聖アウレリウス大学附属古文書館所蔵『トマス日記』第七巻「聖ヴァルテルの日より二日後」条
【史料解説】
『トマス日記』は、ドランケンホルムの石工トマスが、見習い時代から死の直前まで書き継いだ全六十七巻の日記史料群である。
現在確認されている六十七巻のうち、五十九巻がほぼ完全な状態で伝わり、六巻が一部欠損、二巻が亡失している。現存する史料の大部分は、聖アウレリウス大学附属古文書館に所蔵されている。
トマスは市政に携わった人物でも、聖職者でも、著名な学者でもない。若年期に詩人を志した時期があったものの、最終的には石工として生涯の大部分を過ごした。
しかし、日々の仕事、食事、買物、物価、天候、市井の噂、職人仲間との会話、市政への不満などを長期間にわたって記録し続けたため、『トマス日記』は後世、ドランケンホルム市民の日常生活を知る上で極めて重要な一次史料となった。
その中でも第七巻に収録された本条は、第三壁建設期における労働、物価、都市衛生、人口流入、宗教習慣、市政、市民抗議、治安などについて、一日の記録の中に多数の記述を含んでいる。
後世のドランケンホルム史研究では、通称「第三壁記事」と呼ばれる。
史学を専攻する学生が第三壁建設期について論じる際、あまりにも頻繁に引用するため、聖アウレリウス大学では「第三壁で困ったらトマスを引け」という冗談まで存在する。
【原文】
聖ヴァルテルの日より二日後。
朝鐘の一つ目で目が覚めた。雨。屋根から落ちる水が桶を叩いていた。
昔なら雨の音を詩にしたかもしれぬ。今では雨を見ると、まず石が滑ることを考える。人は賢くなるものだ。
南小路へ出ると、道の真中を水が流れていた。水だけならよい。革屋のところから黒いのが混じっていたので端を歩いた。端には糞があったので、結局真中を歩いた。
先月、市は悪水を道へ流した者から銅貨五枚取ると触れを出した。今朝の南小路を全部捕まえれば、第三壁くらいもう一つ建つだろう。
南門へ向かう途中で石車が六台詰まっていた。北から来た石だという。なぜ北から来た石を南へ運んでいるのかは知らぬ。御者同士が怒鳴り、その後ろではパン屋の荷車まで止まっていた。
ハンスは店の前に立って、今日は四枚だと言った。昨日は三枚だったのでそう言うと、「なら昨日買え」と言われた。
正しい。腹が立つ。
黒パン一つ買った。
第三壁へ着くと、西の組から十三人来ていた。先週は七人だった。親方は人が増えたから仕事も早くなると言ったが、新しく来た連中は石をどこへ置くのかも知らず、俺たちがそれを教えねばならなかったので、午鐘まで昨日より遅かった。
一人、ひどく西の訛りが強い男がいた。親方が三度言っても分からなかったので、四度目にはもっと大きな声で怒鳴った。言葉が通じぬ時、大声にすれば通じると親方は信じている。市参事会にも似たような者がいるのだろう。
昼前に赤外套が来た。例の役人である。今日は若い書記と、剣を下げた男も一緒だった。
壁を見るなり赤外套は遅れていると言った。親方は石が来ないと言った。すると赤外套は石なら送っていると言う。道で止まっているのだと親方が返したら、「道は通れる」と言った。
俺も今朝その道を通ったが、役人の言うことなので、たぶん俺が通った道とは別の道なのだろう。
若い書記はその間ずっと何かを書いていた。あれには何と書かれたのだろう。「壁を視察した。工事は進んでいる」あたりなら、俺も書記になれそうだ。
赤外套は今月の終わりまでに、さらに二段積めと言った。親方は出来ると答えた。赤外套が帰ってから、出来るわけがないと言った。
それから俺たちは石を運んだ。
昼はパンと豆煮だった。豆は九つ。オットーの椀には十四あった。数えた。あいつは偶然だと言った。
神はずいぶんオットーにだけ豆の奇跡を起こされる。
食っている途中で鐘が鳴った。西から来た連中のうち三人が立って祈った。こちらではあの鐘で立つ者はいないので、オットーが笑った。昨日それで殴られたのに、また笑った。今日は殴られなかった。その代わり親方に頭を叩かれた。
午後、市場の方から鐘とは違う音がした。しばらくして石を運んできた御者から、魚市場で揉め事が起きていると聞いた。第三壁の銭を冬まで取るという。
夏までと言っていたはずである。その前は春までだった気もする。この調子なら、壁が崩れた後も取っているだろう。
オットーが、俺たちは壁を作って、その金まで払うのかと言った。親方は口を動かす暇があるなら手を動かせと言った。
もっともである。
だが俺も同じことを思った。
夕鐘の少し前、一人落ちた。
西から来た若い奴で、名前は知らない。足場の板が割れた。下が土だったので死ななかったが、脚がおかしな方へ曲がっていた。
親方が組合の者を呼べと言ったので、誰かが走った。若い奴はずっと呻いていた。さっきまで隣で石を持っていた男が、急に地面で寝ているのを見るのは妙なものだ。
市の監督役はいなかった。
朝はいた。
怪我をした時はいなかった。
役人というものは危ない時刻をよく知っている。
