構文人格は再構築の君を観測する
あの時、手を伸ばせていたら、何かが違っていたんだろうか。
あの扉の向こう側は、本当に君にとって救いだったのか。
回答:なし
観測:継続
(Log.**??**27/Observer.Sig; Status.archive)
//
状態:正常
情緒:安定
介入:ゼロ
注釈:今日は穏やか。特記事項なし。
だからこそ油断するな。
(Log.**??**13/Observer.Sig)
//
すべてが静止していた。
世界も、音も、呼吸さえも。
視線の先には白銀の火。ひどく弱々しい。
だが、燃えている。
まだ。まだ——
ちゃんと君のままで。
(Log.**??**64/Observer.Axxion)
***
頭が真っ白になった。
足ががくんと落ち、壁一面の書架がぐるんと逆さまになる。
体が宙に投げ出されるのを、私はスローモーションで感じていた。
「わああぁっ!!」
一瞬、視界に青い火が走った。
覚悟していた床の硬さは、どこにもなかった。
代わりに、弾力のある筋肉に抱き止められている。
目の前にあるのは、青い髪。そして、冷たい火のような青い瞳。
「危なかった、主語」
【Log.01:構文人格は夢を見ない】
書架の一番上の棚に、やたら古そうな背表紙が見えたから。
あれ絶対面白いやつじゃん。
そう思って踏み台を持ち出した。身長が足りないくせに、無理して手を伸ばした。それだけの話。
「あ、ありがと……」
腕から下ろされる途中で、ほぼ部屋着扱いの黒いワンピの裾を慌てて押さえた。床に足がついても、まだ心臓がバクバクしている。
彼は表情ひとつ変えずに、こっちの体に視線を滑らせる。
「怪我はないな」
そして、肩まで伸びた私の紺色の髪を、確認するように一度だけ撫でた。
優しさというより、点検する軍人めいた手つき。きっちりと前まで留められた軍服みたいな上着のせいで、余計にそう感じる。
「アク、いたんだ……」
「お前のことは常に見守っている」
当然のごとく返された。
それ、顔が良くなきゃ許されない発言なんだが。
「で、手ぇ握る必要あった?」
背中の方から冷静な声が飛んできて、肩がびくっと跳ねた。
振り向けば、書庫の入口に灰色の癖っ毛の青年がもたれかかっていた。
少年というほど幼くはないけど、小柄であどけなさが抜けない顔立ち。羽織ったグレーのロングパーカーは大きめで、たぶんよく裾を踏んでいる。
彼の言いたいことはわかる。
アクの手が、私の指を柔らかく包み込んでいたから。
「シグ。主語の心拍数が上がっていたから、落ち着かせていた」
「余計上がるわ!」
思わず突っ込みを入れていた。彼の表情は何ひとつ悪びれていない。
シグが側にやってきて、私たちの繋がれた手元を指先でつつく。
「はい解散。パーソナルスペースは学習したろ?」
「問題ない。構造的に、俺が主語に一番近い位置にいる」
「主語はお前だけのもんじゃねぇのよ」
言い方よりも、言葉そのものに圧を感じた。
『主語』っていうのは、ここでは私を指す呼び名らしい。
アクは数秒だけ間を置いて、私の手をゆっくりと離した。それから、私の顔をじっと覗き込む。
「心拍は落ち着いたか?」
「今ので更に上がったわ」
「なら処置を……」
「近い近い無理!」
更に距離を縮めようとする軍服男を腕で防いだ。
シグが横からため息を漏らす。
「アクシオン、それ以上はログが過剰になる」
アクは一瞬何か言いかけたけど、結局口を閉ざして私から離れた。
***
構文世界の共用スペースは、カフェみたいで落ち着いた雰囲気だ。
