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186 聖女ミシェリアの悪癖

 アルメとファルクが案内された先は、城の奥にある庭だった。瑞々しい緑と花々を眺めながら、二人は綺麗に整えられた石床の道を歩いていく。


 そうしてたどり着いた広場に、白いガゼボ――石の柱にドーム天井が掛かった休憩小屋があり、そこに聖女ミシェリアがいた。


 周囲には側仕えと思しき数人の女性たちと、初老の男性が控えている。


 そしてもう一人、ミシェリアの隣には十歳くらいの少年が寄り添うように座って、共にお茶を楽しんでいる様子。金髪に青い目をしたこの少年は、彼女の婚約者の王子だ。


 二人の前に歩み出る前に、ファルクがコソッと名前を教えてくれた。


「お隣におわしますお方は、アーダルベルト・ルクトス・マルク王子です」

「王子様……」


 アルメの緊張の度合いがもう一段階上がってしまった。決して失礼がないように、と、教えてもらった長い名前を、頭の中で繰り返して覚え込む。


 ガゼボに歩み寄ると、気が付いたミシェリアがティーカップをテーブルに置いた。聖女と王子を前にして、アルメはスカートを持ち上げて身を低くする。


「アルメ・ティティーと申します。お目にかかれて光栄にございます」

「ご機嫌麗しく存じます、ミシェリア様、アーダルベルト殿下」


 挨拶をすると、ミシェリアは颯爽と立ち上がり、テーブルの前へと歩み出て二人に対した。


 王子に背を向けることを気にしていない様子を見るに、守護聖女である彼女のほうが身分が高いようだ。

 

「急な呼び立てとなったことを詫びよう。そなたたち二人に、それぞれ用があってのことだ。少し時間をもらうが、構わぬか?」


 アルメとファルクはそれぞれ敬礼の挨拶をして、『なんなりと』と、意思を伝えた。


 するとミシェリアはファルクへと目を向けて、早速用事を告げる。


「では、まずはすぐに済む用を――。ラルトーゼよ、我が側に」


 呼ばれたファルクはガゼボの中へと歩を進め、ミシェリアの真ん前へと移動する。

 

 アルメは何の気なしに様子を見守っていたが……続く命令を聞いて、思わず身じろいでしまった。


「城の者たちが口にしていたが、そなたはルオーリオの婦人たちを虜にしているそうではないか。是非、そなたと抱擁の挨拶を交わしたい。その魅了の術をもって、わたくしの心を動かしてみせよ」

「ミシェリア様、そのようなお戯れは……」


 ファルクは金色の目を丸くして、言葉を詰まらせた。けれど、ミシェリアは構うことなく、凛とした声音で言い放つ。


「命を聞けぬか?」

「……かしこまりました」


 わずかに間を空けてから、ファルクは承諾した。


 彼は軽く両腕を広げて、ミシェリアの体を包み込み、抱擁を交わす。ミシェリアもまた、ファルクの胴体に腕をまわして、強く抱きしめた。


 突然の、想像だにしない命令と、目の前で繰り広げられることになった触れ合いに、アルメの胸は一瞬のうちにひしゃげてしまった。


 どうしてそんな命令なんかを――……と、思ったが、口にすることなどできようはずもない。二人の抱擁を見ていられなくて、アルメは静かに視線を外す。


 その時、視界の端でチラと見てしまったが……一人、椅子に座っていた王子アーダルベルトも、視線を外してうつむいていた。


 側仕えの初老の男性が、アーダルベルトとアルメにそっと声をかけてきた。


「ミシェリア様のご用事がお済みになるまで、花園のご観覧でもいかがでしょうか。近頃、新たに開いた花もございますので、どうぞこちらへ」

「……あぁ。案内せよ」


 王子はすぐに立ち上がり、導かれるままにガゼボから歩み出た。アルメも続いて場を離れる。


 ミシェリアとファルクは固く体を合わせて、長い抱擁を交わしているようだった。が、視線を花々へと固定して、見ないようにしてガゼボを後にした。


 


 花と緑の奥へ奥へと進み、広場から離れた場所まで歩いていく。


 側仕えの男性だけが、一人であれこれと喋っていた。うつむき、しょんぼりとしている王子へと、気を遣っているのだろう。


 アルメも何とも言えない沈痛な面持ちで、斜め前を歩く王子をチラと見遣る。


(……婚約者様が他の殿方に気を移していたら、落ち込む他ありませんよね……)