若い奴が運ばれていくまで仕事は止まった。名前を聞いておけばよかったと思ったが、運ばれてから思っても仕方がない。その後、親方が仕事に戻れと言ったので、また石を運んだ。
夕方になって雨が止んだ。
雲の切れ目から日が差して、濡れた第三壁が赤くなった。石の一つ一つに火が入ったようで、足場も人も長い影になった。
あれだけは綺麗だった。
壁というものは遠くから見るのが一番よい。
近くでは重い。
夕鐘で仕事が終わった。
南小路は朝より酷かったので中央広場を回った。評議堂の前には人が集まっていた。魚屋の女がいた。あの女はいつもいる気がする。
第三壁の銭のことで、徴収吏らしい男に「壁を食って生きろと言うのか」と怒鳴っていた。周りは笑ったが、徴収吏は笑わなかった。
衛兵が四人いた。一人は槍を持ち、二人は何か話していて、残る一人は欠伸をしていた。誰も女を捕まえなかった。
そのうち石工組合の親方衆まで来たので、俺は帰った。ああいう時、偉い者同士の話を聞いてもろくなことにならぬ。
麦酒屋へ寄った。
一杯三枚だった。
先月は二枚だったので亭主に高いと言った。亭主は麦が高いのだと言う。麦がなぜ高いのか聞けば、荷車が足りないと言う。荷車がなぜ足りないのか聞いたら、「お前が毎日積んでいるものに聞け」と言われた。
壁は酒まで飲むらしい。
二杯飲んだ。
帰るころには夜鐘が鳴っていた。門のところで衛兵に止められ、最近は夜盗が増えているから早く帰れと言われた。
だったら夜盗を止めろと思ったが、言わなかった。
衛兵は槍を持っている。
俺は持っていない。
家へ戻ると靴の中まで濡れていた。
蝋燭がもう残り少ない。
今日はよく書いた。
朝から役人が来て、男が落ちて、魚屋が怒鳴り、麦酒が高かった。こうして書けば大層な一日に見える。
だが、たぶん明日も同じである。
街は毎日騒がしい。鐘が鳴り、人が怒鳴り、荷車が軋み、石が積まれる。その間にも壁だけは少しずつ高くなる。
いつか出来上がった時には、今日ここにいた連中のことなど誰も覚えていないだろう。
それでよい。
ただ、明日の豆煮にはもう少し豆を入れてほしい。
灯りが惜しいので寝る。
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【注釈】
一、「昔なら雨の音を詩にしたかもしれぬ」
トマスが若年期に詩作を試みていたことを示す記述の一つ。
『トマス日記』には若年期を中心として、天候、夕暮れ、鐘の音、季節などを比喩的に表現する箇所が散見される。
本人は過去の詩作についてやや自嘲的に記しており、職業的な詩人として活動した形跡は確認されていない。
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二、「南小路へ出ると、道の真中を水が流れていた」
第三壁建設期における旧市街の排水状況を伝える代表的記述。
市参事会文書には同時期、街路への汚水投棄を禁じる複数の布告が残されている。一方、『トマス日記』を含む私人の記録からは、布告後も旧市街の排水状況が十分改善されていなかったことがうかがえる。
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三、「今朝の南小路を全部捕まえれば、第三壁くらいもう一つ建つだろう」
当時の市民が罰金制度そのものを認知していたことを示すと同時に、その実効性に対する冷笑的な態度を伝える記述。
当然ながら、南小路に銅貨五枚ずつを課しても第三壁を建設できる金額にはならない。
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四、「石車が六台詰まっていた」
第三壁建設による市内物流への影響を示す重要箇所。
市側の工事記録には石材搬入量について比較的詳細な数字が残されている一方、それに伴う街路の混雑についての記録は少ない。
このため、都市交通史では本記事が頻繁に参照される。
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五、「今日は四枚だ」
黒パン価格に関する記録。
トマスは食料品、麦酒、蝋燭など、自身が実際に購入した品物の価格を頻繁に記録した。その理由の大部分は値上がりへの不満であったが、結果として『トマス日記』は第三壁期の庶民生活費を研究する重要な史料となっている。
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六、「なら昨日買え」
パン屋ハンスの発言。
ハンスは『トマス日記』に長期間登場する人物である。トマスが彼について好意的なことを書いた例はほとんどないにもかかわらず、少なくとも十九年間、同じ店を利用していたことが確認されている。
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七、「西の組から十三人来ていた」
第三壁工事に伴う域外労働者の流入を示す記述。
