151 現実逃避の夜豆アイス
アルメは宮殿広場を全速力で走り去る。
まさかファルクとリナリスの逢引現場に遭遇してしまうとは。これっぽっちも想定していなかった事態だ。
衝撃と動揺のあまり、逃げ出すという選択をしてしまった。
開けた宮殿広場を抜けて、迷路のような街路へと駆け戻る。
人混みの中で息を整えようとした、ちょうどその時。後ろの方から雷みたいな大声が聞こえてきた。
「お待ちなさい! アルメさん!!」
「ひえ……っ!? 追ってきた……!?」
後ろを振り向くと、人波の向こうの方にファルクが見えた。アルメは反射的に、また駆け出した。
ファルクの表情がとんでもなく恐ろしいものだったので。アルメの前世には『鬼』という怪物がいたけれど、まさにそういった雰囲気だ。
彼は鬼の形相で追ってくる。単純に、ものすごく怖い。
「なっ!? お待ちなさいと言っているでしょう! アルメさん!! アルメ――っ!!」
(ヒィッ! 呼び捨てられた!)
何やらファルクの機嫌は今、最悪のようだ。アルメが秘密の現場を見てしまったからだろうか。
振り向くこともせずに、スカートを持ち上げて全速力で走った。
諸々のショックと久しぶりの全力疾走で、胸が破裂しそうだ。苦しくてたまらない。
ヒィヒィ言いながら走り逃げているうちに、追ってくる鬼の気配は遠のいていった。
鷹とネズミの追いかけっこは、思っていたより早くに決着がついたようだ。
ファルクの立派な体格は、地下街では不利だ。地下の道はところどころ天上が低いし、道幅も狭いので。
(ごめんなさいファルクさん……どうかご無事で……)
彼がどこかで頭をぶつけていないよう、祈っておこう。
ファルクをまいたアルメは、ひとまず家へととんぼ返りすることにした。
迷路の地下街を抜けて、最短ルートで家へと戻る。
自宅の居間に入ったところで、思い切り脱力した。改めて、ついさっき見た光景を思い返す。
休日の今日、どうやらファルクはアルメではなく、リナリスと遊ぶ約束をしていたらしい。
別に彼が彼の時間をどう使おうと、口を出せることではないけれど。……でも、密かにショックを受けて落ち込むくらいは、許されたい。
ヘドロのように重たい体を引きずって、キッチンへと移動した。未だざわざわとして落ち着かない胸を静めるために、お茶でも飲もうかと。
棚から茶葉の入った瓶を取り出す。そろそろ飲みきってしまわないとなぁ、なんて思っていた、残り物のグリーンティーだ。
少し考えた後、ついでに小鍋も取り出した。
茶を入れる間の短い時間だけでは、この大荒れの気持ちを処理できない……。時間を稼ぐために、ついでに茶菓子も作ることにした。
心が揺れている時には、別のことに意識を向けるのが吉だ。
乾燥豆の保存瓶も取り出して、キッチンテーブルへと並べる。
この乾燥豆は『夜豆』というものだ。夜空のように黒い色をした、小指の爪ほどの大きさの豆である。ちょうどアルメの前世のあずきとよく似ている。
「緑茶にあずき……。うん、落ち着く組み合わせといえばこれよね……」
和の味わいは、もはや魂に刻まれている。この組み合わせで心を慰めることにしよう。
お茶菓子は『なんちゃってあずきアイス』に決めた。
夜豆はあずきより黒くて、さっぱりとした味わいの豆だが……まぁ、似たようなものは作れるだろう。
アルメは黙々と、キッチンの準備を整えた。
夜豆を洗って小鍋に入れる。たっぷりと水を入れて火にかけ、沸騰させた。
一度煮汁を捨てて新しい水を入れ、また火にかける。これをぐつぐつと煮込んでいく。
その間にグリーンティーにひと手間加えておく。
茶葉を少量取って、すり鉢に入れた。ゴリゴリとすって粉にする。これはアイスのトッピング用だ。
そうしてお茶パウダーを作りつつ、鍋のアクを取り除いていく。無心で作業をしているうちに、夜豆が煮えてとろりとしてきた。
どっさりと砂糖を加えてかき混ぜたら、夜豆餡の完成だ。
