252 大人の戯れも、旅の思い出に添えて
旅の目的である聖女への拝謁も済ませて、滞在最終日を迎えた。
正確に言うと、ベレスレナを発つのは明日だけれど、朝早くに出発する予定なので、丸一日自由に過ごせるのは本日が最後となる。
南方に比べて昼の時間が随分と短い上に、何日かは吹雪で宿に缶詰になったりもしたので……本当にあっという間、という心地だ。
思い残すことがないように、ファルクと共に存分に街歩きのデートを楽しみ、土産物もしっかりと買いそろえた。
そうして遊び歩いて夕方を迎えたが――……今日はこの後、もう一つ楽しみな場所に寄る。
初日に予約を入れておいてもらった、『湯城』――ベレスレナの温泉である。
もくもくと湯気の煙を上げている麓の城の一つに寄って、アルメとファルクは中へと歩を進めた。
(わぁ、煌びやか。あんまり温泉感はないけど、なんだかすごそう!)
案内を受けて城の廊下を歩みながら、ウキウキと心弾ませる。
温泉と聞くと、まず真っ先に前世の和風温泉宿が頭の中に浮かんでくるけれど、そういう落ち着いたイメージとはまるで違って、湯城の中はまさに城そのものだ。
煌びやかな内装は、聖女のおわす主城とも負けず劣らず荘厳で、テーマパーク的なお風呂屋さんを思わせる。
そんな城の一部屋に案内されて、ソファーの置かれた談話室に通された。公衆浴場という感じではなく、プライベートなお風呂のよう。
この談話室は風呂上りに寛ぐ部屋らしい。奥の扉は脱衣ルームに続いているらしく、男女で別れる形で二つの扉が並んでいる。扉の装飾も見事なもので、男性の脱衣ルームのほうには男神の絵、女性のほうには女神の絵が描かれている。
アルメは浮き立った心のままに、ファルクに明るい声をかけた。
「それじゃあ、また後で。よいバスタイムを」
「え、えぇ……はい。また」
なんだか目を泳がせながら返事を寄越されたけれど、すっかり浮かれ切っていたアルメは気にすることなく彼と別れた。
女性用脱衣ルームに足を踏み入れ、華やかな内装にまた感嘆の声を上げ――……ようとしたけれど、思いがけず、口はポカンと開かれたままになった。
中にはお世話をする召し使いたちがズラリと並んでいて、面食らってしまった。四十代から五十代くらいのおばさま方が、ニコニコと接客スマイルを浮かべてアルメを迎える。
(な、なるほど……こういう感じなのね)
勝手に脱いで勝手に入浴する、という前世の温泉の方式とは、どうやら勝手が違うらしい。
戸惑うアルメをよそに、世話係たちはわらわらと寄ってきて、あれよあれよという間に入浴の支度を整えてくれた。
入浴用のガウンのようなものがあり、それをまとったまま湯に浸かるのがマナーだそう。
「さぁ、奥様。こちらへどうぞ。足元にお気をつけくださいませ」
「……はい」
なんとなくそんな気はしていたが……彼女たちは浴室の中まで付き従い、入浴の世話をしてくれるみたいだ。
(恥ずかしいけど……まぁ、ガウンを着てるし……。うん、郷に入っては郷に従え、ね……)
恥ずかしいと駄々をこねても仕方がないので、都合はそちらに合わせる他ない。
複雑な気持ちには目をつぶり、案内を受けて浴室に進む。
扉を潜り抜けて中に入った途端に、湯気とハーブの香りがもわりと全身を包み込んだ。
浴室もものすごく煌びやかだ。壁や柱、天井など、至る所に彫刻をほどこされた石造りの白い部屋に、これまた白く輝く石の湯舟が鎮座している。
わぁ、素敵! ――などと、感動の声を上げたいところだけれど。
直後に、思わぬ事態となり、アルメは裏返った声を出してしまったのだった。
なんと、あろうことか、湯気の中で今さっき別れたはずの男と合流してしまった。
同じようにガウンに身を包んだファルクが、所在なげ突っ立っているではないか……。
「わぁっ!? ファルクさん!? えっ、なっ、なんで……っ!?」
「なんでって……湯城の供をお望みになったのはアルメさんでしょう」
「なっ!? こ、混浴のお風呂とは知らず……っ! 普通、男女で別れるものではないのですか……!?」
「湯城は男女で入浴を共にし、そのようなときめきを楽しむ娯楽施設でしょうに……って、もしかして南方にはないのですか……? ……先にご説明しておくべきでした」
ファルクは渋い顔をして頭を抱え、アルメはまとっているガウンの合わせを寄せて、着付けをしっかりとし直した。
彼が言うには、湯城は貴族たちの娯楽場だそう。節度を持ち、よからぬ事はご法度、というマナーのもと、ささやかな大人のときめきに興じる遊び場なのだとか……。
