130 騎士と女神
アルメの前で片膝をついた白鷹――。
その姿は、まさに騎士のようであった。
主に忠誠を誓う騎士。もしくは、想い人に愛を告げる姿のようでもあり――……。
周囲の人々は目をむいて、息を飲んだ。
何やらとんでもないことが起こっている、という好奇心とハラハラ感で、どよめく空気が伝わってくる。
――が、そんな中。
アルメだけはファルクの状況に察しがついてしまったのだった。ファルクはシャツを汗でびっしゃりと濡らしていたので……。
彼はひざまずいたのではなく、崩れ落ちたのだ。恐らく暑さにやられて。
常ならば従軍神官用の上等な騎士服――涼しい仕立てで作られているらしい――を着ているところだが、今の彼は私服である。
加えて、今日は少々気温が高く、風もない。ただでさえ暑がりな人間がこの天気の中、魔物相手に動きまわっていたら、ダウンするのも仕方がない。
ファルクは前髪から汗を滴らせながら、縋るような目をしてアルメの顔を見上げた。
「……どうか、お助け下さい……ご慈悲を……」
「えっ、っと、は、はい!!」
アルメは大慌てで、両手をファルクへとかざした。意識を集中して、思い切り強く氷魔法を使った。
ブワリと氷の粒子が舞い、光を帯びた冷気が白鷹を包み込む。彼は膝をついたまま目をつぶり、アルメの魔法に身をゆだねた。
周囲の人々からは『おぉ……!』と感心の声が上がる。子供たちは舞い飛ぶ氷の結晶を手でつかまえて、はしゃぎ始めた。
ファルクの汗で濡れた服を凍らせる勢いで、アルメは氷魔法を流し続けた。ふらつくほど暑さを感じているようなので、しっかりと冷やすべきかと思って。
……彼が膝をついた瞬間、一瞬心臓が変に跳ねてしまったので、その腹いせも込めてガッツリキンキンに凍らせてしまおう。
もう周りの目も気にせずに、魔法に意識を集中する。
そうしてしばらく白鷹を冷やしていると、ようやく彼が動きを取り戻した。
目を開けて、透き通る金色の瞳でアルメを見る。魔法を止めたアルメの手を取り、彼は凛々しい声音で言い放った。
「あなたのご加護があれば、俺はどこまでも飛べそうです。心から感謝いたします。我が愛しの女神よ」
ファルクはアルメの手の甲に、やわらかな口づけを落とした。
そのままサッと立ち上がり、彼は何事もなかったかのように踵を返した。そうしてまた隊へと歩いていってしまった。
周囲は一瞬の静寂の後、騒然とした。
女性たちはそれぞれ色々な思いの悲鳴を上げ、男たちは観劇を終えたかのようにお喋りに興じ始めた。
そんな大騒ぎの中心で、アルメは手を宙に浮かせたまま固まっていた。
口づけを落とされた手の甲から熱が伝わり、一瞬で顔にまで上ってしまった。頬が火照り、火が出そうな心地だ。
頭に上ったフワフワとした熱で、眩暈がしてきたが……放心している暇もなく、アルメの耳に人々の声が届いた。
「白鷹様、彼女のことを女神様って呼んでいなかったか?」
「偉い人なのかな? 今のって、何か特別な魔法だったの?」
「あの白鷹様が縋るほどのご加護って、なんかすごそうだな! 俺も浴びときゃよかった~!」
「そちらのお嬢様は御高名なお方なのかい? どこぞの女神様の眷属かいな?」
(ひえっ……! 変な話を広げるのはやめて……っ!)
