201 旅行の誘いと泣き落とし
ファルクがアルメの家を訪ねたのは、その日の夕方過ぎだった。
鳴らされた呼び出し鐘の音を聞いて、アルメは二階のキッチンから離れる。先ほど店じまいをして、自宅に上がって夕食を作っていたところだ。
(きっとファルクさんね。また夕食を一緒に、ってお誘いかしら)
もう最近では彼が来る前提で食事を作っている。この、どうにもこそばゆい気持ちは言葉にしがたいが……この心地もきっと、広く括ると、『幸せ』に分類されるものなのだろうと思う。
そんなことを思いながら階段を下りて、玄関扉を開けた。――が、その瞬間に、アルメはギョッとすることになった。
扉の前に立っていたのは、やはりファルクだったけれど……中に一歩入って、変姿の首飾りを取り払った瞬間に、彼は泣き崩れたのだった。
床に両膝をつき、両手で顔を覆ってグスグスと泣き出した。
「ファルクさん……!? ど、どうしたんですか!? 何かあったんですか!?」
「……酷いことがありました……城で『白ミミズ』と言われました……」
「はぁ……それはそれは……」
子供の罵り言葉か、と、ツッコミそうになったが堪えておく。どういう経緯で誰に言われたのかわからないが、とりあえず泣いているので、頭をポンポンと撫でてやる。
一瞬ファルクの口元がふにゃっと緩んだ気がしたが、彼はまた表情を戻して、しょぼしょぼの顔で涙を流した。
「それに加えて……実は仕事で大変なミスを犯してしまい……。慰めがないと、もう俺は駄目です……」
「何があったか存じませんが、大変なことがあったのですね。ええと、涙を止めてくださいませ」
「……アルメさんとの睦まじい遠出のデートが叶いましたら、きっとこの涙も止まりましょう」
「いやに具体的ですね」
怪訝に思い始めたところで、ファルクが鞄からサッと雑誌を取り出す。開いてあった旅行誌のページを見せてきた。
「ルオーリオの街を出たところに、素敵な村がありましてね。是非、そちらにご一緒できたらと」
「それはデートと言うか……」
「旅行、ですね。一泊二日で、旅行に行きませんか……?」
ぐすん、とわざとらしく泣き声を上げたファルクを見て、アルメは呆れた息を吐いた。どうやらこの小芝居は、旅行の誘いのために演じているようだ。
「とりあえず、家にお上がりください。詳しくお話をお聞きしたく」
「お邪魔します」
と、立ち上がった瞬間に、ファルクのズボンのポケットから、コロッと小瓶が転がり落ちた。……これは目薬の瓶だ。
ファルクはサッと拾い上げて、ササッとポケットに押し込み、潤んだ目を逸らした。アルメは険しい顔で問い詰める。
「……ばっちり見ましたよ。その涙は薬の涙でしたか」
「いや、ええと……」
「泣き落としで旅行に誘ってくるとは……人の同情心につけ入るのは、ちょっと卑怯ではありませんか。そういうことをするのでしたら、旅行はお断りします」
「っ……すみません! 申し訳ございません……! 泊りがけの遠出となると、アルメさんをお誘いするのが難しいかと思いまして……卑怯なことをしました……ごめんなさい」
今度こそ、ファルクは本当にしゅんとした顔をした。芝居じみていない暗い声音で事情を語る。
「……実は、仕事で下手をこき、治癒魔法が弱まってしまいまして……。魔力が戻るまでの数日の間、旅行にでも行ってきたらどうかと、ルーグ様にご提案をいただきましてね。一人で旅するのもアレなので、アルメさんと一緒に楽しめたら……と、思った次第です……」
「まぁ。仕事のミス、というのは本当だったんですか」
「はい、お恥ずかしいことに……少しばかり、落ち込んでおります」
ファルクは手のひらに魔法を宿して見せたが、ずいぶんと弱い光だ。何かミスをした、というのは嘘ではないらしい。
しょんぼりと情けない姿を晒してみせた彼に、アルメは眉を下げる。
(仕事のミスって、日常生活での失敗よりも、心に重くくるものよね……。責任ある大きなお仕事をしている方なら、きっと、なおさら。……――ちょっと予定を調整すれば、近場の旅行くらいなら問題ないわ。気晴らしになるなら、お供しましょう)
結局、『同情を誘って旅行の約束を取り付ける』という彼の策にハマってしまう形になるけれど……アルメは前向きな返事をすることにした。
策、というか、気が塞いでいるのは本当のようなので。
「ちょうど、明後日は休みを取っています。一泊二日でしたら、もう一日休みを取って連休にすればお出掛けできますから、ご一緒できますよ。――行きましょうか、旅行。ルオーリオでの一年間お疲れ様、っていう慰安旅行としても、時期的にちょうどいいですし」
「よろしいのですか……!?」
「えぇ。もうさっきみたいな小細工をしないと、誓っていただけましたら」
「誓います……! 急なお誘いで申し訳ございません。良いお返事をいただけて嬉しいです。ありがとうございます」
ファルクは目を輝かせて、アルメの手を取った。そして身を屈めて顔を寄せ、乞うような声音で言う。
「小細工なしにもう一つだけ、お願いをさせていただけないでしょうか。塞いだ気分を晴らすべく、あなたと抱擁を交わしたいのですが……叶いませんか?」
「……ええと、はい。私でよければストレス散らしに、どうぞ」
「ありがとうございます。優しさに感謝いたします」
許可を得た途端に、ファルクは大きく腕を回して、アルメをガッチリと拘束した。抱擁というより捕縛だが、彼は最近、こういう豪快な触れ合いを好んでいる。
一応、『恋仲』という免罪符を得たことにより、遠慮の気持ちが取り払われたようだ。
白鷹の容姿のまま、外で抱きすくめられたらたまったものではないので、内心ヒヤヒヤしているのは内緒である。
「はぁ……至上の癒し…………どうかあと半刻ほど、このままで……」
「長いです……! 長い! あと十を数える程度にしてくださいませ」
「その三倍でお願いします」
しれっと時間を延ばしつつ、ファルクはわずかに腕を緩めて、アルメの耳元へと顔を寄せる。低い囁き声を吹き込んできた。
「……良い香りがします。甘く、美味しそうな、アルメさんの良い香り。……食べてしまいたい」
「っ!?」
目をむいてファルクを見ると、金色の瞳に妖艶な光が宿っていた。形の良い唇が、美しい笑みを作る。
「ふふっ、冗談ですよ」
彼は笑ったが、目は笑っているようには見えなかった。
(……泊りがけの旅行……だ、大丈夫、よね……?)
安易に旅行の返事をしてしまったが……軽率だっただろうか。
ちょっと怯みつつも、アルメはファルクと旅行の約束を取り交わした。夕食を食べながら話し合い、明後日から一泊二日で、近くの村へと向かうことになったのだった。




