表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

第3章 確認の前置き

翌日は雨だった。

昇降口から商店街までの短い距離で、靴が濡れ、言い訳が増える。

濡れていると、人は近づく。理由があるから。理由があれば、後悔の量を減らせるから。


屋根の下に入り、彼女が袖を掴んだ。

強くはない。引き止めるでも頼るでもない。

“ここにいるから、今は動かないで”という程度。

その軽さが、むしろ効いた。

俺は動かなかったし、動けなかった。


「これ、練習。……本番のときに、ちゃんと震えるのか、確認したくて」


“本番”という言葉に、俺は弱い。

本番で失敗した記憶が、ないからだ。

背景は、失敗しない。出番がないから。

だから俺は、本番に立つ人間の重さを、いつも外側からしか知らない。


「……震えてる?」

彼女はそう言わず、代わりに視線を落とした。

言葉を選ぶとき、人は目を逸らす。

逸らした先に、結論があるときもある。


「終わりにする前に、確認したい」と彼女が言った。

“前に”が、俺には刺さった。

終わりはまだ来ていないのに、すでに過去形の影が差している。

影は先に来る。光より早い。

人はそれを予感と呼ぶが、たぶんあれは計算だ。

失いそうなものの輪郭を先に見て、深さを測る。


傘の内側は狭い。狭いのに、話すことは増えない。

多く喋れば、何かが始まるか、何かが壊れる。

どちらも、今の俺には不釣り合いだ。

練習という名前に、まだ甘えられる時間が残っている気がした。

甘えると、次に払う代金は高くなる。

それでも人は、先延ばしを選ぶ。延ばした時間のぶんだけ、準備ができると信じるから。

実際は、準備が整う前に終わりは来る。それを知らないわけじゃない。


「じゃあ、今日はここまで」と彼女が言い、俺は頷いた。

頷くことは、責任を負わない承諾だ。

ここまで、と区切ることで、次を想像させる。

次を想像させる人は、残酷でもある。

でも、残酷かどうかは、終わってから決まる。


その夜、ベッドの上で、俺は今日の会話を巻き戻した。

言い訳に寄りかかっていた場面で、何を言えたか。

言えた言葉のいくつかは、明日には使えない。

温度の下がった紙コップの縁みたいに、薄い痕だけを残す。


——そして数日後、屋上で彼女は言う。「練習は、今日で最後にしようと思うの」

そのとき俺が何を考え、どんなふうに沈黙を選んだのか。

答えは、まだ言葉にならない。

言葉にすれば、戻れなくなる。

戻れない場所に立つ準備を、俺はずっとしてこなかった。


だから、今はまだ、黙っている。

黙ることだけが、俺の誠実さのかたちみたいに思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