そんな今更ながらの説明を受けている間にも、スタッフのおばさま方は手早く浴槽の支度を整えていく。
白い石を削り出して造られている円形のバスタブには、両端の縁に橋を架けるようにして、板状のテーブルが設置されている。
彼女たちは飾り布やらカトラリーやらを並べて、テーブルセッティングをしていた。どうやら、湯に浸かったまま飲み食いをして楽しむ形式らしい。
さぁ、どうぞ、と目を向けられて、アルメとファルクは神妙な面持ちのまま、浴槽へと歩み寄った。
湯には束ねられたハーブの葉が浸けられている。甘く爽やかな良い香りが立ち上り、素晴らしく贅沢な雰囲気を醸し出している。
他にも花飾りが浮かべられたりしていて、大変ロマンチックで素敵なお風呂だ。
――そんな、ばっちりと準備の整えられた湯を前にして、今更『気が乗らないので、やっぱり遠慮します』なんてことは、さすがに言えない……。
ここまできたら、もうやけくそだ。流れに身を任せる他ないだろう。
アルメは心を決めて、おもむろに湯舟の中に足先を沈めていった。
ファルクも隣に浸かり、二人で湯に体を任せる。
湯触りが良く、温度もちょうど良い。お風呂自体は文句なしに心地良いけれど……隣から強烈な視線を感じて、まったく寛げない。
「……ちょっと……こちらを見ないでくださいませ」
「こうなってしまったら見ないわけにもいかないでしょう。郷に入りては郷に従え。湯城というこの場において、俺は何もおかしなことをしておりません」
(開き直った……!?)
もっともらしいことを言っているようだが……ファルクが言っていることはただの屁理屈だ。彼は適当なこじつけ理論のもと、開き直ることにしたらしい。
世話係たちに飲み物とつまみのオーダーを入れると、テーブルの上が賑やかになった。冷たいハーブのお茶と、カットフルーツの盛り合わせが並ぶ。
案内によると、マッサージや楽師の演奏なんかもオーダーできるそうだが、他はすべて断らせてもらった。……どういう顔をして楽しめばいいのかわからないので。
飲食の品がそろったところで、とりあえず乾杯しておく。
「湯をもたらす、火と水の神に感謝します」
「ええと……素敵なバスタイムに乾杯」
乾杯の口上と共に、二人でグラスを掲げる。
傍から見たら、豪勢な遊びに興じている貴族のカップル、という風に見えるのかもしれないが……アルメの所感としては、言いようのない複雑な心境だ
恥ずかしいやら気まずいやら……。娯楽というより、どちらかというと新手の拷問に耐えているような心地である。
温泉でまったりのんびり寛ごう――という思いでいたのだけれど、この感じだと、早々にのぼせてしまいそうだ。湯の温度に加えて、照れの熱が体をポカポカと温めていくので。
そんなことを思いながら、ハーブティーに口をつける。気恥ずかしさは置いておき、温泉に浸かりながら冷たいお茶を楽しむというのは、なかなか気分がいい。
と、どうにか気を取り直してお茶を味わおうとしたアルメの横で、ファルクが一気飲みをしてグラスを空けた。
彼は即座に二杯目をオーダーし、呻き声をこぼす。
「……熱い……駄目だのぼせそう……」
「早っ! 大丈夫ですか? ……温泉は暑がりな人が楽しめる場所ではなかったみたいですね。付き合わせてしまってすみません」
「いえ……お気になさらず。…………ものすごく楽しんではおりますので」
ファルクは顔が緩みそうになるのをどうにかこらえている、というようなおかしな表情をして、返事を寄越す。言葉尻はボソボソとした小声だったので、よく聞こえなかった。
「神官様に言うのはアレですが、のぼせは侮れませんから、無理をしないでくださいね。そうだ、フルーツを凍らせましょうか。ファルクさん、お好きでしょう?」
ふと思いついて、カットフルーツの盛り合わせを凍らせてみた。冷凍フルーツはファルクが子供の頃に好んでいたデザートだ。
凍ったフルーツを一つ頬張り、シャリシャリと頬張りながら、彼は今度こそ緩んだ笑みを見せた。
「ありがとうございます。冷たくて美味しいです。……――アルメさんと出会って、初めて『アイス』というデザートの名を聞いた時には、こういう簡易的な冷凍フルーツをイメージしていました。実際にはもっと素晴らしくて、奥深いものでしたね」
「そう言えば、最初にそんなやり取りをしましたね。ふふっ、もう懐かしく感じます。ファルクさんに、お店の看板を掛けていただいたのでしたね。そう考えると、アイス屋はあなたの手から始まったことになりますね」
