93 絵描きへの依頼
ダネルと話をした後、アルメは早速、絵画工房を訪ねた。彼の家から少し歩き、通りを奥に入った場所に平屋の建物があった。
玄関の呼び出し鐘をカランと鳴らす。
迎えてくれたのは、黒ぶち眼鏡をかけた女性だった。ボサボサとした濃紺の髪を低い位置でくくっている。
「……こんにちは。ベステル先生は今工房を出ていますが……何かご用でしょうか?」
うつむきがちに、小さな声をかけてきた。控えめな印象――というより、言い方は悪いが、少し暗さを感じる声だ。
エーナやジェイラが『陽』属性ならば、この女性は間違いなく『陰』属性を感じさせる雰囲気である。
「突然訪ねてしまって申し訳ございません。修復師のベアトスさんからご紹介いただいて、依頼の相談を、と思ったのですが……日を改めた方がよさそうですね」
彼女の言う『ベステル先生』というのが、この絵画工房の主人である。ダネルとは長年、仕事のやり取りをしている男性の画家だそう。
眼鏡の女性はボソボソと、早口で言う。
「あ、いえ……ちょっとした用事で近くに出ただけなので、すぐに戻るかと。……中でお待ちになりますか?」
「ご迷惑になりませんか?」
「大丈夫です……むしろ、こちらこそご迷惑をおかけしてすみません……私なんかが、お客様対応をしてしまって……」
女性は背中を丸めて、ペコペコと謝ってきた。アルメより背が高く、痩せた女性だ。エプロンは絵具で汚れている。
アルメを中に招き入れると、彼女は改めて自己紹介をした。
「私はタニアと申します……ベステル先生に師事しています」
「アルメ・ティティーと申します。よろしくお願いします」
挨拶を交わしながら、タニアは工房の奥へと案内してくれた。
この絵画工房は画家ベステルを師として、数人の弟子たちが一緒に仕事をしているそう。
アルメは工房の廊下を見回した。ごっちゃりと置かれた道具類に混ざって、ズラリと絵が飾られている。
絵画の展示会場のようで、なんだかワクワクとした気分になってしまった。その気持ちにまかせて、タニアに軽い調子で話しかけてみた。
「タニアさんも絵を描かれるのですよね? この中にありますか?」
「あります……一応」
「あら、どちらでしょう?」
「探さないでください……私は全然上手くないので……ほんと、全然なんで、全然」
うつむきがちな顔をさらに下に向けて、タニアは歩みを早めた。
(あれ……? 聞いちゃいけないことを聞いてしまったかしら……)
タニアの様子を見て、アルメは途端に冷や汗をかいてしまった。自分はどうやら、余計な話を振ってしまったようだ……。
案内された先は作業室だった。区切りのない広い空間に、大きな机が何台か設置されている。
机の周囲には画材や絵筆の刺さったバケツ、イーゼルや木枠、キャンバスなどが並ぶ。アトリエらしい賑やかな景色だ。
タニアと同じく、ベステルに師事している若者たちが絵を描いている。
部屋の端の応接スペースに通されて、アルメは席についた。
「……お茶をお出しします。お待ちください」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
タニアは背を丸めたまま、そそくさと部屋を出て行った。
そうして待つ間。
何の気なしに作業室に意識を向けた時、聞こえてしまった。他の弟子たちのひそひそ声を――。
「タニアの奴、もうすっかり接客係だな」
「あの人、絵を描くよりお茶を入れる方が上手いんじゃない?」
「雑用がいた方がこっちも楽できるし、いいじゃないか。片付けとか、あいつに丸投げできるし」
弟子たちはクスクスと笑っていた。……タニアが背を丸めている理由がわかってしまった。
(タニアさん、ご自分で絵が上手くないって言っていたけれど……絵描きさんたちの中でも、なにやら上下関係みたいなものがあるのね。厳しい世界だわ……)
