82 キャンベリナの誘惑
このアイス屋をオープンしてから一週間。
ようやく、キャンベリナの待ち望んでいた客が来た。白鷹、ファルケルト・ラルトーゼが――。
オープン初日からずっと、彼の来店を待っていた。
店の運営は店長や従業員たちが勝手にやっているから、待機は暇で仕方がなかったが……頑張って耐えてきたかいがあった。
――と、いうのに。いらないネズミまで付いてきて、つい舌打ちをしてしまった。
無事に引きはがせたので、まぁ、問題はないけれど。
命令に従い、上手く動いてくれた従業員には褒美をやろう。たかがネズミ相手に青い顔をしていたのは、なんとも情けなかったが。
(邪魔者はいなくなったわ。さぁ、白鷹様。あたしと一緒に、素敵な時間を過ごしてくださいませ)
ボリュームのあるふわふわとしたドレスを揺らして、キャンベリナは白鷹の元へと歩み寄った。
グラスを落とした席から移動してもらい、彼は今、店内で一番よい席に座っている。美しい燭台と、豪奢な刺繍がほどこされたテーブルランナーで彩られた、華やかな席。
まさに『王子様』にぴったりの空間だ。
彼が白鷹の姿であったなら、もっと雰囲気が出るのだけれど……残念ながら、茶髪茶目の地味な姿をしている。でも、それでも十分美しい容姿をしているから、よしとする。
白鷹の側に寄り、キャンベリナはスカートを持ち上げて挨拶をした。
「こんばんは、ラルトーゼ様。覚えておいででないかもしれませんが……お久しぶりです。あたしはキャンベリナ・デスモンドと申します。ご来店を心からお待ちしておりました。あなた様にお話したいことがあります。少し、お席をご一緒させていただいてもよろしいでしょうか」
身を低くして挨拶をしながら、チラリと上目遣いの視線を投げる。
いつ彼が来店してもいいように、化粧もドレスも毎日ばっちりと整えてあった。
ドレスはもちろん、殿方が最も好むデザインを選んである。豊かな胸元を惜しみなく魅せるデザインだ。
この胸元と可憐な容貌、そして熱を宿した視線を前にして、心の揺れない男などいない。――はずなのだが、白鷹からは淡泊な返事が返ってきた。
「申し訳ございませんが、この席は俺の同伴者の席です。あなたの座る席ではありませんから、お断りします」
「……その同伴者とやらは、お相手を放ってどこかへ行ってしまったではありませんか。帰ってくるのを待つ間に、あたしがお喋りのお供をいたしますから、どうか――」
「まず、喋ることが何もありません。お引き取りください」
「……っ」
キャンベリナはギリッと奥歯を噛んだ。
白鷹は澄ました顔でキャンベリナの目を見据えている。目、だけしか見ていなかった。ドレスからこぼれそうな白い胸元に、チラとも視線が揺れてくれない。
アルメでもたぶらかせたのだから、簡単に釣れるだろうと思っていたのだが……想定外に食いつきが悪い。じわりと焦りが込み上げてきた。
ようやく訪れたこのチャンスを逃すわけにはいかないのだ。どうにかして、彼の興味を引かなければ――。
今までの殿方との秘め遊びの経験をフル動員させて、男の庇護欲をあおる、しゅんとした表情を作った。
「……そう、冷たいことを言わないでくださいませ……もしかして、前の銀行でのあたしの失敗を咎めておいでなのですか? あの後、あなた様のお言葉を噛み締めて、あたしすごく反省したんです……。もう心を入れ替えて暮らしております……どうか、お許しくださいませ」
「心を入れ替えた、ですか。そうは思えませんが。このお店は、アルメさんへの嫌がらせではないのですか?」
「それは違います」
淡々とした白鷹の言葉に、キャンベリナはきっぱりと答えた。うるうるとした目を向けて、続きを話す。
「このお店は黒ネズ――彼女とは関係がありません。このアイス屋は、あなた様のために作ったものです」
「……俺のために? どういうことですか?」
白鷹がわずかに目を細めた。今まで興味なさげに話していた彼が、初めて感情を動かした。
ようやくこちらの話を聞いてくれる態度になった。
キャンベリナはこのチャンスを逃すまいと、喋り始めた。殿方が大好きな、鈴が鳴るような可愛らしい声音を意識して。
「ラルトーゼ様はアイスがお好きなのだという噂を聞いたんです。でも、『アルメ・ティティーのアイス屋』は庶民のお店ですから……あなた様のような尊いお方が、足をお運びになるお店ではないでしょう? だからあたし、ちゃんとしたお店を作ったんです。あなたが心から楽しめるような、素敵なお店を。王子様を迎えるにふさわしいアイス屋さんを、愛を込めて、作り上げました」
甘い声で喋っているうちに、白鷹は表情を変えていった。細められていた目が、驚いたように見開かれている。
一人の男を一途に想い、尽くす。そういうひたむきな女というものに、殿方は弱いものだ。――白鷹の心も揺さぶることができたようだ。店を作り上げた愛と奉仕の心が伝わった。
キャンベリナは思い切り愛らしい表情を作って、結ぶ言葉を紡いだ。
この燃え上がるような気持ちを乗せた、白鷹への愛の言葉を。
「あたし、キャンベリナ・デスモンドは、あなた様のことをお慕いしております。この熱い想いをお伝えするために、この店を作り上げたのです。あなた様のためならば、お好きなアイスをいくらでもお作りします。心から愛していますから。――ねぇ、どうか、あたしをラルトーゼ様の腕の中に――……」
――さらってくださいませんか。と、言い切る前に、キャンベリナは言葉を止めた。
白鷹のまとう空気が、恐ろしいほど冷えたものに変わったのだ。視線の鋭さは、まるで獲物を殺す瞬間の猛禽のよう……。
(あ、あれ……? 何か、間違えたかしら……?)
