匣
匣
目覚めて上体を起こし、デジタル式の壁掛け時計を見ると、文字盤は計ったように午前六時を表示していた。起床時間は長年の習慣で五分と違えた試しがない。ボクは大きな伸びをした。
隣を見遣ると愛娘である美佳の顔がある。ふっくらとした頬を枕に押し付け、やすらかな寝息を立てている。その向こうでは、妻の多香子が寝返りを打って大きな溜息をついた。目覚めが近いようだ。
パジャマのまま寝室を出て、洗面所で洗顔と歯磨きを済ませキッチンへゆく。ほどなく多香子も寝起きの顔でやってきて、ガシガシ頭を掻きながらダイニングテーブルの椅子へと腰掛けた。
「おはよう」
「おふぁ…… 」
多香子の「おはよう」は、欠伸で尻切れトンボになった。結婚七年目ともなれば、新婚時代の熱はすっかり醒め、色気も恥じらいも褪せてくる。
テレビのリモコンを手にあちこちのチャンネルを切り替えていた多香子が、ややあって口を開いた。
「取り壊しって今日だよね? 」
「そうだよ」
「ホントに一日で作業が終わるの? 」
「ああ、天気予報も日中晴れだから問題ない。あのボロ家も今日で見納めだ。明日は地鎮祭で、あさってからさっそく新築工事に取り掛かるってさ」
ボクはテーブルに自分と妻の分のコーヒーを出しながら答え、テーブルの真ん中に陣取るトースターへ食パンを突っ込んだ。
「おはよー」
娘の美佳が、片手で目元を擦りながらやってきた。今年五歳、幼稚園の年長組で可愛い盛りだ。
「ミカも食べるー」
美佳はトーストの焼ける香ばしい匂いに小鼻をヒクつかせ、多香子の隣の席についた。手には肌身離さず持ち歩いているピンク色したクマのぬいぐるみを抱えている。
「イチゴジャムがいいの? ブルーベリー? それともマーマレードにする? 」
「えーとね、イチゴ。ミミちゃんもイチゴジャムがいいでしょ? 」
美佳は抱えたぬいぐるみと相談する。ボクは娘の可愛いい仕草に思わず顔がほころび、目を細めた――
母の死を機に、家族を連れ故郷であるF市にUターンしてきてから一年がたった。
東京では、しがないグラフィックデザイナーの収入で、家族三人の慎ましやかな生活をやりくりしていたが、ここでは母が遺してくれた家屋敷に加え、敷地に隣接して建つマンションからの家賃収入で、それなりに豊かな生活が送れた。
マンション経営だけで食うには困らなかったが、グラフィックデザインの仕事はそのまま続けていた。マンション管理のアレコレは妻に任せているのでボクは手が空くし、仕事といっても、依頼や打ち合わせは電話とファックスがあれば大抵は事足りる。
なにより、老境ともいえぬ歳でボケて逝った父を意識せずにはいられなかった。デザイナーを廃業し悠々自適の若隠居に慣れてしまえば、死んだ父のようになりやしまいかと不安だったのだ。
母の一周忌の法要も終え喪が明けたため、いよいよ明日から念願だった家の新築に着手する。取り壊す家は、なにせ明治期に建てられた百年を越すヴィンテージものだ。あちこちの傷みも気になったが、それより老朽家屋に特有な使い勝手の悪さには辟易していた。
重機の立てる騒音とともに濛々(もうもう)たる粉塵に霞む家の解体作業を、ボクは少し離れた場所に立って眺めながら、束の間この古い家ですごした日々の追憶に浸っていた。縁側に腰掛けてスイカを食べた夏の日。ポルノ雑誌を隠した天井の羽目板が外れる天袋。雑多なガラクタであふれた納戸の探検……。
ひとときの感慨に耽っていると、誰かが呼びかける声でハッと現実に引き戻された。傍らには顔を粉塵で煤けさせた解体作業員が立っている。
「あ、ども。いやね、解体してたら屋根裏なんスけどね、こんなモンが出てきたんスよ」
その男は、一辺が三十センチほどの黒いサイコロのような立方体をこちらに差し出した。
「えーと、施主さんスよね? なもんで渡しにきたんスよ」
「ああ、ありがとうございます」
ボクが礼を述べその立方体を受け取ると、作業員は「そんじゃ」と踵を返して作業に戻っていった。
ボクは改めて渡された立方体を眺めた。重さは五キロほどだろうか。褐色の粉塵によるヴェールに覆われているが、親指の腹で一撫ですると黒い表面が現れた。どうやら、相当に古そうな漆器のようだ。だが、漆塗り特有の光沢が、歳月を経たのと保存場所の問題であろう、すっかり艶を失い微かなザラつきがある。
箱かとも思ったが、隅々まで調べても蓋らしきものは見当たらない。また、螺鈿や金泥といった装飾の類は一切施されてもいない。ただ、六つある面の一つ、その中心部分に、磨耗しているが何か刻印のようなものが彫り込んである。
その刻印を日光に透かしてよくよく眺めてみれば、三つの輪を組み合わせた紋様で、大きさは差し渡し三センチほど。どうやら家紋のようだがウチの紋とは違う。
