第4章 正解の隙間で
文化祭の準備が始まった。
教室は、熱気と埃の匂い。テープの剥がれる音と笑い声が混ざる。
賑やかすぎる空間で、俺だけ呼吸のリズムを見失っていた。
「看板、ここでいいかな?」
紗羅が脚立の上から声をかける。
細い腕で紙を支えながら、こっちを見ない。
“視線を向けない会話”は、彼女の防衛線だ。
俺もそれを崩す権利を、まだ持っていない。
「もう少し右。……いや、半歩左」
「どっち?」
「……右」
曖昧な言葉で指示を出す。
正確な答えを出せばいいのに、曖昧にしてしまうのは、
“責任を共有できる”と思いたいからだ。
脚立を降りた彼女が、袖を軽くまくる。
手首に小さな絆創膏。
段ボールの角で切ったのだろう。
白い肌の上で、その小さな傷がやけに目を引いた。
完璧な人に見えるほど、小さな傷跡に惹かれるのはずるい。
他人の“欠け”で、自分の安心を測るのは、最低だと知っているのに。
「文化祭、楽しみ?」
不意に聞かれて、言葉が遅れた。
「……まあ、普通」
本音は“楽しみたい”なのに、素直に言えば、それは“彼女と一緒に”の意味になる。
それを出せないのは、まだ練習中だから。
練習は、心の一線を守ってくれる。
でも、守られているうちに、本音の筋肉は衰える。
「私ね、こういう準備、好きなんだ」
「どうして?」
「正解がないから」
その答えに、胸の奥が少し痛んだ。
正解を選び続けてきた人の言葉にしては、優しすぎた。
窓の外、風が吹いてポスターがはためく。
貼り直そうとする手を、俺が支えた。
指先が重なった一瞬、呼吸が乱れる。
彼女の表情は変わらない。
でも、ほんのわずかに眉の間が寄っていた。
“触れたことを自覚した顔”だ。
それを見て、俺は何も言えなかった。
言葉を出せば、今の距離が終わる気がした。
その夜、家で鏡を見て、ふと思った。
俺が惹かれているのは、彼女じゃなくて、
“彼女に惹かれている自分”かもしれない。
そう考えた瞬間、胃のあたりが冷たくなった。
誰かを想うより、自分の立場を守るほうを選んでいる。
それは、恋ではなく、逃げ場所だ。




