奇跡の虹
「リディア……お前、これ作ってどうするつもりだったんだ」
小さな部屋から、呟くような男の声が聞こえる。
声量こそないがそれは、刺々しい声色をしていた。
「え!? あのええと……どういうつもりっていうか、特に意味なんかなくて……」
リディアと呼ばれた娘は恐る恐る言葉を返しながら、誤魔化すように笑った。
しんと静まり返った部屋の足元はゆらゆらと揺れていて、丸い窓の外には夜の闇に包まれた海が見える。
ここは、フライハイトという盗賊団が住む船の中。
十八歳になったばかりのこの娘リディアは、理由あってフライハイトに身をよせており、ひどくこざっぱりとしているこの場所は、彼女のための部屋だ。
夜分遅いということを除けば、ファルシードというこの男から、こうやってイラつかれるのもいつものこと。
それにリディアがうまく言い返せないのもまた、いつものこと。
ただ、今ばかりはいつもと違っていた。
リディアの部屋の中には、リディアしかおらず、ファルシードの姿がどこにも見当たらないのだ。
おろおろとするリディアに呆れるように、どこからかため息が聞こえる。
そして、ファルシードの声がした。
「こうなるには、何かきっかけがあったはずだ。今日の出来事を順を追って話せ」
リディアが頷くと、長い亜麻色の髪がはらりと垂れ落ちた。
「今日あったのは……」
伏し目がちなペリドットに似た緑色の瞳は、ランタンの灯りに淡く照らされている。
視線を上へと向けたリディアは、今日一日のことを思い返しはじめた。
――・――・――・――・――・――
それはここから十時間近く前のこと。
どしゃぶりだった雨もあがり、いつものように掃除をしようと、リディアが甲板に向かった時のことだった。
「リディアさん早く、こっちこっち!」
甲板から彼女を呼ぶ声がした。
声の主はカルロ。
フライハイトの三番手三人衆の一人であり、甘いマスクをした女たらし。
事あるごとにリディアとファルシードの仲を進展させようという不思議な使命感に燃えている男だ。
自分を呼んでくる理由がリディアにはわからなかったが、きっと急ぎの用事なのだろう、と、甲板の端に一人で立つ彼の元へ駆け足で向かった。
「何でしょう?」
カルロの隣へと位置どったリディアが尋ねると、彼は風になびく長いオレンジ色の髪を押さえて微笑みかけてきた。
「いまなら、面白いものが見られるので」
「面白いもの?」
リディアが尋ねると、飴玉のようにとろんとしたオレンジの瞳が、柔らかく細められ、カルロは水平線を指差してきた。
「あれですよ、あれ」
彼が指し示す方向に視線を向けると、思いもよらぬものが見えた。
「う、わぁー! 虹だ!」
リディアは手すりから身を乗り出すようにしてそれを見る。
海上には遮るものが何もないこともあり、七色の光が大河にかかる橋のようにアーチを描いていた。
虹を見たことは幾度もあったが、こんなにも大きく、全体が見えるものを見たことはなく、リディアの心は躍った。
「この海域での虹、幸運ですね」
カルロはにこにこと微笑んでいて、リディアは“この海域での”という意味はわからなかったが、大きくうなずいた。
「本当にすごい虹です」
「唐突ですが、リディアさんは何か願いごとってあります? 例えば、キャプテンともっと仲良くなりたい……とか」
突然投げかけられたわけのわからない問いにリディアは首をひねるが、しばし悩んで笑うように口を開いた。
「うーん。私は……ファルに一度でいいので反撃してみたいです。いつも口で丸めこまれてるから」
そう言いながら、リディアはへらっと笑う。
本当は、ファルシードが抱えているであろう悩みや不安を和らげられたら、という思いがあった。
だが、それを口に出すのは少々恥ずかしく、カルロに言うことでもないと考えた彼女は、冗談混じりの返答をしたのだ。
半分本音、半分冗談の返答に、カルロはなぜか頭を抱えてため息をついてきて。
「私、変なこと言いました?」
わたわたと慌てるリディアに視線を送って来たカルロは、困ったように微笑み、首を横に振ってきた。
「いいえ。どうせこれも迷信でしょうし、気にしないでください。引きとめちゃってすみません」
そう言ってカルロは自分の持ち場へと戻っていく。
おかしなことばかり言うカルロの背中を見送りながら、リディアは首をかしげ続けたのだった。