第17話
「……ん……はぁ……」
ベアトリスは苦しみの中にいた。
意識がもうろうとし、自分が今寝ていることしか分からない。
どうして寝ているのか、それを考えることすらできず、ただ身体全体に不快感が重くのしかかり、それでいて燃えるように熱い。
「………ん……」
どうしてこんなにも瞼が重いんだろう。そう思いながら、まるで糊で張り付けられたように開かない瞼を何とか開く。
まぶしい光が目を刺激する。
白い世界の中に、何か黒いものが横切った。
「起きたか、ベアトリス」
その黒いものが喋った。
開き切れない瞼では焦点も合わず、それが黒いものとしか認識できない。
けれど、その聞き覚えある声が、誰なのかを教えてくれた。
「……ヴィン、セン……ト、殿下……?」
口もまともに動かない。やっと紡げたその名前に、彼が微笑む気配だけがした。
「ゆっくり休め。それとも、喉が渇いたか?」
「………水」
言われて、喉が渇いているのに気付いた。
そっと彼の腕が背中に回り、力の入らない体を起こしてくれた。
体を起こすと、少しだけ視界が広くなる。
「持てるか?」
力の入らない手を、彼が持つ水の入ったコップに向けて伸ばす。
しかし、ヴィンセントはその手で持つのは無理と判断した。
身体を寄せ、腕だけでなく体全体でベアトリスの背中を支える。
「大丈夫だ、私が飲ませる」
そう言って、コップを口元に近づけてくれる。
コップと唇が付き、それからゆっくりと傾けていく。冷たい水が口に入り、そこから喉へと通り過ぎる。
ヴィンセントは一気に飲ませ過ぎないよう、少し傾けては戻し、ベアトリスが口に含んだ分を飲み干すのを待ってから、次の分を傾ける。
コップの半分も満たない量で限界になったベアトリスは、それ以上は飲めないと首を横に振った。
「そうか」
コップを寝台の脇のテーブルに置かれる。
それを見たとき、ベアトリスの頭にこの状況であることを思いだしていた。
(そう…だ。寝台に、王子が……いる……なら……毒……薬……飲ませ……なきゃ…)
熱と不調で回らない頭は、今の状況を父王に言われたのと同じ状況だと誤認した。
ベアトリスは毒薬の入ったネックレスを探し、手をフラフラと動かす。
「どうした、ベアトリス?何か欲しいものがあるのか?」
「……ネ……クレス……」
「ネックレス?これか?」
ヴィンセントはベアトリスがいつも身に着けているネックレスを手に取った。
眠るのに邪魔だろうということで、外してテーブルに置いていたのだ。
それを受け取ったベアトリスは、おぼつかない手で宝石部分を外し、中から丸い毒薬を取り出す。
それを、ヴィンセントは間近で見ていた。
(一体、彼女は何をしている?何を取り出したんだ?)
「ベアトリス、それは何だ?」
ヴィンセントの質問に、ベアトリスはフラフラとした頭で答える。
「毒…薬……あなた……殺す……ため……」
「……」
ベアトリスの答えに、ヴィンセントは顔をしかめた。
だが、それにベアトリスは気付かない。
「あなた……これ……飲む……死ぬ……私…も…死ぬ……そう……言われ……」
「…分かった。あなたは、これを私に飲めと?」
ヴィンセントの問いに、ベアトリスは小さく頷いた。
ベアトリスの細い指が毒薬をつまみ、それをヴィンセントの手のひらに乗せた。
しかし、次の瞬間にその意識は途切れ、ヴィンセントの腕の中に力なく頭を横たえた。
「……すー……すー……」
細工されたネックレス、その中から出てきた毒薬。
ベアトリス、ひいてはホスティス国王の狙い。
そのすべてを理解したヴィンセントは、目の前でようやく眠りについたベアトリスの顔を、悲痛な表情で見つめていた。
(やはり彼女は、私を殺すために送られて来たんだな。しかも、その後に彼女が殺されることを、彼女自身も知って、その上でそれを実行しようとしている)
「ベアトリス……」
ヴィンセントの心には、ベアトリスへの怒りは微塵もない。
彼女が自分を殺そうとしているのは事実だが、事実ではない。
彼女はそう命じられただけで、そこに彼女の意思はない。しかも、それを実行すれば自分も死ぬというのに、それを躊躇いなく実行しようとする自己犠牲の精神が、ヴィンセントには悲しかった。
ベアトリスは、ホスティス国の民のためなら、何でもするのだろう。
おそらく、ヴィンセントを殺し、自分が死ぬことも、それがホスティス国の民だと信じ、だからこそ実行しようとした。
そういう少女だと、ヴィンセントは理解している。
水を飲ませるため、思わず抱き締める形になったが、彼女の体は小さく、細かった。
こんな小さな体で、民のために何も求めず、なにも望まず、死すらいとわない。
そんな彼女のことがとても愛おしく、そして悲しい。
「ベアトリス……」
ベアトリスの頬に、一滴の雫が落ちる。
それはヴィンセントの流した涙だった。
一切の報いを求めないベアトリスを想うと、自然とこぼれた。
「ベアトリス…!」
彼女を苦しませないよう、起こさないよう、けれど昂ぶる気持ちを抑えきれず、彼女を抱き締めた。
ようやく、彼女が正体を隠して人助けにいそしんだのかも、予測がついた。
彼女は死ぬ気だった。
死ぬつもりの人間が、賞賛など求めない。そんなものは、あの世に持っていけない。
彼女は、早くに消えるであろう自身の命を燃やして、民のために尽くしたのだ。
(ベアトリス、私があなたを死なせない。私もあなたに殺されないし、殺しもしない。必ず二人で生きて、そしてあなたを幸せにしてみせる)
何も求めず、日常の食事すら最低限で済ませる彼女を幸せにする。
それは恐ろしいほど至難か、驚くほど簡単か、どちらかは分からない。
だが、いずれにせよ、ヴィンセントはそれを諦めるつもりはない。
ヴィンセントは毒薬をそっとテーブルに置いた。
そして、そっとベアトリスを寝台に横たわらせる。
大人しく寝息を立てているベアトリスを確認すると、毒薬とネックレスを手に、そっと扉へ近づくと、隣室で控えていたメリッサに、ティルソンを呼びに行かせた。
夜も深まり始めていた時間帯に呼び出されたティルソンは大層不機嫌そうだったが、ベアトリスの語った真実に驚き、そしてヴィンセントの覚悟を聞いて笑った。
「じゃあ、これからどうするか、決めたんだね?」
「無論だ」
ベアトリスの私室前の廊下で、男二人は小さく笑う。
だが、ヴィンセントの黒い瞳は、闇に沈んだ廊下の中にあってなお黒く輝くほどに力強い光を帯び、ティルソンの赤い瞳は、今日あった火事のように爛々と燃え盛っている。
片方は愛しい少女を守り、幸せにするため。
片方は、そんな親友の覚悟を成就させ、彼と彼の愛した少女を幸せにするため。
「ほんと、ホスティス国はおろかだよね。ベアトリス様を、この世で最も渡してはいけない相手に渡してしまったんだから」
「どういう意味だ。だが…その通りだ。あの国の愚策は腹立たしいが、ベアトリスをよこしたことにだけは感謝しよう。いずれにせよ……」
そこで一度言葉を区切ったヴィンセントは、狩人を狩る獰猛な獣の目をしていた。
「ホスティス国は潰す。ベアトリスのためにな」




