207 不法侵入と幸せな一夜
湯浴みを済ませて、アルメはそろりそろりと寝室へと戻ってきた。
髪はいつもより低い位置でゆるく括り、寝間着の白いシュミーズの上にショールを羽織っている。
(……こんなことなら、もう少しお洒落な寝間着を買っておくんだった)
まさか同じベッドで眠ることになるとは思っていなかったので、着慣れたクタクタの寝間着を持ってきてしまった。
ショールで姿を隠しつつ、寝室の手前で一度、深呼吸をする。もう寝るだけなので、別に気合いを入れる必要など何もないのだけれど……なんとなく一拍間を置いてしまった。
開かれたままになっている扉から、チラと顔を出して中の様子をうかがう。
枕元のテーブルに置かれた火魔石ランプの光がゆらゆらと揺れている。ぼんやりとした明かりの中、ベッドの縁にファルクが腰を掛けていた。
腕を組み、目をつぶったまま微動だにしない。整った容姿も相まって、まるで教会に置かれている彫像のような姿だ。思わず拝みたくなるような厳かな雰囲気をまとっている。
が、ここは聖なる教会ではなく、寝室だ。やたらと厳粛な空気をまとうのはやめてほしい……。
扉は開いているが、大袈裟にノックして、アルメは空気を解きながら入室した。
「湯浴みを済ませてきました。お部屋にお邪魔します。明かりをつけておいてくださって、ありがとうございます」
「いえいえ。夜中の明かりはどうしますか? 暗さが苦手でしたら、灯したままにしておきましょうか?」
「私は消していただいても大丈夫ですよ。窓からの星明かりだけで十分見えますし」
「では、そのように」
互いに変に意識しないよう、事務的な会話が交わされる。喋りながら、ファルクとは反対側のベッドの縁へと歩み寄り、そそくさと乗り上げた。
「ええと、お待たせしました。それでは、そろそろ消灯ということで」
「ええ、おやすみなさい、アルメさん」
「ファルクさんも、素敵な夢の時間を――……」
短い挨拶を交わして、体をベッドに沈める。ショールは枕元に置いて、ブランケットに潜り込んだ。
アルメが横になったのを見届けて、ファルクがランプの灯りを消す。窓から差し込む星明かりの中、彼も体を横たえた。
ベッドの端と端、アルメとファルクは互いに背を向けたまま眠りにつく。
胸は変な緊張感でドキドキしていたけれど――……思っていたよりずっと早くに、アルメは睡魔の猛攻に陥落するのだった。
洗いたてのシーツの優しい香りに、フカフカのベッド。薄手のブランケットは肌触りが良くて、包まれると最高に気持ち良い。
そんな心地良さに加えて、慣れない遠出の疲れと、観光ではしゃいだ疲れ、そして夜更かしも相まって、心身はあっという間に眠りの世界へと引きずり込まれていった。
そうしてアルメがすっかり寝息を立て始めてから、半刻ほどが経った頃――。
ふいに暗闇の中で、まぶたの下から金の瞳が覗いた。
(……駄目だ……これっぽっちも眠気が来ない……)
恋焦がれてやまない相手が同じベッドにいるというこの状況で、睡魔なんて襲い来るはずもない。
自分の心臓の音がうるさくてかなわないし、背後の様子が気になってしまって、気持ちが一向に静まらない。
ファルクはそっと寝返りを打って、背後――アルメのほうを向いた。暗闇の中で目を細めて様子をうかがう。
(アルメさんは……もう眠ったのか)
旅の疲れで睡魔に攫われたのだろう。旅先では眠れないという人も多くいるが、彼女は眠れる質らしい。良いことだ。
そうは思うが、それはそれとして、少し思うところがある。
(ベッドを共にする状況で、こうも早々と寝入ってしまうとは……。無警戒ということは……俺は男として意識されていないということだろうか。いや、逆に、無防備な姿を晒せるほどに受け入れられているということか……?)
