206 寝室前でのひと悶着
昼食をご馳走になった後は村を散策したりして、これぞ観光旅行、というような心浮き立つ時間を過ごした。
ティダに案内してもらったのだけれど、彼はファルクと仲直りした後も、ムスッとした表情は変わらない様子。
『僕は元々こういう顔なんだ!』と、ムッと訴えるティダの頬を、ファルクは指で突いて遊んでいた。もう二人の間に険悪な空気はなくて、微笑ましいじゃれ合いだ。
そうして夕方までのんびりと村の風景を楽しんで、夜にはまた賑やかなパーティーに招かれた。
宿泊するコテージに戻ってからも、テラスで星空を眺めながら、二人でお喋りを楽しんで――……と、過ごしているうちに、すっかり夜も深まった。
村の家々の灯りも消えて、コテージと手元のランプの灯りだけが、闇の中に浮き上がっている。
ファルクはガーデンチェアから腰を上げて、ランプに手を伸ばした。
「そろそろ中に戻りましょうか。夜更かしのお喋りも楽しいですが、お疲れでしょう? アルメさん、眠たそうな目をしています」
「すみません、睡魔がじわじわと……でも、まだもう少し抗いたく。眠ってしまうのはもったいない気がして。友人と過ごす夜って、夜更かししないと損な気がしませんか」
昔からエーナはよく家に泊りにきたけれど、その夜はいつも、睡眠よりもお喋りに時間を割いてきた。なんとなく、早々と寝てしまうのはもったいない気がするのだ。
あくびを嚙み殺しながら返事をしたアルメの手を取って、ファルクはコテージの中へと導く。悪戯な顔をして、耳元で囁いてきた。
「友人ではなく、恋人とおっしゃい。お喋りの続きをお望みであれば、枕を並べて、いたしましょうか?」
「……またそういうご冗談を。鷹の隣での寝落ちはご遠慮させていただきたく。お喋りは明日にして、お休みをいただきます」
「ふふっ、それは残念」
冗談を交わしながら部屋の中に入って、リビングの端に置いてあった鞄を手に取る。気持ちを切り替えて、寝支度を始めることにした。
――が、いざコテージの中に入ると、思い出したかのように妙な緊張感が胸に湧いてくる。
朝までの短い時間ではあるが、彼と一つ屋根の下で生活を共にするのか――なんて意識し始めると、照れてしまって仕方ない。
「ええと、湯浴みは……ファルクさん、お先にどうぞ」
「あ、はい。ではお先にいただきます」
アルメのソワソワ感につられたのか、ファルクもソワソワとし始めた。
落ち着きなく、ささっとシャワールームに歩いていった彼を見送りつつ、アルメは荷物を自分の寝室へと運ぶ。
居間から続く二つの扉を前にして、右側のドアノブへと手を伸ばした。
(こっちが私の部屋よね?)
もう一方の扉――左の扉は開け放たれていて、室内は来た時に確認済みだ。大きなベッドがドンと置かれた寝室だった。きっと隣の部屋も同じような造りだろう。
寝室が二部屋並んでいるに違いない、と、すっかり信じ込んでいたのだが――……開いた右側の扉の向こうには、ベッドが置かれていなかった。
「えっ、あれ? この部屋、ドレスルーム……!?」
こぢんまりとした部屋には絨毯が敷かれていて、衣装をかけるハンガーラックや大きな姿見鏡、化粧台などが置かれていた。
中央に鎮座しているのはベッドではなく、布張りのスツールのみ――。
アルメは室内を見回した後、たっぷりと間を置いてから、一度部屋を出た。そして隣の部屋――寝室として整えられているほうの部屋を覗いて、一人静かに、状況の理解に努める。
室内には大きなベッドがただ一つ。大人二人が横になっても余裕があるサイズ。これは――……夫婦の共寝用のベッドである。
「……なるほど。なるほどね……なるほど……」
事態を正しく理解して、アルメは真顔で頷いてしまった。
村に来てからというもの、夫婦と勘違いをされているのでは……というような場面が何度かあった。
大したことではなかったし、なんやかんやと訂正をせずに流してきてしまったけれど、ここに来て大きな問題が生じることになろうとは。
どうやら、『夫婦のゲスト』仕様のコテージをあてられてしまっていたらしい――。
(最初に部屋を全部確認しておけば良かったわ……)
泊りがけの旅行なんて、この人生では初めてなので、すっかり気を抜いていた。
(ファルクさんは気が付いていたのかしら……? まさか知らぬふりをしていたとか?)
