知らない間に異世界トリップ。
まず感じたのは、全身の気だるさ。続いて何かが僕へと向けている視線に気付く。
微睡む意識を強引に浮上させ、薄く開いた僕の目に飛び込んできたのは――
「…………あ、やっと起きた」
見知らぬ、幼女だった。
肩口まで伸びた紫銀の髪と、青紫の瞳が印象的な幼女。
顔立ちも整っていて、数年も経てば誰もが振り返る美少女になるだろう。
麻布で編まれたゆったりとしたチュニックとやや煤けた茶色のズボンを着ていて、何処となく漂う異国情緒が幼女のかわいさを引き立てている。
そんな美幼女が、僕の顔を覗き込んでいた。この娘は誰だろう?というか僕の部屋にどうやって入ったんだ?
そんな疑念が頭の中を駆け回り、質問として外へ出ようとするが、
「――…………!」
声が、出ない。
今気付いたが口も喉もカラカラだった。
ぱくぱくと口を動かす僕を見て、幼女は首を傾げる。
――かわいい。じゃなくて、水、水をください。
僕の思いが伝わったのか、幼女はにこりと微笑む。
幼女は僕の寝ているベッドから離れて、部屋の左の方へ歩いていく。自然とその姿を目で追っていたが、上体を起こそうとした所で、
「……っ、ぁっ!」
背中が焼けるように痛み、くぐもった声を上げてしまう。
僕の声に驚いたのか、幼女が振り向く気配がする。
「あっ、まだ動いちゃダメだよ!」
幼子特有の甘く高い声に押し留められる。
僕は体を起こすのを諦め、ベッドに深く沈み込むように力を抜く。
右の肩甲骨から腰にかけてじくじくとした痛みが広がっている。
幼女は僕が無理に起き上がろうとしない事を確認すると、ドアを開け部屋を出て行った。
幸い首は動かせるようなので、目で幼女を見送る。
徐々に遠ざかる足音をBGMに、僕は深く息を吐き出した。
――何だろう、この背中の痛みは。怪我をした覚えは無いんだけど……。それよりあの娘は一体?
そこまで考えた所で、僕は気付いた。
――って、この部屋、僕の部屋じゃない?
混乱する僕の元へ、足音が近付いてくる。
行きと違い、足音は2つ。ドアがゆっくりと開かれ、先程の幼女が水差しとコップを抱えてやってきた。
その後ろから、もう1人が姿を見せる。
幼女と同じ紫銀の髪と青紫の瞳。恐らくは幼女の姉だろう。幼女よりもやや長い髪を頭の左で結んでいる。
――あぁ、何て言うんだっけか。サイドポニー?
整った顔立ちは正しく美少女と言って差し支えない。
薄い青のローブに身を包んでおり、ゲームに出てくる修道女みたいな格好をしている。
何より目を引くのは彼女が手にした古びた杖。
一体何に使うんだろうか?
と、幼女がコップを差し出していたのに気付く。
ありがとう、と心の中で感謝しつつ受け取ろうと手を伸ばそうとして、
――あ、あれ?
幾ら力を入れても腕が持ち上がらない。と、僕の体が動かない事を察したのか、幼女はコップを引っ込める。
そして幼女は水を自分の口に含むと、
「んぅ」
「んむっ!?むっ、んくっ、んくっ」
口移しで飲まされた。部屋の入り口の方で少女が何やら衝撃を受けているみたいだが、僕はそれどころじゃない。
口や喉を潤していく水に混じって、甘い香りが鼻へ抜ける。
反射的に舌を伸ばし更に水分を求めると、舌先に温かく柔らかな感触が生まれる。
舌で押せば絡まるようにうねり、逆に引けばおずおずと求めてくる。
夢中でそれを吸っていると、幼女がゆっくりと唇を離す。
互いの舌を繋ぐ銀色の糸を見て、自分が今何をしていたのか気付いた。
――ちょ、ちょっ!?僕今この娘とディープなチッスを……!?
