152 転がり込んだ東神殿
雨の中、アルメは再び鞄と傘を引っ掴んで家を出た。キリキリと痛む胃を庇って、背を丸めて歩いていく。
通りまで出たところで流しの馬車をつかまえた。東神殿までは歩いて行ける距離だが、無理はしないでおく。この雨の中、道中で力尽きたら悲惨なので……。
御者に代金を払って神殿まで急いでもらう。
ほどなくして到着し、どうにか受付を済ませた。
東神殿は中央神殿に比べると小さな造りをしている。けれど、外観内装共に美しい建物だ。
白い石壁に青いタイル飾りがよく映えている。
待合ホールのベンチに座っていると、しばらくして名前を呼ばれた。診察室に移動して神官と対面する。
担当してくれた神官は、優しげな顔をした老婆だった。
正面の椅子に座ったところで、はたと気がついた。この神官は、以前、夏の四季祭りの時にお世話になった神官だ。
アルメが白鷹ファルクと口争いをした後、担当を代わってもらって号泣してしまった時の……散々迷惑をかけてしまった神官である。
彼女は中央神殿の神官だが、こちらに異動になったのだろうか。思わぬ再会だ。
老神官も気がついたようで、ニコリと微笑みかけてきた。
「あらあら! お嬢さん、またお会いしましたね」
「お久しぶりです。あの、夏のお祭りの時はご迷惑をおかけして……」
「気にしなくていいのよ。今日はどうしたの? また怪我をしてしまいましたか?」
「いえ、胃が痛くて……」
胃痛を説明すると、老神官はそっと腹に手を当ててきた。
何やら魔法を流して探った後、手のひらに柔らかな光を宿す。その光を再度、アルメの腹部へと当てた。
すると、キリキリとした痛みがスゥと引いていった。あっという間に楽になり、肩の力が抜けた。
「ありがとうございます……楽になりました」
「痛みを飛ばして、ひとまず炎症も抑えました。でも、ずいぶんとお腹の中が荒れているみたい。一時の魔法だけじゃ良くならないわ。魔法薬を作るから、飲んでいってちょうだいね」
老神官はそう言うと、アルメを奥の部屋へと案内した。カーテンで区切られた、処置スペースが連なる部屋だ。
歩きながら、おっとりとお喋りをしてくれた。
「私ももうこの歳だから、中央神殿でのお仕事は大変でねぇ。これからは東神殿でのんびりやらせてもらえることになったのよ」
「そうだったのですね。私も東地区に住んでいますので、お世話になります」
「ふふっ、なるべくお世話をせずに済むように、元気に暮らしてちょうだいね」
一番端のスペースに連れられて、設置されている簡易ベッドへと腰をおろす。
優しい老神官の笑みにつられて、アルメも笑ってしまった。
治癒魔法は心には効かないはずだが、何だか気持ちまで楽になった気がする。どんよりと沈んでいた心が、いくらか浮上してきた。
「それじゃあ、ここで魔法薬をしっかりと飲んでいってちょうだいね。お家用のお薬も出しておきますから」
「はい。ありがとうございました」
「お大事に」
老神官は補佐の看護師にカルテを渡し、処置室から出て行く。その後すぐに看護師が魔法薬を持ってきてくれた。
薬はガラスのカップに注がれている。ジュースみたいな色合いの、綺麗な飲み薬だ。透明な紫色の液体は、魔力を帯びてキラキラとしている。
看護師は薬の説明をしてくれた。
「量が多いので、ゆっくり飲んでいただいて大丈夫ですよ。少しお腹が熱くなりますが、それも薬の作用です」
説明を受けた後、アルメは魔法薬に口を付けた。
「う……酸っぱい……!」
ゆっくり飲んで大丈夫、と説明されたが、その理由がわかった。この薬は、なかなか飲みにくい薬のようだ。
キュッと顔に皺を寄せて、チビチビと飲み始めた。
■
アルメが神殿へと転がり込んだ頃。
その家の前には、一人の男が異様な様相で立ち尽くしていた。
雨の中、前髪から血を滴らせて、シャツを肩から胸元まで真っ赤に染めた男が――。
ファルクは髪から垂れてくる血をハンカチで雑に拭って、深く重いため息を吐いた。
悔しいことに、アルメとの追いかけっこに負けてしまった。あっさりと逃げられた。地下街での疾走は、どうやら自分には不向きであったようだ。
盛大に頭をぶつけてこの様だ。額を切ってそこそこ悲惨な怪我をしたが、傷はもう治してある。残った血の惨状はどうにもならないが。
血を拭いつつ、何度もアルメの家の呼び出し鐘を鳴らす。カランカランと音が鳴り響く。が、誰も出て来ない。
(アルメさん……帰っていないのか?)