ボクはその奇妙な立方体をとりあえず自宅マンションに持って帰ることにした。亡き母から相続した不動産で、ここの敷地に隣接して建っているため歩いて一分とかからない。新居を建てている間、折りよく空室となっていた402号室に寓居しているのだ。
「はい、どちらさま? 」
402号室の前、妻の多香子がインターフォンから少々険のある声で誰何してきた。この辺も新聞の拡張員やら訪問販売、果ては宗教の勧誘まで度々回ってくるため、自然と警戒してしまうのも無理からぬことだろう。
「ボクだよ」
相手が夫だとわかると、ほどなくドアロックを外す音がして扉が開いた。
「あら、なにその汚い箱? 」
「なんかさ、取り壊しの作業員が発見して渡してくれたんだ。悪いけど雑巾を頼むよ」
ボクが件の立方体を玄関マットに置くと、バケツを提げて戻ってきた妻からそれを受け取って玄関の沓脱に置き、水を張ったバケツから雑巾を取り出して固く絞った。
「いかにもいわくありげな箱ね…… 」
立方体の表面を雑巾で丹念に拭っていると、玄関先にしゃがみこんだ多香子が感想を漏らす。膝丈しかないデニム地のスカートの奥、むっちりとした太腿の隙間からパールピンクの布地が見え隠れし、ボクは思わず劣情を催した。
「お義母さんが、コレについてなにか言い残してなかった? 」
そう多香子に尋ねられて、ボクは即座にかぶりを振った。
「そうよね…… 。死んだ人の悪口は言いたくないけど、お義母さんってあんな感じだったものね」
元々お袋は口数が少なく剣呑なところがある人だったが、親父が死んで後、その狷介固陋な性分が強まったようだった。
お袋がポックリ逝くまで、一人息子であるボクが実家に帰らなかったのも、あの高圧的な性格から惹き起こされるであろう気詰まりが嫌だったからだ。この点は多香子にしても同じで、鼻っ柱の強い彼女としては、嫁姑の諍いが不可避であることを容易に推測できたに違いない。
お袋の性格からして、家に古くから伝わる所有物に関しての態度も首尾一貫しており、「余計な手出しはするな」の一点張りだった。一事が万事この調子なので、たとえこの立方体について訊いてみたところで、ボクは何も知らないままだっただろう。
「まあ、知らないままのほうがロマンがあっていいじゃないか。コイツが何か知りたくないって言えば嘘になるけどさ」
すると、出し抜けに多香子が顔を輝かせ、身を乗り出してきた。
「チャンスじゃない! ほら、明日」
そのとき、しゃがんでいる多香子が心持ち股を開いた姿勢になったので、ぷっくりした恥丘を覆うパールピンクの布地の中央に、一本の筋が走っているのが目に入り、ボクは不覚にも海綿体の膨張を許した。
「え、明日が何だよ? 」
収まりの悪いセガレを気取られまいと、腰を引き気味に訊く。
「地鎮祭よ、八幡神社の神主さんが拝みにくるじゃない。あの人、郷土史を扱った番組でテレビに出るほどだから、教えてくれるわよ」
「へぇー、早川先生にそんな趣味があったんだ。でも、あの神主さん中学んときの恩師だし、コレ見せて笑われたらヤだなあ」
「きっとお宝だってば、なんか謂われのある箱に違いないわ」
「いや、ところが箱じゃないんだな、これが。隅々まで調べたが蓋らしいモンがないんだ。案外、ただのハリボテだったりしてな」
「だって、どう見たって箱じゃない。ひょっとしたら中に物凄いお宝が眠ってるかもよ」
「うーん、そりゃどうかな。ていうか、なんたら鑑定団の観すぎだろ、馬鹿ばかしい」
多香子は骨董品の鑑定をウリにしている番組が好きで、毎週欠かさず観ていた。ボクはそんな妻の希望的観測に苦笑した。
「あっそう、女の勘を馬鹿にしてるわけね。じゃ、せいぜい箱磨きガンバって」
多香子は混ぜっ返されて聊か気分を害したらしく、ついと立ち上がると奥へと引っ込んでしまった。パンティーのチラ見がおあずけになって少しばかり残念だったが、ボクは気を取り直すと作業に専念した。
雑巾を幾度か濯ぎ直しているうち、徐々に立方体は本来の地肌を露わにしてゆき、やがて玄関マットの上には、宇宙人が置き忘れていったオーパーツのような謎の物体が鎮座していた。
ボクは立方体を手に取って一渡り眺め回した。そして、バケツを片付けると、黒い立方体を自分の仕事部屋へと運び入れた。
途中で多香子とスレ違ったが、まだ機嫌が直らぬらしく、一言も発せにまま表へ出ていった。娘の美佳が幼稚園から帰ってくる時間帯なので迎えに出たのだろう。
ボクは仕事部屋の机からパソコンのキーボードを脇にどけスペースを確保すると、そこに家紋の面を上にして立方体を置いた。
一つだけ彫り込まれた三ツ輪の家紋。士族だったという先祖に関係あるかも知れない。しかし、なぜ他家の物が伝えられてきたのか? そもそもコレはいったい何なのか?
