50 精霊との契約
挨拶が済んだところで、担当女性が机に錠前と針のセットを置いた。鈍い銀色をした錠前には、錠にも鍵にも紋章が刻まれている。
「――では、精霊スプリガンとの契約をお願いします。指先に血を出して、この錠前に近づけてください。宿っている精霊が血を受け取ります」
担当女性が説明を終えると、ファルクが手を差し出してきた。
「俺が針を刺しますから、手をお貸しください。痛くないようにしますから、大丈夫ですよ」
「あ、はい。お願いします」
なるほど、そのために神官が呼ばれたらしい、と理解した。わざわざ上位神官を呼ぶ必要があったのだろうか、と少々疑問は残るけれど。
アルメはファルクに右手を差し出した。――と同時に、そっと左手を隠した。しょうもない怪我を目に留められたら、突っ込まれそうなので。
こちらの怪我は後でこっそり、庶民診療の神官に頼ることにする。雲の上の神官様たちに、あきれられるのは避けたい……。
ファルクはアルメの手を取って、指先にぷつっと針を刺した。同時に彼の魔法の光がキラリと輝く。痛みを取り除いてくれたようだ。
小さく血の玉が乗った指先を、そのまま錠前に近づける。すると、錠前から光の粒子が噴き出した。
キラキラと輝く光の中に、一瞬小人のような精霊の姿が見えた。小人はアルメの指先の血に手を伸ばして触れた。
手のひら大の小人は、なかなか迫力のある鬼のような顔をしていて、こん棒を持っていた――ように思う。
一瞬で消えてしまったけれど、これが精霊スプリガンだそう。
光が消えるのを待って、担当女性は錠前を手に取り、アルメに向き合った。
「お疲れさまでした。これで契約は完了です。魔石の配達と集荷には専用の荷箱を用意しますので、こちらがその鍵となります。契約者以外がむりやり鍵をこじ開けたり、荷箱を壊したりすると、スプリガンが報復の攻撃を仕掛けますので、ご注意ください」
「報復!?」
物騒な言葉が出てきて目をまるくしてしまった。付け足すようにファルクがのほほんと言ってのける。
「スプリガンにこん棒で頭を殴られますから、部外者が悪戯で触らないようにお気をつけください」
「ち、血の気の多い精霊ですね……」
なんだか怖い精霊と契約してしまった……。荷箱の扱いには十分に気を付けようと思う。
アルメの指先の血を布で拭うと、ファルクはさっと治癒魔法をかけた。刺し傷はあっという間になくなってしまった。
「ありがとうございます、ファルクさん」
「まだお礼を言われるには早いです。その隠している左手を見せていただいた後に、もう一度お聞きしたく思います」
「うっ……」
契約が終わって息を抜きかけたところで、しっかりとツッコミが入ってしまった。
まずい、と思って目をそらしてみたけれど、もう遅かった。ファルクの猛禽の目が、獲物を見据えるように鋭く細められている。
「……いや、あの……こっちは別に」
「お見せなさい」
「はい……」
有無を言わせない命を受けて、背中の後ろに隠していた左手をそろりと出した。即座にファルクに捉えられ、包帯を解かれる。
怪我を見て、ファルクは顔をしかめた。
「火傷のように見えますが、どうしたんですか、これは」
「料理中にちょっと焦ってしまって。……家に出たんです、黒いあいつが」
「まさかまた強盗が!?」
ファルクは目をむいて低い声を出した。顔も声音も一気に厳しいものに変わった。この容姿だと迫力があって恐ろしい。
アルメは慌てて言い添えておく。
「違います、黒虫です! 黒虫!」
「黒虫?」
キョトンとしたファルクに、ルーグが説明を加えた。
「クロイエムシのことじゃ。この街では黒虫と呼ばれている」
「料理中に出てきて、驚いてスープをひっくり返してしまったんです……」
「たかが虫相手に、何を慌てているんです。まったく……こんな怪我をして!」
一瞬呆けた顔をしていたファルクは、また厳しい表情に戻った。アルメが言い訳をする前に、次々とお叱りの言葉が放たれる。
「手先の火傷で済んだからよかったものの、もし体に浴びていたらどうするのです。料理中なら慌てた動作によって、服に火が移ることだってあるでしょうに」
「そうですね……返す言葉もありません……」
「それにこの手全体の腫れは、火傷の症状だけには見えないのですが?」
「……冷やそうと思って、氷魔法を使い過ぎました……」
「どうしてすぐに神殿に来ないのですか! 氷魔法より治癒魔法に頼りなさい!」
ギロリと睨まれて身をすくめた。鷹を前にしたネズミの気分だ……。
視線から逃げるようにしゅんとうつむいたところで、あの祭りの日の夜のことが頭をよぎった。そういえば、似たようなやり取りがあったような……と。
そんなことを思っていたら、ファルクがハッとした顔をした。――と同時に、手を取ったまま腰を落として、顔を覗き込んできた。
突然目の高さを合わせられてギョッとしてしまった。男神のような顔が近づいて、思わず半歩後ずさる。
ファルクは打って変わってうろたえた様子で、アルメの目を覗き込んできた。
「いや、あのっ、違うんです! 責めているわけではなく、気を付けてほしいと思っただけでして……! 泣かないでください! ね? 怪我も治してさしあげますから!」
「ありがとうございます……ええと、私はまったく泣いていませんから、大丈夫です」
どちらかというと必死な形相をしたファルクのほうが、泣きそうな顔をしているような。そう思ったけれど、口には出さないでおこう……。