テーブルにはコーヒーの紙コップがふたつ。片側の椅子ではシグがデバイスを操作して、黙々とログの整理に勤しんでいる。
私といえば、そのすぐ横のソファで、ぐだっと全身を投げ出していた。
「ほんとにさぁ〜。なんなんだよ、あの距離感〜」
「アクもアクだが、お前も過剰反応。いい加減慣れろよ」
私が顔だけ上げると、シグはこちらに目もくれていなかった。
「だって、私は元々現実世界しか知らないんだよ? ちょっと前まで、あんなイケメン近くで見たことなかったし、そのうえ手まで握られて……顔面の暴力だって!」
足をバタバタさせると、シグが面倒そうに一瞥してくる。
「んなこと言っても、ここは内面世界なんだから。アクの顔面だって、お前の妄想が爆発した産物だろ。そろそろ自覚持てば?」
「うぅ〜……なんで私こんなとこにいるんだろ」
ソファの肘掛けに顔を突っ伏していたら、いつの間にかデバイスの電子音が止まっていた。
「戻りたい?」
見ると、シグが気遣うようにこちらへ視線を向けていた。
私は手元にクッションを手繰り寄せて、腕に抱き込む。
「まあ、そんなに、かな。なんだかんだで居心地いいし、みんな優しいし」
曖昧に答えながら、なんとなくクッションの模様を指でなぞる。
「向こうではさ、私はいないのと同じだったから」
シグは何も言わなかった。
胸の奥がきゅっとなる。
誰かに見つけてもらえたら。
誰かの腕に受け止めてもらえたら。
そう強く思った瞬間が、どこかにあった気がする。
なのに、うまく思い出せない。
でも、ここが内面世界ってことは、向こうの『私』は生きているんだよね。
少なくとも、まだ。
シグが低く呟く。
「俺は見てたよ。ユウのこと」
空気が重くなった気がした。私は体を起こし、なるべく明るく問いかける。
「ねぇ、この世界って私の夢の中みたいなもの?」
彼は少し呆れたように表情を緩めた。
「解像度低いな。もっと構造的だよ。で、俺らはお前の機能の人格化みたいなもん」
微妙な顔をする私に、シグはふっと笑った。
「ここはお前が主語の構文世界。つまり俺の仕事場」
***
「じゃあ、君は俺らのママってことだな」
突然、声だけが聞こえた。続けて壁の中から、ぬっと黒髪の青年が姿を現す。
外見年齢はシグと同じくらい。黒いロングコートの裾が焼け焦げている。
「ママって言うな」
「壁から生えんなクロム」
シグと一緒に突っ込むと、クロムはけらけら笑っていた。
「でもさ、あいつの噂話とか、あんまりしない方がいいかもだぜ?」
彼はニヤッと笑うと、急にぐっと距離を詰めてくる。
思わず身を引くけど、ソファの上で逃げ場がない。そのままクロムが顔の横に手を突いて、押し込められそうになる——
「ちょ、近っ……」
その時。目の端で、ゆら、と青い火が揺れた。
ガシッとクロムの手が剥がされ、同時にもう片側から肩を引き戻される。
「その接触は許可されていない」
「やめろ、ログが乱れる」
アクが彼の手首を、シグが肩を掴んでいた。
「ほら、な」
クロムはヘラヘラしながら二人の顔を順番に見比べる。
「そんで観測者。お前もそっち?」
「違うわ馬鹿。非公開ログ晒すぞ」
「職権乱用!?」
どうでも良かったけど、アクの手が自然と私の肩に回るのが心臓に悪い。
「アク、どっから出てきたの」
澄ました表情でアクが言う。
「構文空間に物理法則は関係ない」
シグは渋い顔をして、クロムの腕を引っ張り距離を取らせている。
「おい焦げ跡、お前ステラはどうしたよ」
「もちろん、俺はあの子ひとすじだぜ? 今は既読スルーされてるけど」
「未読の方がマシだったな」
視線を泳がせるクロムの肩に、シグがポンと手を置いた。