改めて眺めているうち、ボクは胸の奥に擡げてきたモヤモヤを晴らすためにも、由来を知りたいという思いに駆られた。
その夜、夢を見た――
ボク自身は夢に登場しない。3D映画を鑑賞しているように、ただ情景を眺めているだけだ。
あたり一面が紅蓮の焔に包まれている。屋内だ。煙と焔が渾然一体となって視界は悪いが、はぜて火の粉を散らす板張りの襖や板敷きの床からすると、どうやら時代劇でしかお目にかかれないような昔の日本家屋らしい。それも、火事の現場の真っ只中にいるらしい。
炎上する座敷の奥に人影がある。近付くと、一枚だけ敷かれた畳の上に誰か立膝をついて座っている。男、諸肌脱いで俯いている。
視点が彼の間近まで迫ると、気配に気付いたのか、そいつは面を上げた。歳の頃は四十の坂に入ったあたりか、茶筅に結った髷からすると、ひとかどの武将のようだ。無精髭に覆われた顔はとりたてて特徴のない凡庸な造りだが、ただ眦を決した眼の双眸だけが焔を映して爛々(らんらん)と輝いている。
「おのれ彦三郎め、口惜しや! 」
その男は搾り出すような声で呻吟した。
「匣さえ、あれさえあらば、かような犬死はせしものを! 」
そこまで言い終えると、男は立ち籠める煙に噎せて身体を屈め激しく咳込んだ。その刹那ボクは見た、男の背後の壁に懸かる軍旗に標された、三ツ輪の家紋を…… 。
すると、男の頭上に燃え盛る柱が倒れ掛かかってきた。間断を置かず天井が崩れ落ちて、男の姿は焔に呑み込まれた――
ボクは目を開けた。棗球の薄明かりで天井がボンヤリ見える。上体を起こし壁の時計を確かめると、午前二時を少し回ったあたり。
額から一筋、二筋と汗が流れ落ちて頬を伝い、頤から薄掛け布団の上に滴った。身体が寝汗でぐっしょり濡れている。
「嫌な夢だった…… 」
ボクはそう独り言ち、顔の汗を手で拭った。仄暗い室内を見渡せば、多香子も美佳もボクが魘されていたのをよそに熟睡している。
不吉な夢だったが思い出したくもない。再び横になり睡眠の続きをとるべく瞼を閉じてみたものの、眠気は去ってしまい、結局まんじりともせず夜を明かした。
地鎮祭を恙無く執り行い、ボクは祭主である早川宮司を仮住まいのマンションに招いて茶菓でもてなした。宮司は既に定年退職しているが、中学の頃、ボクの担任だった人だ。
「いや、須藤君にあんな可愛いお嬢ちゃんがいたなんて驚いたなあ」
早川宮司は好々爺然とした相好を崩して呵呵大笑した。娘の美佳は老神主の風変わりな装束に興味津々で、ずっと纏わりついて質問責めにしていたが、妻の多香子に叱られ、いまは拗ねて寝室に閉じ籠っていた。
「すっかりご迷惑お掛けしちゃって面目ありません。ボクもあの旺盛な好奇心を時々持て余すんですよ」
「なんの、迷惑なんかしてないよ。女性からモテて満更じゃなかったしね。まあ、妙齢というにはちょっとばかし若すぎるが」
そう言うと早川宮司は再び豪快に笑い、ボクは頭を掻きながら愛想笑いを返した。
「ところで、私に何か見せたい物があるそうだが、せっかくだから拝見しようか」
笑いが収まると宮司が件の立方体について話を切り出してきたので、ボクは入手した経緯を手短に説明した。そして、仕事部屋に置いてある立方体を持ってきて宮司の前に恭しく差し出した。
多香子も話が本題に移った頃合を読んだのか、いそいそとキッチンからやってくると、ボクの隣に座って鑑定結果に聞き耳を立てた。
「うーん、摩訶不思議な箱だね、こういった類の代物は私も目にするのは初めてだよ。おや? この紋は…… 」
早川宮司は白衣の懐から眼鏡を取り出して掛けると、立方体に刻まれた三ツ輪の紋に顔を近付けて穴の開くほど凝視した。
「何かご存知ですか? 」
「……こりゃ須藤君、この代物がこの地方に由来するもんなら、赤石家の家紋に違いない」
「アカイシケ……ですか? 」
「江戸時代、ここいらを治めた大名が白崎家だというのは知ってるだろ? 」
「ええ、確か隣の市に城跡がありますよね」
「うん、戦国の頃にその白崎家と激しく争った豪族がいてね、それがこの付近一帯を根城にしていた赤石家なんだよ。結局は白崎に敗れて滅ぼされたがね」
「ひょっとすると、この中に赤石の埋蔵金を記した地図が隠されてたりしませんか? 」
興奮気味の多香子が会話に割り込んできた。妻は途轍もない夢を膨らませているようだ。
「埋蔵金ですか、何とも申し上げられませんなあ。そもそもどういった意図でコレが作られたか、皆目見当がつきませんからな」
多香子の少々不躾な問いにも、宮司は微笑を浮かべ鷹揚に答えた。