「光栄の極みです。……本当に、あなたとめぐり合えてよかった。心から、そう思います」
「こちらこそ、光栄でございます」
二人で冷凍フルーツを味わいながら、湯と照れで赤くなった顔を見合わせて、ちょっとした思い出話に花を咲かせる。
想像とはまったく違う温泉体験となったけれど……まぁ、こういうことも、きっといつか振り返った時に、愛すべき過去として思い出されるのだろう。
すべて、人生の思い出として、大切にしていこう。
■
湯浴みの後は街のレストランで食事を済ませてから宿に戻った。
部屋の暖炉の火にあたりながら、二人で土産物の確認をしたりして、しばしお喋りの時間を楽しむ。
そうしてまったりしつつ、寝支度を整えて、明日に備えて早めにベッドに入る。
初日は豪勢な造りに驚くばかりだった、この城の宿も、連泊するうちになんやかんやと馴染んできたところだけれど……もう、一晩を過ごしたらお別れだ。
本当にあっという間だったなぁ、なんてことを改めてしみじみと思いながら、横になって眠りの挨拶を交わした。
「おやすみなさい、ファルクさん」
「アルメさんに、素敵な夜の神の加護を」
この旅の最中、並んで眠るようになってからお決まりになったやり取りを終えると、ファルクがもそもそと寄ってきて、アルメを腕の中に包んだ。……この寝方も、もはやお決まりになっている。
ベレスレナに来てからというもの、『寝ている間に冷えないように』――とかなんとか言って引っ付いてくるようになり、毎夜の定位置として馴染んでしまった。
実際、彼の体温はとても温かで心地良い眠りにつけるので、遠ざけることもできずに甘んじている。さながら、大きな湯たんぽだ。
そんなポカポカで有用な暖房器具に寄り添われて、この夜もぬくぬくと眠りにつこう――……と、すっかり気を緩めていたのだけれど……。
……いつも、隣で静かに役目をまっとうしていた湯たんぽが、この夜はおもむろに体勢を変えて、覆いかぶさるようにして口づけを寄越した。
眠りの挨拶として贈られる軽いキスとは違う。色を帯びた、食むようなキス――。
完全に気を抜いていたアルメは、ポカポカな湯たんぽ男の体温だけでなく、熱い口づけまでも甘んじて受け取ることになってしまった。
ファルクは大柄の体躯を目一杯使って、アルメを自身の下に捕らえ、低く甘やかな声で囁く。
「この地に来てからというもの、俺はアルメさんに色々な場面で甘やかしていただきました。そのお返しをするべく、今宵は俺が思い切り甘やかして差し上げたく思うのですが、いかがか?」
いつものぽやぽやとした目とは違う、熱を宿した金の瞳。暖炉の残り火の明かりを映して妖しく揺らめき、おかしな魔法にでもかけられたように視線を外すことができない――……。
これがどういう意味合いの問いかけなのかは、さすがに、恋愛経験にとぼしいアルメにだってわかる。一応、婚約旅行に発つにあたって、そういう覚悟はしていた。
密かに、例の勝負下着なんかも鞄に詰めて、一人でハラハラドキドキしていたのだけれど……なんやかんや出番を迎えることもなく、今日まで過ごしていたのだった。
今回の旅はそういう感じなのだろうと判断して、ホッと気を抜いてしまっていたのだが――……この鷹は、アルメが心身の緊張を解く時を狙っていたようだ。まんまと狩りの術中にはまってしまった。
まな板の鯉ならぬ、鷹の爪に捕らわれたネズミ状態で、アルメはアワアワと言葉を返す。
「……わ、私……その、恥ずかしながら、何もわからず……どうしたらよいものか……」
「身も心も、すべてを俺に預けてくださればよいだけです」
「で……では……そのように……お願いいたします……」
雰囲気にのまれながらもどうにか意思を伝えると、彼は猛禽の目を細めて妖艶に笑った。
「感謝申し上げます。我が愛のすべてを懸けて、あなたを天上の世界へとお連れいたしましょう」
アルメは怯みながらも、コクリと頷いてしまった。
……――人の体のすべてを知り尽くした神官に、身を預けるということがどういうことか……まったくもって、甘く見ていた。
深い愛と、巧みな魔法と、ついでに底知れぬ体力を、惜しみなく費やされる一夜となった。
とんでもない心地にヒィヒィ言うはめになり……アルメは鷹に、まるごと食らい尽くされてしまったのだった。
……翌日の出発時間が昼頃にずれ込んだことは、言うまでもないことだ。
部屋の隅で正座をして、ヒヨコが一人反省していたことも……旅の思い出として、胸にしまっておこう。