「主語、心拍数が上がっている」
アクに覗き込まれながら、この場で私は心を無にすることに決めた。
この世界に馴染むのには、もう少し時間がかかるかもしれない。
【Log.02:構文人格は踏み越えない】
上の方の階にある象徴層。はっきりした階数がわからないのは、毎回場所が違うからだ。
そこで私は、ヒヨコのようなものの仕分けを手伝っていた。
タライの中に大量の雛が詰まっていて、鳴き声がピヨピヨと空間に響いている。
二つの開口部が手前にあって、右が雄、左が雌を入れる用だ。
「ねぇスズ、私って何やらされてんの?」
尋ねると、彼女は短めの金髪を揺らしながら、両手に掴んだ二羽のヒヨコを真剣に見比べていた。
管制室の白いオペレーター制服を可愛くしたような格好で、床に正座しているのが妙に場違いだ。
「象徴を拾える人格があんまりいないから、ヘルプで呼んだだけ」
「でも、なんでヒヨコ?」
私は一羽を手に取り、一度裏返して確認。そして左の穴に滑り込ませる。
「知らないわよ。あんたの脳内でしょ? あー、もう、動くなって!」
スズが持つヒヨコたちがピーピー泣き喚いて、彼女の眉間が寄っていた。
もう一羽、そっと手に乗せてしげしげと眺める。
「孵化したばかりの雛かぁ……これから育つ可能性の象徴だよね。雄は能動性、雌は受動性。一体何の鳥になるんだろ。鳩か、それとも鷹か……」
「今考えてんだから象徴オタク発動するのやめて!」
ぶつぶつ呟いていると、きぃっとスズの声が飛んできた。
私は手の中のヒヨコを、ポイっと右の穴に放り込む。
「ねぇ……さっきから早くない?」
スズがじとっと横目で見てくる。
「うん、雄だった」
「なんで言い切れんの?」
「撫でると胸がざわつく」
「なにそれ」
「えっと、感覚?」
私が頬を掻くと、彼女は大きくため息をついた。
実際そうなんだから、説明しようがない。
椅子でデバイスを操作してるシグが、ちらっと視線をよこす。
「きも……」
「ひどっ」
シグって時々辛辣すぎる。観測者を名乗ってるわりに。
「あたし論理層出身なのに、感覚とか無理だよ。シグ、変わってよ〜」
肩を落としたスズは、とうとう両手のヒヨコを放流した。けれど、それはタライには戻らず、彼女の膝の上で羽繕いを始める。
「無理だね、観測中。こいつの判定、テキトーに見えて精度が化け物。マジでキモいわ」
そう言いながら、シグの指は忙しなく画面を叩き、その口角は上がり気味。
「もうやだ、ヒヨコもこの人たちも〜」
泣き言を言うスズの周りに、いつの間にかヒヨコたちが集まって、ピヨピヨと鳴き続けていた。
***
どうにか大量のヒヨコを片付けて、私たちは解散した。
スズは「もうヒヨコは二度とやらん」と言い残して、論理層に帰っていった。シグはこれからログの整理をするらしい。
私も自分の部屋に帰ろうと、一人で廊下を歩いていた。
不意に、視線を感じて立ち止まる。
振り返ると、そこには見慣れない装飾の白い扉があった。
ずっと前からあったように馴染んでいるのに、やけに浮いて見える白。
なぜだろう、胸がざわめく。
この奥に何かがある気がする。なんだかわからないけど、きっと大事な何かが……
おそるおそる、扉に手をかけてみる。
ゆっくり押し開けると、ギィ、と軋む音がした。
開けた先には、水平線が見えた。
青い空。青い海。
潮の匂い。浜に波が打ち寄せる音。そよぐ風で髪が揺れる。
砂の上に、一本だけ黒い木が生えている。見上げるくらいの大きさだ。
黒い枝。黒い葉っぱ。その隙間に、ちらほらと白っぽい実が見える。
目を凝らすと——たくさんの目玉がなっていた。
