娘の糸
先生。祝言の前に秘密を一つ、打ち明けさせてくださいませ。
……ええ、ええ。仰るとおり、私は父と母の正当な娘でございます。家庭もけして貧しくはありません。名前も経歴も、釣書の通りでございます。そこに秘密など一切ございません。
しかし釣書には書いていない、過去の秘密があるのです。
そしてこの私の秘密は、先生にも関係のあることなのです。
すでにご存知のとおり、先生は私にとって108人目のお見合い相手でございます。
つまり、この話をするのは、もう108度目なのです。
これまでの107名の殿方には、見合いの席で全て真実を語りました。それが公明正大であろうと、私はそう考えたからでございます。
先生も私の噂はとうにご存知でしたでしょう? 107名の殿方に断られた奇妙な女……。
そうです。そのせいで母にきつく叱られて、先生とお会いする時は冬の虫のごとく黙り込んでいたのです。
……いえ、いえ。これは秘密でもなんでもありません。
私は生来、おしゃべりな女でございます。
口を閉ざし耐えたのは、ひとえに先生と添い遂げたいがため。はしたない女とお思いになるでしょうか。私は先生と夫婦になるために、無口な女を演じたのです。
無口な女がお好みでしたら、私は今日を境に口を閉ざすこともやぶさかではありません。
しかし今だけは口を開くことをお許し下さい。先生には、本来の私を知って、知った上で私を愛し、祝言を迎えてほしいのです。
今宵より夫婦となる二人に秘密など、あっていいものか。早く真実のお話をするべきだ……いや、一年経ったときでよかろう、いえいえ、子が生まれたときでもいいだろう……いっそ、添い遂げた最期の夜でも……。
そう思い悩み悩み、ようやく決意が固まったのは昨日遅くのことです。
優柔不断な私のせいで祝言の直前の忙しない告白となり、何とも申し訳のないことでございます。
糸? ああ私が手にしているものですか? そうです。お見合いの席でもお見せしたものです。え、え。美しいでしょう?
そうですね、糸……絹糸によく似ております。
きらきらと輝いて、触り心地もいいのです。幼い頃より、ずっと指に絡め、時に噛みつき、まるで姉か妹のように慣れ親しんだ……宝物でございます。
祝言の日にまで持ち歩くなと、母にはひどく叱られました。
ただ、これを持っていると落ち着きますので、ひそかに持ち出してきたのです。
……随分とお話が脱線してしまいました。そうそう、秘密のお話でしたね。
先生はお医者様ですので、人の話を聞くのは慣れておりましょう。
しかし話をする人間はどうにも気が重いものです。自分の過去を語らねばならないというのは。
そうです。これは私の昔話なのです。
ここだけの話になりますが、私は以前、800年ほど地獄に落ちていたのです。
おや? 先生は表情もお変えにならないのですね。
いえ、笑ってしまって失礼いたしました。
これまでどの殿方も、私の言葉を聞くと妙な動きをなさったものです。例えば目をそらしたり、逆にじいっと私を見つめたりなど。
さあ、来たぞ。と構えられる方もいらっしゃいました。
私が異様であると先に決めつけてしまう。そういうことです。
しかしお話を最後まで聞く前にそう思い込まれるのは、いかがなものでしょう。
ああ。お話がまた逸れました。どうにも私の口は、つるつると滑らかでいけません。
……失礼致しました。お話を続けてもよろしいでしょうか。
私が自分の過去に触れることになったきっかけは……そう、3歳の頃です。
私は言葉を放つのが遅く、親にも随分と心配をかけさせたようです。特に母親というものは、児の膚に少しの疵でもあれば大騒ぎをするものですから。
3つの年を無音のまま刻む私を、どんな思いで眺めていたのでしょう。
母を思うと、私は今でも胸が締め付けられる思いがいたします。
そうして。3つと10日経ったあの日。
確か、肌が焼け付くほどに暑い暑い、夏の朝でございました。蝉が煩く鳴いて青い空を飛んでおりました。