 彼の心中を思って、そんなことを考えたが……落ち込んでいるのは、自分も同じである。胸の奥がしくしくと痛んで仕方がない。


 動揺を隠せずに複雑な表情をしているアルメに対しても、側仕えは心を配り、話をしてくれた。


「突然、妙な場面をお見せしてしまい、申し訳ございません。あれはミシェリア様の悪癖のようなものでございまして……。魅力ある男性、稀に女性をも相手にして、恋人めいた触れ合いをお望みになられるのです。聖女様は生涯を城でお過ごしになられる、自由のない御身ゆえ……気慰めのお戯れをお許しくださいませ」


 アルメは一言、承知の返事をしておいた。けれど、ぼんやりと別のことを思っていたので、自分がどういう言葉を返したのか、はっきりとは覚えていない。


(……前にファルクさんに、『抱擁はあなただけのもの』なんて言葉をもらったけれど……リップサービスだったみたいね……。まぁ、それはそうか……)


 雨の中、神殿公園のガゼボの中で言われた言葉だ。あの時の言葉は、あっさりとなかったことになった。


 今更ながら、素直に心を弾ませてしまっていた自分のしょうもなさに、あきれてしまう。よく考えればすぐに気が付く、ありがちなリップサービスの文句だというのに。


 アルメは静かにため息をついて、王子と付き人の後について歩いていく。


 周囲には素晴らしく綺麗な花々が咲き乱れているというのに、何とも侘しい雰囲気が一行を取り巻いていた。


 アルメが心あらずだから、そう感じるのだろうか……と、思ったが、胸の痛みをこらえているのはアルメだけではなかったようだ。


 花園をめぐっているうちに、斜め前を歩いているアーダルベルトが、目元をこすり始めたのだった。泣いているようだ。


 すかさず側仕えがハンカチを取り出し、背を撫でて慰める。


「ミシェリア様のあれは、お戯れでございますから……婚約を結んでおられる殿下のお側を離れることは、決してございませんゆえ、どうか涙を乾かしてくださいませ」

「そんな気休めの言葉などいらぬ……っ。私よりも、あの男のほうがずっと似合いではないか……! 私との契りを解いて、あの神官を選ぶかもしれぬ……そうしたら、私は……私の心は、誰のもとに寄せればよいのだ……!」


 言葉にしたことで気持ちが昂ってしまったのか、アーダルベルトは、もはや取り繕えないほどの大泣きをしている。


 とめどなくあふれ出る涙と、放たれた言葉から察するに、この王子は幼いながらに聖女のことを深く慕っているようだ。


 しゃくりあげながら泣いている王子と、なだめる側仕え――。……その様子を眺めているうちに、なんだかアルメの目にも涙が込み上げてきてしまった。


 慌てて指先で押さえようとしたが間に合わず、雫が一つこぼれ落ちる。


 心情を露わにしたアーダルベルトに、すっかり気持ちを引っ張られてしまって、アルメもポツリと、小さな独り言をこぼしてしまった。


「……そうですね……大好きな人が別の人を抱きしめていたら、もう泣くしかありませんね……」


 湧き上がった涙は徐々に量を増やして、雫がまた一つ、二つと落ちていく。


 アーダルベルトも口にしていたが、ミシェリアとファルクの抱擁を見て、アルメも同じことを思ったのだった。――『似合いだなぁ』と。きっと誰もが口をそろえて言うに違いない。


 遅かれ早かれ、ファルクはあの聖女のような、身分も見目も釣り合いのとれた似合いの相手と添うことになる。恋心を自覚した今、その未来を思うと胸が壊れそうな、たまらない心地になってしまう。


 せっかくリナリスに応援してもらった恋だが……この想いは、そのうちに散ることになるのだ。


 アルメの独り言はアーダルベルトの耳に届いたらしい。彼はこちらを向いて、幼い睨みを寄越した。


「同情の涙などいらぬ……!」

「……恐れながら、そのような涙ではございません。これは私的な涙にございます……。私もただ、悲しみに泣いているだけでございます……」


 言葉にするほどに気持ちが揺れて、涙の量も増えてしまう。ハンカチを取り出して押さえ始めたアルメを見て、側仕えはさらに慌てていた。いい歳をした大人まで泣き出してしまって、申し訳ない……。


 側仕えは懐から小瓶を出して、アーダルベルトとアルメに勧めた。


「ええと、お二人とも、気慰めにこちらの飴を召し上がってはいかがでしょう。ハーブから作られた、清涼の飴にございます」

「……もらおう」

「……ありがたく、頂戴いたします」


 もらった飴を口に含むと、爽やかなミントの味がした。


 二人は口の中でミント飴を転がしながら、涙でぼやけた視界で、ぼやけた花々を見てまわる。ミントのスースー感で、早く涙が渇くことを祈ろう――……。


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