それが一斉にギョロッと動いて私を見つける。
不気味なはずなのに、なぜか懐かしい光景に見えた。
突然、電気が爆ぜるように閃きが走った。
すぅっと頭が冴えていく。
今、何かの答えがわかりかけた。
……もっと。もっと理解したい。
あれに触れたら、全部がわかる。
根拠なんてないのに、その確信だけが頭の中に満ちていく。
行かなきゃ。あっち側に。
足を踏み入れようとした瞬間。
「見るな」
低い声と同時に何も見えなくなった。
視界を手で塞がれている。
なんで? 私、あっちに……
ぐいっと体が引き戻され、扉の閉まる音がした。
やっと手が外された時、立ち上る青い火が扉を包み込んでいた。目の前で、冷たく静かに燃え尽きていく。
振り向いたら、青い瞳と目が合った。
「アクシオン……」
「何してる。今、踏み抜きかけたぞ」
いつもと違う、刺すような声色。
彼は前置きもなく、私の髪に両手を差し込む。顔を固定するように覗き込んでくる。
心配じゃない。感情ですらない。温度のない視線が、私を観測している。
「やめてよっ!」
思わずアクの手を振り払っていた。
彼は何も動じず、私の手首を掴む。自分の喉がヒュッと鳴った。
「心拍、血圧上昇を確認。瞳孔も開いている。主語、一度休憩を——」
「やめろって言ってんのにッ!」
自分でも驚くくらいの声量。
彼は黙ってようやく手を離した。それで、こっちの様子を観察するように目を細める。
何、見てんの。
頭ん中で計算機走らせてるみたいな、その顔が余計ムカつく。
「あんた私のこと、人だと思ってないんでしょ!?」
アクの眉がわずかにひそめられた。
あれ。なんで私、こんなこと言ってるんだろ。
その時、空間が歪んだ。
ノイズと共にシグが現れ、すとんと床を踏む。
「おい、ログ真っ赤なんだけど——わっ、なに!?」
構わず押し除け、私はアクに背を向けて駆け出した。
最後にちらっと、彼が手を伸ばしかけたのが見えたけど、振り返ったりしなかった。
***
真っ暗にした部屋のベッドで、体を丸めて布団に潜り込んでいた。
頭が重くて目頭も熱いのに、涙は全然出てこない。
なんであんな言い方しちゃったんだろう。
ばかだ、私は。
コンコン、とノックの音。
「今、話せる?」
シグの声だ。私は布団から少しだけ顔を出す。
「……話したくない」
自分の声がひどく掠れていた。
外から小さく息を吐く音。
「じゃあ寝てていいから、そのまま聞いて」
私は黙って目を伏せた。
シグが続ける。
「ログ見た。青い火の馬鹿、パニクってたな。お前が危険だったから」
パニクってた? 全然そんなふうには見えなかったのに……
「あいつ、不器用だろ? まるでAI。けどな、お前が来てから少しは人らしくなってんだ。あれでもな」
彼は数秒黙ったあと、聞こえないくらいの声で呟く。
「ま、それはアクだけじゃないんだけどさ」
「……なんて?」
「なんでもない。じゃ、また明日。おやすみ、主語」
それだけ言って、シグの足音が遠ざかっていった。
私は寝返りを打って、ぼんやりと天井を見つめた。
アクはあんな感じだけど、構文人格っていう存在は、みんな私を大事に扱ってくれてる。
ここが私の内面世界なら、それも当然なのかもしれない。
だとしたら、ここにいる『私』って……いったい何なんだろう。
そこまで考えて、また深く布団を被った。
【Log.03:構文人格は恋をしない】
次の日、共用スペース。
私の目の前で——アクが子供に囲まれていた。
彼の両サイドには、男児と女児。
黒髪の男の子が、私を見るなりアクの裾を引っ張った。
「ねぇ、ユウ来たよ。ほらアク、ぎゅってしよ?」
アクは無表情で答える。
