20 手の痛みと握手
アイス屋二階の自宅にて、今日もいつものように、アルメは姿見鏡の前でさっと身支度を整える。
髪を切ってから十日ほどが経ち、ようやく鏡に映る自分の姿にも慣れてきた。
仕事中は下ろした黒髪をサイドにゆるくまとめて、くくっている。
こうして手早くまとめるだけでも小洒落た雰囲気になるのは、美容師のカットの腕が良かったおかげである。鏡を見るたびに、やはりプロは違うなぁと感心してしまう。
そんな新しい髪型に合わせて購入した、衿元の開いた白いブラウスに、青色のヒラヒラしたスカートが本日の衣装だ。
ついこの間までの服装と比べると、我ながらずいぶんと思い切った格好をしているように感じる。
とはいえ、胸元がチラ見えするドレスを元気に着こなすエーナに比べたら、まだまだお洒落初心者、といったレベルなのだけれど。
「――さて、今日も頑張りましょう!」
鏡の前で、最後にエプロンを身に着けて、お気に入りの白いサンダルを履いた。
二階の扉に鍵をかけて、一階店舗へ続く階段を降りていく。
こうして今朝も、アイス屋の開店時間を迎えた。
アイスカウンターの準備をして、店内を軽く掃除する。
店先のテーブルを整えていたら、路地の奥から小広場に向かってくる人影が見えた。
スラリと伸びた高い背に、濃茶の髪。上品な歩き方とは裏腹に、どこかのほほんとした空気をまとう男の人。――あれはきっとファルクだ。
半月くらい姿を見せていなかったのだけれど、ようやく仕事が落ち着いたのだろうか。
久しぶりに見かけた姿に、つい手を振ってしまった。
「ファルクさん! お久しぶりです」
「――えっ、あれっ?」
小広場の向こうへ手を振りながら声をかけたら、ファルクはこちらを向き、一瞬足を止めた。
ポカンとした顔をして、すぐまた歩き出し、大股で近づいてきた。
「アルメさん! お久しぶりです。お姿が変わっていらしたので、驚きました」
「あぁ、すみません、驚かせてしまって。最近髪を切りまして」
「とてもよくお似合いです」
ファルクは目を細めてやわらかく微笑んだ。
そのまま、まじまじと見つめられて、なんだかむず痒い心地になってくる。
「お召し物の雰囲気もお変わりになりましたね。前までも淑やかな雰囲気で美しい月のようでしたが、今日のお姿も春の妖精のように軽やかで――」
「わぁちょっとやめてください! そういうの、慣れていないので! 痒くなってしまうので……!」
そういう華やかな言葉は、華やかな女性へのみ、贈ってもらいたいものだ。なんてことない庶民女相手に、飾った言葉を並べるのは勘弁してほしい。耐性がないので、反応に困る。
照れを誤魔化すために、慌てて別の方向に会話を切り替えた。
「ええと、今日も日が差して暑いので、アイスを召し上がるのでしたらどうぞお店の中へ」
「お邪魔します!」
開け放った玄関扉を指すと、ファルクはウキウキとした様子で歩を進めていった。
迷わずアイスカウンターへ向かい、アイスを見まわす。真剣に悩む顔は、相変わらず大変に整っていて絵になる。
「アイスが増えていて迷いますね……全部食べたい! と言ったら、欲張りすぎて引かれてしまうでしょうか。アルメさんに」
「別に引きませんけど、子供みたいだなぁとは思います。あとお腹を壊しそうで心配です」
「そうですか、じゃあやめておきます……」
しゅんと肩を落とすファルクを見て、つい笑みがこぼれる。半月ぶりに彼と交わすのほほんとしたやりとりに、心が緩むのを感じる。
「――じゃあ、今日はレモンとマンゴーでお願いします」
「かしこまりました」
しばらく迷った後にようやくアイスを決めると、ファルクはもう何度か座っているカウンター席に腰を下ろした。
棚から器を取り出して、早速注文の品を用意する。
大きなスプーンで、容器に入ったアイスの塊を削るように取っていく。