餡をガラスボウルに移して、牛乳と生クリームを加える。かき混ぜながら氷魔法の冷気を送っていく。
熱々の餡を、ひんやりと冷ましていく。そのうちにほどよく冷え固まった。
あずきアイス――いや、夜豆アイスが出来上がった。
アイスを器に盛りつけて、お茶パウダーを振りかける。沸かした湯でグリーンティーを入れて、居間のテーブルへと並べた。
椅子に座って茶をすすり、一服する。アイスを一口頬ばって、ふぅと息を吐いた。
牛乳と生クリームを足したので、夜豆アイスは優しくまろやかな味わいだ。ほっこりとした豆の風味と甘さがたまらなく美味しい。
「はぁ……懐かしい味。あずき――じゃなくて夜豆アイスは、お店のメニューに加えたら人気出るかしら?」
この世界では、基本的に豆は塩で味付けされるものだ。甘い豆菓子は見たことがないので、ウケるかどうかわからない。
「誰かに試食してもらって、反応がよかったら出してみようかなぁ……」
夜豆アイスを食べながら、現実逃避がてら、ぼうっとそんなことを考える。が、途端に意識は引き戻されてしまった。
その『誰か』で、もはや反射のようにファルクを想像してしまって呻き声を上げた。胃がチクチクと痛み出す。
お菓子を作っている最中は気が紛れていたけれど、落ち着くとまた胸の重さが戻ってきた。
痛み出した胃をさすりながら、気持ちを整理する。
「……我ながら、本当に間が悪いわね……。前はフリオとキャンベリナさんの浮気現場に遭遇して、今度はファルクさんとリナリスの逢引現場……。何かこう、そういう星の元に生まれてしまったのかしら、私……」
この世界へと転生を果たす時に、アルメは氷魔法を得た。その魔法と一緒に、こういうしょうもない星まで得てしまったのだろうか……。
「こんなことなら、光の女神様にもう少ししっかりとお願いをしておくんだったわ……。胃痛の起きない、心穏やかな暮らしを……って」
真夏の猛暑で命を落とし、弱り切ったアルメの魂は冷たい氷を願った。おぼろげな記憶だけれど。
でも、今考えると、もう少しちゃんとした願いを口にしておけばよかった、と思わないでもない。
そういえば女神にも、『それでいいのか』というような話をされた気がする――……
「いや、『それでいいのか』なんて言葉ではなかったけれど……もっとこう、厳かな感じで……。何て言われたんだっけ……釣り合わない、とか、何とか――……?」
久しぶりに食べた、懐かしい和の味が呼び水になったのか。ぼんやりとしたワードを思い出した。
『斯くも小さき願いでは、到底釣り合わぬ』
なんだかそういうようなことを言われた気がする。一体、何と釣り合わないというのか……忘れてしまったが。
「胃痛のない暮らしとか、あとはもっと強い氷魔法でも願っておけばよかったわ……そうしたらアイス屋の稼働力を上げられたのに」
きっと女神に言わせたら、これもちっぽけな願いなのだろうけれど。
夜豆アイスとグリーンティーで一服しつつ、あれこれと考え込んでしまった。
そうしてアイスをすっかり胃に収めたところで。アルメは神妙な顔をした。
胃の痛みが、チクチクからキリキリしたものに変わってきたな……、と。
「痛たたた……これは……ちょっと、駄目な痛みのような……」
ただでさえ日々のダメージを受けていたところに、今日の逢引現場の打撃をくらった。そんな胃に冷たいアイスと熱いお茶を流し込んだのが、よくなかったのかもしれない。
痛みと共にじわりと冷や汗まで出てきた。これはまずい……。
「うぅ……神殿に行くべきかしら……」
神殿、という単語で、またファルクが頭にチラつく。同時に、胃の痛みがギリリと増した。もう色々と駄目である。
渋い顔をして鞄を手に取った。最寄りの東神殿で治療してもらおう……。
叶うのならば、『余計な思考を無にする薬』なんかも、もらいたいところだ。……そんなもの、ないだろうけれど。