「そうですか、そうですよね…… 」
多香子も先走りすぎたことに恥じ入ったようで、きまり悪そうに頬を赤らめた。
「まあ私も自宅に戻りましたら赤石家関連の文献を漁り、コレが何か調べてみましょう」
「先生ありがとうございます、感謝します」
ボクが頭を下げると、それを潮に早川宮司は立ち上がり、暇を告げた。
「すっかり長居してしまったが、何かわかったら電話するから、余り期待せずに待っててくれないか」
「何もお構いできず失礼しました。ボクも赤石家と須藤家の関わりに興味を惹かれたもので、ひとつよろしくお願いします」
すると、宮司はボクの言葉で何か思い当たるところがあったのか、考え深げな表情をさせて腕組みをした。
「須藤家ってのは、先祖代々この土地に住んでたんだっけか? 」
「ええ、遡れる限りは。江戸時代には白崎家に仕えていた武家と聞いてますが」
宮司は玄関に向かって歩き出しながら、さもありなんといった風に幾度も頷いた。
「何か思い当たるところでも? 」
「いや、ちょっとね。まあ、いい加減な憶測を語ってもしょうがないから、ちゃんと調べてから連絡するよ」
去り際、気になる言葉を残し、早川宮司は帰っていった。
立方体を入手してから一週間が経った。
その日以来、炎上する座敷で怨嗟の独白を口走る男が繰り返し夢に出る。
連夜の悪夢は超自然的なことに違いないが、慣れというのは恐ろしいもので、この怪異に恐れ慄く段階は通り越し、不思議に感じなくもなった。ただただ消えて欲しいだけだ。
やつに須藤の家とどんな因縁があるのか知る由もないが、この悪夢のため夜中に目が醒めてしまう。これまでなまじ規則正しい生活を送ってきただけに、睡眠不足でイライラが募り、危険域まで達していた。さりとて悪夢の話をしたところで頭がオカシクなったと疑われるのがオチなので、誰に相談することもできず、心が折れかけていた。
このボクの苛立ちは、実生活にも深刻な影響を及ぼし始めていた――
うだるような夏の昼下がり。勿論リビングにはエアコンが利いているが、別の意味での“不快指数”は上昇し続けている。そんな不穏な気配を漂わせた室内で、ボクのささくれた神経を逆撫でするように電話が鳴った。
「おい電話だぞ、とっとと出ろよ」
「あなたが出ればいいじゃない、どうせ仕事関係の電話でしょ」
多香子はテレビドラマの再放送を漫然と眺めていた。ボクへのあてつけで観ている“ポーズ”をしているだけだ。
「黙って出りゃいいんだよ、誰のお陰でメシ食わしてもらってんだ、あ? 」
多香子はそれを聞いて鼻を鳴らし、冷ややかな視線をさせ振り向いた。
「はぁ? あなた何様? 」
ボクはその言葉にキレて、ソファーから起き上がると、テーブルにあった空のマグカップを掴み多香子めがけて投げつけた。
「キャッ! 」
マグカップは狙いを逸れ、背後の壁に当たって砕け散った。
多香子はこの反応にショックを受けたようで、片手で口元を覆い走り去った。数秒後、玄関の扉が閉まる音からする。どうやら表へ飛び出していったようだ。
ボクは舌打ちをし、仕方なしに鳴りっぱなしの電話に手を伸ばしたが、受話器に触れるか触れぬかのうち電話は切れた。
苛立ちが最高潮に達し、壁を拳で殴りつけたとき、再び電話が鳴り出した。ボクは受話器をひったくった。
「誰だ! 」
一呼吸の間があり、受話器から早川宮司の声がした。語気を荒げたボクの声に面食らったようだ。
「やあ須藤君、早川だ。何か荒れているようだが……後にしたほうがいいかな? 」
「あっ先生、し、失礼しました。少しイライラしてたもので、つい…… 」
「例のモノついて少しわかりかけてきたんだが、どうしようか? 」
「ありがとうございます、これから八幡神社に伺ったらお邪魔でしょうか? 」
「うん、私は別に用事もないが…… 」
ボクは改めて電話での非礼を詫び、すぐさま訪問すると告げて受話器を置いた。そして、ようやく立方体の謎が聞けると、喜び勇んでマンションを出た。
自宅から歩いて十分ほどのところに、付近一帯の鎮守である八幡神社は建っている。その境内にある社務所が早川宮司の住居だ。
ボクは出迎えた宮司に応接間へと通されると、勧められるままソファーへと腰を下ろした。面前のテーブルには既に和綴じの古書や巻物が幾つか積んである。
「顔色がよくないな須藤君。立ち入ったことを訊くようだが、何かあったのかね? 」
気遣わしげに宮司は尋ねた。
「はい、実はアレを手に入れてからというもの…… 」