グッと力を込めて、固いアイスにスプーンを差し込む。――その瞬間、手首にチリチリとした小さな痛みが走った。
最近、作業の度に利き手の手首が痛むようになった。急に手を酷使するようになったので、きっと腱鞘炎か何かを起こしているのだと思う。
先日占いで『怪我を負う』なんて結果が出たけれど、もしかしたらこの手首の痛みのことなのかもしれない。だとしたら、ちょっとした程度で済んでいるので、よかったと思うべきか。
調子の悪い右手をカバーするために、左手を添える。両手を使ってアイスをすくっていたら、見ていたファルクが声をかけてきた。
「もしかして手を痛めているのですか? 右手を庇ってません?」
「いえ、痛めているというほどではありません。ちょっと最近使い過ぎてるのか、力が入らなくて」
「拗らせると生活に支障が出てしまいますから、お早めに神殿へ行かれることをおすすめします」
「いや神殿に行くほどでは……お高くつきそうですし。家に痛み止めがあるので、それで十分かと。ご心配いただきありがとうございます」
笑って会話を流しつつ、アイスを盛り終える。ファルクの前に出すと、彼はムッとした顔をしていた。
「痛み止めって……やっぱり痛めているじゃないですか」
「ふふっ、ファルクさんって結構心配性なんですね」
「笑い事ではありません。茶化さないでください」
「さぁほら、アイスが溶けてしまいますよ。お喋りより先に召し上がってください」
「……いただきます」
アイスへと話題を逸らすと、ファルクはむくれた顔のまま、そちらへ誘導されていった。素直で可愛らしい人だなぁと思う。
美味しい、と小声をこぼしながら頬張る姿を見つつ、話を補足しておく。
「せっかく心配してくださったのに、茶化してしまってごめんなさい。最近、アイス作りのための魔道具類を注文したので、道具がそろえばもう手に負担のかかる作業はなくなるんです。だからこれ以上悪くなることもないかな、と」
「魔道具、ですか?」
「はい、材料を混ぜ合わせるミキサーとか。あとは熱でアイスを溶かして楽にすくえるようにする、火の魔石を仕込んだスプーンとか」
この前キャンベリナからの手切れ金という、まとまった金が入ったので、必要な魔道具類を買いそろえることにしたのだった。
ちょっと奮発して、アイスのスプーンは特注である。近々道具が届く予定なので、これから作業はうんと楽になるはずだ。
説明すると、ファルクはようやく難しい顔を緩めてくれた。
「そういうことでしたら、よかったです。どうか、それまではお大事になさってください」
「お気遣いいただきありがとうございます。――あ、そういえば、神殿で思い出しましたが、」
ふと、神殿というワードで思い出した話題を口にする。前回会った時、ファルクとそこそこ盛り上がった話題――白鷹の話だ。
「この前、出軍の見送りで白鷹様を見ることができましたよ。ちょっと距離はあったのですが、人が多い中でも、それなりに見えました」
「それはそれは! 白鷹はどうでしたか? ちゃんとイメージ通りの姿をしていましたか? 格好良かったです?」
「え? ええと、」
突然ファルクが前のめりになって、早口で聞いてきた。
(もしかして、ファルクさんも白鷹のファンなのかしら? この前も話が弾んだし)
エーナ曰く、漢らしく勇猛な軍人は男性ファンも多く抱えているそうだが、白鷹にも男性ファンがいるのかもしれない。
勇猛という雰囲気は感じなかったけれど、神秘的な雰囲気に魅了されるファンは男女問わず多そうな気がする。
話題に食いついてきたファルクに、にこやかに答える。
「とても格好良かったですよ。噂の通り王子様のようでした」
「それはよかったです。白鷹アイス、売れそうですか?」