アルメは真顔をじとりとした面持ちへと変えて、考え込む。
旅行話を持ち掛けてきた時にも、目薬で小細工をしてきた男だ。共寝を実現するべく、部屋のことを黙っていたのかもしれない。
そんな邪推をしていたら、そのうちに、湯上りのファルクが歩いてきた。
「アルメさん? どうしたんですか?」
キョトンとした面持ちの彼は、衿のない白いシャツに黒いズボンの、ゆるやかな寝間着をまとっている。初めて見る、極めてプライベートな姿だが……そんなことに心を動かしている場合ではない。
アルメはファルクに詰め寄った。
「何やら寝室が一つしかないようでして。こちらの部屋はドレスルームでした。……ファルクさん、これもあなたの計算のうちですか?」
「えっ!? ドレスルーム!? 寝室じゃないんですか!?」
目をむいて部屋を確認した後、ファルクは慌てて弁明する。
「こ、これは俺が仕込んだことではありませんよ! そんな卑怯なことはいたしません……!」
「初っ端から卑怯な手を使って旅行に誘ってきたじゃないですか」
「それは、その……一時の気の迷いによる過ちです。共寝の状況を仕込むなんてことは、さすがにしませんって!」
「共寝の下心は一切なく、これはアクシデントだと? 本当に……?」
「えぇ、おっしゃる通り、まったく予期しておらず! 下心なんてものはこれっぽっちも…………ありません!」
アルメ以上にオロオロとした様子で、ファルクは答えた。彼の様子を見るに、本当に不測の事態のようだ。
下心への問いかけには、答えるまでに妙な間が開いた気がするけれど、まぁ、それは今は置いておこう。
彼は焦りながらも、この後のことへと話を進めた。
「夫婦に間違えられた時に、しっかり訂正しておくべきでしたね……。気を良くして楽しんでしまったばかりに、申し訳ないです。俺はリビングのソファーで寝ますから、寝室はアルメさんがお使いください」
「えっ……? っと、それは申し訳ないので、私がソファーで眠りますよ。……小細工を疑ってしまってすみません。ベッドはファルクさんが使ってください。あなたは小さいソファーじゃ横になれないでしょう?」
体格の良いファルクでは、横になろうにも体がはみ出してしまう。アルメならそれなりに収まるサイズ感なので、それでいいだろうと提案したのだが、彼は頷かなかった。
「いえ、俺は戦地の塹壕の中ですら眠れる身ですから、ベッドにはアルメさんが。慣れない旅行でお疲れでしょうし」
「いえいえ、一応この旅はファルクさんを労う旅行ですから、大きなベッドでゆっくりおくつろぎください」
「好いた娘を差し置いて一人でくつろげるほど、俺は図々しくはなれません。夜通し気にかけてしまって、結局眠れやしませんよ」
「それを言うのなら、私だって……同じ言葉をお返しします」
二人とも主張を譲らず、寝室の入口でせめぎ合う。
しばらくの間、ジリッと対峙して――……動かない状況を見かねたファルクが、迷いながらも第三案を口にした。
「……では、もう一つの案として。俺のほうから提案するのは、下心を疑われそうで憚れるのですが……ベッドを共有して眠るのはいかがでしょう。幸い広いベッドですから、端と端で眠れば、やましい共寝にはなり得ないかと」
「……その案は、私も少し考えていました。やっぱり、そこに行きつきますよね。ベッド、大きいですものね」
二人で快適な眠りを得るには、その方法がベストだろう。元々二人寝用に作られているベッドだ。存分にくつろげるに決まっている。
アルメは覚悟を決めて、神妙な面持ちで頷いた。
「このままだと、口争いをしたまま夜明けを迎えてしまいそうですし……――よし、では、第三案で参りましょう」
「ベッドの中心を領地の境といたしましょう。俺は決して、アルメさんの領地に不法侵入することはないと、神に誓います」
ファルクも同じように真剣な顔をして、うやうやしい誓いの敬礼をしてきた。領地とか不法侵入とか、単語だけ聞いていると貴族の小競り合いのようだ。
「わかりました、あなたの誓いを信じます。私も侵入しないよう、寝相に気を付けます」
「それは別に……気にせず転がってきていただいても……」
彼は何か言いたそうにごにょごにょと呟いていたが、よく聞き取れなかった。
アルメは改めて、鞄を抱え直して言う。
「それじゃあ、隣のドレスルームは朝の身支度に使わせていただきますね。とりあえず、湯を浴びてきます」
「は、はい、どうぞごゆっくり。ええと、お待ちしています」
「え、あ、はいっ」
「あ、いや、別に変な意味ではなくて、一人で先に寝るというのもアレですし、眠る前に挨拶を交わしてから灯りを消すのがマナーかと思って――……いや、すみません、もう黙ります。この状況だと何を言っても墓穴掘りになりそうだ……」
ファルクは一人でアワアワと言葉を連ねて、仕舞いには自分の頬を手のひらでベシッと打って、黙り込んだ。
彼の赤く染まった耳を見ることなく、アルメは場を後にする。アルメも頬に熱が上ってしまったので、逃げ出したのだった。
寝室での待ち合わせ――。それはすなわち、世間一般で言うところの『恋人たちの睦まじいひと時』への合図である。
シャワールームに逃げ込んで、アルメは最大出力で氷魔法を発動させた。ドキドキと忙しない心臓を落ち着かせるには、もう凍らせてしまうしかない。
二人で快適に眠るための第三案だったのだが……快眠は諦めたほうがいいのかもしれない。
照れの火照りを冷やしながら遠い目をしてしまった。