顔を真っ赤にする僕を、頬をほんのり桜色に染めながら幼女が見つめ返す。
幼女は目を少し潤ませながら上目使いで、
「おかわり、いる……?」
「な……何してるのよミナぁ!?」
思わず頷き掛けた瞬間、少女が叫ぶように声を上げた。
「だってお兄ちゃん、体動かないみたいだったから」
「それにしたって、く、口移しは無いでしょう!?」
「でも喜んでたよ?」
待ちなさいお嬢さん。その発言はいろいろと危険です。
尚も口論を続ける2人を何とか宥めるべく、僕は口を開いた。
「えっと……取り敢えず2人共、落ち着いて」
「これが落ち着いていられますかっ!」
少女にあっさり一蹴された。
しかしここでめげる訳にはいかない。
心を強く持って再度声をかける。
「ほら、彼女も悪気が有った訳じゃないし、むしろ親切心というか献身的なアレで」
「だとしても方法に問題が有りすぎますっ!」
むぅ、なかなか手強い。
ここは幼女のした事を好意的に受け止めている、という所をアピールしてみよう。
「ぼ、僕はそんな、嫌じゃなかったから大丈夫」
「それはそれで問題です!」
ぐっ、確かにそうだ。言葉の選択を誤ったかな。
……な、なんだよぅ、ロリコンじゃないぞ!……多分。
その後も何とか説得を続け、漸く少女が落ち着いたのが10分後。
ベッドから起き上がれない僕の横で、丸椅子を持ってきて座り足をぶらぶらさせている幼女。その正面の椅子に少女が座る。
「……失礼しました。私はこの教会の修道女でシーナと申します」
そう言って少女――シーナは頭を下げる。
やっぱりシスターだったのか。というかこの建物は教会だったのか。
シーナの落ち着いた声は何処か透き通っていて、賛美歌を歌ったらきっと天使の歌声なんて言われるくらいに聴いていて心地良い。
「私はミナだよ。修道女見習いなんだ」
幼女は僕の右手に指を絡めてにっこりと微笑む。
……ヤヴァイくらいにかわいい。というか、僕の人差し指を優しくきゅっと握るのは反則だと思います。
ちょっとドキッとした胸を落ち着かせつつ、僕は口を開いた。
「僕は悠里。片桐悠里。カタギリが姓で、ユーリが名前だよ」
僕の名前を聞いて、シーナが驚いた風に口元へ手をやる。
――何か変な事言ったかな?
2人の名前が外国人風だったから、一応姓と名を言ってみたんだけど。
もしかしたらシーナは椎奈でミナは美奈という日本人でした的なオチだったり?
うっわ、僕超赤っ恥じゃん。
みたいな事を考えていると、恐る恐るといった様子でシーナが切り出した。
「あの……カタギリ様は、貴族なのでしょうか?」
「へ?」
言われた意味は解っても、言われた経緯が解らない。
僕の何処を見て貴族だなんて思ったんだろう。
「僕は貴族じゃないよ、ただの平民。だから普通にユーリ、って呼んでくれればいいよ。……でも何で僕を貴族だと思ったの?」
貴族じゃない、という言葉を受けてシーナはほっと息を吐く。
「この国では、姓を持つ方は皆貴族ですので……。」
「そっかぁ。……ん、この国?」
あれ、何か今変な事を聴いた気がする。
この国、ってシーナ言ったよね。
何処かで、こんな感じの状況下で、こんな感じの台詞を聞いた事が有ったような……あ、あぁ、思い出した。
確か異世界に召還された主人公が魔王を倒すRPGの出だしにこんなやり取りが有った筈だ。
はっはっは、成程なるほど。
つまりここは異世界で僕はトリップした訳か。
「うわぁ……マジかぁ……」
いきなりテンションがた落ちの僕を見て慌てるシーナ。
「あっ、あのっ、私何か失礼な事を!?」
「いや、うん、大丈夫。ちょっと現実逃避してるだけだから」
気に掛ける余裕も無いのでシーナを適当にあしらいつつ、深い溜息を吐く。
――状況を鑑みるに、80%の確率で僕は異世界トリップしたとみている。
まだ決定的な証拠を目にしていない事や、自分の感情を含めて20%くらいはまだここを地球――更に言えば日本だと考えている。
だって異世界トリップものの定めとして、元の世界に帰れないのは定石。運良く帰れる手段が有るとしても、どうせすぐには帰れない。
そんなショッキングな出来事をすんなり受け入れるには、少々心のHPが足りない。
まだ救いが有るのは、そこまで元の世界――地球に未練が無い事、かな。
僕に家族が居ない。正確には、家族を失ったばかり。
今年の正月に両親と妹を事故で亡くし、祖父に引き取られて、やっと両親と妹の死に自分の中で区切りを付けたのが2ヶ月前。
小さい頃から祖父とは付き合いが有ったけど、僕の方に照れや遠慮が有って今一つ打ち解けられていなかった。
だから祖父の事はそこまで心残りじゃない。
……いや、感謝はしてるよ?でも、ちょっと薄情かもしれないけれど、そんな簡単に割り切れるものでもないし。って僕は誰に言い訳してるんだ?
程良い感じにパニクっていると、ふわりと柔らかい感触が僕を包んだ。
目線を上げると、ミナが僕の頭を抱えるように抱き締めていた。
「……ミナ?」
「だいじょぶだいじょぶ。私がいるからさみしくないよ?」
ね?と笑い掛けるミナ。
小さな手で頭を撫でられる度、少しずつ自分が冷静になっていくのが解った。
「私が泣きそうな時はお姉ちゃんがこうしてくれるの。ユーリ、今悲しい顔してるから、私が撫でてあげるね」
ミナに言われて初めて気付いた。
――僕はミナが心配する程、悲しい顔してたのか。
いけないいけない、こんなに小さな娘に心配掛けてるような奴は男じゃない。
祖父に教わった教訓を思い出して、ネガティブな思考を追い出す。
頭が冷えると、幼女特有の甘い香りが鼻腔をくすぐる。そして僕の顔に当たるこのふにふにとした触感は間違いなくちっぱい。
――あれ、ひょっとしてここ異世界じゃなくて天国じゃ?
