第6章 「今日で最後にしようと思うの」
翌日、屋上。
夕方の風。
フェンスの影が、地面に格子模様を作っている。
その中に、俺と彼女の影が重なっていた。
「この練習、今日で終わりにしようと思うの」
想定していた言葉なのに、息が止まる。
“わかっていた”ことが、実際に起こる瞬間、
人は少しだけ過去に逃げる。
俺も、昨日の会話を引き戻していた。
“まだ続いている”と思いたかっただけだ。
「彼氏、できたの?」
「うん」
「そっか。おめでとう」
その言葉が自分の声に聞こえなかった。
形だけの祝福。
言葉の中に、感情が入り込む隙がなかった。
彼女はフェンスに手をかけた。
指が金属をなぞる。冷たい音。
「でもね、話してみたけど、あんまりドキドキしなかった」
「……練習の成果だな」
「ううん。違うの」
彼女は首を振る。
「中嶋くんと話してるときのほうが、心臓がうるさかった」
「それは、“練習”だから安心してたんだよ」
「安心してたら、こんなに怖くならない」
その言葉で、視界が一瞬揺れた。
夕陽のせいか、涙のせいか、自分でも分からなかった。
「中嶋くん」
「うん」
「これが“本番”でも、同じくらい怖いなら、私、逃げないようにしたい」
彼女はそう言って、俺の袖を掴んだ。
指先が冷たい。
寒さじゃない。恐れの冷たさ。
俺は、手を伸ばせなかった。
もし掴み返したら、言い訳が消える。
消えたら、たぶん俺は彼女を傷つける。
“守る”より“壊さない”を選んでしまう自分が、
この瞬間いちばん嫌いになった。
「ありがとう。練習、付き合ってくれて」
その声は震えていなかった。
彼女は、もう次の場所に進もうとしていた。
俺はまだ、立ち止まっていた。
この違いを、恋と呼ぶのか、すれ違いと呼ぶのか。
結論を出すには、まだ胸が痛すぎた。
風が吹いて、髪が揺れた。
彼女の横顔が夕陽に染まる。
その光の中で、彼女は少し笑った。
それが、本当の笑顔だったのか、さよならの練習だったのか、分からないまま。