「見送りはものすごく盛り上がっていたので、白鷹アイスもたくさん売れそうです。実際、売上は好調ですよ。白鷹様さまさまですね」
そう答えると、ファルクはまるで自分のことのように、胸を張って満足そうにニコニコしていた。つくづく、面白い人である。
それからアイスの感想や蜂蜜のお礼など、いくつか話をしているうちに、器はあっという間に空になっていた。
ファルクは名残惜しそうに席を立ち、会計を済ませる。ポイントカードにスタンプを押して渡すと、残りの数を数えていた。
時刻はそろそろお昼時だ。小広場にはポツポツと人が流れてくるようになってきた。
「では、ごちそうさまでした。また来ますね」
「お待ちしております。あ、ファルクさん、今日は日差しが強いので氷魔法をおかけしましょうか? 帰り道のお供に」
「お願いできますか……すみません、魔法をたかってしまって」
「お気になさらず、涼んでください」
別れ際、店先でちょっとしたサービスとして氷魔法をかける。両手をファルクの体にかざして、やんわりと魔法の冷気で覆った。
しばらく店先で魔法をかけていると、小広場にたまっていた観光客のグループが、こちらへ歩を向けるのが目に入った。
気が付いたファルクが別れの挨拶をする。
「あぁ、すみません、いつまでも涼んでしまって。他のお客さんのお邪魔になってしまいますね。では、俺はそろそろ。氷魔法のお気遣い、ありがとうございました」
「いえいえ。お帰りの道中、お気をつけくださいね」
「――アルメさん、」
ふいに呼びかけられて、手を差し出された。
ファルクは右手のひらを上に向けて差し出し、アルメを待っている。これはもしかして握手の誘いだろうか。
「え、っと、え?」
「今日は握手でお別れしようかと。そういう気分なので」
「はぁ、気分ですか」
久しぶりにお気に入りのアイスを食べて、テンションでも上がったのだろうか。ポカンとしながらも、差し出された手に導かれるまま、そろりと手を重ねた。
添えた手をやわらかく握って、ファルクは微笑みながら言う。
「アルメさん、美味しいアイスと氷魔法をありがとうございました。では、良い一日を」
「えぇ、ファルクさんも、良い一日を」
握手をして、何てことない別れの挨拶を交わした。
――けれど、ほんの一瞬、重ねた手のあたりがチカッと光った気がした。
不思議に思って目を向けると、ファルクの手がゆるりと離れていった。
「それでは、失礼します」
彼は会釈をすると、そのまま歩いていってしまった。
ポカンとしたまま、その後姿を見送る。
(今の、何だったのかしら? 日の光に目がチカチカしただけかな。というか、手……握ってしまったわ。背の大きい人は指も長いのねぇ)
握られた右手を宙に浮かせたまま、あれこれ考え込んでしまった。
挨拶で握手を交わす場面は多々あるけれど、なんだか面白いタイミングだったなぁ、と思う。
別に特別な別れの場面でもない、というのに。気分で握手を求めてくるとは。
握られた手をにぎにぎと動かすと、触れられた感触が蘇ってきて照れが襲ってきた。
ガッシリとした大きな手なのに、触れ方はやんわりとしていて、くすぐったいくらいに優しかった。
(――って、私は何を照れているのかしら。子供じゃないんだから。ほら、仕事仕事!)
頭によぎった少女じみた思考をパッと振り払って、仕事モードに切り替える。
近くにきていた客を店内に招き、アイスの注文を受けた。
「レモンとベリーを一つずつ」
「かしこまりました。お待ちください」
とりわけ用の大きなスプーンを握って、アイスの塊に差し込む。
――その時、ふと気が付いた。なぜだか、右手の痛みがすっかり消え去っていることに。
どうやら自分の手は、握手のくすぐったさに気をとられて、痛みを忘れてしまったらしい。まったく、現金なものである。




