第1章 言い訳の安全地帯
昼休み明けの廊下は、音が一度だけ遠くなる。
その静けさの真ん中で、名前を呼ばれた。
「ねえ、中嶋くん。恋人の練習、してみない?」
言葉の表面が軽くても、内側に重さがあるとき、人は息を吸い直す。俺もそうした。
「練習」という単語は、便利だ。約束より弱く、断るより強い。安全地帯の名前。
「……具体的に?」と返す間に、俺はもう答えを出していた。引き受ける、のほうに。
理由は簡単だ。期待されない場所にいれば、失望させる心配がない。背景は、失敗しない。
「放課後、駅前で。初回は短く。私、うまく喋れないから」
彼女——水城紗羅はそう言った。
“うまく喋れない”は、たぶん本心じゃない。でも本心じゃないからこそ、そこに本音が混ざる余地がある。
彼女は「練習」と言い、俺は「分かった」と言った。
言い訳がふたりの間に置かれ、会話はその上を歩き出す。
放課後の店。窓辺の席に座るまで、俺は何度か、帰るという選択肢を頭に浮かべた。浮かべただけで、捨てた。
逃げ道は、あるときだけ人を落ち着かせる。実際に使えば、次はもっと遠くなる。そこまで賢くはない。
「こういうときの“彼氏っぽい”話題って、何だと思う?」
試されていないのに、試験の空気になるのが苦手だ。
「寒くない?」と答えると、彼女は「正解」と笑った。
正解という言葉は、心に刺さらない。点数のつかない場所で生きてきた人間には、特に。
「“あーん”とか、やったほうがいいのかな」
俺は否定しなかった。否定すれば、練習が終わる理由になる。
終わらせる理由を持ちたくないのは、もう練習に守られている証拠だ。
差し出されたポテトは、味がどうでもよかった。
大事なのは、俺の沈黙が長すぎないことだけ。
飲み込んだあと、感想を言わないでいると、彼女が僅かに肩の力を抜いた。
安心させてしまった、と思った。
安心は、距離を測る物差しではないのに。
店を出るとき、彼女が「今日はこれで」と告げた。
短く終わると分かっている約束は、人を気安くさせる。次もあると想像できるから。
俺はその想像に寄りかかった。自分の足では立たずに。
帰り道、夕陽がまぶしかった。
まぶしいとき、人は視線を落とす。落とした先に、自分の影が伸びている。
俺の影は長く、軽く、当事者でない形をしていた。