この状況は良いのか悪いのか……一人で悶々と考え込んでしまった。
悩みながら、彼女の寝姿をぼんやりと眺める。そのうちに、もう一つ気がかりなことが出てきた。
(アルメさん、随分と端っこで寝ているな。寝返りで落ちてしまいそう……)
アルメはベッドの端の端で眠っている。境界線は広いベッドの真ん中なのだから、そんなに縁に寄らなくてもよいものを。
ひとたび体を動かせば落ちてしまいそうな、危なっかしい位置だ。
(……少しだけ、中央に寄せてもいいだろうか)
怪我に繋がりそうな状況をみすみす見逃すなんてことは、神官の良心に反する。
おもむろに上体を起こして、ベッドの上をそろりそろりと移動する。中央の境界まで這っていき、ぼそぼそと控えめな小声をかけてみる。
「アルメさん。……寝ています、よね? ちょっとだけお邪魔してもよろしいでしょうか……」
返事は来ないとわかっていても、一応、断りを入れておく。一呼吸の間を置いてから、遠慮がちに不法侵入を開始した。
「神よ、これは下心の違約ではなく、純粋なる良心に基づいた行動です。どうかお許しを……」
神に許しを乞いながら、ベッドの上を移動してアルメの側へと寄った。
ブランケットをそっとどかして、体の下に手を差し込む。起こさないよう慎重に、低い横抱きのような体勢で移動させる。シーツの上を滑らせて、少しずつ体をずらして中央へと動かしていった。
アルメはわずかにむにゃむにゃと身じろいだが、深く寝入っているようだ。
柔らかな白いシュミーズを通して、彼女の肌の温かさが、腕に伝わってくる。湯浴み後の石鹸の香りが鼻に届き、たまらない気持ちが胸に湧き上がってきた。
「……神よ、下心はありません。邪な気持ちは一切ありません……が、もうほんの少しだけ、彼女を俺の領地に寄せてもいいでしょうか……」
ちょっとだけ位置をずらしたら、それで良しとしよう――と考えていたはずなのに、気が付けば境界ギリギリのど真ん中までアルメを動かしてしまっていた。
決して下心ではない。彼女がより伸び伸びと快適に眠れるように、との善意である。……そう言い訳をしておく。
少し寝乱れたシュミーズ姿はなるべく見ないようにしつつ、体の下にまわしていた腕をそろりと抜いていく。
一仕事終えて、体勢を整えようと――したところで、ふいにアルメが寝返りを打ち、袖をグイと掴んできた。
「……っ……!?」
不意を突かれてバランスを崩し、慌ててベッドに手をつく。危うくアルメの上に倒れ込むところだった。
起きてしまったのか、と一瞬身構えたが、アルメは変わらずスヤスヤと寝ている。
そういえば以前、彼女の家にお邪魔した時、枕元のぬいぐるみを抱きしめて寝ていたことがあった。彼女は寝ている間、何か掴んでいると安心する質なのかもしれない。
幼子みたいで可愛らしい癖だなぁ、なんて微笑ましい気持ちになってしまったけれど……直後に、そんな純粋な想いは吹き飛んでしまった。
咄嗟についた手の位置が悪かったようで、現状、自分はアルメに覆いかぶさり、上から見下ろすような形になってしまっている。見ようによっては組み敷いた後のような――……そういう体勢だ。
早くどけばいいものを、何か不思議な呪いにでもかかったかのように、動けない。抗えない欲が胸に湧き、体がのぼせていくのを感じる。
「……か……神よ……下心はありません……決して……そのような邪な想いなどは……っ……」
低く呻きながら、どうにかアルメの上から身をどける。
火照った顔を両手でベシベシと叩いて、不埒な想いを払い除け、ようやくひと心地ついた。
無事にアルメを安全な場所へと移動できたし、これにて任務完了だ。
(はぁ……よし、これでひとまず安心。不法侵入の件はどうかお許しください、アルメさん)
心の中で謝りつつ、彼女の隣に横になった。もはや添い寝の距離感だが、一応、領地の境界線は越えていないので、この位置でも可ということにしておく。
彼女はこちらを向いていて、自分も同じように、向き合って横向きに寝ている。最初の背中を向けた体勢とは真反対の寝方。
