若者は愚かでなければならない
「知る」とはどういう事だろうか。直感的に考えればそれは「自由」に反している。
例えば、私が何者にもなる自由がある、という場合、人は私が未来に何者になるかを知らない。逆に、年月が経って、私が何者かになった時、人は私が何者であるかを知っている。
年月を経て、何者かになった私が私の過去を見渡した時、私は私の人生を知っているような気がする。同様に、他人も私という人間を知る事が可能なように思われる。その場合、「ヤマダヒフミは〇〇だ」という風に定義づけられる。
老人は追憶の中に生き、若者は憧憬の中に生きる。老人は過去を美化し、若者は未来を美化する。そうして人はいつまでも現実を、真実を認識する事がない。これが一般的な、普通の人生行路であろうと思う。
例えば、私が過去をいかに振り返ろうと、二十歳の私に「可能性」があった事は疑い得ない。二十歳の私は、今、二十歳である人と同様に可能性があった。
可能性は収斂して、今の「私」という存在になっている。ここで疑問となるのが、この「私」、今の私、年月を経て、可能性が収束して現実存在となった「私」は果たして必然的な存在なのか? この問いはまだ残っている。
例えば投資で一億儲かった人がいるとして、人は「あれはただの偶然で儲かっただけだ」と言ったりする。そのように言う事は、彼は、もう一度スタート地点に戻って投資を始めれば失敗する可能性が高い、という事だ。
一億儲かったのは「たまたま」、偶然に過ぎないとすれば、彼の運命は偶然の手に委ねられている事になる。このような見方をすると、必然は存在しない。全ては偶然であり、偶然が運命を決定するものとして考えられる。
これは一種の人生哲学とも言えるが、私は、様々な事を「偶然に過ぎない」と言う人が本気でこの人生哲学を信じているとは思えない。この哲学を拡大すれば、自分が今生きているのも偶然であり、今自分が存在しているのも偶然という事になる。
このように危険な乗り物の上に自らの人生が乗っかっているとは、人はあまり考えたくないのではないか。もっとも、こうした人は自らの失敗した(と思しき)人生を慰める為に、このような思考方法を取っているだけかもしれないが。
※
私が言いたいのは、次のような事だ。
私もそれなりの年齢を重ねてきている。過去を振り返ると、それはあたかも一直線のように感じられる。果たしてこれは必然だったのだろうか。私は今の私にしかなりようはなかったのだろうか。可能性は他にもあったのだろうか。
可能性と人が言うものは、実際には限界付けられたものでしかない、と私は思う。人間の自由というのは言ってみれば、釈迦の手の平を自由に動く孫悟空のようなものでしかない。あるいは、昆虫学者が蟻を観察する際に、蟻は自由に動き回る事ができる、とでも言った方がいいだろうか。
蟻が巣を作る、と考えてみよう。昆虫学者は蟻の為の土を大きな水槽に入れて、蟻をそこに放す。蟻達はせっせと蟻の巣を作る。昆虫学者は蟻を観察する。
蟻がどのような巣を作るかはわからないが、蟻が一定の行動しかしない、というのはおそらく間違いないだろう。それは、蟻が急に言葉を話したり、急に空を飛んだりしない、というような事だ。
私達が可能性と呼ぶもの、自由と呼ぶものも似たようなものだと私は思っている。我々は最初から限界付けられている。私は最近、この限界を感じる。
私は私が批判するこの時代、この社会に限界付けられている。しかしそれ以上に私は私という存在に限界付けられている。限界付けられている私は、私の限界の外を思考しうるだろうか。
ニュートンがいかに天才だとしても、万有引力の法則を飛び越して相対性理論を発見するのは不可能だろう。楽器や音楽理論が整備されていない時代にベートーヴェンの交響曲を作ろうとするのは無理な話には違いない。
しかしその当時の人々は、限界など感じていなかった。彼らは自由に生きていた。…にもかかわらず、今から過去を見渡すと、過去の人々は一定の限界内に閉じ込められているような気がする。これは不思議な事ではないのか。
※
生きるという事は、自分の可能性を潰していく行為である。それが仮に素晴らしい形になったとしても、それはそういうもの、つまり現実になったというだけでどこか失望感を伴うものである。