ボクは思い切って、連夜悪夢に悩まされていること、そのせいで精神が参ってることを洗いざらい告白した。悪夢について相談できるとすれば、立方体に関して何か掴んだという、この老神主以外にあり得ない。
「うーむ、俄かに信じ難い話だが、まあ確かに赤石兵部と須藤彦三郎とは因縁浅からぬ関係だからなあ」
「す、須藤彦三郎っていうのは…… 」
彦三郎といえば、夢枕に出る男が憎々しげに口走る名前に相違ない。
「うん、私は君のご先祖様じゃないかと疑っているんだがね―― 」
宮司は自分が調べたことを語り始めた。
戦国時代、この地方は赤石と白崎という二大豪族による争いが絶えなかった。両家は累代に亘る宿怨により、不倶戴天の仇同士だった。
だが次第に白崎方が優勢になり、赤石の勢力圏は蚕食されていった。赤石家最後の当主、赤石兵部は危機感を募らせ、わざわざ都から高名な陰陽師を招聘した。最早、式神にすら縋りたいほど追い詰められていたのだろう。
ところで、赤石兵部には娘が一人いた。名を玉という。長らく子宝に恵まれず、三十路を過ぎてようやく授かった初子だったため、家臣たちが危ぶむほどの溺愛ぶりだったという。
その玉姫が五つの齢を数えた頃、忽然と神隠しに遭った。偶然の一致だろうか、玉の失踪と、件の陰陽師が赤石家の居城、熊首城に逗留していた時期とが重なる。
無論、兵部はただちに捜索を命じたが徒労に終わり、玉姫の行方は杳として知れなかった。やがて捜索は打ち切られ、玉姫は白崎方に攫われ亡き者にされたと断定された。
けれど、あれほど溺愛していた愛娘が消えたというのに、兵部は悲嘆に暮れもせず、うろたえもせず、ただ昏い目をしていたのが、主君の気性を知る家臣たちには奇異に映った。
玉姫が行方知れずとなってほどなく、陰陽師は都へ帰っていった。それと相前後して、赤石兵部は腕のよい塗り師を召し出し、仕事を命じた。そうして拵えさせたのは一辺が一尺ばかりの漆塗りの匣であった。「御守匣」と呼ばれていたその匣を、兵部は常に身辺に置いていたという――
宮司は一巻の巻物をテーブル上で開き、匣について記述のある箇所を指でなぞった。ボクはハッとして目を瞠った。
「それがあの匣の正体だったんですか? 」
「恐らくはね。まさか私もあの匣が何なのかわかるとは思わなんだ」
「いったい匣の中身は何なんでしょう? 」
「わからんのだよ、兵部は決して話さなかったらしい。また、匣を拵えた塗り師は、それを城へ届けにいったとき、兵部の勘気を蒙って手討ちにされたそうだ」
「仕上がりが気に食わなかったとか? 」
「そうかもね。けれど、私は口封じされたと睨んでる。勿論、匣の中身を口外しないようにね。だって変だろ、兵部は匣を片時も離さないほど気に入っていたんだから」
「じゃあ、匣を手に入れて後、赤石家は白崎に攻められ滅亡したんですね? 」
「逆さ、赤石が白崎を滅ぼしたんだ」
「ええっ? だって江戸時代にこの付近一帯を治めた藩は白崎家だったじゃないですか」
「うん、白崎家は玉姫の仇討を大義名分に掲げた赤石勢に攻め込まれ、一旦滅亡の憂き目を見ている。その際、白崎の当主は自刃に追い込まれ、居城は落ちたんだ」
「だって、その頃には白崎の勢力のほうが赤石に勝っていたんでしょう? 」
「そこが私も腑に落ちないんだ。白崎は勢力拡大をし続け、赤石に攻められたときには三倍もの兵力を擁していたしね」
「でも、桶狭間の戦いなんて例もありますし、劣勢の側が優勢の側を打ち破ることだってあるんじゃないですか? 」
「あれは織田信長が今川の当主である義元を討ち取っただけで、今川家はその後しばらく存続している。違うんだ、奇蹟としかいいようがない僥倖が続いて赤石が連戦連勝し、瞬く間に悉く、白崎の領地は併呑されたんだ」
「それにしても、なぜ赤石兵部が後生大事にしていた匣がウチなんかに? 」
ボクの発した質問に、宮司は眉根を寄せ、躊躇いがちに口を開いた。
「そこで登場するのが須藤彦三郎なんだ。君を前にして言いにくいが、彼によって盗まれた……と思う」
「ボクのご先祖様かも知れない人にですか? 」
宮司は腕組みすると瞑目しつつ口を開いた。
「赤石兵部は宿敵を討ち滅ぼすと、勝者にありがちな罠にはまった。驕りからか油断からか政を顧みなくなり、酒色に溺れるようになったんだ。その酒色の“色”のほうだがね、どうやら衆道に耽ったらしい」
「シュドウ……って何ですか? 」
「いわゆる男色のことだよ。バイセクシュアルが多かった当時としては別段珍しい話じゃない。兵部の小姓には三国一と謳われた美男がいてね、主君の寵愛を一身に集めたその色男こそが須藤彦三郎というわけさ」