ブランケットをかけ直すと、二人分の体温で、先ほどよりもずっと温かい。穏やかな寝息の音と、身じろぎによるわずかな衣の音が、耳に心地良い。
なんだか何もかもが、たまらなく幸せに感じられた。
隣に愛する人が眠っている――。これ以上の幸福が、この世にあるだろうか。
……あまりにも幸せすぎて、泣けてきた。
じわっと歪んできた視界をそのままにして、一人静かに、幸福感を噛み締めてしまった。
これまで、自分の幸せのために生きるなんてことは、考えたこともなかった。
人のために生きて、人のためにこの命を燃やし尽くしてしまっていいと思っていた。
そう思っていたのに……自分は随分と欲深くなってしまったみたいだ。世の人々の幸せを願う気持ちに加えて、自分の幸せまで望むようになってしまった。
今、感じている、このたまらない幸福感。こういう幸せの中で生きていたいと思う。愛する人の隣で、至上の幸せを存分に噛み締めながら生きていきたい――。
もうきっと、無欲で空っぽだった以前の自分には戻れない。豊かな生と、幸福と、愛する人を渇望するこの欲は、もう手放すことなどできない。
自分も見事に、人間の欲の業を背負うことになってしまったわけだ。
でも、それでいいのだろう。以前の自分に戻る必要などないのだ。
人は、人生は、良いも悪いもなく、ただただ先へ先へと進んでいくのみなのだから――。
「おやすみなさい、愛する人よ。どうか夢の中でも、俺の隣にいてください」
頬にかかった黒髪を指先でそっとよけて、夢の中のアルメに願いを伝えておいた。
■
翌朝、カーテンの隙間から差し込んだ光を顔に受けて、アルメは意識を浮上させた。
心地良いまどろみの中で、柔らかな布にしがみついていることに気が付く。これは枕元に転がしている、白鷹ちゃんぬいぐるみか――。
――いや、違う、ここは自宅ではないのだった。旅先のコテージだ。
確か昨夜は、寝室が一つだったことに気が付いて、ベッドに境界を定めてファルクと共寝を――……。
うつらうつらしながら、そこまで思考をまわしたところで、アルメはパチリとまぶたを持ち上げた。
掴んでいた布を見た途端に、一気に目が覚めた。
あろうことか、しがみついていたのはファルクの寝間着の胸元だった。ゆるやかな寝間着は引っ張られたことで大いに乱れていて、肌が露わになっている。
アルメは弾かれたように手を放して、ガバリと起き上がった。アワアワしていると、細く開かれた金の瞳がこちらを見た。
「おはようございます、アルメさん」
「お……おはよう、ございます……」
ファルクの寝起きの掠れた声は、乱れた格好と相まって凄まじい色気を帯びている。目のやり場に困って、視線をさまよわせてしまった。
が、そんなアルメの視線はすぐに、彼の目元へと固定された。
「……あら? ファルクさん、目が腫れているような?」
いつもは鋭い切れ長の目が、少し腫れぼったくなっている。まるで泣いた後のような腫れ方だ。
「大丈夫ですか? 何か、目を腫らしてしまうような夢でも見たのですか?」
「あぁ、これは昨夜、あなたとの共寝があまりにも――……いえ、何でもありません、気になさらずに」
(えっ……私!? 何かしてしまった!? 寝相が悪すぎたのかしら!?)
言葉を濁して視線を外したファルクに、アルメは顔を青くした。
ベッドの端で眠りについたはずなのに、いつの間にかど真ん中を陣取って寝ていたし……もしかしたらとんでもない寝相でファルクを攻撃して、泣かせるに至ったのかもしれない。
だとしたら、もう土下座で謝るしかない……。アルメはベッドの上で正座して、ペタリと両手をついた。
けれど頭を下げる前に、ファルクの手が伸びてきた。彼は軽い手つきでポンと頭を撫でると、さっさとベッドを降りて顔を洗いに行ってしまった。
明るい中で見る、アルメのシュミーズ姿があまりにも眩しくて逃げ出しただけなのだが――……当のアルメは青い顔をしたまま、置いて行かれる形になってしまったのだった。