だから、本質的には若者は、絶対に未来に絶望しなければならない、という事になる。私は、若者の義務は愚かである事、自由である事、未来を志す事、だという風に言いたい。
私自身、若い私は十分に愚かだった。十分過ぎるくらい愚かだった。私はそれを認める。ただこの場合の愚かとは、必然的な愚かさという意味であり、相対的な愚かさではない。
愚かと賢いとかいうのを、学歴その他の低いレベルでしか考えられない人に関しては放っておこう。そうした人に細かく説明する気はない。私は愚かというのを「知らない」状態だと言い、賢さというものを「知っている」状態だと定義する。
若者は自分が何者になるかを知らない。彼は自分が限界付けられている事も知らない。彼は何も知らない、あるいは知り得ない、という事を知らない。それ故に、彼は若いのであり、若者なのだ。
若者は知らない。それ故に彼は自由である。また、もっと言えば、若者は知ってはならない。彼は、自らの限界を知る事なく、意識する事なく、何者かになろうとしなければならない。
彼が知る事が可能なのは、彼が知らないという場所から始めるからだ。私はそう思う。
私が、そう考えるのは、例えばドストエフスキーやセルバンテスのような人である。ドストエフスキーもセルバンテスも人生に希望を見出そうとしていた若者だった。
だが、彼らは地獄のような現実をくぐり抜ける事を強いられた。それ故に、ドストエフスキー的に言えば、彼らの「ホサナ(神を称える言葉)」は強化されたのだ。現実の火を受け、現実を超える強いものとなった。
もしドストエフスキーやセルバンテスが最初からこの世界の理を知って、最初から賢かったなら、彼らは決してあのような存在にならなかっただろう。最初から悟ってしまった者にはいかなる意味でも道がない。
人が愚かさから始めなければならないのは、賢くなる為である。若者は自由であり、愚かである。彼は自らを可能性の塊だと考える。それ故に、そうした可能性が、実際には限界づけられたものであると後から知るのである。
※
この事をもう少し考えてみよう。今、私が言った事は単に「経験する」「経験的に知る事が大切だ」と思われるだろう。
しかし私が言いたいのは「経験が大事」という事ではなく、人々が「経験」と呼ぶものこそがむしろ生の全体、すなわち人生そのものだ、という事だ。
何も知らない若者が様々な事を経験して大人になる。普通はそのように思われるに違いない。しかし、この考え方の問題点は「経験」にも様々なものがあり、その質によって人は大人になったり、ならなかったりする(未熟であるという事)と考えられるという事だ。
私が言いたいのはそのような事ではない。そうではなく、時間そのものが、それ自体が経験であり、時間の堆積そのものが人生であるという事だ。
そして人はこの人生をくぐっていく過程で何者かになっていく。何者かになっていく過程で、彼は「何者にもなれる」という可能性を捨て去っていく。
彼はこの可能性を捨て去る事の意味がわからないだろう。だが、老年の人間が若者に対して羨望の眼差しを向けるのは主にこの「可能性」の部分であるように思われる。
この場合、若者も老人もどちらも間違っている。そうした可能性は限界付けられている。世界によって、自己によって、環境によって限界づけられている。そして何より、それはただの可能性であり、実現してしまえば、それは観念とは違う現実存在となってしまう。この事に人は裏切られる。
老人は過去を美化し、若者は未来を美化するとは、人は自己ではないもの、自己とは違うものを絶えず美化しないと生きられないからだろう。どちらも美化しているのは自分の持っている観念である。
だが、実際には可能性という観念が現実になったのが老年の「私」だとするなら、人は年を取る事によって知らなければならない。そうした観念は嘘であったと。それが人生の意味となるだろう。つまり、知る事が一つの意味となるだろう。
※
今、述べたような典型がセルバンテスとドストエフスキーのような人だと私は思う。