盛り上がった気持ちが、一気に下降を始めた。
「なるほど。事情をお話しいただき感謝します。酷く落胆いたしました。自分自身にも、あなたに対しても。……話が済んだのなら、もうお下がりなさい」
「え、っと……あの、ごめんなさい! あたし、何かお気に障ることでも――」
「全てが気に障ります。下がりなさい」
彼は吐き捨てるように言い放った。
白鷹の冷たい目と声。――違う、自分はこんなものは求めていない。欲しいものは、熱いまなざしと甘い声なのに。
……前に銀行で、アルメには向けていたではないか。それと同じものを、なぜ自分には向けてくれないのか。
自分はアルメよりずっと愛らしい娘なのに。アルメよりずっと素晴らしい店まで用意したというのに。なぜ一欠片の気持ちも、こちらに向けてくれないのだろう。
――悔しくて、腹が立つ。
ふつふつと沸き上がってきた気持ちに任せて、キャンベリナは白鷹の腕をとった。
両手でガシリと腕を抱えて、体を寄せた。彼の腕に胸元を押し付けて、ぽろりと涙をこぼした。
「お待ちください、もう少しだけお話を……! あたしはあなた様に、真実の愛を捧げたいと思っているんです。その強い気持ちと覚悟を持って、婚約者ともお別れをしたんです……! どうかあたしと、一晩の遊びだけでも――」
「はしたないことを……! 放しなさい!」
ガタンと音を立てて、白鷹は椅子から立ち上がった。
キャンベリナの悲鳴じみた声と鳴り響いた椅子の音に、周囲の客が目を向け始めた。
かまうことなく、白鷹に縋りつく。こうなったら、もう泣き落とすしか手がない。ポロポロと涙をこぼして言い募った。
「お願いします、どうか憐れみを……! あなた様のことが好きなんです! こんなに愛しているのに、どうしてあたしを見てくれないのですか! あなた様にだったら、この身も心も、何もかも全てを捧げるのに……! どうか、どうかあたしを求めてくださいませ……!」
「気持ちを押し付けられても困ります! いりませんよ、何一つ!」
「そんな……! じゃあ、あたしはどうすればいいのです! どうすればあなた様に求めてもらえるのですか!? 足りないところは補えるように努力します……! ラルトーゼ様は何を求めているのですか! お教えください!!」
「いい加減になさい! 俺が欲しいのはアルメさんだけです! 彼女の他には何もいらない――……」
白鷹にしがみついて泣くキャンベリナと、キャンベリナを引きはがそうと苛立つ白鷹。
その悶着の中、ふいに別の声が割って入った。
「――へ? 私?」
ドレスルームから帰ってきたアルメが、近くまで歩いてきていた。アルメは裏返った変な声を出した。
その瞬間、白鷹は石像に変わってしまったかのように、ビシリと固まった。アルメの方に顔を向けて、こぼれそうなほど目を見開いて。
動かなくなった白鷹の顔を仰ぎ見る。彼はあっという間に顔を赤くして、汗をかいていた。
……今さっきまで、涼しく冷たい顔をしていたというのに。情熱的な愛の言葉を伝えても、泣いて縋りついても顔色を変えなかったのに。
この女に対しては、こうも心を揺らすのか――……。
もう、嫌でも思い知らされてしまった。
白鷹と黒ネズミは、軽い遊びの関係ではなかったのだと。あの日、銀行で見た親しげなじゃれ合いは、本物の愛によるものだったのだと……。
白鷹はもう、縋りつくキャンベリナのことなどこれっぽっちも見ていなかった。意識の全てがアルメに向いていた。
一瞬で、舞台の外側に放り出されてしまった気分だ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔をさらに歪めて、キャンベリナは強く思った。
――こんなの、納得できない。ぶち壊してやる。と。