老いた乳母が放生会だといって、生きた亀を入れた桶を縁側に置いておりました。亀が暴れて水を弾き、青々しい畳に水が染み込んだのを今でも覚えております。
このとき、私は半睡の母の前で初めて人の言葉を叫んだのです。一度ならず、百回は同じ言葉を叫んでそうして倒れた……と、いうのです。
母は私の叫んだ言葉を、書き留める必要さえありませんでした。
私はしばらく、その言葉しか発しなかったのですから。
幸い母の縁者に言語学の先生がいらっしゃったので、両親はすぐさまそちらを頼りました。
すると驚くことに言語学の先生は「古い人の名前だ」、そう仰ったそうです。
ご存知の通り父は医者ですし、古文書を集めるのが趣味でございましたから、家には医学書とともに古文がわんさとございました。
その本に載っている文字を目にしたのだろうと、両親は考えたようです。
ええ、そうですね。古い言葉を話すなど、小さな子にはよくある話です。天才児と讃えられることもあるやもしれません。
ただ……話した言葉が悪かった。
何を口にしたのか。今は、おいておきましょう。
またお話が戻ります……そうでした、そうでした。地獄のお話です。
先程申し上げましたとおり、私は20年と少し前まで、八大地獄におりました。
骨を砕かれる等活地獄。
縛られ、切り刻まれる黒縄地獄。
これ以上は申しませんが、八大地獄はあらゆる苦厄が待ち受けます。
ここ命を殺めるものが落ちる場所です。ええ、私もおおよそそういう生き物でした。
もちろん、過去の話です。
20年と1日前。母の肚に宿る前の話です。前世のお話でございます。
恐ろしい? いいえ、何も恐ろしいお話ではありません。これは愛のお話でございます。
私にはかつて、愛した男がおりました。愛おしゅうて、愛おしゅうて、たまらぬ男でございます。
ただし男は極悪人でした。人を殺し物を盗み、火を放ち、考えつく限りの悪を行いました。
しかし彼はその真っ黒な人生に、一つだけ良いことをしたのです。
この私を、殺さずに逃してくれたのです。
彼の中にどのような考えがあったのかはわかりません。小さな私の命を奪わず、逃してくれた。
これが彼、ただ一つの美点となりました。
彼は死後まっすぐ、地獄へと落ちました。
そして私は、なにか行き違いがあったのでしょう。極楽に引き上げられました。
私もかつては小さきもの、美しいものを捉え、弄び、食いちぎり、踏みつけてきたのです。
それは生きるためです。
しかし彼もまた生きるために人を殺しました。そこにどんな違いがありましょうか。
なぜ彼が地獄で私が極楽なのでしょう。
私の体が小さく、憐れまれたからでしょうか。しかし命を奪った数は、彼より私のほうが多いのです。
私は泣きながら、そう訴えました。
美しい蓮の咲く、精錬たる庭でした。水に浮かぶ蓮は透き通るような白。黄金色の軸からは良い香りが漂い、水滴には朝の光が吸い込まれておりました。
そう、今立っている、この風景とまったく同じ光景でございます。
庭を歩く、尊い人に私は涙ながらに訴えたのです。
私も地獄に落ちたい。もしくは、あの人を救わせてほしい。地獄に落ちたあの人を。
ふふ、おかしいでしょう。ただ一度しかお会いしていないその男を、私は心底愛していたのです。
このおぞましい過去を、思い出したのは、4つの年の頃です。
父に文字をならい始めた私は、蝶という言葉を見るとひどく空腹を覚えるようになりました。
6つの年で私は密かに虫を捕らえるようになり、絵を始めた7つの頃には虫を描き、10の年で虫を殺しました。中でも美しい蝶に心惹かれました。絹糸で巣を作り、捉えて羽根をむしるようになりました。
そして、15の年にはじめて虫を啜って食いました。
母には恐れられ、父は避けました。虫を殺すのは罪なことだと、父が母が、数多くのお医者様が私を囲んで説得いたしました。
このままでは人の命を奪う罪人になりかねないと、頬が腫れるほど父に殴られました。しかし私は一度だって謝りませんでした。
ええ。これは罪ではございません。習性です。
蜘蛛としての習性です。
……先生、私の持つこれが気になりますか?