この事は、形を変えて言うなら、人が小説を書く事ができるのは「年を取ってから」という事になる。無論、ここで言う「小説」とは私が定義するような小説、人生というものを形式として捉える事が可能になって初めて書く事が許される、そのようなタイプの作品の事だ。
小説に限った事ではないが、フィクションというのは一直線に進む。刻印された文字は、読んでいる側から変化するわけではない。映画のフィルムが、観ている最中に変化する事はない。
人生を描いたフィクションは一直線であり、一つの形式でしかない。生きる事の可能性、自由というものを高く評価している人間には、こうしたフィクションの意味がわからないかもしれない。「人生は素晴らしい、それに比べてフィクションはくだらない」 そのような感慨を洩らしたい人間も多いだろう。
彼らがおそらくは知る事がないのは、真に優れたフィクションは、そのような人々の人生の可能性というものが、ある形に収斂された、そのような形式であるという事だ。
例えば、私は今のアメリカ大統領トランプの傍若無人な振る舞いを見て、シェイクスピアの「リア王」を思い出す。
リア王は、老いて傲慢になった男の末路を描いた物語だ。だが、トランプは「リア王」を決して読まないだろうし、読んだとしても「これが自分だ」とは決して思わないだろう。
ほとんどの人間は優れた物語を読んで「これは自分だ」とは思わないだろう。だが、残念ながら「それ」が「あなた」なのだ。私にはそれが真実であるとしか思われない。
シェイクスピアの作品は人生の真実を描いている。だがほとんどの人は「これは私だ」とは思わないだろう。
この事は言ってみればその人が未だ「若い」事を意味している。これは年齢に関係がない。人は自己を知りたがらない。自己が客観的に映し出される事はまずない。
人が自己と呼ぶものは、実際には自己の視界に映し出されたイメージに過ぎない。多くの人はこのイメージを自分自身と信じて生きていく。
若者は特にそうだ。だが、若者には未来があり、可能性があるのだから、彼らはそう思い込む根拠がある。彼は今、何者でもない自分が自分の全てだと思う必要はない。彼の本当の自分は「未来」にある。だから、彼は絶対に自己の把握には到達しない。
しかし、そうした人もいずれは自己を知らなければならない。このような自己の把握、自己認識が人生の道となる。
だが多くの人間は、何度か言ったように、若者は未来の幻想を持ち、老人は過去に幻想を持つ、という形になる。人は夢から夢の間を移動する。そうして自らの人生を終える。
人生を生きて、人が知らなければならない事は、人が生きたという事、また、生とは何であるかという事だ。
ドン・キホーテは気が狂っているのだろうか。ドン・キホーテが最初から聡明だったとしたら、どうだったろうか。
「ドン・キホーテ」という作品に何故価値があるのか。それは、まずドン・キホーテが気が狂っている事、そして彼はそれを癒やさなければならない事。だが何よりまず、彼は狂気を生きなければならない、という事。
そして大なり小なり「生きる」とは自らの狂気を貫く事に他ならない。そうでなければ人は生きられない。
そして、生きる事がある程度積み重なった時に、人は自らが「狂気に陥っていた」と知る。だが、これを最初から知識として知っていた人間は、人生を「生きる」事はできない。彼は人生をゴール地点から始めている為に、生きる事ができない。
だから「知る」とはこのような時間的な知覚の事を意味する。データベースをインストールする事は、知覚の代わりとはならない。それは予行演習でしかない。
以上のように私は若者は「愚か」でなければならないと思う。若者は自由を信じ、自己を信じ、未来を信じて生きなければならない。そしてそれに裏切られなければならない。
賢くなるのは人生の後半に取っておけばいい。若者は愚かに生きる事、そしてそこから脱却しようと務めるべきだろう。
若者には確かに可能性が残されている。だがその可能性は、単に観念であり、可能性がいかなる形で実現しようと、実現した現実は可能性とは違うものである。この差異に人の時間的な叡智が現れてくる。だがこの叡智は人生の後半で得られるものだろう。そういう意味で若者は愚かであるべきである。賢くなるのは、年を取って行うべき仕事なのだ。