家の中に人の気配を感じない。彼女はまだ地下街にいるのだろうか。
ファルクは生気の抜け切った顔で、さきほどの地下街での出来事を思い返す。
やはりアルメに避けられている。全力疾走で逃げられる程度に……。
リナリスが言うには、アルメは誰かと約束を――恐らく婚約のようなものを結んだとか。
(それが本当だとしたら……アルメさんは俺と縁を切りたくて避けているのだろうか……)
アルメは誰かと婚約を結んだ。だから自分を遠ざけたい。そういうわけで、最近じわじわと距離を取っている――。
ここ最近の出来事を振り返ると、そういう印象だ。
……でも、このまま彼女に縁を切られてしまったら、自分はもう翼を落とされるようなものだ。立ち直れない。無理である。
こんなことなら、さっさと気持ちを告げておくのだった。……と、思わないでもないが。性急に事を進めると、それはそれで失敗に終わりそうな気もする。
自分は何かと間が悪い人間なのだ。その自覚があるので……。タイミングを間違えて不発に終わることが恐ろしい。なるべく慎重にいきたい。
――なんて、悠長に構えて、誰かに先を越されてしまっては元も子もないが。
「……地に額をつけて泣きながら乞い願えば……その婚約を解消してもらえないだろうか……。そしてあわよくばそのまま俺が……いや、略奪はさすがに人として駄目か……」
ブツブツと呟きつつ、ふと思い出す。そういえばリナリスは、アルメのお相手は白鷹だとか言っていた。そこが噛み合わない。モヤモヤする。
とにかく一度、アルメ本人に話を聞きたい。二人でゆっくりと言葉を交わしたい。
ここで待っていたら、そのうち帰ってくるだろうか。――と思ったのだが、ハッと気がついた。
小広場にいる人々が、皆ギョッとした顔でこちらを見ていることに。
今の自分の状態は、傍から見たら間違いなく不審者である。血だらけで女性の家の鐘を鳴らしまくっている男……。
(ま、まずい……警吏を呼ばれそうだ)
人々の視線が痛い。うつむいたまま、小走りで家を離れた。
(まずはこの血の汚れをどうにかしてからにしよう……)
中央神殿まで戻って着替えてくるのも手間だ。なるべく早く済ませて、小広場に戻りたい。帰宅するアルメを捕まえるために。
そう考えて、ここから近い東神殿に寄ることにした。そこでひとまず、血濡れのシャツをどうにかする。
ファルクは逃げるように小広場を後にした。
そうして東神殿に転がり込んだ。
突然、髪とシャツを血で染めた白鷹が現れて、神官たちは仰天した。
「突然申し訳ございません……血抜きの薬品をお借りしたく」
「は、はい……! どうぞ、調剤室へ」
「お邪魔いたします。あと、ついでに一つ薬を調合してもよろしいでしょうか」
「ええと、どのような薬でしょう? 東神殿には中央にあるような希少な薬材料がないので、お望みの薬を作れるかどうか……」
「望むのは、余計な思考を無にする薬です」
調剤室に案内されながら、ファルクはボソリと答えた。気持ちがめしゃめしゃなので、いっそのこと薬で落ち着こうかと……。
そんな薬はないけれど、近しい効能の薬ならある。これを基にすれば作り出せる気がする。神官白鷹の腕ならば。
どんよりとした顔をしていると、調剤室の神官や看護師たちが遠巻きにヒソヒソ話をし始めた。『白鷹様、戦場帰り……?』とか何とか。
そんなざわめく調剤室の端っこを借りて、ファルクは着ていたシャツを脱いだ。借りたタオルで髪を拭って、薬品でシャツの血を落としていく。
薬を使ったシミ落としの方法と、その仕組みの知識はあるが、実際にやるのは初めてだ。迷いつつ、たどたどしく作業をしていく。
すると、見かねたのか、遠巻きにしていたおばちゃん神官や看護師たちが寄ってきた。
「あぁ、ちょっと、ダメですよ白鷹様! タオルでこすったら生地が傷みます」
「あ、はい……」
「ブラシで叩くといいんですよ」
「ええと、叩く……?」
「こうよ、こう! 見ててくださいね」
手を伸ばして来たおばちゃんたちにより、場所を奪われた。ファルクは体を縮こめて、おばちゃんたちの手際の良い作業を見学することになった。
そうしてあっという間にシミ抜きが終わった。ついでに乾かす作業までしてもらっていた、ちょうどその時。
調剤室に顔を出した女性の老神官が、声をかけてきた。
「あら、ラルトーゼ様じゃないですか。もしかして、お友達のお迎えですか?」
「お友達?」
「ほら、お祭りの時の、黒髪の女の子。あの子のお迎えにいらしたのではなくて? 今、処置室でお薬を飲んでいるので――」
「アルメさんが来ているのですか!? 処置室!?」
ファルクは目を丸くして、大慌てで調剤室を出ようとした。が、おばちゃんたちに腕を引っ掴まれた。
「白鷹様、裸で女の子の前に出るのはどうかと」
「えっ、あっ、そうでした……! シャツ、ありがとうございました!」
急いで半乾きのシャツを被り、歩き出そうとする。が、またすぐに止められた。
「白鷹様、シャツの表裏が逆です」
「えっ!?」
指摘を受けて、ファルクはいそいそと着直す。そうして今度こそ、足早に部屋を出て行った。
くしゃくしゃの髪の毛のまま飛び出て行った、神官白鷹。その姿を見送って、おばちゃんたちは皆、ゆるい笑みを浮かべていた。
「今朝、うちの息子と同じやり取りをしたわ。あの子ったら、シャツを裏返しに着たまま、家を飛び出て行って……」
「息子さん、いくつ?」
「今年十歳」
「こら、小学院男子と上位神官様を一緒にするんじゃないよ。んっふっふ」
こらえた笑い声が室内に満ちた。
神官白鷹はその後密かに、東神殿内のおばちゃんたちから可愛がられるようになるのだけれど。本人は知らないままである。