「ご先祖様が武家とは名ばかりの囲われ者だったなんて、何だか幻滅です…… 」
「なあに、そう落胆することもない」
「それにしても、彦三郎は白崎に仕える以前は、赤石の家臣だったんですか?」
「ああ、そして赤石を裏切った功績により、白崎家へ召抱えられたんだ」
「寝返った? でも、なぜですか? 」
「勿論、あの匣が欲しかったからだろ。兵部は匣を盗まれたことを知り半狂乱になった。すぐさま彦三郎に追っ手を差し向けたが、既に城を抜け出し、白崎方へ奔った後だった」
「白崎家は滅ぼされてたはずなのに、復活してたんですか? 」
宮司が猪頸を縦に振る。
「白崎滅亡の際、その遺児は城外に落ち延びて難を逃れたんだ。その若君は白崎の旧臣たちに擁立されて挙兵し、彦三郎が城を抜け出すのと期を一にして赤石へ反撃を開始した」
「何だか、タイミングがよすぎますね」
「彦三郎は城を出てすぐ白崎勢に加わり、進軍の手引きをしたんだが、前もって寝返りを申し合わせていたんだろうな」
「でも、赤石だってそう簡単にやられはしなかったんでしょう?」
「いいや、爛れた悪政ですっかり人心を失っていた赤石方は士気も低く、雪崩を打ったように寝返りが続出した」
「滅ぼされたときとは逆の状況ですね」
「まったくだ、まるで神通力を失ったように赤石勢はあっけなく瓦解した。白崎勢が破竹の勢いで赤石の居城である熊首城に迫ると、兵部は勝ち目なしと悟ってか本丸の居館に火を放ち、焼け落ちる城と運命を共にした」
「それって…… 」
「君の語った悪夢と奇妙に符号するね」
「先生は、彦三郎が匣について何か知っていたとお考えですか? 」
「うん、彦三郎は兵部の伽をしているうちに匣について何か聞き出し、なんとしても手に入れたくなったんだろうね、仮令、恩顧ある主君を裏切ってまでも。それほど価値のあるものかも知れないなあ、あの御守匣は」
様々な疑問が氷解した。ボクは宮司に礼を述べると帰路についた。
帰る道すがら、ボクは頭の中で早川宮司の語った言葉を反芻していた。
「――それほど価値のあるものかも知れないなあ、あの御守匣は―― 」
“御守”と聞いて、ボクはあることを思い出していた。死んだ親父がボケる前、珍しくボクに話し掛けてきたときのことだ。
親父は家族への情愛が薄かった人で、よく家を空けては遊興に散財していたロクデナシだった。それでも須藤家は地元の素封家として金に困窮することはなかったが、よく身代が潰れなかったと今更ながら思う。
あれはボクが成人した頃だから、大学二年の夏休みで帰省していたときだった。ボクが縁側に腰を下ろし蜩の声を聞きながら夕涼みをしていると、普段は口を利きもしない親父が隣に腰掛け、独り言のように語り始めた。
「おめえも一端に成人したんだろ? 俺りゃじきにオカシクなるだろうからさ、その前に伝えとくよ。まあ、家訓ってやつだ」
下卑た笑いを漏らしながら、親父は“御守”について語り始めた。
それによると、須藤の家のどこかに代々伝えられてきた「御守」と呼ばれる家宝がある。その家宝が家を守っている限り、あらゆる種類の災難を斥け、家運は決して傾くことがないという。
しかし、その御守には恐ろしい副作用があって、家長となった者の精神を徐々に蝕んでゆく。そのこと自体は避けられないが、遠ざけておくほど精神が病む時期を先延ばしにできるから、探さない方がいい、といった警告めいた話だった。
「俺の親父から聞いたんだが、俺の爺さんはある日、何か喚きながら表へ飛び出していって、それっきりだったそうだ」
アロハシャツの胸ポケットから洋モクを引っ張り出して火を点けながら、親父は遠い目をしてどこを見るともなく庭を眺めていた。
「その話をした親父は庭の木に縄ぶら下げて首縊っちまった。朝、小用に立った俺がめっけたんだけどな。将来、おめえも身代継げゃオカシクなっから、いまから覚悟しとくこった」
親父はタバコを吹かしながら、自分の肉親が死んだ話だというのに、何がおかしいのかケタケタ笑った。ボクは親父が嫌いだったこともあり、不愉快になって立ち上ると、一言も言葉を交わすこともなく自室に戻った。
それだけの記憶だ。
当時は親父の与太話と本気にしなかった。だが、御守匣は確かに実在し、現にボクの精神を蝕みつつある。
結局、親父はそれからほどなくボケて、五年ほどして死んだ。ひょっとすると放蕩三昧だったのは、家から身を遠ざけておく親父なりのサバイバル術だったのかも知れない。
お袋の気難しい性格に拍車がかかったのは、親父の死後になってもボクが家に寄りつかず、彼女が家長になったからだろうか。