人々が話に尾ひれを付け始めて、アルメはギョッとして正気に戻った。
アワアワしているところに、人の波をかき分けてエーナが来た。彼女は悪戯な顔で笑いかけてきた。
「あぁ、女神様、アイス神様! 私にもご加護を!」
「アイス神って……おかしな神様を作らないでちょうだい!」
二人にとっては気安い冗談だったのだが……やり取りを聞いた周囲の人々は、またおかしなことを言い始めてしまった。
「やっぱり何かすごい人なのか……! どうか、ご加護のお裾分けを!」
「私にもお願いします、女神様!」
「特別な魔法を、どうかうちの子にも……!」
近くにいた数人が、なんとアルメに向かって祈りを捧げ出した。祈る人を見て、他の人も面白おかしく真似をし始める。
アルメは大きく慌てて、両手をぶんぶんと振って断った。
「み、みなさん、おやめください! 私はその辺の一般人です! さっきのはただの氷魔法で……って、みなさん、聞いてます!? 祈らないで! ――エーナも何か言ってちょうだい! 助けて!」
「え!? ええと、みなさん! アルメ――彼女からのご加護は期待しないでください。祈りを捧げても、氷のお菓子くらいしか出てきませんよ~……!」
エーナは苦笑しながら、先ほど納品されたアイスのチラシを手に取って掲げた。
人々はよくわかっていない様子だったが、場の雰囲気に流されて、アルメとチラシに祈りを捧げていた。
アイス神を拝む人々の群れ――何だか新興宗教のようなものが始まってしまった……。
意図せず教祖となってしまったアルメは顔をひくつかせた。……後で信者一号の男に、文句を言っておくことにする。
アルメとエーナは場から逃げようと、体の向きを変えた。すると、集団の中にブライアナの姿を見つけた。
そういえば、さっきまで絡まれていたのだった。突然の白鷹騒動で、彼女の存在をすっかり意識の外に放ってしまっていた。
また揉めるのも嫌なので、このまま離れることにしよう。と、思ったのだが、目が合ってしまった。
……仕方がないので、別れの挨拶だけ交わしておこう。一応、マナーとして。
「ええと、ブライアナさん……私は場所を移りますので。どうかご安全に」
「え、あ、えぇ……。……あの、店主さん……」
ブライアナはアルメを呼び止めて、唇を震わせた。
「……その……ぶ、無礼を……お許しください……。……申し訳、ございませんでした……女神、様……」
彼女も人々と同じように、胸元で手を組んだ。祈りのポーズでアルメに謝罪をしてきた。
(ブ、ブライアナさんまで信者に……!?)
困惑のあまり、目をパチクリさせてしまった。
どう答えたものか、と迷ったが、アルメはとりあえず大事な一言だけを返しておいた。
「あの、祈るのはおやめください。私、一般人です……」
ブライアナは何か言いたそうにしていたけれど、口を引き結んで身を引いた。
ざわつく人垣からソロリと抜け出して、アルメとエーナは植え込みの陰に移動する。ちょうどタニアがそのあたりでオロオロしていたので、合流させてもらった。
タニアはずり落ちた眼鏡もそのままに、小声でアルメに詰め寄った。
「いいい今、一体何が……!? アルメさん、白鷹様とお知り合い……!?」
「まぁ、はい……実はたまにお茶をする友達で」
「白鷹様とお茶!? そんなことってある……!?」
アルメは苦笑しながら、声を潜めて返しておいた。
「信じられないかもしれませんが、そういう不思議な縁もあるようでして。タニアさんも身に覚えがありませんか? 前に一緒にお茶、しましたよね。ワッフルと共に……」
「…………っ!?」
たっぷりと間を置いてから、タニアは目を見開いて固まった。どうやら思い至ったらしい。前にアイス添えワッフルを食べた時のことを。
あの時ファルクは、白鷹ちゃんの落書きが散りばめられたタニアのスケッチブックを見て、目をしぱしぱさせていた。
『むっちりぷにぷに羽毛増量白鷹ちゃん』などを鑑賞しながら。
――すべてを理解したところで、タニアは盛大に崩れ落ちたのだった。
『不敬罪って、どれくらい重いのかしら……』なんて、呻き声をもらしながら。
結局この日は、ほぼ一日中避難所で過ごすことになった。
結界が張られているはずの街に、なぜ魔物が出てしまったのか。聖女様に何かあったのか。
――と、人々はあれこれ噂話を口にしていたが、諸々の情報は後で正式に出されるものを頼りにしようと思う。
事件に関する噂話と共に、『白鷹に加護を与える女神』の話や、『謎のアイス神』なんて変な話も耳に届いたりしたが……アルメは植木の葉に埋もれるように隠れて、やり過ごした。
そうしているうちに、街に満ちていた霧は徐々に薄れてきた。
勇猛なルオーリオ軍の掃討戦のおかげか、はたまた、何か聖女様のお力か。もしくはその両方か――。
夕方頃にはもうずいぶんと空気も澄み、夕日が美しく街を照らしていた。
アルメは掃討戦が終わるのを待つ間、ファルクの口づけを思い出しては、頬を火照らせてしまっていた。
その度に、密かに氷魔法を使って冷やして……と、いうことを繰り返していたのだけれど、もうこの夕焼けの下ならば、どれだけ赤くなっても大丈夫そうだ。
膝をついて口づけを落とす彼の姿は、なんとも絵になっていて、本当に騎士のようであった。
(私の、騎士様……。……――って、いやいやいや!)
頭の中に浮かんできたワードを、アルメは首を振って散らした。
――散らしきれずに、心悩ます日々が始まるのだけれど。
この、ままならない気持ちに気がついてしまうのは、魔物騒動が一段落ついた頃だった。




