127 束の間の平穏と災
それから数日の営業日を経て。
アルメは路地奥店での仕事をメインにして、時々表通り店に顔を出し――というように働いていた。
クレーマーの件でごたついてしまったけれど……当初の予定通り、表通り店はコーデルを軸にして、アルメは路地奥店をメインの勤務場所にしていく。
幸いなことに、令嬢三人組はあれから店に来ていない。
ブライアナだけは、一人で遠くの方からチラチラとこちらをうかがっている様子だったけれど……来店することはなかった。
両脇を固める仲間がいなくなり、戦力が削がれて怯んでいるのかもしれない。
彼女たちの事情はわからないが、ともあれ、アルメはホッとしている。穏やかな日常が戻ってきたようで、心安く仕事をしていた。
そうして連日の仕事を越えて、今日は休みの日。
新店関係の忙しさも落ち着いてきたので、また以前のように、アイス屋にてファルクとのお茶会を楽しもうと予定を入れたところだ。
彼は昼前に来るとのこと。空いた午前中の時間は、諸々の掃除や片付けをして過ごすことにする。
しばらく見て見ぬふりをしていた、一階店舗と調理室の片付けに手を付けた。
物が増えてごちゃごちゃとしているので、それらを片付けていく。
カウンターの引き出しを開けて、アルメは古いチラシやポイントカード、広告のポストカードなどをまとめた。
「古いものはもう処分してしまっていいわね。新しいチラシも届くことだし」
タニアに新しいチラシ類をお願いしていて、そろそろ納まる頃である。収納スペースを確保しておかなければ。
一通りカウンター周りを片付けて、さて、次は調理室の片付けを――と、移動する。
けれど調理室に入ってすぐ、アルメは足を止めた。
目をパチクリさせて調理室を見回した。
「……あれ? なんだか埃っぽい……ような? 気のせいかしら?」
調理室に入った途端、うっすらと視界にモヤがかかった気がした。心なしか、いつもより室内が暗く見えるような……。
外は風もなくよい天気なので、砂埃が入ってきているわけでもない。というのに、この埃っぽい息苦しさは何だろう。
アルメは不思議に思いながら、調理室の奥へと進む。
そして、ふと、流し台に目を向けてギョッとした。
流し台に黒いモヤモヤとした煙が溜まっていたのだ。アルメは妙な煙をまじまじと見つめる。
「何これ……排水口から湧いてるのかしら? 何かのガス……? 火が点いて爆発したりしないわよね……!?」
とりあえず換気をするべきか、と、慌てて調理室の窓を全開にした。
――その直後、外から大きな悲鳴が聞こえた。
『ギャアッ! 逃げて! 逃げて――!!』
『早く外へ!』
『子供が二階にいるの! 子供を!』
悲鳴は連なるように、近所のあちこちから上がり始めた。
背筋にゾクリと冷たいものが走った。
「これ……もしかして……」
――黒い煙のような霧。生き物のようにうごめき、そのうち魔物へと変わる霧のことを、魔霧という――。
子供の頃の、学院での授業風景が頭の中に蘇った。当時はテストのためだけに暗記していた事柄だが……まさか今、知識が実生活に結びつくとは思わなかった。
黒い煙――魔霧は揺らめき、もくもくと膨らんでいく。あっという間に形を変えた。
霧が取った魔物の形は、人間の姿であった。真っ黒な泥人形の魔物は、歯をむき出しにして笑顔のような表情を作った。
あまりのおぞましさに体がブルリと震える。
人型魔物は流し台から転がり落ち、そのまま四つん這いで地面を走ってアルメに向かってきた。
「ヒッ……!!」
悲鳴も出せずに、飛びのくように後ずさった。棚に体をぶつけながら調理室を転がり出る。
(な、なんで魔物が家に……!? とにかく逃げないと! 早く外に……っ!!)
パニックを起こした頭をどうにか回して、一目散に外を目指す。が、玄関扉を開いたところで、また飛びのいてしまった。
玄関の外にも魔物が待ち構えていた。三体ほどの魔物が揺れながら立ち並び、中を覗いてきた。
「ヒィッ……!! どどどどうしよう! どうしよう……っ!!」
後ろの調理室からも、わらわらと魔物が這ってきている。
熱を出した時に見る悪夢のような光景だ。もしくは、前世で見たホラー映画か――。いよいよ腰が抜けそうだ。
――けれど、そんなアルメを叱咤するように、キラリとした光が横を飛び跳ねていった。
荷守りの小さな精霊、スプリガンが魔物に飛び掛かった。
精霊は自慢のこん棒で、玄関に立ち塞がる魔物の頭をガツンと殴りつけた。魔物は吹っ飛ばされて、ドミノ倒しのように散らされた。
「せっ、精霊さん……! ありがとう! 私の騎士様……!!」
アルメは精霊の光に向かって、思わず黄色い声を上げてしまった。
『騎士』とは、恋人や夫を称して言う軽口なのだけれど。つい、精霊にそんな言葉をかけてしまった。まさに騎士のように魔物に立ち向かい、守ってくれたので。
魔物が倒れ伏した隙に、アルメは玄関から店の外へと飛び出した。
小広場の真ん中まで、全速力で走り逃げる。
中央の花壇と案内板の周囲には、近所の人々が避難していた。人々が身を寄せ合う中にアルメも飛び込んだ。
ドキドキする胸を押さえて、周りを見回す。小広場の排水溝のそこかしこから真っ黒な霧が吹き上がっていた。どうやらこの辺り一帯で、魔霧および魔物が発生しているらしい。
近所のおばさんが肩を叩き、声をかけてくれた。
「アルメちゃん! 大丈夫かい!?」