ポジティブ気分で現実を見据えると、目の前には幼女の胸。
横目でちらりとシーナの位置を確認。
よし、この角度なら見えない筈。
僕は意を決して息を吐き出し、
「クンカクンカスーハースーハー……」
うん、堪能した。
大丈夫、再度確認したけどシーナは全く気付いてない。
え、ロリコン?それがどうした!
先程とはまた違ったベクトルで思考を暴走させる僕。
と、何やら視線を感じる。
目を上げると、ミナが軽く頬を染めて僕を見ていた。
そして僕の耳に口を近付けると、囁くように言った。
「……ユーリの、えっち」
はい、すいません。もう色んな意味でクリティカルです。
思わずミナを押し倒そうとして、
「っぁ!?」
背中に激痛が走る。
ミナの色香にすっかり惑わされていたが、僕は怪我人だったのだ。怪我をした経緯は知らないけどさ。
僕の悲鳴に2人が慌てる。
「ユーリ、だいじょぶ!?」
「ミナ、どいて!ユーリさん、今治療しますから!」
幸いにも強烈な痛みは一瞬で引いている。だからこそ、シーナが何をしようとしたのかを見れた。
シーナは古びた杖の先を僕へ向けると、流れる水のような声で何かを唱え始めた。
「生命の息吹よ、彼の者の傷を癒せ、ライブ!」
シーナの声に合わせて小さな光の粒子が杖の先に集まり、拳大の大きさまで膨れ上がる。すると光は弾け飛び、雪のように僕の体へ降り注いだ。
暖かい光が僕の体の中に染み込むように融けていく。
その光景に呆然としていたら、急に背中に違和感が走った。
もぞもぞとした妙な感覚。例えるなら背中の皮膚が意志を持って這い回っているような。
その気色悪さに思わず身を捩る。
しまった、と思った時にはもう遅く激痛が背中を走……アレ?
「痛く……ない?」
背中のむずむずもすぐに収まり、全身が気だるい以外に体の異常は感じられない。
試しに体を起こしてみる。力が入りにくい以外は特に異常も無かった。
そんな僕の様子を見てシーナは満足そうに笑みを浮かべる。
「良かった、成功ですね」
「成功って……今何したの?」
僕の疑問に、笑顔で答える。
「ライブの魔法を掛けたんです。失った血は戻らないのでだるさは残りますけど、傷は塞がったハズですよ」
異世界トリップもののお約束が出た。
――魔法かぁ。魔法って、魔法だよなぁ。
意味の解らない事を考えながら、僕は諦めて状況を整理する事にした。
どうやらここは本当に異世界みたいだ。
あの魔法も、光だけなら手品みたいにトリックがあるのかもしれない。でもさっきまで有った背中の激痛が、あの光を受けてから全く無くなった事の説明が付かない。
だからアレは魔法だと信じよう。
まず大前提として――地球には魔法は無い。
そしてこの世界には魔法が有る。
結論→ここは地球じゃないよ。
「……うん、完璧な理論だ」
「どしたの、ユーリ?」
首を傾げて僕を見るミナ。
うん、その表情は止めようね?かわいすぎて僕が壊れるから。
自己主張を始めようとするマイサンを気力で押し留めながら、どうしたもんかと天井を見上げる。
取り敢えず住む所を探さないといけない。
どこか宿屋みたいなのがあれば良いんだけど。そうなるとお金も必要だなぁ。この世界にギルドみたいな施設は有るかな?
ぼんやりと考えていると、部屋の外から大きな音が響く。
『ゴーン……ゴーン……!』
「うわっ、な、何?」
「来客を知らせる鐘ですよ。私は少し席を外しますから、何か有ればミナに言い付けて下さいね」
鐘の音に驚いている間にシーナは部屋を出て行った。
これからの事とか魔法の事とかいろいろ話したかったんだけどなぁ、とぼーっとしていたら、ほっぺをぶにっとつつかれた。
そのままほっぺを摘まれたり、おでこをぺちぺち叩かれたり。
「えっと、ミナは何をしてるのかな?」
「ん~、なんでもないよ」
尚もぺたぺた触ってくるミナ。
どことなくご機嫌な様子で纏わり付いてくる姿は子猫っぽくてかわいい。
やられっぱなしだと負けた気がするから、両腕に無理やり力を込めてむぎゅっと抱き寄せる。勿論ミナが痛くならないように上手く加減して。
「ふわっ!?え、えと、ユーリ?」
そのまま腕力で小さな体を持ち上げ、僕の上に寝かせる。
ミナは戸惑っているけど暴れたりはしないで大人しくしてる。と、
「……ふわ~ぁ」
寝転がった所で急に睡魔が襲ってきた。
ミナを抱き上げた事で予想以上に体力を消耗したらしい。
目を閉じると意識がすぐに薄くなり、僕は夢の中へと入っていった。
こうして、いろいろ現実逃避したまま僕の異世界トリップ初日は終了した。