い心情を、懐かしいものと思う歳になってから思い起こすとは。

 停留所で雨に見入るあの人影もまた、ささやかな想いを抱いて佇んでいるように思えた。風景は表情を変えたおりに、さっと心に忍び込む。緑にそそぐ雨は、あの人に何を語りかけるだろうか。自宅へ向かう車の窓には、白い雨に煙る街の影がぼんやりと浮んでいた。

宇野千代さんとか、そんな感じ。

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