『トマス日記』では彼らの訛り、祈祷習慣、食事などについても断片的に触れられており、労働移動のみならず方言史や宗教史においても利用される。
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八、「言葉が通じぬ時、大声にすれば通じると親方は信じている」
直後に市参事会への皮肉が置かれているため、当時の職人層が都市行政をどのように捉えていたかを論じる際、頻繁に引用される一節。
ただし、トマス個人の行政観をドランケンホルム市民一般へそのまま拡張することには注意を要する。
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九、「道は通れる」
本記事でも特に著名な箇所。
同時期の市参事会記録には、主要街路の通行が維持されている旨の記述が存在する。一方、トマスは同日の朝に石車六台による停滞を記録している。
このため、行政記録上の「通行可能」と、実際に街路を利用する市民が認識する「通れる」との差を示す例として、史料批判の教材にも用いられる。
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十、「『壁を視察した。工事は進んでいる』あたりなら、俺も書記になれそうだ」
書記が実際にこの文章を書いたわけではない。あくまでトマスの想像である。
過去にはこの一文を市側の公式記録と誤認して引用した論文が存在したため、現在では逆に「一次史料に記録された事実、伝聞、筆者の推測を区別する」ための典型的な教材となっている。
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十一、「親方は出来ると答えた。赤外套が帰ってから、出来るわけがないと言った」
行政への公式回答と現場の認識が一致していなかった可能性を示す。
第三壁工事の工程管理を研究する際に頻繁に引用される一節である。
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十二、「豆は九つ。オットーの椀には十四あった。数えた」
当時の労働者に供された食事の一例。
ただし、これを豆煮一杯当たりの標準的な豆の数量として利用することは推奨されない。
トマスは豆の少なさについて繰り返し不満を述べており、実際に数まで記録することがある。
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十三、「神はずいぶんオットーにだけ豆の奇跡を起こされる」
宗教的語彙が日常的な冗談や皮肉にも使用されていた例として引用される。
トマスによる神学的主張ではない。
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十四、「第三壁の銭を冬まで取る」
第三壁建設費を目的とした臨時徴収の延長に関する記述。
行政文書から徴収制度そのものは確認できるが、市民がその延長をどのように受け止めたかを示す同時代記録は限られている。
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十五、「俺たちは壁を作って、その金まで払うのか」
オットーの発言。
建設労働者自身も第三壁臨時徴収の対象となっていた可能性を示すものとして知られる。
ただし、オットー本人の納税記録は確認されていない。
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十六、「一人落ちた」
第三壁工事における労働災害についての重要記録。
市の工事記録には同日の事故に該当する記述が確認されていないが、石工組合の支出記録には翌日、西組所属者に対する治療扶助と思われる支出が存在する。
両者が同一人物を指すかについては確定していない。
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十七、「名前を聞いておけばよかった」
後世の研究では、この短い一文も注目される。
トマスは事故について比較的詳しく記録したにもかかわらず、負傷者の氏名を知らなかった。
大規模工事現場における労働者同士の関係が、必ずしも密接な共同体的関係ではなかった可能性を示す例として解釈されている。
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十八、「市の監督役はいなかった。朝はいた。怪我をした時はいなかった」
労働史研究で特に引用頻度の高い箇所。
ただしトマス自身による皮肉を含むため、この一文のみから市当局が労働安全を意図的に軽視していたと結論することはできない。
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十九、「壁というものは遠くから見るのが一番よい。近くでは重い」