あれこれと考え事をしながら気がつくと、ボクは自宅マンションの前まできていた。
402号室のインターフォンを鳴らしても、多香子からの応答がない。無論、ボクにも合鍵はあるが、妻がロックを外して出迎えてもらうのは、結婚してからの、ある種、儀式のようになっていた。
ボクはマンションを出る前の喧嘩を思い出し、まだ根に持っているのかと舌打ちをした。試しにドアノブに手を掛けて引っ張ってみると、施錠されてはおらずドアは開いた。
「おい、帰ったぞ」
呼びかけにもやはり応答がない。ボクの胸裡に再び苛立ちが忍び寄ってきた。
乱暴に靴を脱ぎ捨て、キッチンを抜けリビングに入ると、テーブルの上にメモが置いてある。ボクは手にとって読んだ。
『いまのあなたとは一緒に暮らしていく自信がありません。美佳を連れてしばらく実家へ帰らせてもらいます。 多香子』
ボクは何か裏切られたような気分になって、ジーンズの尻ポケットから携帯を取り出すと、多香子の携帯にダイヤルした。案の定、向こうの電源が切られている。
「あの糞アマ! 」
ボクは激昂して、手にした携帯を壁に投げつけた。その衝撃で、折りたたみ式の携帯がジョイント部分から二つに分離し壊れた。
「ナメあがって、何が一緒に暮らせねえだ! 」
腹の虫が収まらず、今度はテーブルを蹴り上げた。八つ当たりされたテーブルがひっくり返った。爪先と向こう脛に鈍い痛みが走る。痛みがボクの怒りの焔に油を注ぐ。
その後のことはよく覚えていない。怒りが沈静化してくると、肩で息をするボクの目の前には、滅茶苦茶になったリビングの光景があった。両手がズキズキ痛む、目をやると拳や二の腕など何箇所かに出血がある。
凶暴なエネルギーを発散すると、ボクは糸の切れたマリオネットのようにその場にヘタり込んだ。
「このままじゃいけない…… 」
ボクは狂気を孕んだ精神を麻痺させるべくキッチンへいった。そして、食器棚の上からお中元でもらったウイスキーの壜を取り出し、琥珀色の液体をなみなみとグラスに注ぐと、一気に呷った。咽頭を焼けつくような感触が下りてゆく。
二杯目以降は、グラスに注ぐのももどかしく、壜からじかにラッパ飲みした。ボクは元来が甘党で下戸のため、五分もすると意識が朦朧として焦点も定まらなくなってくる。そして、いつしか酔いつぶれて眠っていた――
業火に包まれる居館。座敷の奥には最期を迎えようとする赤石兵部が俯き、立て膝をついて座っている。いつもの悪夢だ。
「おのれ彦三郎め、口惜しや! 」
例により、ボクの先祖への怨念を吐露する。
「匣さえ、あれさえあらば、かような犬死はせしものを! 」
ボクは悪夢の中に存在していないにも拘わらず、精神を苛む当事者を前にして我慢できなくなり、兵部に食って掛かっていった。
「いい加減にしろ! おまえのせいでボクがどれだけ苦しんでると思ってるんだ! 」
すると次の瞬間、驚いたことにボクは悪夢の中、兵部の面前に実体化していた。
「……うぬは誰ぞ? 」
兵部はボクが突然出現したというのに聊かも動じる気配がない。
「ボクは須藤だ、須藤彦三郎の子孫だ! おい兵部ふざけんなよ、おまえが化けて出るせいでボクの生活は滅茶苦茶だ! ボクが何をしたってんだ、さっさと往生しろ! 」
ボクは感情が昂ぶり、自分の罵っている相手が怨霊であることすら忘れていた。
兵部は彦三郎の名を聞くと目を見開き、ゾッとするような笑みを浮かべた。
「彦三郎の末とな、なれば我が恨み受くることも詮無し…… 」
その眼光は狂気に満ち、喜色を湛えた表情は、鼠を玩弄する猫を思わせた。
「なあ、御守匣は返すよ、だからもうボクの夢枕に出るのは止めてくれ! 」
このボクの必死な懇願に、兵部は真顔になって暫らく思案げな表情で沈黙したが、ややあって口を開いた。
「よかろう、うぬが願い叶えてつかわす。守匣を返すに及ばず、開きて打ち捨てよ。さすればこの恨み、たちどころに解かれん」
「ああわかった、御守匣を開いて捨てればいいんだな。必ずそうする、約束しよう! 」
ボクがそう請合ったときだった。
突如として身体が燃え盛る館から後退し始めた。兵部の姿がどんどん遠ざかり、次第に闇へと融け込んでゆく。
「守匣を開くのじゃ、ゆめ忘るること勿れ…… 」
夢から浮上してゆくボクに、兵部の念を押す言葉が追いかけてきた。
何時間ぐらい眠っただろう。目覚めるとキッチンは真っ暗だった。テーブルに突っ伏して前後不覚に眠りこけていたようだ。