やり取りを見ていた担当女性はポカンとしていた。こちらをチラチラうかがっていた事務室の面々も、動作を止めて見物している。
神殿の王子様たる白鷹がアワアワしていたら、そうなるのもわかる。アルメはこの前、土下座姿まで拝んでしまったので、耐性ができているけれど。
『白鷹様』の面しか知らない人が見たら、一体何事だ、と驚くだろう。
ルーグは喉から、んっふっふと小さく声をもらしていた。笑いをこらえているようだ。彼は親代わりと紹介されていただけあって、素のファルクをよくわかっているみたいだ。
なにやら頷きながら、ルーグはよく聞こえない小さな声で、ぼそりと独り言を言う。
「白鷹お気に入りの止まり木か。羽を休めるというより、力一杯しがみついておるようじゃが」
ほどなくして、気を取り直したように姿勢を整えると、ファルクはアルメの左手に大きな手をかざして治癒魔法を使った。
チカッと一瞬光った後、怪我はあっという間に癒えていた。腫れも痒みも痛みも、すっかり治まった。
「ありがとうございます、すみません……諸々、次から気を付けます」
「そうしてください。あと怪我をしたらすぐに神殿に来るようにしてくださいね。もしくは俺を呼びつけても構いません」
「さすがにそんなことはしませんよ」
上位神官を使用人みたいに使うことは、さすがにできない。そう思って言葉を返したら、ファルクは拗ねたような、複雑な顔をしていた。
治療が済んだ後、アルメは担当女性と挨拶を交わして、ファルクとルーグと共に事務室を出た。
受付カウンターの脇で、二人と別れの挨拶を交わす。
「レイ様、お目にかかることができて光栄でした。ありがとうございました」
「是非とも、ルーグと呼んでおくれ。ワシもお喋りができて楽しかったよ」
「ファルクさんも契約のお手伝いと、怪我の治療をありがとうございました。お時間を取ってしまってすみませんでした」
「いえいえ、お気になさらずに。――そうだ、アルメさん。一応仕事の保証人は俺ということになっていますが、俺に万が一があった時には、ルーグ様に保証人を引き継いでいただくので、そのあたりはご心配なく」
「え?」
顔を上げると、ルーグが穏やかに微笑んでいた。
「ファルクは従軍神官の身ゆえ、何があるかわからんからな」
「もし俺が戦地から帰らなかった時には、遠慮なく、ルーグ様を頼っていただいて――」
「そんな……嫌です!」
なんてことないように喋る二人に対して、咄嗟に大きな声が出てしまった。ハッとして言い添える。
「あ、いえ! ルーグ様に気にかけていただけるのは、ものすごくありがたい――と言いますか、身に余ることなのですが! ……そういうことではなく、ファルクさんが帰ってこないというのは嫌です……万が一なんてこと言わないでください。あなたに何かあったら悲しいです」
ファルクを見上げると、思い切り顔を背けられた。いや、なんだその反応は……。
こちらが真剣に訴えているというのに、会話を避けるとは……今度休みの日に、改めて文句を言ってやろう。神殿で白鷹に文句を言うのは、人目もあるし、ちょっとはばかられるので。
顔を背けたまま言葉を返さないファルクをジトリと睨んだ後、ルーグと別れの挨拶を交わす。
「こやつはこう見えてしぶとい奴だから、そう案じなさんな。普段はぽやっとした奴だが、戦場ではそれなりじゃ。白鷹の名は伊達じゃないぞ」
「まぁ、はい……そうですね。――ええと、ルーグ様、気にかけていただき本当にありがとうございます。では、あまりお時間を取ってしまうのも申し訳ないので、私はそろそろお暇させていただきますね。皆様、良い一日を」
「良い一日を」
ペコリとお辞儀をして、アルメは二人の元を離れた。結局ファルクは最後まで、こちらを向かないままだった。
アルメが去った後、ファルクはようやく動きを取り戻し、深く息を吐いた。ルーグはその脇腹を肘で小突いて言う。
「まったく、何を一人で顔を赤くしてるんじゃ。待ち人を安心させる言葉の一つでも、かけてやらんかい」
「……すみません、不意を突かれて……。あぁいう言葉に上目遣いは、ちょっと……男心にくると言いますか……」
ファルクは手でパタパタと顔をあおぎ始めた。照れにのぼせて汗をかいている。
その様子をあきれた目で眺めながら、ルーグは言葉を続ける。
「しかしまぁ、なかなか良い子じゃないか。泣かせないようにな」
「はい……気を付けます。もう泣き顔は見たくないので」
もう一度大きく息を吐いて、ファルクはようやく落ち着きを取り戻した。こうして澄ました顔で静かにしていると、城に飾られている美術品のような男だ。
待合ホールの患者が遠目にこちらを見て、惚けているのが見える。なんだか面白くないので、ルーグはもう一つちょっかいをかけてやることにした。
「――それと、お気に入りの花を見つけたならば、虫払いを忘れぬようにな」
「彼女はそういうアレではありません」
「独り身の娘にはどんどん虫が寄ってくるぞ~」
「おやめください。師と言えど、品のない冗談は許しませんよ」
厳しい声音でピシャリと言い放った後、ファルクはチラリとルーグを見た。口をもごもごとさせながら、小声で言葉を付け足す。
「……それはそれとして……何か殺虫剤のようなものはありますか?」
殺虫剤に頼らずとも、自分で虫を狩り殺しそうな様相で問いかけてきた。
――けれどそれは、あくまで傍から見た印象。ルーグの目には、ビビり散らしているヒヨコにしか見えなかった。
このまま放っておくのは忍びないので、この後、彼の望む殺虫剤とやらを教えてやろうと思う。