よくわからないけれど、技術の高低によって職場内で地位の上下でもあるのだろう。どこの分野でも、聞くような話だ。
部外者のアルメが口を出せるわけもないので、聞かなかったことにしておこう……。
ほどなくして、タニアがお茶を入れて戻ってきた。
お茶を置いた後、彼女は近くの棚から数冊のファイルを持ってきた。テーブルに広げて、アルメに勧める。
「……時間潰しにどうぞ。工房に在籍している絵描きたちの作品集です……。これがベステル先生のもので、こっちは私たちの作品です……」
分厚いファイルを受け取って開いてみると、素晴らしい絵の数々が、目を楽しませた。
重厚な塗りの人物画や、本物そっくりに描かれた写実的なフルーツの絵。毛並みの一本一本まで緻密に描かれた動物の絵、などなど。
ファイルを次々と手に取ってめくりながら、アルメは感動の声を上げた。
「わぁ、すごい! 上手! って、素人丸出しの感想しか出てこなくて申し訳ないのですが……みなさん、さすがですね」
「みんな上手いですよね……。まぁ、先生は当たり前として」
「あれ? タニアさんの作品集は――……」
ファイルにはそれぞれ作者の名前が記されている。ふと気がついたが、タニアのものは見当たらない。――と、思ったら、棚に一つ残されていた。
視線に気がつき、タニアがため息を吐きながら持ってきてくれた。
「……私のは、これです」
「見てもよろしいですか?」
「どうぞ……」
ファイルを受け取り、ペラっと開いてみる。
その直後、アルメは思わず声を上げてしまった。
「わっ! これは……!」
タニアの絵は他の人の絵と比べると、ずいぶんと趣の違うものだった。
人物も食べ物も動物たちも、可愛らしくデフォルメされた絵柄で描かれている。色合いも鮮やかで、実にポップな絵だ。
緻密で写実的な絵がそろっている作品ファイルの中で、彼女のファイルだけ異彩を放っている。
けれど明るい絵柄とは裏腹に、タニアは暗い顔をした。
「……すみません……とんだお目汚しを……」
「いえ、いえいえ! 素晴らしいです! この丸っこい生き物とか、とても可愛くて」
「えっと、それは猫です、一応。……か、可愛い?」
「えぇ、とても素敵! こういう絵柄で、ヒヨコとかもかけますか?」
「あ、はい……」
その辺から紙とペンを取り出すと、タニアはサラサラとヒヨコを描いた。ぽってりとしたまん丸のヒヨコだ。
まさに白鷹ちゃんアイスを絵にしたようだった。アルメは手を叩いて喜んでしまった。
「可愛い! 完璧なヒヨコですね! これ、最高です! まさにこういう絵柄を求めていたのですが、タニアさんはお仕事を請けておられないのでしょうか?」
「えっ!? 私!?」
はしゃぐアルメの声と、驚くタニアの声が作業室に響いた。
ハッと目を向けると、他の弟子たちが怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
少し声を抑えて、アルメは依頼内容を話す。
「私はアイス屋――氷のデザートの店を経営しているのですが、新店を出すにあたって、諸々のイラスト制作をお願いしたくて」
「も、諸々、とは……!?」
「店舗に掲げる看板とか、メニュー表に添える絵とか、あと店のマスコット兼ロゴの制作とか――あ、ちなみにマスコットですが、こういう丸っこい白い鳥を予定しています。もう、こちらの絵をそのまま使ってもいいくらい」
「私の絵を……!? こんな落書きみたいなヒヨコを!? せ、せめてもう少し細部を描き込んでリアルに――」
「あぁっ、駄目です! このゆるさがいいんです! ゆるキャラがいいので」
「ゆるキャラ……?」
「ゆるいマスコットキャラクターです。可愛い絵柄の方が人気が出ると思うので。タニアさんの絵柄がベストなのですが、お仕事を依頼することはできないでしょうか?」