ボクは鉛のように重たい身体で立ち上がり、視界の利かぬキッチンで蹌踉めきながら、ようやく照明のスイッチを入れた。腕時計を見ると午後九時を回っていた。
シャツが冷たいと思ったら、ウイスキー壜が倒れ中味をテーブルにぶちまけていた。カッターシャツも高級洋酒のご相伴に与ったようだ。ボクは濡れたシャツを脱ぎ、テーブルの上に水溜りを作るウイスキーを吸わせた。
飲めない酒を呷ったせいで、寝起きの靄が晴れるに従いズキズキと頭痛が襲ってきた。だが、ようやく悪夢から開放されると思えば気分は軽い。
ボクは工具箱などが入れてあるダンボールはどこだったか思い出そうとした。家の新築で当座不要なものはダンボールに入れてあった。主にボクが使う道具類を入れた箱は、仕事部屋に積んであるはずだ。
部屋に入り明かりを点けると、ドアから対角線上にある部屋の隅に、ボクの背丈ほどに積まれたダンボールがある、その上には呪われた御守匣が載せてある。
少しビクビクしながら御守匣に手を伸ばし、パソコンのある机の上に置いた。そして、ダンボールの側面にマジックで記された内容物の覚え書を確認した。目当ての箱は下から二段目にあった。
苦労して積み重なったダンボールをどかすと、電動ドリルやグラインダーなどが突っ込んである箱から、糸鋸を取り出す。
残った酒で頭が割れそうに痛い。しかし、兵部に約束した仕事を終えれば、ボクは悪夢とオサラバできる。いやそれどころか、御守匣が須藤家代々の当主を破滅させてきた呪いの連鎖を絶ち切れる。
禍いを斥け家運を永らえる効果は失われるだろうが、糞食らえだ。そんな加護がなくったって二十一世紀は戦国時代と違う、戦に敗れて首を獲られることもない。一家三人、新築したマイホームで仲睦まじく暮らしてゆける。それ以上、何を望むことがあろう。
ボクは御守匣に向き合うと、三ツ輪の家紋が刻印された面から下、三センチの周囲に、定規を当てて白マジックで線を引いた。そして、糸鋸を手に取り線に沿って挽き始めた。
やがて、匣の家紋が刻印された面は接合面を全て切り離され、蓋のように外れた。
ボクは一つ大きく深呼吸をすると、大手術に臨む執刀医のように慎重に家紋の面を持ち上げ、恐るおそる中を覗き込んだ。
目に飛び込んできたのは長い歳月に変色した綿だった。どうやら詰め物らしい。
綿の詰め物を剥いでゆくと、指先に硬い物が当たる感触があった。
逸る気持ちを抑えて綿を取り除けると、そこには素焼きの甕があった。広口に幾重も紙を張り、紐で堅く縛ってある。その上から記号だか文字だかを書き連ねた、封印と思しき呪符が貼り付けられている。
ボクは細心の注意を払って甕を匣から取り出した。でもなぜだろうか、最前抱えた匣の重量より、いま持ち上げている甕の目方が重く感じるのは…… 。
甕を載せるスペースを確保するため、匣を床に下ろそうと手を掛ける。
「なんだこりゃ? 」
匣の底には紅く染め抜かれた綿が敷き詰められ、そこに綿と同じ色の人形が置かれている。
とりあえず匣を床に下ろし、床に置いてあった甕を机に載せた。胸騒ぎがする…… 。
ボクは震える手で匣の底にある人形を取り出してみた。密封されていたはずなのに湿っている。
「馬鹿な、あり得ない…… 」
それは、紅く染まったクマのぬいぐるみだった。娘の美佳がいつも大事に持ち歩いていた物で、元はピンク色をしていたはずだ。
突然、背後でファックス電話が鳴り出した。ボクは椅子を回転させると、ぬいぐるみを右手から左手に持ち替え受話器をとった。
「もしも―― 」
「あなた! ああ、美佳が列車にっ! 」
ボクを遮って、多香子の悲鳴にも似た声が被さってきた。パニックに陥ってるようだ。
「落ち着け、いったい何があった? 」
「見つからないのっ! 弾き飛ばされてどうしても見つからないのっ! …… 」
ボクは受話器を取り落とした。受話器にはべっとり血糊で手形がついている。
そのとき、嗄れた男の高笑いが部屋中に響いた。ボクは部屋のあちこちを見渡した。
はっとして素焼きの甕に目を遣ると、下半分ほどが黒ずんでいる。そして、机上には赤黒い液体が広がっていた。
ボクはフラフラと立ち上がると声を張り上げた。
「兵部、おまえだな! 」
気が触れたような笑い声は止まない。
「美佳に何をした! 娘にいったい何をしたんだ、答えろ! 」
そのとき、ボクは閃いた。赤石兵部が都から呼び寄せた陰陽師に何をさせたのか、神隠しに遭ったという玉姫がどこにいったのかを。
《 終 》
某文芸賞い応募して落選した作品です(笑)
今回がこのサイトでの初投稿になりますが、是非、忌憚のない意見をお聞かせ願えればと思います。