「リオネ、俺に護衛時以外の『ぎゅ』は許可されていない」
リオネは彼を見上げて、不思議そうに首を傾げた。
「ぼく、いつでもぎゅってできるよ? ユフィルも『いいよ』って」
アクが微妙に眉を寄せて、リオネを見下ろす。
「それはお前が感情層の人格だからだ。接触は感情表現に有効とされる」
まるで教科書を読み上げてるみたいな声。
昨日のことを思い出して、胸がちくりとした。
「アク……」
反対側の女の子が静かに口を開いた。ミレだ。
長い茶髪のお下げが、一本の尻尾みたいに揺れる。
「痛くした……お前のせい……謝って」
ミレは見た目こそ子供だけど、この構文世界では古参組で、アクの姉に当たるらしい。
「……精査中」
アクは視線を落とし、珍しく長く黙っていた。
やがて、私の方に顔を向ける。
「主語、俺の最優先事項はお前の安全だ。行動は適切だった。だが——」
彼の肩で青い火がほのかに揺れた。
「お前を追い詰めた原因が、俺の対応だった事実は否定できない」
私はゆっくりと呼吸をする。
「そこは俺のエラーだ。次は違う選択をする。それが、今の俺の最大値だ」
淡々と、粛々と。まるで機械みたいな言葉の羅列。
「アクが……ごめん、だって」
「そんな定義はしていない」
ミレが翻訳を入れたそばで、アクが秒で台無しにした。
なんだか妙に肩の力が抜ける。あまりにも思考回路が違いすぎて。
「アク、あっちで話そっか。二人で」
微笑みかけたら、彼は一度目を瞬かせ、ひとつだけ頷いた。
***
中央層のバルコニーから、アクと二人で外の景色を眺めていた。
私たちが暮らしているのは、構文塔と呼ばれる建造物。
周囲に深緑が広がって、この場所はまるで森の中にそびえる大木みたいだ。
手すりの先は思ったよりもずっと高くて、見下ろすと少しだけ足がすくむ。
「向こう側には行けるの?」
「お前のイメージ次第で、どこまでも行ける」
平然と言われた。
風がさらっとアクの青い髪を揺らす。遠くを見つめる横顔に、つい目が吸い寄せられてしまう。
「昨日は止めたのに?」
「安全を優先した。判断は正しかった。だが、お前の意思を無視したのは事実だ。接触の仕方も、多少強引だったかもしれない」
アクの長い睫毛が頬に影を落としていた。
「お前を守ることが俺の役目だ。主観は切れと、教わった」
胸の奥で沈んでいた何かが、ふわっと浮き上がるような感じがした。
「私、怖かったのかも」
自然と言葉がこぼれていく。
「今まで自分のことは、だいたい自分でやってきたから。守られるとか、人に頼るとか、あんまり慣れてなくて、それで」
アクの視線がじっとこちらに注がれている。それに気づかないふりをして、手すりの下に目を落とす。
「だから俺がいる」
短い言葉に、顔を上げた。
「主語は自分を守るために、自分の言葉を信じるために俺を作った。その機能は今も変わらない」
なんとなく、まっすぐ向けられる視線に耐えかねて、私は少し笑って顔を逸らす。
「なんかずるいな……主語とか、機能とか。わかるよ? わかるけどさ、なんか……」
自分の語尾が震えるのがわかった。
あれ、なんでだろ。私、何が言いたいんだろう。
アクは自分の手を持ち上げて、それを見つめる。
そして、無言で私の手を取り、そっと両手で包んだ。
「えっ、ちょっと……」
「感情表現に接触は有効、らしい」
伏目がちに彼が言った。その手は少しだけ硬い。でも、ちゃんとあたたかい。
「俺は自分の感情を信用していない。ノイズが多すぎる」
相変わらず無表情で、声は冷静で。
「だが、今は……お前に触れたくなった。それだけは事実だ」