「仕事は、私もお受けできますが……いや、でも、私の絵でいいの……!?」
いつの間にか、タニアは顔を上げて話に聞き入っていた。照れたように頬が赤い。ようやく彼女の顔を真正面から見ることができた。
丸まっていた背筋が伸び、ボサボサの髪が横に流れる。現れたタニアの容貌は、上品で綺麗なお姉さん、といった風であった。
思いがけず、よい絵師と知り合うことができた。アルメは喜びのあまり、心の内で手を叩いてしまった。
そんなアルメとタニアの元に、一人の男が歩み寄ってきた。彼は先ほど、こそこそ話をして笑っていた弟子のうちの一人だ。
若い絵描きの男はアルメに向かって、一枚の紙を差し出した。紙にはものすごくリアルな、ヒヨコの絵が描かれていた。
「お客様、お仕事のご依頼ならタニアではなく、俺にどうぞ。絵の上手い人間は他にもそろっています。同情で絵描きをお選びになることはありませんよ」
男は得意げな顔でタニアを見下ろした。
工房内の事情は知らないが、アルメは純粋に絵柄で選んだだけである。タニアの絵が、アルメの求めるイメージにぴったり一致したという話だ。
「ええと、こちらのヒヨコの絵もたいへん素晴らしいのですが……申し訳ございませんが、やはりタニアさんにお願いしたく。彼女の丸っこいヒヨコが素敵なので」
「なっ……本気で言ってます? こんなの落書きですよ!? 依頼金を払う価値もないのに」
男が言い募ると、タニアはまた背を丸めた。……アルメは男に対して、なんだか腹が立ってきてしまった。
せっかくよい絵描きを見つけたというのに、彼女の気分を沈めないでもらいたい。乗り気になってもらわないと、こちらまで困ってしまう。
それに、傍から聞いていても、彼はタニアに対して失礼なことを言っているように思う。
うつむいてしまったタニアとは反対に、アルメはグッと顔を上げた。テーブルの脇に立つ男を見上げて、意見を言う。
「素人が生意気を言うようですが……彼女の絵は、少なくとも私にとっては価値あるものです」
「あぁ、まぁ、絵に詳しくない方には、良し悪しはわからないかもしれませんね。お客様のことを思って言わせていただきますが、彼女の絵は客観的に見て、芸術的価値の低い絵です。この絵に金を払うのは、どうかと――」
「私は芸術作品を求めているわけではなく、私の希望を叶えてくれる絵を求めているだけですよ」
言い返すと、男はあからさまにムッとした顔をした。
――ちょうどその時。
作業室の入り口で手を叩く音が聞こえた。パンパンと手を鳴らしながら、一人の男性が入ってきた。
眼鏡に短く整えられた髭。細身でダンディーな雰囲気の紳士だ。
タニアが、ベステル先生、と小声をこぼした。彼がこの工房の主――画家のベステルらしい。
ベステルは渋く落ち着いた声で、弟子を諭した。
「すまないね、やり取りを盗み聞きしてしまって。――さて、君たち。お客の要望に沿った絵を描く、というのも、技術のうちだよ。そしてお客が満足したのなら、その絵は立派な価値ある絵だ。今この場では、写実的なヒヨコよりも、タニアの丸っこいヒヨコの方がずっと価値の高い絵だろうね」
師に諭された弟子の男は、腑に落ちない顔で無言のままテーブルを離れた。不貞腐れてしまったようだ。
その背中に向けて、ベステルはケロッとした声を投げかけた。
「あ、君、ついでに僕の分もお茶持ってきて」
「……先生、お茶くみはタニアの仕事でしょう。なんで俺が」
「タニアには依頼が入ったのだろう? 雑務は手の空いている者が行う、というのが、この工房のルールだったはずだが?」
「……っ」
若い男の弟子は、思い切り渋い顔をして給湯室に入っていった。
ベステルは、さっと応接スペースの席につく。なんとも飄々とした人だ。
ひたすらポカンとした表情をしているタニアを囲んで、改めて打ち合わせが始まった。