「はい! おばさまもご無事でよかった……! 一体何が起きているのでしょう!?」
「地下から湧いてるんじゃないかって話だよ。お休み中の軍人さんたちが、武器を持って走っていったって!」
集まった人々の話によると、地下で魔霧が発生したらしい、とのこと。
小広場には即席の避難所が出来上がっていた。避難の人々を囲むようにして、集まってきた軍人らしき男たちが武器を構え出した。
彼らは休日中だったのだろう。私服姿で、剣の代わりに箒を構えている者もいる。
ゆらゆらと迫ってくる人型魔物に武器を振るい、力一杯、叩き散らしていく。
「……街中に魔物が出るなんて……どうして……」
ようやく心安い日々が戻ってきたと思ったのに、まさかこんな災害が起きるなんて……。
騒然とする小広場の空に、警報の鐘が大きく響き渡った。
人々は皆、不安げな面持ちで、なすすべもなくその不協和音を聞いていた。
■
ファルクはちょうど神殿を出ようとしたところで、騒ぎを知った。
先ほど、休日中の軍人たちが馬を駆って、ルオーリオ軍駐屯地に走り込んできたそう。『街に魔物が発生した』という、とんでもない知らせを携えて。
即座に軍から使いが走ってきて、城や神殿、各機関へと情報がもたらされた。――情報といっても、極めて断片的なものであったが。
とにかく非常事態ということで、ファルクも駐屯地へと向かったのだった。
駐屯地内は軍人たちが走り回っていて、会議室の中も慌ただしい様子だった。
まだ人がそろっていない状態だが、総隊長が既に話を始めていた。
総隊長はとびきり険しい表情をして、低い声で言う。
「詳しい状況はわかっていないが、地下の深くで魔霧が発生したようだ。精霊観測官の目の届かない場所となると、人が入れぬ場所かもしれん。一部上がってきた霧が魔物へと転じている。魔物の型は『人型』だ」
「なんと趣味の悪い……」
「いや、むしろ不幸中の幸いであろう……大型の獣であったならば、こうして話をする時間すらない事態だ」
総隊長は咳ばらいをして言葉を続ける。
「といっても、今も時間は惜しいところだ。一隊、二隊、三隊を先発として街に送る。報告によると、今のところ北地区と東地区に被害が集中しているようだ。戦闘員は剣のみを装備し、ただちに出軍せよ。馬も先発の隊へと回せ。先発隊は民の避難誘導を最優先とする。追って、装備を整えた隊を送り出す」
口早に話を締めると、命を受けた面々はサッと散っていった。
ファルクも総隊長へと声をかける。
「先発隊に添い、従軍神官も出ましょう」
「よろしく頼みます。……――こういうことを口にしてもよいものか、と思うのですが……街中で魔霧が発生したということは、もしかして聖女様の御身によからぬ事態でも……」
「そのような悪い報は届いておりませんから、ご安心を。……ですが、想定よりも早く、結界にほころびが出てしまったようですね」
現在ルオーリオに結界を張り、守護しているのは高齢の聖女である。彼女の仕事を継ぐことになっている次の聖女は、ファルクが担当している幼齢のルーミラだ。
幼いルーミラには、まだ結界の魔法は使えない。大きな魔法を使ってしまうと、体に深刻な障りが出てしまうのだ。最悪、命に関わるほどに消耗してしまう。
街全体を覆うような大魔法は、まだ使わせることはできない。――使うとしたら、最終手段として、である。
まずは軍を頼り、魔物被害の状況を把握するべきであろう、と、ファルクは判断した。
「では、俺も行きます」
「ご安全に」
総隊長と挨拶を交わして、ファルクは会議室を出た。
馬に乗り、再び神殿へと走る。
街には胸をざわつかせる鐘の音が響いている。
ルオーリオは近々王都から支援を受ける予定であった。高齢の守護聖女に代わって結界を張ってもらうために、一人の聖女を迎える予定だったのだ。
ルーミラが成長するまでの間は、その聖女を頼ることになっていた。の、だが。……なんともタイミング悪く、魔霧の災が起きてしまったらしい。
(東と北の地下、か。東地区……)
アルメは無事だろうか、という考えが、何よりも先に頭に浮かんだ。
自身の立場上、決して表には出さないが……彼女の元へ馬を駆ってしまいたい、というのが本音である。
「……自分がもう一人いたらいいのに」
ファルクは険しい面持ちで呟き声をこぼした。
神殿へと走り込むと、そのまま敷地内を馬で突っ切り、裏の玄関口へと向かう。
そこには既に数人の神官たちが集まっていた。従軍経験のある面々だ。
神官たちへと手短に指示を出す。
「先ほど入った報の通り、街に魔物が出たそうです。掃討の剣兵と共に従軍神官も街へ出ます。ここにいる皆様方と、あと二人ほど集めていただけますか? すぐに出ますから、急ぎ支度を」
言い終えた直後に、駐屯地の方から出軍の鐘が鳴った。
ファルクはその場を任せて、早足で自身の執務室へと向かった。
魔法杖を引っ掴み、机に飾ってある青いブレスレットも手に取った。道具類の入った革鞄を肩に下げて部屋を後にする。
着替えている暇はないので、この装備だけで向かう。
手元に視線を落として、一度、静かに息を吐いた。
――自分は、戦場を飛ぶ鷹である。愛しい止まり木に寄り添っているだけのヒヨコではいられない。
サッと踵を返して、気持ちを切り替えた。
表情を整えて仕事の顔を作る。
廊下を歩きながら、宝物のブレスレットだけはしっかりと手首に巻いておいた。