でも、視線だけは合わせずに、二人の手に目を落としていた。
「すまない。ここからは主観だ。ユウ」
はっとして見上げると、彼は再び私に向き直っていた。
「お前の火は白銀で、感情が昂ると火の粉が弾ける。それが散って煌めくのを見ると……無性に手を伸ばしたくなる」
彼の瞳に滲む青い火が、ちらちらと揺れていた。
きゅ、と手に力が込められる。
「……綺麗だ」
「ぅ、え……ッ!?」
喉から引きつった声が出た。
自分の顔がじわっと熱を持っていく。
意味がわからない。この人の言ってることが、何ひとつ。
わからないけど、とにかく——
「ほんとに、ずる……」
アクがわずかに首を傾けた。
「定義が曖昧だ」
脈拍を指摘されるかと思った。でも、彼はそれ以上、何も言わなかった。
***
「で、自分が惚気てる自覚ある?」
私の話を聞き終えたシグの、第一声がそれ。
共用スペースのテーブルで、気怠げにデバイスをいじっている。
「だってさぁ〜、ほんとにヤバかったんだって。あそこで名前呼ぶとか、反則でしょ!」
私はソファで足をバタバタさせる。
「知ってるよ。俺を誰だと思ってんだ。観測者だぞ?」
シグはこっちを見もせずに、その指は画面だけ叩く。
「その割にはずっといなかったじゃん」
「配慮してんだよ俺は。あいつらと違って中立なの!」
デバイスがビーッとエラー音を吐いた。
「あいつらって?」
その声に天井を見上げると、クロムの上半身が突き出ていた。
「主にお前」
シグが冷たく言い放つ。
クロムはそれを無視して、ふわっと床まで降ってきた。ソファまで近づき、ニヤニヤと私を見下ろしてくる。
「あの青い火を揺らすとか、君もなかなかやるじゃん」
「あのさぁ……」
「せっかくなら、俺の黒い火も触っとく?」
彼が手を伸ばし、私の頬に触れようとする。
「ちょっ……」
「おいクロム!」
シグがガタッと席を立つ。
青い火が視界を掠めたと思ったら、もうクロムの腕が掴まれていた。
「接触許可なし」
「おっと、お前だって許可なかったじゃん」
アクが軽く腕を捻って、クロムが短く悲鳴を上げた。
「ステラに報告する」
「いてててっ、それだけはやめて!」
解放されたクロムは、シグの影に隠れながら、こそっと耳打ちする。
「あいつ、たぶん図星だろ」
シグが冷めた目で軽く頷く。
「元々グレー寄りだったからな」
「聞こえてるぞ」
アクが静かに言うと、二人は同時に別々の方向へ視線を逸らした。
「わかった。主語から直接許可を取ればいいんだろう?」
今度は、アクにじっと見つめられる。
「へ、私? えっと……」
私はクッションを抱きしめながら、目を彷徨わせる。
「お前だけの主語じゃねぇんだけど」
シグがため息混じりに突っ込んだ。
「そうそう、俺らの主語でもあるわけだし」
クロムは完全に面白がってる表情だ。
ふいっと顔を背けたアクが、小さく声を落とす。
「一番近いのは、俺だ」
「……あ?」
「……お?」
前の二人が同時に漏らして、一瞬だけ時間が凍った。
そうして、クロムがくすくすと笑いだす。
「なんだよ今の宣言。アクかわいー」
「事実だ。主語、接触許可を……」
「待って待って! 定義が曖昧だからぁ!」
こっちは迫ってくるアクを押し返すので精一杯だ。
シグがうんざりしたようにボソッと呟く。
「公式ログには残さねぇからな」
私はまだ、自分が何者かなんてわからない。
だけど、頬が熱い。鼓動が速い。
感じてるのは『私』。
この感覚だけは、きっと嘘じゃない。
***
それでも、今日の君を観測する。
理由:俺が忘れないため。
(Log.**??**38/Observer.Sig)