糸……そう、糸です。先生、見合いの席でもこれを目にして最初に糸とおっしゃいましたね。
これまで出会った107名の殿方は、これを見て紐だとおっしゃられました。糸だと最初から口にしたのは108人目のあなた。先生だけです。
そう、これは糸です。
昔の私の手は、毛むくじゃら。何かを掴むことは不得意でした。
足はもちろんありましたが、人のように早くはありません。
唯一、自由にできたのは口から吐き出す強靭な糸です。
昔の私はこの糸で、地獄に落ちた愛した男を救おうと、そう考えたのです。
ですから地獄に糸を垂らしました。真っ白に染まる美しい糸です。多くの蝶の体液を吸った自慢の糸です。あの人はそれを掴み、極楽へ上がろうとしました。
大勢の囚人が糸に群がりました。私の糸を奪い合うその様子を見て、極楽の主たる仏様は悲しそうなお顔をされました。
切っておしまいなさい。と、私に向かってそう仰られました。あれは咎人である。救いようもない……と、悲しそうに首を振っておいででした。
私は頷き、切る真似をいたしました。
糸はこのように……そう、折り重なっておりますので、一本切ってもすぐに千切れることはないのです。
一本切って、密かにもう一本吐き出します。そうしていつまでも切れない蜘蛛の糸を、私は地獄に垂らし続けました。
彼が上がってくればその手を取り、糸に群がる囚人は糸を切って地獄に落としてしまえばいい……私はそう思っていたのです。
しかし糸を手繰って登ってくる最中、彼はこれが何であるか、私が誰であるのかを悟ったのでしょう。
極楽蓮から覗き込む私を見て、彼は目を丸めました。
彼は、美しい天女が手を差し伸べたとでも思ったのでしょうか。
あるいは黄金の手を持つ仏様が、清浄な糸を垂らしたとでも思ったのでしょうか。
蓮の合間より覗き見る、毛むくじゃらの……恐ろしくも巨大な蜘蛛たる私を見て、彼は悲鳴を上げました。
その顔が歪み、自ら糸から手を離しました。囚人たちとともに、彼は再び地獄の業火に焼かれました。
私もまた仏様を謀った罪で地獄に落ちました。しかし彼に会うことなどできないまま800年。私は地獄を巡り巡り……。
そうして何の因果か、このように美しい人間の娘へと生まれ落ちたのでございます。
おや、先生。お顔の色が随分と悪うございます。まるで極寒地獄の囚人のようです。青くてかたかたと震えていらっしゃる。
私の白く塗り立てた顔が恐ろしいのですか。私の着物を包む蝶の柄が恐ろしいのでしょうか。
……それとも私の手にするこの糸が、懐かしいのですか?
私が3歳の頃に、叫んだ言葉は、未だに覚えております。忘れることなどできませぬ。それは私の愛した男の名前です。
何という偶然でしょう。何という瑞祥でございましょう。
それは先生のお名前と同じ。
犍陀多様
命を奪うばかりの蜘蛛が、初めて人間の男に命を救われた。
命を奪うばかりの罪人の貴方が、初めて蜘蛛の命を救った。
それが私と貴方の数十年前……隠された秘密でございます。
ああ、ようやくお会いできた。まさかお医者様になっていらっしゃるとは、極楽の仏様もご存知ないでしょう。
あなたが前世で奪った命の数だけ、今生でお救いなさるなら私も同じ数だけ蝶を救いましょう。
……いえ、あなたはそんな清い方ではございますまい。前世の業というものは、洗っても拭えないものでしょう、ねえ?
107人の男に振られた女を選んだ理由は、父と懇意にしたいがためでしょうか。土地の価値でしょうか。それとも美しい私の見た目を求めたのでしょうか。
罪は罪に惹かれるのです。過去、あなたが私を救ったのも、罪の香りを嗅いだからでしょう。
所詮、我々は惹かれあう運命にあるのです。
あなたが今生で再び人の命を奪って罪人となるのであれば、私も揃って罪人になりましょう。そうして、共に800年の地獄めぐりをいたしましょう。
さあ今度こそ、この糸の先をしっかりと握ってくださいませ。
そう、腕に巻き付け、そうそう、腰にも巻きつけましょう。首にも足にも……口元にも。
蜘蛛の糸というのはとても便利なもので、そうそう簡単には千切れないのです。なにより、糸にすがる囚人はもうここにはいないのですから。
あら、気がつけば、昼も近くなっております。庭には蓮が、地面には昼の日差しが。
お客様も集まっております。さあ参りましょう。愛おしい人。
ここからは我らの極楽。かつては叶わなかった祝言へ、今こそ。