『トマス日記』を代表する一節の一つ。
後世には巨大公共事業と、それを実際に担う労働者との距離を象徴する文章として解釈されるようになった。
一方、前後の文章をそのまま読めば、トマスが文字通り石の重量について述べただけである可能性も十分にある。
この「後世の象徴的解釈」と「本人の単純な愚痴」の隔たりは、『トマス日記』研究においてしばしば問題となる。
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二十、「壁を食って生きろと言うのか」
氏名不詳の魚商女性による発言。
第三壁臨時徴収に対する市場商人の不満を伝える記録として著名である。
この女性と思われる人物は『トマス日記』に少なくとも六年間登場し、「魚屋の女」「いつもの魚屋」「声のでかい魚屋」などと記される。
研究上、便宜的に「魚屋女史」と呼ばれる場合がある。
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二十一、「衛兵が四人いた」
公然と徴収吏へ抗議する市民が、その場では拘束されなかったことを示す。
ただし、その後の処分についてトマスは記録していないため、本記事だけから当時の言論や抗議活動に対する市当局の姿勢を一般化することはできない。
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二十二、「壁は酒まで飲むらしい」
第三壁建設による物流・物価への影響を象徴する表現として、後世非常に有名になった一文。
経済史関係の研究書で題名や章題に採用された例もある。
もっとも、トマス本人は麦酒が銅貨一枚値上がりしたことに腹を立てていただけであった可能性が高い。
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二十三、「だったら夜盗を止めろと思ったが、言わなかった。衛兵は槍を持っている。俺は持っていない」
当時の一般市民と市衛兵との距離感を伝える記述として知られる。
同時に、トマスが日記の中では権力者に対して非常に饒舌である一方、本人を前にすると比較的慎重だったことを示す例でもある。
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二十四、「街は毎日騒がしい。鐘が鳴り、人が怒鳴り、荷車が軋み、石が積まれる」
文学史研究でも評価される一節。
若年期に詩人を志したとされるトマスの文章的特徴がよく現れており、鐘、人声、荷車、石という日常的な音と動作によって、建設期の都市景観を描いている。
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二十五、「いつか出来上がった時には、今日ここにいた連中のことなど誰も覚えていないだろう」
『トマス日記』でもっとも著名な文章の一つ。
第三壁建設を担いながら公的記録にはほとんど名を残さなかった労働者たちを象徴する言葉として、後世繰り返し引用された。
皮肉にも、長期間の日記が保存されたことによって、トマス自身は第三壁建設に携わった一般労働者の中でも、後世にもっとも詳しく生涯を知られる人物の一人となった。
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二十六、「ただ、明日の豆煮にはもう少し豆を入れてほしい」
前項の著名な文章に直接続く一文。
古い研究書では省略されることが多かった。
そのため、かつては前項を「無名の労働者が歴史における自己の忘却を自覚した文章」として強く思想的に解釈する研究も存在した。
現在では、この一文まで含めて読むことが一般的である。
トマスが歴史的使命を意識して前項を書いたのか、それとも一日の終わりに多少感傷的になっただけなのかは判然としない。
少なくとも、直後には翌日の豆煮について考えていた。
【後世における位置づけ】
この日の記述は、後世の研究者から「第三壁記事」と通称される。
第三壁工事そのものだけでなく、道路交通、排水、食料価格、域外労働者、方言、宗教習慣、職人組織、労働災害、臨時徴収、市民抗議、衛兵、夜間治安などが一日の記録に集中しているため、ドランケンホルム社会史における代表的な一次史料となった。
とりわけ価値が高いとされるのは、市参事会、徴税機関、石工組合などが残した公的記録と、同じ時代を現場の一職人がどのように経験していたかを比較できる点である。
一方、その知名度ゆえに、第三壁期の庶民生活をトマス一人の経験から説明しすぎる傾向は、後世の研究者から「トマス依存」と批判されるようになった。
聖アウレリウス大学では長年にわたり、本条が史料批判演習の教材として使用されている。
学生の間では、
「第三壁で困ったらトマスを引け」
という言葉まで生まれた。
もっとも、『トマス日記』全六十七巻を最初から最後まで読んだ学生は、それほど多くない。




